「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評162回 ハワイ行きたい 大松 達知

2020-12-02 19:12:22 | 短歌時評

 時評ってなんだろうと思う。時評を書くたびに。
 かつて「コスモス」の時評を担当していたとき、「短歌作品を引用しない時評はダメだ!」と注意されたことがある。状況論だけを書いたときだった。良い歌を引用し紹介する、それが時評の役割だと言われたのを覚えている。しかし、実際にはどんな時評のあり方も良いわけで、この「詩客」の千葉聡さんの時評はとても特徴的で有意義でおもしろいと思う。(もちろん、千葉さんがさいきんのどんな歌集や作品をいいと思っているのか知りたいけれど。)

 さて、『言葉の誕生を科学する』(小川洋子・岡ノ谷一夫)は、タイトルの通り、言葉の発生を小動物を使って研究している岡ノ谷教授に小川が聞く本。小川洋子のさすがのインタビュー力が的確に研究者の引き出しを開いてゆく。「歌を学ぶ動物というのは鳥と人間とクジラだけなんです。」「天敵がいないと、強さを示すよりも、美しい意識を示す方向に行くんです。」などの記述があって示唆に富む。(単行本は2011年刊)

 その中に、岡ノ谷が「情報習慣病」という概念を言っている。
 人類史の中では、食物の足りない時代が圧倒的に長かった。だから、甘いものや油っぽいものがあればとりあえずたくさん食べておく習慣があった。その流れが食べ物の供給が保証されるようになった現在(の一部の国)でも続いている。それが生活習慣病につながった。そして、現在の情報伝達をとりまく状況はそれと似ていると言う。つまり、周囲の危険や食物獲得の情報が生死を分ける時代を経て、「今はやりとりすることが無制限にできるような機器ができてしまって、今度は必要以上のやりとりがなされるようになった。」と言うのだ。

 そして、現在の日本などでは、生きるために本当に伝えなくてはならない情報はほとんどなくなった。それでも、伝えたいという意図だけが一人歩きして、「伝えることなんかなくなっても、伝えたいという意図が残っているので、何もなくてもなんかとか伝えようとする」と言う。

 もちろん、発表媒体という容れ物がたっぷりとあるゆえに、量質転化のように内容の充実を見る側面もあるだろう。しかし、現代短歌の状況は岡ノ谷が指摘するような、「伝えたいという意図」だけが先行していて、ほんとうに伝えたいものが希薄になっている部分もあるかもしれない、と思った。

 また、岡ノ谷は、欧米の夫婦が「愛してるよ」などの言葉を常にかけ合うのは「儀式化」であると言う。「コミュニケーションっていうのは必ずしも内容を伝えているわけではない」「むしろ、「「コミュニケーションする意図自体」をコミュニケーションしている、ということなんです。」と述べる。挨拶や天気の話題を考えればわかることだ。
もちろんこれを短歌に当てはめようとするわけではない。が、もしかすると、短歌を作り短歌を読む行為の本質はこのような〈「コミュニケーションする意図自体」をコミュニケーションしている〉ことにあるのかもしれないと思い、少し怖くなったしだいだ。

(岡ノ谷はそのあとに「そこに内容が入ってきたところが人間のコミュニケーションのおもしろいところなんですけどもね。」と付けるのだが。)

さて、近刊歌集では、川野芽生(かわのめぐみ)『Lilith』、藤島秀憲『オナカシロコ』、北川あさひ『崖にて』が、それぞれ特徴的で好きだった。

 『Lilith』は、川野が2018年に歌壇賞を受賞した連作「Lilith」を含む。その連作の完成度と難解さと社会性を思い出し、身構えながら読みはじめた。その連作のような、ファンタスティックで(ファンタジックは和製英語)で難解な歌が多く、その世界観に読者(私)の理解が及ばない歌も多かった。しかし、丁寧に読み解けば、その奇想とも言える発想のスケールの大きさや妖しさに大いに引き付けられることにもなった。

  032  神々が錘をつけて下ろしくる木々よこの世のふかさを測る
  090  太陽より果汁のごときもの搾り春といふわが巨いなる右手めて
  098  野分とはいかなる神馬 贄として地上の花の苑を召し上ぐ
  106 くがといふくらき瘡蓋のを渡り傷を見に来ぬ海とふ傷を

(左端の数字はページ番号)

 これらの歌柄の大きさや神々・太陽というアイデアの登場は、「超域文化科学専攻」という作者の立場は関係するのだろう。(鶏が先か卵が先か。)追随しがたい世界観が眩しい。一首目には、〈どんなにかさびしい白い指先で置きたまいしか地球に富士を(佐藤弓生)〉を思った。人間だけでは解決できない地球規模の社会問題があるいま、これらの短歌が宗教性さえ帯びて、人を謙虚にするかもしれない。(もちろん、作品は作品として楽しめばいいのだが。)

  045  皮膚の薄さを告げて日傘の影のうちにとどまるときにどこも対岸
  054  はつなつは水位の下がるやうに痩せ鎖骨は凪のうちの鳥影
  057  わたくしをここで眠らせ心拍は先へさきへと歩む旅びと
  088  水飲めばみづのうちよりひと生れてわれとなりにき 水消えにけり
  126  立ちくらみをさまるまでをたちどまりわれは虚空に吹かれゐる草

 私が惹かれたもう一つの点は、作者自身の身体感覚だ。一首目の「対岸」は自分を取り囲む世界すべてを指すのだろうか。女性蔑視の旧弊を克服できないままの日本のイメージが芯にあるかもしれない。他の歌も苦しげな呼吸を思わせる。それらは、比喩だけの言葉遊びではなく、作者の身体と今のこの時代が交錯するところで発せられた火花のようにも思えた。
 作中主体うんぬんの議論はあるかもしれない。が、川野が屈強な身体を持たない(おそらくそうだろうと歌から判断する)という現実から生み出された歌を尊く思う。事実性が歌を強くする側面は(悲しいかな)あるのだ。

  033  真夜と云ひ真冬と云へりその闇の芯を見たりしものなきままに
  135  子守唄くりかへしくちずさむごとくあなたも擁(きしめる偏見を

 さらに挙げれば、こんな告発をする歌があることも魅力だ。一首目は、言葉の無反省で軽薄な使用を戒める感じがいい。二首目は、表面的には優しいお為ごかしな発言の虚をつくだろう。実景としては、「やっぱり赤ちゃんはかわいくていいわねえ。」なんていう(軽率な)発言だろうか。そこからでも敏感になれば、女性は子供を産むべきだという根強い偏見を見透かしてしまうのだろう。

 蛇足だが、上記のような超絶技巧の秀歌を読んでゆくと、

  139  離陸して雲へと入りゆきながららふそくの火のやうに揺れたり
  145  植物になるならなにに? ばらが好きだけど咲くのは苦しさうだな

 のような歌が素朴すぎるように思えてくる。実体があって十分にいい歌なのだけれど、刺激に慣れてしまうと言うのか、物足りない感じがする。だからと言って、謎に謎を重ねる歌だけが短歌を作り読む楽しみではないよなあ、とも思う。川野の今後の方向を楽しみに見守りたい。

 次に、藤島秀憲『オナカシロコ』。タイトルからして(野良猫に勝手につけた名前らしい)すっとぼけたような感じ。それが作者の味。大好きです。

 「ふらんす堂」ウェブサイトの、一日一首と散文というスタイルが初出。読みどころは歌とエッセイの拮抗具合にある。この年の藤島の場合は、散文は独立したエッセイの割合が強い。歌を説明しない良さがありつつ、もっと歌の背景を知りたいなあと思う場面もあったけれど。
 (歌集では2行折り返し・均等割つけになっている。それをこの稿のように横書きにすると、読む速度が上がる。もちろん藤島の歌はその「折り返しマジック」に依存するわけではないが。)
 エッセイのおもしろさは抜群。短歌はときに「ダメ人間告白比べ」になる。自分の過去をたんたんと飄々と告白する。自分を卑下している感じも自慢している感じもない。父を介護していた(これまでの歌集に描かれた)日々を時間を経て思い返し、亡き両親、ふるさと埼玉県と上尾市、妻との日々などをしっとりと作品化している。

 エッセイでは例えば、「今朝のゆで卵が完璧なまでにうつくしく剥けたので、記念写真を撮ろうとしていたら、手足が生えて逃げてしまった。(八月十三日(火))」なんて記述がある。笑わせながら泣かせる名手である。

  147この世へとプリンターより出て来たりぎゃあていぎゃあてい個人情報
  104  令和二十三年三月令和大首席卒業山本令和
  144  〈あや〉がボケ〈ふや〉が突っ込み〈あやふや〉がお笑いコンビなら楽しきものを
  205  妻とわれの記憶がすこし食い違い宗円寺どこ円宗寺どこ
  239  標本のごとくに眠るひとのあり終点に来てなおも標本
  292  花火へとむかう列には初恋のひとに似る人いるはずである

 のような、とぼけた味わいの歌があり、エッセイの愉快さと呼応するのがいい。一首目。般若心経のサビ(というのか?)の意味は、さあ行こう、みんなで行こう、だったか。個人情報が世に溢れ出る恐怖感を音写するようだ。二首目は、新元号を個人レベルから組織レベルでまで消費してゆくさまを想像して描く。これらは、〈263  ドーナツはどこから見てもドーナツと思う心を捨ててから 歌〉と詠む心意気から生まれるのだろう。三首目のようなノロケ(惚気)も晩婚の良さを臆せずに出しているのがいい。そうでいて、さらっと五首目のようなことも言ってしまうのも憎めない。

 その一方、真顔で人生を振り返る歌にも惹きつけられた。

  036  痛いよと父に言わせき介護する憎しみ少しずつ晴らすべく
  069  かの日より八年の経て失いぬ菓子パン二個で満ち足りる吾を
  152  どんぐりはいつか大きな木になると信じて父は部下で終わりき
  228  借財のごとくに壺をのこしたる父の痴呆の十三年間
  372  一本の道の荒野に通すごとおのれ責めいき責めて許しき

 その多くは、父親との介護の日々を思い、当時の複雑な心境をぽつぽつと硬軟とりまぜて描く歌だ。藤島は1960年生まれ、「心の花」の歌人。だからというわけでもないが、実体験や自分自身を濃厚に反映した歌が多くを占める。そのどれもが「生」の意識につながっている。ユーモラスな歌やエッセイとの落差がこれらの歌に濃い陰影を与えている。

 その他、近代短歌っぽいけれど、短歌のツボを掴んで離さない秀歌をあげたい。

  092  文鎮のちいさな影を部外秘の書類に置きぬ うららかな午後
  210  雷鳴をふたたび聞いて席をたつ 午後一番でする電話あり
  215  靴下の黒の片方探すごとわけのわからぬ悲しみが来る
  222  こちらへと鏡の中に招かれる銀の鋏を持ったおとこに
  259  はつ秋のポプラの影にわが影を仕舞いてバスの影を待つなり

 佐藤佐太郎ふうと言おうか。小さな風景の中のさらに小さなドラマと言おうか。日常の細部にも極上の詩が隠れていることを手品のように見せてくれる。そのどれもが生きている時間の切なさを感じさせるものだ。藤島秀憲の視線は生に向き、死に向き、いまのところ生への比重が高いことを喜ぶ。

 長くてすません。
 3冊目。北山あさひ『崖にて』も、藤島に近い、すっとぼけたような味わいがある。それゆえにその裏(いや表か)にある生きる悲哀をふかく味わせてくれる。結果として、自分をひとつのサンプルとして差し出しながら、現代を生きる女性の心を見せるようだ。その攻めの姿勢が最大の自己防衛なのかもしれない。かわいげがありそうで意外と図太くしたたか。極限まで言葉を削ぎ落として、それらを鎖のようにつないでゆく。そのリズムの良さに言葉以上に説得されてしまう感じがある。同じ「まひる野」の柳宣宏や山川藍とも呼応するようだ。

  184  だいこんのしみじみ煮えてゆく夜をゆたかに燃えてわが本能寺

 一番好きな歌。わが本能寺、ってなんやねん。信長の志がある自分が敵(社会)によって焼死させられてしまう夜なのか。と、意味を考えてはつまらない。厳かに歌い出された歌の内部に溢れるわけのわからなさ。それをそのまま受け取ってもやもやしながらそのパワーを受け取ればいいのだろう。

  013  湿地から漁村へ抜けてゆくバスの窓辺でわたしは演歌の女
  015  夕焼けて小さき鳥の帰りゆくあれは妹に貸した一万円
  031  陽気なるウールセーター死ぬまでに往復ビンタしてみたいのだが
  121  だれもいないタオル売り場に左手を埋める尼にはどうやってなる
  131  励ましてほしいと素直に言える人いいなちく天ぶっかけうどん

 純直な歌い出しに付き合っていると、下句で変化をくらう歌。心地よい浮遊感だ。相手を押しまくっていた力士に急に引き技を出されるような感じ。鮮やかな上手投げのような感じ。それはおそらく体内のリズム感の表出であり、言葉の上だけの技巧ではなさそうだ。「埋める/尼には」「いいな/ちく天」のキレはかなりシャープだ。その一方、内容的には、演歌の湿気、貸したまま戻らないお金、ビンタしたい鬱憤、仕事への憤懣などのマイナス感情が潜む。リズムの明るさと内容の暗さの間に仄暗い空気が漂うのか良い。

  035  「震度7!震度7!」と叫んでる桜田そんな声が出るのか
  037  低賃金に辞めた田村が釧路から電話レポートしていて泣ける
  130  怒鳴られて怒鳴り返してオンエアは紛うことなき昭和の仕事

  056  「北山さん医療資格ないんだ」と斜めに言われ「ねえよ」と思う
  057  あかね雲グラクソ・スミスクラインのクソの部分を力込めて読む
  174  「北川」と間違われても振り返るたいせつなのは「北」なのだから

  080  やたらと壺、それにいちいち手を触れてキタヤマサマは非正規職員

 仕事詠の臨場感も読み応えある。札幌のテレビ局で震災を体験した連作、医療事務をされていたときの歌。軽さと重さがせめぎ合い、感情がこぼれ出てくるところがいい。(二首組・四首組の変化もいい。)

  109 ニタイヌイ野原ヌプヌプリヌベ唱えたら何かをんでしまう気がする
  125  豚ロース塩麹焼き 縞ホッケ 茄子のグラタン 読んでいるだけ
  134  交差点 炎天 胸に抱きしめる毛蟹ですこし涼しいわたし
  151  灯心をこころにすっと立ててみる募金するとき投票するとき
  159  すずらんのように体を屈めつつふたつの乳房をまとめる朝は

 挙げてゆけばキリがない。笑った顔、泣いた顔、怒った顔。多面的な感情の豊かさがストレートに伝わってくる。きっと人間的魅力も大きな作者なのだろうとおもった。

 最後に、

  026  すはだかの特に乳房の滑稽よ氷を摑む〈俺〉の気持ちで
  059  午前二時の鏡の中の乳首二つもうやめるんだ ハワイ行きたい
  096  すずなりにはまなすの実は輝いてふと兆したる乳首の痒さ
  159  すずらんのように体を屈めつつふたつの乳房をまとめる朝は

 こんな、男性には詠めない歌も楽しんだ。どれも必然性のある乳房・乳首の使い方だと思った。ハワイに行きたい、ではない。ハワイ行きたい、なのだ。私もハワイ行きたい。

(2020.11)


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