「詩客」短歌時評

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短歌評 「詠む」ことと「読む」こと――松澤俊二『「よむ」ことの近代』を読む 田中庸介

2015-01-07 11:30:41 | 短歌時評
 若き俊英、松澤俊二氏の『「よむ」ことの近代 ~和歌・短歌の政治学』(青弓社)は、坪井秀人氏らの指導のもと、名古屋大学の博士論文としてまとめられた和歌・短歌に関する論考を、このほど一書として上梓した力作である。まずこの「よむ」というところが「読む」と「詠む」との掛けことばとなっており、これは読者の大半が歌人であるというような、この短歌というマイナー文学ジャンルの様相をよく象徴したものだろう。実際、「歌人が何を意図して作品を生み出したかはむろん重要な問題設定だが、それと同じ程度に、読者の「読み」の実践にも目を配るべきだろう」(25頁)とあるとおり、実作者のみならず、戦前の国家主義教育におけるその宣伝と受容の過程にも、十分な目配りを加えたことが本書の特徴である。松澤氏は石川美南氏らの超結社の短歌誌 「pool」 の同人でもあり、実作への深い思い入れがこのようなアカデミズムに資する文学社会学研究へとつながっていった営為を、まずは心からことほぎたい。
 本書の前半は、日本国家主義が天皇の神格化を統治の象徴として推し進めていった経緯に、和歌ないしは短歌の存在がどのようにかかわっていったかということを示す詳細な文献研究である。その過程において、明治天皇の東北行幸歌集『埋木廼花』の編者である高崎正風を中心に、戦前の短歌研究で触れられることの少ない「御製」について深く触れている第三章が特におもしろい。著者は高崎らの属する「旧派」(堂上派、桂園派、古典派など)による「大日本歌道奨励会」の結成をピークとしたその隆盛と、戦時中の突然の終焉について、豊富な史料をもとに深く考究している。「「言の葉のまことの道」「歌の道」をもって「君臣の情誼」をつなげる」(73頁)という高崎の「まこと」がおのずと限界を孕んでいたことが、「高崎ら「旧派」歌人たちとその和歌が「新派」に超克されていった理由の一端」である(75頁)、と著者は総括する。歌会始において本名であることが義務づけられていることについて、「これはその人の「内面」に基づく「まことの歌」=天皇の前での「同一性」の表明が、その場ではなお求められていることの一証左だろう」(同)と述べている箇所は、近年の新人賞問題で火を噴いた「虚構」性の否定が、なぜあれほど短歌というジャンルの中に今もって息づいているのかということのよい説明となろう。すなわちこれは「旧派」から現代短歌への意外な連続性の指摘として、アララギ派による「旧派」攻撃のバイアスからわれわれの「旧派」認識をある程度解き放つものであるとも言え、はなはだ興味深いものである。
 これに対して、「新派」からの「旧派」の最大の差異として、「旧派」における「題詠と本意との関係」の固定化を著者は指摘する(157頁)。「(本意とは)「和歌史のなかで繰り返し和歌に表現されることによって」、つまり堆積する作例のなかから「認知・共同化」された「事物・事象の典型的把握の仕方」であるという。そしてこの本意がいったん形成されてしまえば、題詠による「意味―価値の秩序」まで本意が定めることになる。要するにあるコト・モノを題として詠む場合、古人が累々と形成してきたその題の本意をきちんとふまえているかが重要になるわけで、もちろんそこには自らの感覚や感受性などを差し挟む余地は極めて少ない」。このようないわゆる「美の感覚の受売」(大宅壮一日記からの引用、121頁)になってしまったことにより、「旧派」がその輝きを失い、「「自己」の析出」を旨とする「新派」の短歌にとってかわられ、「身体と内面の「発見」」(177頁)が1910年代の根岸短歌会によってなされたのだという見解を著者は支持している。
 これらの論理展開はまことに悠揚かつ整然としており、わが国の詩歌が、旧来の頭の堅い美学から西洋近代の 「アート」 の枠組みによってどのようにして解放されていったかという過程について、それを説得力のある筋道で跡付けるものである。しかし著者は、さらに現代まで一世紀にもわたる短歌の消長を、終わりのたった三章によってのみ論じようとしており、この部分ではかなり駆け足になってしまったことが惜しまれる。そこには、もし丁寧に論じればあと二冊あるいは三冊分の書物にはできるだろう貴重な著者独自のアイデアが詰まっているのであって、今後この分野へのさらなる考究が期待される。具体的には、佐々木信綱における「旧派」から「新派」、そして「「国家」への理路」 への歌論の変遷を忠実にたどった八章、戦前の「愛国百人一首」の文献研究とその受容論を試みる九章、ヒロシマの原爆詠とその継承における政治性を、大口玲子らの秀歌を引きながら論じた十章である。これらの章が提起する大きな喫緊の課題はやはり、個人主義と全体主義の関係に類するものがあろうかと評者は考える。それがもし歴史の一方向的な進化のようにしてではなく、循環するうねりのようにして幾度も再来してくるようなことがあった場合に、わたしたちは「知」の力によってどのようにそれを乗り切っていくことができるのか。すなわち戦前戦中期において、「新派」の理論によっていったん解放されたかのようにみえた個人の「まこと」そのものが、そのまま全体主義を支える道具に転化すべく教導されたというこのアイロニカルな短歌の歴史こそは、社会不安の高まりによって、リベラリズムの論理が持つある種のもろさがあっけなく露呈したよい例と考えることもできよう。あるいは、人類の無意識を極限まで解放した場合に出現するかもしれない「野蛮」に対して、シュルレアリズムの詩学はどこまでそれを肯定しつづけられるのか、という課題にそれをおきかえることも可能だろう。
 かような人類の文明における普遍的な課題に対して、本書で著者が採用したようなカルチュラル・スタディーズ的な示唆は、まさに正鵠を射たものであるはずだ。たとえば、社会的なうねりの存在を無視しては、なぜ個人主義的だったはずの 「新派」の短歌が、かくも簡単に国家主義的な価値観に組み込まれていったのかということは説明できない。また、このようなアプローチを行なうに当たっては、できるだけマージナルな立場から物事を考えたほうが有効なのであり、タイトル、第十章やあとがきにおいて示されたような、著者自身の内面における実作者と研究者の自我同一性の分裂 (「詠む」ことと「読む」こと)こそは、まさにその条件を支えているものなのかもしれない。いずれの章もまず著者随一の着想から出発し、ユニークな一次史料に自ら果敢にアプローチし、そしてそれを読み解くことによって新たな命題に到達しようとしている。このような著者の人文科学的な態度は、数ある現代の歌論のなかにあって抜きん出てアカデミックなものであり、 その結果として、たとえば近代短歌における「歌人」と「作中主体」の同一性の形成がどのようにしてなされていったかというような、評者のごとき歌壇外の短歌読者がまず抱きがちな同時代的な疑問に対しても、本書は豊富な示唆と新たな視点を提示するに至っている。すなわちこれは、短歌のまったく新しい切り口の入門書であると同時に、今後の著者の国文学思想のさらなる深化と発展に、大いに期待を抱かせる一冊である。