この4月から、国語の教員として中学校に赴任した。教えているのは中学2年生で、勤務校(の属する教育委員会)が採用している光村図書の教科書では、6月頃に短歌を学習することになる。どこの出版社の教科書を見ても、短歌とそれにまつわる読み物が掲載されているのだが、光村図書の教科書に載っている教材は、『短歌に親しむ』と題された栗木京子さんの鑑賞文と、『短歌に親しむ』と題された短歌6首で、これらを元にして授業を行うこととなった。俳句や短歌というのは、入試でもなかなか出題されることが少なく、国語の授業の現場においても、軽視されてしまうことが少なくない。また、僕自身は俳人で、短歌を書くことは殆どない。しかし、短詩に馴染みのない人たちからすると――生徒は勿論、国語科の先輩・同僚の先生も皆さんそうなのだが――俳句も短歌も同じようなものだという感覚があるのか、教材の短歌にまつわる質問が、何かと僕のところに届いてきた。その中で、特に印象に残っているエピソードを二つ紹介したい。
まず、『短歌を味わう』で栗木さんが取り上げている短歌の中に、
鯨の世紀恐竜の世紀いづれにも戻れぬ地球の水仙の白 馬場あき子
があり、「この歌の優れた点は、『水仙の白』と歌い収めたところです。鯨の世紀、恐竜の世紀といった、とてつもなく長い時間が『水仙の白』という一滴の時間の中に、すっと回収されていきます。大きな時間と小さな時間が、一首の中でダイナミックに溶け合っているのがわかって、思わずため息が出ます。」という鑑賞が付されている。
これを読んだ先輩の国語の先生が、「どうして『水仙の白』でなければならないのか?」と訊いて来たのだ。「作中主体の眼前に水仙がある。水仙というのはある季節の間を咲いたら枯れてしまうが、水仙が根を下ろしている地球というのは、かつて鯨や恐竜が栄えたのと同じ惑星であり……」と返答しかけたところで、さらに、「『たんぽぽの黄色』じゃダメなのか?」と畳みかけられた。まるで短歌甲子園・俳句甲子園のような応酬に驚いてしまったが、その後は上手く返答することが出来ず、口を噤んでしまった。というのも、僕自身は栗木さんの鑑賞に納得していて、水仙である必然性のことなど微塵も考えていなかったからだ。
今になって、これは、短歌における虚実の問題が下敷きになっているのではないかと思っている。というのも、僕が、馬場さんの短歌の歌い収めが「水仙の白」であることを疑わなかったのは、それが作中主体ひいては作者にとっての現実としてそこに存在することを疑わなかったということなのだ。また、先輩の先生が「水仙の白」ではなくても良いと思ったのは、それが作中主体や作者にとっての現実でなくとも、短歌の作品として納得性・意味性の高い措辞が他にあると考えたからであろう。短歌や俳句における一回性の重視という、ある一つの観点を共有していなかったことが、意見の違いを産んだのだとも言えるだろうか。
もう一つは、『短歌を味わう』に採録されている、石川琢木の、
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
にまつわるエピソードである。ある生徒がこの句を、「十五人の人が草に寝転んで、空を眺めている」と鑑賞したのだ。新しくて面白い解釈だと褒めつつ、こちらも「十五歳」だとしか思っていなかったので、ひどく驚いた。
確かに助数詞は入っていないから、十五人という解釈も成り立たなくはない。しかし、「草に寝転んで空を眺め、自分の悩みのちっぽけさを感じ、心が軽くなる」というような青春性は、啄木をはじめ、一つの類型である。例えば、中学生がよく歌う合唱曲『COSMOS』の歌い出しは、
夏の草原に
銀河は高く歌う
胸に手を当てて
風を感じる
であるし、また、村上鞆彦『遅日の岸』の収録句、
寝ころべば草がそびえて南風
もその一例と言えよう。そうしたイメージを思えば、「十五歳」という読みの他ないのではないかと感じるのだが、一方で、「青春像」というものがあるとするならば、それは時代と共に変容しているのだろう。少し前に、Adoの『うっせぇわ』とチェッカーズの『ギザギザハートの子守唄』とを比較して、若者のメンタリティーの変化が論じられた。つまり、草に寝転んで空を眺め、ギザギザハートを癒やすよりも、優等生を演じつつ、大人たちを凡庸と切り捨てて、心の中で「うっせぇわ」と呟くのが現代のメンタリティーなのだろうか――とまで言ってしまうと、一生徒の発言から飛躍しすぎだろうとツッコミが入るのだろうが、ともあれ、余計なことまで含めて色々考える契機となった短歌の授業であった。
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