「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 “私”を包み込むもの 佐峰存

2015-01-05 10:44:01 | 短歌時評
 平日は深夜に帰宅することが多い。最近引っ越して、バス停から自宅まで歩く距離が伸びた。静かなコンクリートの上を歩いていると自ずと空に目がいく。寒々としたアパートの窓の明かり、街の光が薄らぐ地点で星が垂れている。小さく尖った炎が闇を渡っている。
 星といえば、大森静佳氏の歌を思い出す。

皿の上に葡萄の骨格のみ静か 柩のような星にねむりぬ
(大森静佳、「一角」、2013年)


 その歌が纏うのは、私達人間の肉体の宿す物質本来の静けさだ。食された葡萄の残った部分は「骨格」と表され、「葡萄」は人間の比喩となる。“私”は“食すもの”、“食されたもの”、それに“聞き耳を立てるもの”、の三つの姿を同時に持って「柩のような星」へとかえって(帰って・還って)いく。肉体の避けられない結末を暗示しつつも、それを宇宙の広がりで包み込むことで、“私”は穏やかな心境へと導かれる。
 星々の下、私達に与えられた時間は一瞬だ。そのような心持ちになるとき、私は無性に短歌に触れたくなる。短歌の定型は“私達の瞬き”すなわち私達の心象風景をとらえる上でよい大きさの器だと思う。こうした認識もあり私は新しい歌を数多く読んでいるが、詠い手が自身の中の“私”もしくは人間全般の心を凝視するような、内省的な歌がとりわけ目に留まる。 心許ないものとして人の心や存在が描写され、描写と共に誰へともなく問いかけが行われる。
 まずは詠い手が自身の心のありようを問うた歌を見てみたい。

春のはなびらを冷凍保存しておいたものですふれればくづれる
(薮内亮輔、「率」7号、2014年)


薄氷の上に置かれた猟銃をきみのこころと読んだのはきのう
(平岡直子、同上)


 薮内氏の歌は人が心にひた隠す希求に肉を与える。“私”は春に見つけた美しさをずっと手元に置いておきたいと、自然から切り離し、無機質な冷蔵庫に入れる。花は本来の場を失いつつ、“私”の執着に生きながらえる。人工的に保たれた美しさは、文字通り、“不自然な”美しさだ。「ふれればくづれる」という字余りの表現は、愛おしい「はなびら」を失いたくないと思う、“私”の張り裂けんばかりの心だ。“私”は自然界にあるべきものを、あるべきでないところに持ってきてしまった。“私”はその行為に一種の罪悪感、後ろめたさを感じている。それでも、抗い貫き通したい願望、そしてその行為がより根源的な部分では正当な行為であるとの実感を同時に有している。だから“私がやったのです”と半ば開き直った口調で自白する。美しさに依存せざるを得なくなった心を真っ向から否定出来るだろうか。
 平岡氏の歌は“私”の心象風景を危ういまでに隠喩的に表現している。その危うさが寧ろ吸引力を作り出している。「薄氷」の下には耐え難い冷たい海洋があるのだろう。 「きみ」の鉄の図体は今にも氷を割って、底なしの苦役に沈んでいきそうだ。 「きみ」は「猟銃」で、生き物の命を狙い得る暴力的な側面と、社会の要請によって企図され生まれた利便的な側面を併せ持っている。その姿を“私”は見つめていた。そして今はもう見つめていない。“私”は「きみ」により近付けたのか、遠ざかったのか。そのどちらであってもこの歌を貫いているのは“私”の物憂げな息遣いだ。“私”の心の移ろい易さこそが、歌を通じて外に示されねばならないものだったのだろう。

見渡してごらんからだを 大きくて君はとってもよい袋だね
(狩野悠佳子、「早稲田短歌」41号、2012年)


  狩野氏のこの作品では、“私”による他者に対する認識のあり方が直接的に問われている。“私”は他者である「」に優しい口調で語り出し、最後で突き放す。「」は「見渡してごらん」という親密さに富んだ囁きで包まれたかと思うと、「からだ」ばかりが重視されていることに気付くだろう。最後には「」にされてしまう。“私”の「」に対する畳み掛けは滑稽であると同時に、“私”から問題にされない「」の心の孤立を思うと不穏でもある。では、“私”は「」に対する自らの仕打ちをどう捉えているのか。“私の心はそう出来てしまっている、そうせざるを得ないのだ”という開き直った声が聞こえるが、同時に“君も私をそう見ているでしょう”といった声も聞こえてきそうだ。 “私”の自身あるいは「」に対する疑問が憤りと共に燻っている。同時にこの疑問が歌の形で世の審判に晒されている点に注目したい。突き詰めていくと、詠い手が問題にしているのは“私”そのものなのかも知れない。“私”の一つの出発点は他者との隔たりにあるからだ。
 他者との隔たりが大きくなると、当然ながら他者の心や存在に対する実感が湧きにくくなる。その隔たりが個人をこえて集団間で共有されると複雑なことになる。その様子を省みようと、短歌の焦点も日本国内の日常から、さらに大きな闇が蔓延る遠い国々へと繋がっていく。2015年現在も世界各地で紛争が絶えないが、中東では特にそれが顕著だ。中東と生活上何らかの関わりを持つ歌人の同人誌『中東短歌』がアンテナを張っている。

死者の数簡潔に伝えらるる夜の器ふるふる豆腐ふるわす
(齋藤芳生、「中東短歌」3号、2014年)


サハラとは砂漠の意味とこの子には教えるだろう遠い春の日
(柴田瞳、同上)


  齋藤氏の歌は、それ自体が震えている。“私”はおそらく食卓で中東の動向を伝えるニュース番組を見ているのだろう。歌の芯となっている言葉は「夜の器」で、そこに“私”の感覚が集中する。震える手が持つ器の感触が“私”と世界を繋いでいる。器の重量と共に世界も揺れている。「死者の数」が「簡潔」に報じられること自体はさほど珍しいことではなくなってしまった。しかし、そこに“震え”が紐付けられた瞬間、それらの事実は私達の身体に飛び込んでくるようになる。爆発や銃撃にせよ、またそれらの目撃にせよ、全ての事象は震えの中で起きる。そのような実感は新聞に掲載される詳細ルポタージュのような“情報”のみでは伝わらない。短歌という、詠い手と読み手が同じ“私”を共有出来る媒体の可能性を感じた。
 また、柴田氏の歌からも中東の手の施しようのない状況が伝わってくる。大きな期待と共に打ち上げられた“アラブの春”は上空で失速し、民主化に向けた動きは混迷している。地名にはその地域で営む人々の心情を込める働きが備わっているが、「サハラ」は必ずしも希望を意味する言葉ではなくなってしまった。“私”は率直に反応する。「サハラ」を砂漠に戻してしまうことで、一旦言葉によって編まれた“オアシス”を閉鎖してしまう。人が移住するにはまだ早い。彼らの心の準備が出来ていない。おそらく子供の世代まで、時間がかかるだろう。この“人の心”に対する気付き自体は、よりよい将来に向けた確かな前進であって、そこからより現実的な解を求めていけばよい。それが一番の近道だ。そのような強い自覚が見て取れる。
 短歌の定型に込められた感覚の密度は、(中東に限らず)総じて“不安なところ”である世界を“不安なところ”として私に認識させる。私の中で、初めて腑に落ちる何かがある。齋藤氏・柴田氏の作品から得られる感覚は、二十年程前に発表された荻原裕幸氏の、世界から目を背けることを拒否する歌と同じ方角からやって来る。

世界の縁にゐる退屈を思ふなら「耳栓」を取れ!▼▼▼▼▼BOMB!
(荻原裕幸、『あるまじろん』、1993年、沖積舎)


 世界の状況を真っ直ぐに見つめた結果、日本語の文字で発声出来ない「」が飛び出してくる。辞書にある言葉ではないが、「▼▼▼▼▼」が何であるか既に知っていると私は感じた。私達の見知った現在の世界でも常に視界の隅で蠢いているものだ。その感覚は、黒瀬珂瀾氏の次の歌にも繋がっていくように思う。

ディストピアとは何処ならむしろたへの雪ふる果ての我が眼の底か
(黒瀬珂瀾、『空庭』、2009年、本阿弥書店)


 「ディストピア」、人々が良かれと作り上げた社会や制度が軋轢を生む。これらを設計する衝動は私達自身の衣食住を欲する身体からくるはずなのに、結果として私達をがんじがらめにする。かつて啄木が空を高く飛ぶ飛行機に見た技術進歩の朗らかさはここには見られない。生の実感は“しんどさ”として身体中の器官に行き渡る。「我が眼」の見ている雪の白と眼球そのものの白が重なる。“私”にとって、世界はひたすら白く、美しく、そして苦しい。住人である“私”の感覚とどこかが決定的にずれたまま、恐ろしい銀世界が延々と広がり続いていく。
 幸いなことに、恐ろしいものが実感されるところには、反動として解放の情景も生まれる。大森氏の作品に再び接したい。自然に回帰することで一つの道を指し示す。

憎むにせよ秋では駄目だ 遠景のみてごらん木々があんなに燃えて
(大森静佳、『てのひらを燃やす』、2013年、角川学芸出版)


 超然と鮮やかさを放つ木々。ここで「燃えて」いるのは戦乱の街ではなく葉の色彩だ。飛び出そうとする憎しみ(「憎むにせよ」として字余り)を、「木々が」(「みてごらん」と連なって字余り)押し戻そうとする。“私”の葛藤する心は、自然の基調音に外から包み込まれることで平穏へと揺り戻されていく。これらの「木々」の燃え方は、私達の心や存在が孕む脆さを乗り越えていくヒントとなるのではないか。ふと『古今和歌集』の一首を想起する。

世の中のうけくにあきぬ 奥山のこの葉にふれるゆきやけなまし
(よみびとしらず、『古今和歌集』[#954])


 『古今和歌集』が編まれたときから現代にいたるまで、自然は常に私達を包み込むものとして存在し続けてきた。現代の短歌を見ると、様々な詠い手がそれぞれの生活で浮かび上がった“私”の特異な体温を明らかにするような歌が流れを作っているように感じられる。内省的な歌の中で見え隠れする“私”の揺らぎも、自然との関係性を改めて問う契機になるかも知れない。

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
(小原奈実、「短歌」2010年11月号、角川学芸出版)


 例えば「」を通じて、“私”と自然が繋がれる瞬間。夜が明けた暁の、「カーテン」の向こうの空に“いのち”が重なって見えてくる。