戦争は、現代の短歌では想像の世界でしか歌われることがない。なぜなら、現在、われわれの国家は戦争をしていないと信じられており、戦争は、一般に国家が宣言し、国家が戦うものだからである。(『短歌の世界』岡井隆「23 これから戦争はどう歌われるか」1995.11.20.岩波書店)
短歌時評の依頼をいただいてから何を書こうか少しずつ考えていたのだが、2月下旬からのロシアのウクライナへの軍事侵攻のショックからすべて意識から吹き飛んでしまった。女性の仕事の歌、現代の若い人の歌、いろいろテーマを考えて楽しみに構想を立てていたのに、コロナの話を含めその程度のものだったのかと悲しくなりながら、この現実の暴力が、破壊力が自分にもたらしたものを思っている。
文学が、ことさら短歌という形式が、このような状況下にここぞとばかりに生命力を発揮することについて何人かの作家が(岡井隆や多くの詩人をはじめとして)語ってきたが、今、実際に海外で恐るべきことが起きてしまった。自国のことではないにも関わらず、他者ごとではない恐るべき事態と認識しているのは、当事国がヨーロッパ・ロシアという身近な文化圏のことである以上に、マスコミが日々緊張感と危機感をもって報道しているためである。もちろん、全世界的に重大な出来事だから日々報道されているわけなので単なる情報の量として片づけられるようなものではない。しかも、その具体的な内容は、同時進行的に、TWITTERやFACEBOOKで、見ようと思えばいくらでも見ることができる(充分ではないとはいえ、ロシア語でもウクライナ語でも自動翻訳付きで!)。そんな環境が整っているのだから、下手をすると、知らない間に情報戦の一端を担って、現実の状況に影響さえ与えかねない。グローバル、SNS時代、といった最近までに語られてきた時代時代の様相が、ここに至って、以前は考えられなかったようなリアルな情報環境として目の前に現れている。
冒頭に引いたのは、岡井隆の文章。この文章が書かれてすでに30年近く経っているが、戦中を経験した歌人の歌、戦後の歌、現代の歌等が様々に紹介されているので、ぜひ一度読んでいただきたいと思う。
世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ 近藤芳美
岡井は、近藤の歌について、「戦時下の青年は、当然祖国防衛の主体を担うことになる。その心情が、右に左に揺れるのは当然考えられる。心底ひそかに、〈戦争を憎む心〉を養って生きたとしても、すこしも不思議ではない。しかしそうした心情の率直な吐露は、戦時下では許されず、戦後になって可能となった。」と述べる。自らの最重要事を歌え、と常に述べていた近藤芳美にとって、自身の最重要事は愛する妻であり、その結婚生活を壊した戦争への憎悪であり、平和の希求であった。
この文章では他に渡辺直己等の戦争の歌が引かれるとともに、他国の行う戦争(朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、湾岸戦争等)に関する歌について、「日本国家を主体とする戦争は、つねに反省的に、懐古的に、〈戦争よあるな〉という心情に染められて、うたわれ続けてきた」「だから、歌人にとってヴェトナム戦争や湾岸戦争にしても、他国、他民族の戦争ではない。近代日本の軍隊による一切の戦争行為が、そこへ重ねられて、「戦争よあるな」という合唱を生んでいるといっていい」といったことが述べられている。
そして、話題になった歌として、黒木三千代の歌集『クウェート』から、
咬むための耳としてあるやはらかきクウェートにしてひしと咬みにき
等を引く。これらはもちろん、主体としての経験ではなく情報により引き起こされた自身の心理から、状況を捉えて詠まれた作品であるが、「他に適切な事例がみられないから」との断り書きとともに、次のような自身の作品を引いている。
兵のために-カンボジア派兵の折に
征くといふ思ひを持たぬ兵が行き酒冷えて国も冷ゆるこのごろ 岡井隆
武器持ちて人間ひしと集ふ見れば日も究極の微光となりぬ
泥濘の道に降り立つ映像に若き性欲をしばし思へる
これらは、詩人の辻井喬が「短歌が機会詩として発効しやすい」ことを言い、「〈反戦の歌〉とよんでいた」という。だが、岡井は、「兵が他国の現実にかかわり、他国多民族の(非正規軍とはいえ)軍と戦闘するという事態は、従来のマルクス主義主導型の反戦イデオロギーや、庶民の〈戦争はこりごり〉という素朴な厭戦気分だけでは処理し切れない問題である。歌人の多くは、この事態に対しても、なすすべもなく口をつぐんでいる。」「わたしの歌すら、辻井喬がいうようには反戦のうたではないだろう。口ごもりの歌、判断保留の歌なのである。と同時に、とにかく今自分の中に、しずかに水位をあげている感情に言葉を与えたいという段階の歌だろう。」と言う。
最近の短歌総合誌から戦争の歌を引いてみる。
銃身のかがやく顎あげながら寒々とせる空を降り来ぬ
駐屯の屯はたむろの謂にして屯をしたる者らは寒し
(「角川短歌」2022年2月号「双子座流星群」大辻隆弘)
大辻は、もちろん平和な(戦争状態ではないという意味で)日本の日常生活を送っている作者だが、このような素材による作歌に長けている歌人である。これらは歳暮のゴディバチョコを素材とする歌と同じ一連に含まれており、おそらく自衛隊か米軍の基地の状況を写したものと思われるが、自身の主宰する同人誌「レ・パピエ・シアンⅡ」2022年3月号では、次のような歌を詠んでいる。
寒々としたる夜明けは水仙と梅しろき辺に終らむとせり 大辻隆弘
葈耳の枯れて絡みてゐる向かうもう戦争ははじまつてゐた
兵士らの軍靴に踏まれたる雪と泥を照らして燃ゆる炎は
私は自分が「未来」という短歌結社に所属しているので、どうしても視野にある岡井隆とその系列の歌人のことが気になってしまうのだが、最近の若い歌人たちの感覚を少し見てみると、「角川短歌年鑑2022年」の対談「価値観の変化をどう捉えるか」の中で、戦争に触れた歌が取り上げられているのが興味深い。
恋人が兵隊になり兵隊が神様になる ニッポンはギャグ 北山あさひ
対談では、「壊れ切った負の匿名性の恐ろしさを若者に突き付けられた」(坂井修一)、「日本特有の全体性をどう思うかということ」(黒瀬珂欄)といった評がされているが、この捉え方と表現は、同時代を生きた人物にはありえないだろう。いくら訳のわからない理不尽な現実があったとしても、その渦中にあれば、ギャグなどといった表現はできない。だがそれは、現代に普通に平和に生きる人間からしたら、実際、リアルな出来事ではなくて遠き過去の世界の、まるで戦国時代のような「お話」と捉えることしかできないのである。もし自分の恋人が兵隊になって、死んで神社に祀られて神様として崇められたら?そんなことは真っ当な想像をはるかに超えている。フィクションにすらできないし、ギャグでしかありえない。なにこれこの国そのものがギャグとして存在しているとしか思えない!
だから、今回「眼前に繰り広げられている」ロシア・ウクライナの出来事は、「ありえないこと」「あってはならないこと」として、我々を揺さぶり続けているのだ。
この現代の日本で、オリンピックの式典で「君が代」を歌っていた歌手が、一年もたたないうちに「花は何処へ行った」を熱唱すると、誰が想像しただろうか。ロシア・ウクライナの出来事は、はたして数十年後の次世代の人々に「ギャグ」と言われてよいようなものになり得るのだろうか。今、それらを見ているわれわれはどういう風に感じる(あるいは感じるべき)なのだろうか。
かつて、時事詠社会詠を得意とする道浦母都子に対して、エンターテインメントを得意とする笹公人が「そのまま新聞の見出しみたいだ」と、批判したことがあった。(文学であり詩歌である短歌としての質を問うているという意味で、決して社会批判が好ましくないとかそういう意味ではない。)同じように社会詠を多く作る年配の歌人黒住嘉輝が、若い歌人である工藤吉生から同じようなマイナスの意見を提示されて、<「新聞の見出し」と貶す評言あり見出しにも巧みと下手あるものを>と歌で返したという。(〈「塔」2014年7月号の黒住嘉輝さんの歌に応える〉「この短歌がおもしろいよブログ」工藤吉生)
私も、詩歌の本分はほんとうは違うのかもしれないと思いながらも、報道の見出しのような歌があってもいいじゃないか、と思うことがある。そもそもメディアに乗って報道される事象のほとんどは一旦フィルターにかけられたものであることが多いが、今はそれらの衝撃の強さの方がはるかに大きい。それ以上の何について、自分の立場で思うことができるのだろうか、と感じることがある。戦時中にどんな新聞見出しがあふれ、どんな歌があふれていたか。それらを思いながら、時勢に参加することがあったってよい。報道の内容をリツイートするかのように歌にして拡散する意思表示もそのことによる社会参画への欲求も、個人の承認欲求と同様(それらを同列のものとして扱ってよいかどうかは不明だが)、表現の動機として尊いものであるはずだ。もちろん、過去の事実を反省することがなければ同じ轍を踏むことになるから、歴史を学んだ有利な立場にある現代人たちはそのあたりを自分たちの未来に応用しなくてはならないし、それができないなら、報道見出しの歌は、とくに今みたいな時はやめておいた方がよいのかもしれない。プーチンだって、歴史を学んだ結果、誤った方向に応用してこういうことになったわけだから、この欲望には慎重になった方がよい。
新聞短歌や様々な歌誌には、少しずつ今回の戦争に関する歌が現れてきている。歌会などの場でも、議論の焦点になっていることと思うが、実のところ、憂鬱で仕方がない。桜が徐々に咲きつつある時期の今の時間の流れと短歌作品が展開しつつある状況とが重なって見えるのも、かつての戦争と桜の雰囲気(私の親の世代の空気なので、同時代人として知っているわけではないが)を追体験させられているかのようで薄気味悪い。私自身も何か歌を作ってしまうに違いないと思うし、これだけの事実を突きつけられているのだから、誰もが何らかの感想や思いを持ち、表現しようとするだろう。
嬉々として歌いあげる歌、何らかの関連を持たせて自身の問題を歌う歌、真剣な関心の有無は別として技巧的に詠嘆を寄せる歌、深刻な悲哀を感じて涙する歌、赤勝て白勝て的な遊びの歌、奇をてらって面白いことを言ってみる歌、表立って何も言わなくても事物に託した定型を形作ろうとする歌、様々な歌が出てくることだろう。
その中から歴史に残る「歌」が現れてくることを願うと同時に、何が言いたいのかわけがわからなくても幸せな雰囲気が漂うごく普通の、上手な日常の歌がまだまだ生まれ続けて市民権を得続けることを、心から願っている。
(2022年3月26日 雨の日にしるす)
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