「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第113回 それでも〈私〉は「文学」である 西巻真 

2015-01-02 01:21:12 | 短歌時評
 2014年度の短歌研究新人賞受賞作は、総合誌で、ツイッターで、結社誌で、と、短歌界のあちこちで大きな騒動を招くこととなった。今さら説明する必要もないだろうが、石井僚一の「父親のような雨に打たれて」である。

 経緯の説明をする時期は過ぎたと思う。加藤治郎がいち早くこの問題を取り上げて、大きな「虚構」の論争騒ぎをツイッターで巻き起こしたし、既に若手の論客のなかでも、斉藤斎藤、黒瀬珂瀾、石川美南といった気鋭の論者たちが立て続けに新聞や総合誌の時評でこの問題を取り上げ、文書化された問題提起を調べて読むだけでも大変なことになってしまっている。

 一体どうしてこんなことになっているのか、私には最初、問題の所在がよくわからなかった。というより受賞作品そのものをまず「いい」と思わなかった。

 私は大学でテクスト論というものを学んで来たということもあって、短歌というジャンルにおいても、作者と作品は切り離して読むべきものだと思っていた。一番新しい、私の初読の感想に近い時評は江田浩司の2015年「短歌研究」1月号で、「私は創作者とテクストの関係を二次的なものとして、基本的に表現(テクスト)のみを重視する立場に立っている。」と言う論及がある。こういえば、すべて問題が収まるもの、と思った。

 なんやかんや言っていても、短歌だって文学だよ。
 今回の場合も、他のジャンルと同じように、作品がフィクションであろうがなかろうが、そんなの関係ないね。

 と言ってしまえば、問題は簡単でいい。

 これが私がこの問題を一瞥したときの最初の印象であった。

 ところが、で、ある。

 私がこの時評を書くことになって、あちこちの批評を整理している時点で、問題はそんなに単純ではないということに気がついた。

 石川美南が2015年の「現代短歌」の1月号で、「全員が飽きるまで考えても損はない話題だと思う」と繰り返し論及するに及んで、一体何をそんなに、と、考えていったとき、「あれ?」と思ったのである。

  今回の場合は、まず匿名の新人賞で受賞作が決まった。「都会的でスピード感のある現代の(父への)挽歌である」。と選考委員は評価した。

 ところが、授賞式で父親が存命であることが発覚し、その翌月号で選考委員の一人加藤治郎が問題を投げかけた。

 これだけの事象を簡単に並べると、作品の評価そのものよりも、問題になっているのは作者が勝手に自分の生きている父親を作品の上で殺した、という作品の「外」の出来事のように見える。

 したがって、そもそもこれは作者の問題であって、「文学」の問題ではない。作者が問題になるのは、短歌が「文学」として随分遅れているからだ。

 と一蹴することも、一見、出来るだろう。

 ところが、斉藤、黒瀬、石川の三者とも、何に反応しているかということは、それぞれの時評を読み比べれば、簡単に共通解が見つかってしまう。

あえて言えば 「虚構問題」は短歌界が前近代的だから生じるのではない。短歌という定型詩型がその特質として「虚構問題」を内包していると時評子は考える。俳句よりは長く、大部分の自由詩よりは短い、三十一音という絶妙の容量が喚起する詩型の特質であり、虚構に対して是非を抱えつつ煩悶する精神を無化してしまうなら、短歌が短歌たる必然性の大部分を失うのではないか。」
黒瀬珂瀾「とてつもなき嘘を読むべし?」角川「短歌」11月号 2014年


短歌は作者の現実と、何らかの形でつながっているほうがいい。しかし作者が現実とのつながりを意識し過ぎると、現実二割増の虚構めいた歌になり、かえって現実から離れてしまう。短歌における現実と虚構の関係は、かくもデリケートだ。
 だから短歌はこれからも、現実と虚構の間で綱渡りを続けるだろう。どっちの向きに油断しても、奈落の底に落ちてゆく。
 その緊張感を忘れなければ、短歌は大丈夫だ。
」 
「現実と虚構の綱渡り」斉藤斎藤「短歌月評」東京新聞 2014年12月13日夕刊


石川「現代短歌というものがフィクションと現実の強さという、虚実両方を抱き込む形で深化してきたということは、全くその通りです。肉親の死に限った問題ではなく、虚構と現実をどうせめぎ合わせていくかが大切なのだと思います。」
石川美南 加藤治郎「肉親の死の虚構、短歌に許される?」「東京新聞」2014年11月26日夕刊


それにしても、この話題がここまで長引くとは……と不思議な感慨に浸っているが、これは単に石井個人の問題ではなく、現代短歌が常に「虚構と現実のせめぎ合い」や「私(わたくし)」の問題を抱えて深化してきたことの証なのだろう
石川美南 「虚構の提示/「桟橋」終刊」「現代短歌」2015年1月号


 三人ともやや時系列的には少し前後するが、立て続けに同じような発言をしている。黒瀬が「虚構に対して是非を抱えつつ煩悶する精神」といい、斉藤が「現実と虚構の間で綱渡りを続ける~その緊張感」といい、石川が「虚構と現実のせめぎ合い」と言う言葉で表現するものはほぼ同じものだろう。

 簡単に言えば、歌人であるからには虚実皮膜を使い分ける作法をうまく心得ていないと、大変なことになるぞ、ということなのだろう。一般論としては賛成だ。

 短歌にフィクションを持ち込むことの是非については、おそらくほとんどの歌人がリアルが100%がいい、フィクションが100%がいいなどとは思っていない。短歌にフィクションを持ち込むとき、その都度その都度で、どのくらいのパーセンテージがいいかは「よく考えてください」くらいのことしか言えない。

 ただ、小説のように、冒頭で紹介した私の初読の印象で、作者が勝手にリアルでは生きている父親を作品の上で殺すことを、作者の問題にしてしまうことは、短歌というジャンルに深くコミットしている人間にとっては、かなりスジの悪い話になってしまう。

  短歌は「私」を中心とした一人称の詩形であり、「作者=私」という形で捉えられることが圧倒的に多い。それゆえ、その内容が虚構なのか現実なのかということは昔から度々問題になってきた。ただ、今回のようにそれが何かの賞を受賞した作品で、わかりやすく作品の上で父親が死んだ、そして直後に実は生きていたとわかったというケースは、なかった。加藤治郎が「虚をつかれた」と石川美南との対談で発言したのは、かなり本音であると思う。

 それにしても、うかつに作者と作品は別であるとか、虚構の議論が解決済みであるなどと口にすると、かなりのバッシングをくらってしまう、この発言しにくい空気感は一体何だろう。

 この空気感の原因については、当の加藤治郎本人にも多くの責任がある。

 2014年の短歌研究10月号「虚構の議論へ」で加藤は一通り読解をした上で、「祖父の死を父の死に置き換える有効性はあるのか、ありのまま祖父として歌う以上の何かが得られたのか。虚構の動機がわからないのである」とし、「虚構という方法を通じて新しい〈私〉を見出さなければ、ただ空疎なのではないか」と述べた。

 10月号の時点での加藤の言い回しには、私にもそれは当然だよな、と思うような説得力があった。

 この点で穂村弘は短歌研究の12月号「短歌年鑑」座談会で加藤治郎に的確な援護射撃をしている。的確だと思うので引用したい。

穂村「この問題は、たぶん短歌の歴史性や固有性とかかわっていて、加藤さんの文章も我々なら何を言っているのかわかるけれど、短歌をよく知らない人はたぶん言われている意味がわらないだろうと思う。近代以降の短歌の「わたくし」性を軸にした文体は事実性とセットになってきていて、前衛短歌における「わたくし」の拡張はあったけれども、それはセットになる文体自体の革命でもあったということですよね。ところが今回の受賞作の場合は、「わたくし」の位置づけとセットになるはずの文体の創出がないじゃないかと。従来の、我々が知っているものに近い文体で書かれていますから。」
佐佐木幸綱、三枝昴之、栗木京子、小島ゆかり、穂村弘「現代短歌の虚構・匿名性について」短歌研究(2014年、12月号)


 加藤は加藤自身が述べている「前衛短歌のような鮮烈で香り高い虚構」を石井の文体と比較するといった、より難しいが正道に近い検証の仕方はいくらでも出来たはずだ。

 ところが加藤は途中から、斉藤斎藤の「短歌には、自分や身内の生老病死についてリアルな虚構を作らない、暗黙のルールが存在する」という時評の一文に完全にのっかってしまう。

 加藤は、日経新聞の2014年12月28日の時評でこの一文に対して、次のように述べている。

共通認識と言ってもよいだろう。肉親の死は最も感情を揺り動かす領域である。大切にしたいというのが自然な思いである。
 短歌は小説とは違う。少数の作家の文学ではない。何十万人という作者のいる文学なのである。自分と向き合い日々の思いを歌っている。この有りようは世界的に見れば希有(けう)なことであり、貴重な日本の文化なのである
」。
(「虚構の是非が話題に-ジャンル越境「私」を摸索」日本経済新聞12月28日)


  加藤の解釈によると、この暗黙のルールは共通認識であり、自分と向き合い日々の思いを歌うことは、貴重な日本の文化、なのだそうだ。

 一体斉藤の時評の何処をどう読めば、こういう解釈になるのだろうか。

 これははっきり言って、加藤の思考停止としか言いようがない。自ら作品ベースで「虚構の動機がわからない」ということを言っていた加藤が、途中から議論をすり替え、なぜ「共通認識」であるかのように「ルール」を吹聴するようなことをやっているのか。これは、単なる権威主義と見られても仕方があるまい。

 この「ルールがある」という曲解は、石川美南が現代短歌の1月号の時評で丁寧に誤解を説こうとしている。

 斉藤斎藤の時評、東京新聞の11月11日の夕刊「番狂わせについて」では、確かに「自分や身内の生老病死についてはリアルな虚構を作らない、暗黙のルールが存在する」と述べられていた。

 ざっくりいうと、斉藤は「荒削りな歌はすべて疑ってかかるとすれば、いい歌の基準は技術や発想力だけになる。短歌はずいぶん退屈になるだろうな、と思う。

 として、技術や発想だけではない短歌の精神の迫真性の部分も大切だと言うことを主張している。私はこれを斉藤の提案のように受け取った。もちろん、これは権威主義的なルールがある「べきだ」という議論ではない。
 そもそも、暗黙のルールなどというものは何処にも存在しない。

 この加藤の曲解が、全く違う問題を生じさせてしまう可能性に、加藤は気付いているのだろうか。

 つまり、これはルール違反をした石井の受賞作が悪い。

 という何か倫理の問題のような、騙し騙された的なモラル問題のような、作品の問題とは違う次元での、石井バッシングを生じさせてしまうような結果になってしまうだろう。
 ひたむきに自分と向き合うこと「だけ」が短歌の作品世界を豊かにするという考えの「事実重視派・内面重視派」から見れば、この加藤の発言はモラル問題のように捉えられてしまう。それが日本の文化なのだと言われれば、なおさら勢いづくだろう。

 私はこういったルールを吹聴することが、この問題について発言しにくい「空気」を作っているという点で、斉藤の時評に対する加藤の曲解は全く認めない。

 加藤はより議論を深化させる形で、もう一度原点に立ち戻って、作品の問題をまずしっかりと検証すべきだろう。

             ※

 さて、一通りの「発言しにくい」問題は一応クリアにしたところで、石井作品の評価という文学的な観点から軽く私見をのべようかとおもう。

 本音を言ってしまえば、私の立場は加藤の立場とそんなにずれているとは思わない。

 もう一度短歌研究2014年10月号の「時点」での加藤の主張を繰り返すが、加藤は「虚構という方法通じて新し〈私〉を見出さなければ、ただ空疎なのではないか

 といっている。この一文のほうがはるかに重要だ。

  もし石井の短歌観のなかで、虚構に対する方法意識が明確にあったのなら、この作品をただの「挽歌」にはしなかっただろう。

 「父の死」、あるいは父親殺しというテーマを取り扱うのなら、もっと現代の社会にコミットした象徴的な「父」を取り扱うような、そういう連作の可能性も想像することが出来たはずだ。

 石川は「プライベートな動機から出発する虚構というのもあるのだ。
石川美南「虚構の議論、なのか」「現代短歌」2014年11月号

 と石井を擁護しているが、

  作者にいくら内的必然性があったことは認められても、「父の死」が虚構とわかった時点で、何かそれ以上の価値をもたらす大きな短歌史上のインパクトや強さと言ったものが、作品に必要ではなかったか。それが、加藤の言う「ありのまま祖父として歌う以上の何か」ではないかと思う。

 新人の石井にそこまで要求するのは酷な話かもしれないが、短歌を文学として自立させたいと考える私のような読者からすると、もの足りない印象はぬぐえない。

  つまりは、作者に必然性があるかという問題ではなく、 それが短歌という詩形にどれだけ影響を与えられるか、そういう水準で加藤は読解をしているし、選考委員もおそらくそうだと思う。だからこそ加藤も、虚実皮膜の駆け引きをまったく考慮に入れていない「虚構」だとわかったときの失望感は深かったのであろう。

 もう一点、文体の問題にも触れておかなければならない。石川、加藤、穂村に限らず多くの読者が既に気付いていることだと思うが、あたかもドキュメンタリーのように書かれているこの連作はどう考えてもリアルのようにしか見えないし、特異な文体を創出しているようにも見えない。

 スピードは守れと吐きし老人がハンドルをむずと握るベッドで

 父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を

 ネクタイは締めるものではなく解(ほど)くものだと言いし父の横顔


  選考でもあったが、挽歌の文体としてはリアリティがあって、これはこれでいい。自動車のことを通じて、「父」の実像に迫っていく。これはドキュメンタリー的な手法だろう。

 こういうわかる歌がある一方で、石井作品の場合は、読解に苦しむ歌も多かった。これは歌の表現が雑なだけで、特異な文体の創出ではない。

 己が青春に造りし道路を守らんと徘徊老人車に開(はだ)かり

 「はだかる」というのは手や足を大きくひろげて立ちふさがるという意味だそうだが、まずこの歌は己(おのれ)なのか己(おの)なのか、どちらでも読めそうな歌だし、下の句の「徘徊老人車に」は、徘徊老人で切れるのか、もしかすると老人車というものがあるのか、という時点で大きく読解につまづく。おのれとおのにルビを振らないというのは、韻律的な問題に作者が全く無頓着であるという証拠だし、句の継ぎ方に至っては未熟さを読者に委ねているような印象だ。

 ふた裏のヨーグルトさえ執心を持つ御棺には縋りそびれた
 
 選考でも盛んに切れ目が議論されていたが、この歌の場合、そもそも、「ふた裏」とは何だろう。「ふたの裏」ならわかるが、二裏かもしれないと一瞬考えさせてしまう、という時点で、無用な混乱を読者に生じさせる言葉の繋ぎ方だ。言葉使いは正確にしたほうがいいとおもう。ヨーグルトさえ執心を持つに至っては、ヨーグルトにさえ執心を持つのか、そのまま字義通りヨーグルトさえも執心を持つのかがわからないし、これは栗木京子の「ふたの裏についたヨーグルトさえスプーンで掬って舐めるぐらい執着心のある自分なのに、父の御棺には縋ることさえできなかった

 という丁寧な読解を読むまでは、何を歌っているのかさえわからなかった。

 たとえ前衛短歌にまで遡らなくても、ここ十年の作品を読んでみればわかるのだが、優れた短歌の手法や文体は、おそらく、多くの歌人に引用され、流用され、拡散していく。その作者を中心にして、あるコミュニティを形成することすら、現代短歌にはある。

 ところが石井の文体にはそういう媚薬のような文体の新たな付加価値がない。短歌の表現として未熟で、読解にしばしばつかえる。

 現時点の石井の短歌は、例えばあまりにも素敵だから私も思わずマネしたくて父親を殺してみた、という歌人が今後現れるのか、という点でも疑問だ。

 私は作品を「作者のポテンシャル」とか「伸びしろ」とか、訳のわからないもので評価したくない。

 新人賞という門をくぐった地点で、石井僚一はもう投稿歌人ではないのだ。是非、作品の完成度を上げる努力を今後していって欲しいと思う。無論、石井の作品が倫理的にどうかとか、事実に即してないからどうか、などということを問題にするつもりはない。そういう読者がいれば全力で石井を擁護する準備はこちらにはある。石井の作品のこれからに大いに期待している。