「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 詩歌に出来ること? 山田露結

2014-09-13 14:08:54 | 短歌時評
 また来ました。二回目の短歌時評の依頼。前回は一応、俳句をやる立場から見て違和感のあった一首を取り上げてお茶を濁したのですが、さすがにもう書くことないよなぁと。私は短歌についてほとんど何も知らないし、普段からあまり読まないんだから。ん~、だったら断れよっていう話なんだけど、まあ、何とかなるだろうと今回も安請け合いをしてしまったのであります。そんなわけで、みなさま、しばらく私の妄言におつきあいくださいませ。
さて、東日本大震災以降、震災あるいは原発をテーマにした俳句作品というのがたくさん詠まれていまして、あれからから3年以上の月日が経った今も俳句世間ではそうしたテーマを詠おうという空気が続いているわけですが、これはもちろん俳句だけではなくて短歌や他の詩歌作品においてもそういう空気が少なからずあるのかな、と。
 ある日の朝刊の一面の「原発再稼働を問う」という特集記事に「詩歌で批判、6人の作品」として高野公彦さん、俵万智さん、若松丈太郎さん、アーサー・ビナードさん、和合亮一さん、湯川れい子さん6人の顔写真が載っていて、何となく気になって新聞をめくると見開きページにデカデカと6人の作品が掲載されていました。いや、実は、私はこの手の作品が苦手なのでありまして。もちろん、個人的に原発稼働には反対なんですが、詩歌でそれを訴えるというのを目にするたびにどういうわけか胸の奥の方がザワザワした感じになるんですね。虚しいような、切ないような、ちょっと説明しにくい気持ちです。

 歌とは人の心を種とし、言の葉につむぐもの。命あるもので、詠まないものがあるだろうか-。千百年前、歌人の紀貫之が古今和歌集の序文で大意、こんなことを記している。古来、日本は詩歌の国である。市井の人々が何げない日常から時の為政者への不満まで、心のうちを歌に託してきた。今、ここで六人の歌人、詩人、そしてフクシマの人たちが詠むのは大勢の日本人の心でもある。(中日新聞2014.7.21)

 ページの冒頭にはこんな言葉が置かれてあります。へえ、和歌ってラブソングが多いのかなって勝手にイメージしてたんですけど、そればっかりじゃなくてプロテストソングもあるよということなんでしょうか。不勉強な私にはよくわかりません(ちなみに私は福島を「フクシマ」とカタカナで書くのが嫌いです。関係ありませんが)。
紙面にはまず、俵万智さんの作品が、おそらく原発事故のために無人になった町の風景写真の上に印刷されています。

遠足のキャンプファイヤーあかあかと持ち帰れない千年のゴミ 

「おかたづけちゃんとしてから次のことしましょう」という先生の声

雨の降る確率0パーセントでも降るときは降るものです、雨は

声あわせ「ぼくらはみんな生きている」生きているからこの国がある

(「海辺のキャンプ」俵万智)


 一首目はよくわかります。「持ち帰れない千年のゴミ」というフレーズに落とし込むことで、キャンプファイヤーの燃え盛る炎が制御不能の原発のイメージと結びつきます。しかし、やはり、この作品を読んで、胸の奥の方がザワザワした感じになりました。私がよくわかるというのは、この歌には原発の惨状が上手く表現されているということがよくわかるという意味です。どう言ったらいいんでしょう。「持ち帰れない千年のゴミ」が伝えようとしているのは、言ってみれば、既知の事実に基づく既知の感情だと思うんですね。その感情、もちろん、私も知ってます。でも、それは、とてもデリケートで、こんな風に巧みに短歌にしてみせて欲しくないような、そんな感情なんです(ザワザワ)。
 続く三首は、一首一首単体では原発批判の歌なのかどうかがわかりにくい作品です。しかも子供向けの絵本にあるフレーズのような、少し幼稚な書き方がされています。「海辺のキャンプ」ですから子供たちがあつまってキャンプファイヤーを囲んでいるイメージなのでしょうか。「おかたづけちゃんとしてから次のことしましょう」は福島原発の収拾の目処がいまだ立っていないのに、どうして原発を再稼働させようとするのか、ということなのでしょう。あえて子供に言い聞かせるような言い方で書かれています。次の歌は、降水確率0パーセントの予報が出ていても雨が降ることがある、つまり絶対なんてことはないということでしょうか。絶対安全な原発なんてありえない、そう言いたいのかもしれません。最後の歌は、何と言うか、ちょっとクサイですよね。「生きているからこの国がある」なんて、なかなか、真面目な顔をしたまま言えないフレーズです。私が小学生だった頃、こんな風に「やさしさ」みたいなものを生徒に直球でぶつけて心の授業をする先生がいました。授業中、みんなで一緒に泣いたりしなければならない雰囲気があったりして、私は少し苦手でした(ザワザワ)。

海べりの処々(しょしょ)に原発を隠しいてウランの臭(にお)う平成列島

原子炉の毒性発電停止して今にっぽんは〈平静〉列島

神の手が都市の灯りを消してゆき月下に咲(ひら)く泰山木(たいさんぼく)の白

電力の〈おもてなし〉終え原発はたんに巨大な〈毒の城〉となる

(「毒性発電」高野公彦)


 これは、なんでしょう。「平成列島」とか「〈平静〉列島」とか、「毒性発電」、「毒の城」とかいう悪趣味な造語でもって批判精神を詠い上げるのが短歌なのでしょうか(ザワザワ)。「咲く」に「ひらく」とルビを打つのも演歌調で感心しませんし、〈おもてなし〉の流行語の使用もいただけません。どことなく『震災歌集』(長谷川櫂)を彷彿させるような(ザワザワ)。一首ずつ鑑賞してみようと思いましたがやめました(ウランって臭うんですか?)。高野公彦さんという方を私は知りませんでしたが、有名な歌人なのでしょうか。
 この日の新聞には他にも詩や俳句が掲載されていたのですが、正直、私はこのお二方以外の方々の詩歌作品にもあまり好い印象を持ちませんでした。
念のためにもう一度言うと、この特集記事のタイトルは「原発再稼働を問う」というもの。掲載されていたのは「詩歌で批判、6人の作品」です。
詩歌による原発批判って、いったい何なんでしょうね。反原発を訴えようとするなら他に何か有効な方法はないのでしょうか。詩歌は批判媒体としてはあまりにも非力というか、いや、もしかしたら、彼らは、たとえ非力であったとしても詠わなければならなかった、もしくは詠わずにはいられなかった、ということなのでしょうか(ザワザワ)。
今回は短歌時評ということで俵さん、高野さんの短歌作品を取り上げてみましたが、最後に同じ特集記事の中から若松丈太郎さんの詩を紹介させてもらおうと思います。こんな作品です。

いたるところの道にバリケードをしつらえ
人びとが入れない区域を設定した
人が手を入れない耕地には
いちめんにセイタカアワダチソウが茂る
人びとのこころに悲憤が泡だつ

夏に湿気のおおいこの国の風土では
人が住まない家屋のなかは
いたるところじっとりと黴が生える
ありとあらゆるものを腐らせる
人びとのこころまでも患わせる

小児甲状腺がん発症者および疑いのある者三百倍
「核災」関連死者千七百三十人超
避難者はいまも十万人超
このあと二年後も帰還できない人五万人超
燃料レブリ取り出しの願望的開始目標二〇二〇年

無惨としか言いようがない現実がある
あったことを終ったことにするつもりか
あったことをなかったことにするつもりか
おなじことをくりかえすために
いまあることをなかったことにできるのか

(「なかったことにできるのか」若松丈太郎)


 あえて詳しい感想は述べませんが、これは詩なのでしょうか(ザワザワ)。私にはよくわかりません。ただ、若松さんの訴えたいという気持ち(怒り?)だけはよく伝わって来ます。この作品を読んで私の胸のザワザワ感はいよいよ高まり、やがて、少し悲しい気持ちになりました。何と言いますか、批判媒体としての詩歌表現には、やはり限界があるんじゃないでしょうか。詩歌って、こういうことを詠うためにあるのでしょうか。詩歌って、何やら正義の声を上げるための道具なのでしょうか(偉そうにすみません)。こんな風に、直接的な怒りの表明に使われることを、詩歌の言葉は、悲しんでいないでしょうか。
 みなさんは、このような作品についてどんな感想を持たれるでしょうか。詩歌に出来ることって何でしょうか。


※作品はすべて中日新聞(2014.7.21)から引用しました。