加藤治郎、東直子両氏の監修のもと、書肆侃侃房から若手歌人の歌集を出版する企画「新鋭短歌シリーズ」の第二期が始まった。第一期との主な違いは、監修者に大塚寅彦氏が加わったこと、これまで監修者の推薦のみだった著者の選定方法に、公募枠ができたことである。
シリーズ全一二冊のうち、『オーロラのお針子』(藤本玲未)、『ガラスのボレット』(田丸まひる)、『同じ白さで雪は降りくる』(中畑智江)の三冊が、この九月に刊行された。
まずは『同じ白さで雪は降りくる』より、目にとまった歌を引いてみる。
歯ブラシの腰のくびれのなかなかに握りやすくて春は暮れたり 『同じ白さで雪は降りくる』
唐紙の襖外せる手順にてジャングルジムより子を下ろしたり
伸びあがる水を捕えて飲み干せる少年たちに微熱の五月
身体感覚の再現性が高い。一首目、人体工学に基づいて持ちやすさを究めた歯ブラシの、あの手にぴったりとなじむ感じ。春の日暮れのほのあたたかさ、急すぎも遅すぎもせず、ほどよくするすると暮れてゆく感じ。両者がお互いにひびきあい、増幅しあって、作中主体が感じたであろう微妙な体感を読者の身体の上に再現する。二首目は、子どもをこちらに向かせ、脇に手を差し入れて、持ち上げ、抱いて、下ろす、というひとつひとつの動作を、クリアに追体験させる。唐紙の襖を外す実体験の有無(読者も作者も)は、読みに影響しないだろう。「唐紙」「襖」の古風で雅やかな語感が、作中主体の動作の丁寧さを想像させることに意味がある。
三首目は公園の水飲み場のシーンととらえた。丸い小さな孔から噴き上がる水は、高さの調整がしづらい。加えて、ちょっとした風でふらふらするので、飲むのが難しい。その水の先端を、器用に唇でキャッチする姿を、「伸びあがる水を捕えて飲み干せる」と描写した。様子が目に浮かぶような、的確な表現である。初句の「伸びあがる」は、水の写生のみに終わらず、少年の背伸びや草木の芽が伸びるイメージを補強してもいる。「微熱」は、水をもとめる少年たちの身体の熱さや、子ども特有の熱に浮かされたような感じを匂わせる。すべての言葉とその運びに、必然性があって無駄がない。ひとつの言葉が、いくつもの意味やはたらきを負って定型におさまっている。言葉の燃費がいいのだ。
逆に言葉の燃費が悪く、しかしそれゆえに魅力的な歌もシリーズ第二期の歌集にはある。
東京の明かりにBANBANぶつかって青林檎まぶしくてさみしい 『オーロラのお針子』
いろとりどりの言葉が散りばめられているわりに、意味や景が確定できない。すべての言葉が、作り手の目指すイメージに最短距離でたどり着けるよう構成されていた、『同じ白さで雪は降りくる』の歌とは対照的である。
けれどこの歌には、言葉を燃費よく使っていたのでは伝えられないものを伝える力がある。
「東京の明かり」は描写として大づかみと批判されるかもしれないが、「東京の明かり」を「東京の明かり」としか表現できないときが確かにある。物理的または精神的に東京から離れている人が、「ここにないもの」を仮託して「東京」を言うときだ。だからこの歌の「東京」は、少し昔の東京のような気がする。アルファベット表記のオノマトペ「BANBAN」は、「東京」に引きずられるせいか、ネオンサインか巨大な看板のような印象で、歌詞の途中で英単語が入ってくるJ-POPを思わせる。先述した「少し昔の東京」のイメージも、ここからきているのかもしれない。「BANBAN」という表記自体が、日本語表記の他の部分と「ぶつかって」いる。唐突に出てくる具体物の青林檎、「まぶ/しくてさみしい」の句またがり。表現がいろいろと過剰で、そのわりに意味を結ばない。けれど、むしろそれによって、読み手に生々しく手渡しているものがあるのではないか。エネルギーの横溢した、空虚で、なつかしい東京の明かり。そして作中主体の、意味のとおる散文ではうまく形にできない感情。
あのひとの干した葡萄を売りますよ遠くからきたひと好きですよ 『オーロラのお針子』
知人が干した葡萄を売るというシチュエーションは、日常生活であまり発生しないので、感覚を再現できない。下句、「遠くからきた」ことが好きである理由のように読めて、意味がきちんととりきれず、上句とのつながりもはっきりしない。特定の「表現したい景」があって、そこへ向かって言葉を構成している歌ではないのだろう。読み手に、作り手の「表現したい景」を追体験させることを最大の目的としてはいないとも言い換えられる。しかし、だからといって読み手に何ひとつ景や身体感覚を呼び起こさないかというと、そうではない。
「~ますよ」「~ですよ」というリフレインや、「葡萄」以外すべてが清音でできていることから、黙読していても歌っているような気分になる。意味がきちんととりきれないと書いたが、自分にとって特別な人であろう「あの人」が、丹精込めて干した葡萄をお金に変える屈折や、飄々とうそぶくような口調に、ぼんやりと主人公の姿が見えてくる。私にはこの歌が、風の声のように思える。
真夜中にしっとり濡れたウサギ小屋一羽(うれしい)一羽(さみしい) 『オーロラのお針子』
東から明けゆく空にみつあみがほどけてやっとはじまるね 夏
先に挙げた『同じ白さで雪は降りくる』の歌が、読者の身体をダイレクトに共振させるのに対し、これらの歌は作中主体をとりまく世界と自身の心の共振を歌っている。そのため読者は、まず世界を受信し、そのあとそれに共振する作中主体の心と共振することになる。少し遠回りで間接的なのだ。その分読者は、読者自身の足で歌の中を歩くことになる。この場合は、燃費の悪さこそが歌を豊かにしていると言えないだろうか。
燃費がいい/悪いという物差しを、『硝子のボレット』に当ててみると、これは判断が難しい。
縫いつけてもらいたくって脱ぎ捨てる あなたではない あなたでもない 『硝子のボレット』
でも あれはつばさだったよ まわされた腕にこたえたときの戦慄
一首目は縫いつけてもらいたいものが何か、二首目はつばさだったものが何なのか最後まで分からないので、意味や景に向かって言葉が一直線に向かっているとは言いがたい。が、作中主体の精神のありように関して言えば、ダイレクトにこちらへ伝わってくる。
作中主体には、自分自身への強く冷静な確信がある。「縫いつけてもらいたい」という衝動は、「このままではどこかに行ってしまいそうなので、誰かにとどめておいてほしい」といった心細さの表明のように見えたが、三句目であっさり「脱ぎ捨て」てしまう。よりこころもとない、無防備な姿を選び取るのである。下句、複数の人物を順に見ていきながら、ひとりひとり「あなたではない あなたでもない」と判断していると読んだ。「あなたではない」「あなたでもない」と断言できるのは、自身の内にゆるぎなく求めるものがあるからに他ならない。「脱ぎ捨てる」のも、この身体が選び取るものに間違いがあるはずはないと確信しているからであろう。
二首目、先述したように、「つばさ」の具体的に意味するところは分からない。以前相手とともに見て、自分だけにはつばさに見えたものがあったのか。「つばさ」の持つ、飛翔の可能性、遠い場所まで行ける力などをここでは読んでおきたい。抱擁を受け、それにこたえて力を抜き、相手の腕の中におさまる。しかしそのとき、戦慄のように「でも あれはつばさだったよ」という思いが心に浮かびあがる。相手とかぎりなく一体化しようとする抱擁のときでさえ、作中主体は自身の意識の輪郭を薄めることはない。むしろ他者を触媒として、冷静に把握する。
冷えていく余命まだあと百年はあると信じてすするフルーチェ 『硝子のボレット』
「フルーチェ」を「食べる」のではなく「すする」。「フルーチェ」という身近なアイテムと、お行儀の悪さと生命力を伝える動詞の選択で、先の二首と比較して身体感覚の再現性が高い。けれど、この歌の主眼は、やはり身体感覚より精神のありようの再現ではないかと思うのだ。医療技術の進歩により、人間の平均寿命は年々延びてきているとはいえ、余命百年ということはまずあり得ない。百といういかにもいい加減な数字から分かるように、作中主体自身も根拠はまったく持っていないだろう。また、初句の「冷えていく」は、「余命」の語に貼りついた死のイメージを照らしだす。なのに、この大きくうなずくような、健康的な気持ちの強さはどうだろう。このあざやかな反転の要は、「フルーチェ」と「すする」にある。身体感覚の再現は、この歌の最終目的地ではない。身体感覚の再現が、気持ちの強さを再現するのだ。燃費の良し悪しに加え、燃費をどこにかけるかという観点が入ってくる。
新鋭短歌シリーズに参加する歌人たちが、これまで作品を発表してきた場所はそれぞれ異なる。場所の数だけ価値観が存在するだろう。ここで述べた燃費の良さを高く評価する場所もあれば、燃費の良さを避ける価値観もある。ひとつの価値観を物差しにして歌に優劣をつけることはできるが、価値観そのものの優劣を言うのは意味がない。それぞれの作品が何を目標としていて、その目標に対してどこまで成功しているのかという観点で、新鋭短歌シリーズ第二期の続刊を読むようにしていきたい。
シリーズ全一二冊のうち、『オーロラのお針子』(藤本玲未)、『ガラスのボレット』(田丸まひる)、『同じ白さで雪は降りくる』(中畑智江)の三冊が、この九月に刊行された。
まずは『同じ白さで雪は降りくる』より、目にとまった歌を引いてみる。
歯ブラシの腰のくびれのなかなかに握りやすくて春は暮れたり 『同じ白さで雪は降りくる』
唐紙の襖外せる手順にてジャングルジムより子を下ろしたり
伸びあがる水を捕えて飲み干せる少年たちに微熱の五月
身体感覚の再現性が高い。一首目、人体工学に基づいて持ちやすさを究めた歯ブラシの、あの手にぴったりとなじむ感じ。春の日暮れのほのあたたかさ、急すぎも遅すぎもせず、ほどよくするすると暮れてゆく感じ。両者がお互いにひびきあい、増幅しあって、作中主体が感じたであろう微妙な体感を読者の身体の上に再現する。二首目は、子どもをこちらに向かせ、脇に手を差し入れて、持ち上げ、抱いて、下ろす、というひとつひとつの動作を、クリアに追体験させる。唐紙の襖を外す実体験の有無(読者も作者も)は、読みに影響しないだろう。「唐紙」「襖」の古風で雅やかな語感が、作中主体の動作の丁寧さを想像させることに意味がある。
三首目は公園の水飲み場のシーンととらえた。丸い小さな孔から噴き上がる水は、高さの調整がしづらい。加えて、ちょっとした風でふらふらするので、飲むのが難しい。その水の先端を、器用に唇でキャッチする姿を、「伸びあがる水を捕えて飲み干せる」と描写した。様子が目に浮かぶような、的確な表現である。初句の「伸びあがる」は、水の写生のみに終わらず、少年の背伸びや草木の芽が伸びるイメージを補強してもいる。「微熱」は、水をもとめる少年たちの身体の熱さや、子ども特有の熱に浮かされたような感じを匂わせる。すべての言葉とその運びに、必然性があって無駄がない。ひとつの言葉が、いくつもの意味やはたらきを負って定型におさまっている。言葉の燃費がいいのだ。
逆に言葉の燃費が悪く、しかしそれゆえに魅力的な歌もシリーズ第二期の歌集にはある。
東京の明かりにBANBANぶつかって青林檎まぶしくてさみしい 『オーロラのお針子』
いろとりどりの言葉が散りばめられているわりに、意味や景が確定できない。すべての言葉が、作り手の目指すイメージに最短距離でたどり着けるよう構成されていた、『同じ白さで雪は降りくる』の歌とは対照的である。
けれどこの歌には、言葉を燃費よく使っていたのでは伝えられないものを伝える力がある。
「東京の明かり」は描写として大づかみと批判されるかもしれないが、「東京の明かり」を「東京の明かり」としか表現できないときが確かにある。物理的または精神的に東京から離れている人が、「ここにないもの」を仮託して「東京」を言うときだ。だからこの歌の「東京」は、少し昔の東京のような気がする。アルファベット表記のオノマトペ「BANBAN」は、「東京」に引きずられるせいか、ネオンサインか巨大な看板のような印象で、歌詞の途中で英単語が入ってくるJ-POPを思わせる。先述した「少し昔の東京」のイメージも、ここからきているのかもしれない。「BANBAN」という表記自体が、日本語表記の他の部分と「ぶつかって」いる。唐突に出てくる具体物の青林檎、「まぶ/しくてさみしい」の句またがり。表現がいろいろと過剰で、そのわりに意味を結ばない。けれど、むしろそれによって、読み手に生々しく手渡しているものがあるのではないか。エネルギーの横溢した、空虚で、なつかしい東京の明かり。そして作中主体の、意味のとおる散文ではうまく形にできない感情。
あのひとの干した葡萄を売りますよ遠くからきたひと好きですよ 『オーロラのお針子』
知人が干した葡萄を売るというシチュエーションは、日常生活であまり発生しないので、感覚を再現できない。下句、「遠くからきた」ことが好きである理由のように読めて、意味がきちんととりきれず、上句とのつながりもはっきりしない。特定の「表現したい景」があって、そこへ向かって言葉を構成している歌ではないのだろう。読み手に、作り手の「表現したい景」を追体験させることを最大の目的としてはいないとも言い換えられる。しかし、だからといって読み手に何ひとつ景や身体感覚を呼び起こさないかというと、そうではない。
「~ますよ」「~ですよ」というリフレインや、「葡萄」以外すべてが清音でできていることから、黙読していても歌っているような気分になる。意味がきちんととりきれないと書いたが、自分にとって特別な人であろう「あの人」が、丹精込めて干した葡萄をお金に変える屈折や、飄々とうそぶくような口調に、ぼんやりと主人公の姿が見えてくる。私にはこの歌が、風の声のように思える。
真夜中にしっとり濡れたウサギ小屋一羽(うれしい)一羽(さみしい) 『オーロラのお針子』
東から明けゆく空にみつあみがほどけてやっとはじまるね 夏
先に挙げた『同じ白さで雪は降りくる』の歌が、読者の身体をダイレクトに共振させるのに対し、これらの歌は作中主体をとりまく世界と自身の心の共振を歌っている。そのため読者は、まず世界を受信し、そのあとそれに共振する作中主体の心と共振することになる。少し遠回りで間接的なのだ。その分読者は、読者自身の足で歌の中を歩くことになる。この場合は、燃費の悪さこそが歌を豊かにしていると言えないだろうか。
燃費がいい/悪いという物差しを、『硝子のボレット』に当ててみると、これは判断が難しい。
縫いつけてもらいたくって脱ぎ捨てる あなたではない あなたでもない 『硝子のボレット』
でも あれはつばさだったよ まわされた腕にこたえたときの戦慄
一首目は縫いつけてもらいたいものが何か、二首目はつばさだったものが何なのか最後まで分からないので、意味や景に向かって言葉が一直線に向かっているとは言いがたい。が、作中主体の精神のありように関して言えば、ダイレクトにこちらへ伝わってくる。
作中主体には、自分自身への強く冷静な確信がある。「縫いつけてもらいたい」という衝動は、「このままではどこかに行ってしまいそうなので、誰かにとどめておいてほしい」といった心細さの表明のように見えたが、三句目であっさり「脱ぎ捨て」てしまう。よりこころもとない、無防備な姿を選び取るのである。下句、複数の人物を順に見ていきながら、ひとりひとり「あなたではない あなたでもない」と判断していると読んだ。「あなたではない」「あなたでもない」と断言できるのは、自身の内にゆるぎなく求めるものがあるからに他ならない。「脱ぎ捨てる」のも、この身体が選び取るものに間違いがあるはずはないと確信しているからであろう。
二首目、先述したように、「つばさ」の具体的に意味するところは分からない。以前相手とともに見て、自分だけにはつばさに見えたものがあったのか。「つばさ」の持つ、飛翔の可能性、遠い場所まで行ける力などをここでは読んでおきたい。抱擁を受け、それにこたえて力を抜き、相手の腕の中におさまる。しかしそのとき、戦慄のように「でも あれはつばさだったよ」という思いが心に浮かびあがる。相手とかぎりなく一体化しようとする抱擁のときでさえ、作中主体は自身の意識の輪郭を薄めることはない。むしろ他者を触媒として、冷静に把握する。
冷えていく余命まだあと百年はあると信じてすするフルーチェ 『硝子のボレット』
「フルーチェ」を「食べる」のではなく「すする」。「フルーチェ」という身近なアイテムと、お行儀の悪さと生命力を伝える動詞の選択で、先の二首と比較して身体感覚の再現性が高い。けれど、この歌の主眼は、やはり身体感覚より精神のありようの再現ではないかと思うのだ。医療技術の進歩により、人間の平均寿命は年々延びてきているとはいえ、余命百年ということはまずあり得ない。百といういかにもいい加減な数字から分かるように、作中主体自身も根拠はまったく持っていないだろう。また、初句の「冷えていく」は、「余命」の語に貼りついた死のイメージを照らしだす。なのに、この大きくうなずくような、健康的な気持ちの強さはどうだろう。このあざやかな反転の要は、「フルーチェ」と「すする」にある。身体感覚の再現は、この歌の最終目的地ではない。身体感覚の再現が、気持ちの強さを再現するのだ。燃費の良し悪しに加え、燃費をどこにかけるかという観点が入ってくる。
新鋭短歌シリーズに参加する歌人たちが、これまで作品を発表してきた場所はそれぞれ異なる。場所の数だけ価値観が存在するだろう。ここで述べた燃費の良さを高く評価する場所もあれば、燃費の良さを避ける価値観もある。ひとつの価値観を物差しにして歌に優劣をつけることはできるが、価値観そのものの優劣を言うのは意味がない。それぞれの作品が何を目標としていて、その目標に対してどこまで成功しているのかという観点で、新鋭短歌シリーズ第二期の続刊を読むようにしていきたい。