一日に、全国で一体何首の短歌がつくられているのでしょうか?おそらく土日祝日のほうがその数は増えるのではないかと思いますが、千首?一万首?……いまグーグルで「短歌人口」と入力して検索してみたら、「五十万人」と出てきたので、あまり深追いすることはせず、だいたいそれくらいと目しておくことにして、一日に、その中の十人に一人が一首つくったとして、五万首。一日に五万首も生まれる(かもしれない)短歌の中のたった何首かせいぜい何十首かを、あれやこれやのプロセスを経て、たまたま私が拝読する、というのは、なんだかものすごいことかもしれなくて、めまいを通りこして吐き気すらもよおしそうなのだけど、ともかく、そんな天文学的な確率を経て、なにかしらのご縁があって、この1、2か月の間に私の手もとにやってきた短歌の載っている冊子四冊、『新鋭短歌シリーズ 文学フリマ参加記念冊子』、『あるところに、vol.5』、『福岡歌会(仮)アンソロジー Ⅲ』、『PIED PIPER』に寄せられている短歌から、一人の作者につき一首ずつ(きほん。もしかしたら複数)、私が良いと思ったものをとりあげてみますね。天文学的な確率に思いをはせつつ。まずは『新鋭短歌シリーズ 文学フリマ参加記念冊子』から。
この夜はひどくにごったたましいで一人ユッカの隣に眠る 天道なお
天道さんの七首は、ほかにも「額なでる西日に花のゆらぎありわっと詫びたき半生のこと」とか「樹のように黙りこくって半身にすんすんと白湯ゆき渡らせり」とか、植物を近しく感じているような気配があり、市川春子さんの漫画に出てくるみたいな、植物と一体化していくような身体性を感じました。人間は植物にこがれる動物なのかも。
産まれたというより落ちた子の皮膚はむらさき 命のおわりのような 田中ましろ
田中さんの「波と意思」と題された十三首は出産とその前後を描かれた連作のようですが、「強くいのちを思えば朝は美しくいのちまみれの街へ踏みだす」などの、こういった時期ならではと思わせる生命力への感応の歌も好ましいですが、先の歌や「関係者以外立ち入り禁止という通路の先で人は産まれる」といった歌に、人が生まれるときの、明るさだけでない、暗さのほうも突きつけられて、どきりとしました。
祖父も祖母も父も母もいない妹はもちろんいないわたしの新居 嶋田さくらこ
嶋田さんの「山の子」と題された十三首は、いまの歌や「山のない町は平たく大きくて声がどこにも届いてゆかない」などに見られるように、「山の子」が大人になって「山のない町」で生きる生きにくさが描かれている感じでせつないですが、同時に山の記憶、幼少期の記憶が、深いところで熱源となって、たとえ山のないところでも生きていけるのだ、といった強さも感じました。
山羊足の風船売りに手をひかれ昼の国では影絵のわたし 藤本玲未
藤本さんの七首は「ビスケット島」と題されていて、棹尾をかざる一首が「ポケットに海の代わりがあるらしい 集まれあつまれおやつにしよう」とあり、まど・みちおさんの歌(ポケットのなかにはビスケットが……というやつ)を踏襲されているのだと思うけれど、ほかにも「歪みとは何 健全な島にいて それは病と指さされ 何」という歌もあり、「健全な島」あるいは「ビスケット島」は叩けば脆く崩れてしまいそうな、私たちの島のことかもしれません。
ズッキーニたっぷり入れたラタトゥイユ煮込むあしたはたぶん死なない 田丸まひる
田丸さんの「last love letter」と題された連作、「短銃をいくつか日々に忍ばせてどうして息の根を止めなかったんだろう、きみの」とか、なかなか穏やかでなく、田丸さんの歌のなかでは「ズッキーニ」「シリカゲル」「リーバイス」というカタカナが、短銃のなかの銃弾のように、なにやら不穏な響きをたたえて耳に残ります。
ペリカンの飛来地にある木の橋にペリカンでない君を待ちおり 中畑智江
連作のタイトルにもなっているように「ペリカンではない君」なので、いくら待っても来てはくれないのかもしれません。ほかに「あの頃となってしまって輝きを増してしまった君の残像」「ああ君と行き違えるはわがひとり月のひかりを浴びしゆえかも」とあるので、やっぱり来ないのかも。うーん、せつないですね。
風船のひもが手のひらすりぬけるその感覚が圧倒的で 浅羽佐和子
この歌を読んで、色の赤い風船を思い浮かべるひとは多いのではないかと思うんですけど、昨年みた美術家フィオナ・タンの映像作品でも、赤い風船がモチーフになっていて、それは彼女が幼少期に見た映画『赤い風船』の記憶につながっているそうです。おなじ映画をもとにして日本の絵本作家のいわさきちひろさんも絵本にしているんですね。小津安二郎監督の『麦秋』にも、風船がひとつ、中空へ消えていくシーンがあって、白黒映画なのであの風船は何色かわからないですが、あれはおそらく戦死した息子を象徴していて、風船って、その手から離れたとき、どこかにんげんのたましいのようなものをひとに連想させるのかもしれません。
その夢に怒りをなだめる猫がゐた京王帝都「火薬庫前駅」 大西久美子
え、そんな駅あるの?と思って調べてみたら、あって、しかも私の家の最寄駅から一本でいける駅で、ちゃんと急行もとまるんですね。しかも、となりはダイダラ坊駅なんだ。
歩合制バイトのひとが今日もまた郵便受けに入れてくチラシ 法橋ひらく
法橋さんの「春」と題された連作、「アンニュイは春の季語かもしれないね染谷将太が老けていっても」という歌も素敵ですが、このチラシの一首もまたアンニュイで、「歩合制バイトのひと」もまた(染谷将太と変わらず)いずれ老けていくことを思うと、さらにもさらにもアンニュイ。
月蝕に悲鳴をあげるレコードの針であなたを傷つけたかった 中家菜津子
内田百原作、鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』みたいな怖さがありますね(サラサーテのレコードに紛れ込んだ謎の声……)。レコード>カセットテープ>CD>i-Podとどんどん怖さ(神秘性、といいかえてもよいですが、)を喪失していく感じで寂しい限りです。
いつまでもエッシャーの絵のかいだんをおりてくみたいにネクラな彼女 堀田季何
この「彼女」は、いつまでもエッシャーの絵のかいだんをのぼってくみたいなひとといっしょになるとうまくいくんじゃないでしょうか。
フイルムをたまに買ってた写真屋の跡地のモデルルームの跡地 岡野大嗣
森山直太朗の「どこもかしこも駐車場」という歌を思い出しました。「百年経ったら世界中たぶんほとんど駐車場」と歌われます。せつないですね。岡野さんの「カフェで観るライブのときに厨房で食器のこすれあう音がすき」もすきです。ビル・エヴァンズの「ワルツ・フォー・デビー」に食器のこすれあう音が入ってなかったら、あんな名盤になってないと思います。たぶん。そのカフェもやがては「跡地」に、あるいは駐車場になってしまうのでしょうか。
つづいて『あるところに、vol.5』から、
つい多く含んでしまうアクエリアスこれはひと泣きぶんのひと口 たえなかすず
これ、アクエリアスじゃなくてポカリスエットだとどうなるかな、と思ってポカリスエットに置き替えてよんでみると、なんかちがうんですよね。広告みたいになっちゃう。アクエリアスは「みずがめ座」とのことなので、それでどこか遠く神話と接続される感じがあるのかも。遠い神話の時代から、私たちはこのからだにかわらずに水を運んできたのですよね。
赦されて生まれてきたね 車窓から見えない場所にコスモスが咲く 空木アヅ
とすると、空木さんのこの歌も「コスモス」の一語で、神話的、宇宙的なひろがりを感じさせます。「赦されて生まれてきたね」……とても優しい歌と思います。
養殖の光を受けて伸び伸びと日本語だけで短歌を詠むよ しろいろ
しろいろさんの「HAPPY BIRTHDAY」と題された連作は、ほかにも「除染した区域の薔薇も薔薇だからぼくらは何を殴ればいいの」「ぼくだけのあかるい国であの日以来ゴミから象牙をくみたてている」など、私たちのいまいる世界、現状にたいする怒りや焦燥感のようなものが、ひりひりと伝わってきます。
「あたたかくなったら、花見」拭い取る床にこぼして乾かない水 佐藤真夏
だから、ほおっておいても乾きはしない、こぼした水(こぼしたのは自分かもしれないし他の誰かかもしれない)を拭い取ってゆかなければならないのでしょう私たちは、たとえば「あたたかくなったら、花見」とか、とおく夢みるようにつぶやきながら。
つづいて『福岡歌会(仮)アンソロジーⅢ』から、
汝には成れずついには一人立つ 我は汝にあらず想うのみ 岸田信一
「汝には成れず」「我は汝にあらず」と、当たり前といえば当たり前のことが書かれているのですが、あるいはそれゆえに、ぐっと迫ってくるものがあります。
飲ませたね 喉を過ぎたら甘くなるミルクに目薬入れて寝たふり 桜葉明美
これ、オマジナイか何かでしょうか?「飲ませたね」が怖くて、どきっとしました。
天国の待合室で……から始まる、心理テストを聞く、夢、うつつ Seia
是枝監督の『ワンダフルライフ』みたいな話かと思ったら、心理テストでした。つづきが気になってあれこれ想像しているうちに、私がこの歌にテストされてる気がしてきました。
人混みに流されていく苦しみを叫んだ(部屋を出たこともなく) 水本まや
水本さんのプロフィールを見ると「お布団在住。たい焼きのバリになりたい。」とあり、「およげたいやきくん」から四十年経って、われわれはもはや「たい焼き」本体ではなく「バリ」のほうに同一化するしかないところまできてしまったのであります……ああ。ところで、神田神保町に「バリ」がでかくて有名なたいやき屋さんがあって、なかなかおいしいのだけど、近所で知り合いだったら差し入れしてあげたいところなのですが。
葉桜の真下で揺れるカマキリの刃(やいば)に惹かれおずおずと指 麦野結香
からはじまる麦野さんの「初夏の蟷螂」四首はどれもカマキリについて書かれていて、はじめ「おずおずと指」を差し出していたのですが、三首目には「はつなつの風も分からずビルの中斧を隠して今を戦う」と、いつのまにか詠み手自身がカマキリになってしまっている感じで、頑張れカマキリ、と応援したくなりました。
噴き出してくるものに名を生きものの音楽がある夏の始まり 生田亜々子
音楽というものの始原にまで思いを馳せるようなスケールの大きさ、ゆたかな生命感を感じます。
ふるさとを離れなければ「ふるさと」と呼べぬ気がして雨のなかゐる 漆原涼
漆原さんのプロフィールを見ると、「福岡生まれ、福岡育ち。プルーストの忌日に生まれました。この街の海と音楽がとても好きです。」とあります。詩人の西脇順三郎はプルーストの『失われた時を求めて』に対抗して『失われた時』という詩集を出していて、何千行にもおよぶ大長篇詩ですが、それはふるさとのほうへと、生まれた川へとさかのぼっていくような詩集です。西脇は実際には亡くなるひと月ほど前に、ふるさとに帰郷しました。
雨ちかき風にふくらむカーテンのよう縦書きで書かれたる詩は 白水麻衣
とすると、横書きで書かれたる詩はなにのようでしょうか?……とか考えてしまいます。雨ざらしでズブ濡れの座布団……とか?(まさか。)
あああ恋もできずに終わる一日の笑っていいとも増刊号よ 竹中優子
「笑っていいとも増刊号」ももう終わってしまったので、ますます、やるせないです。あああ、です。私は「笑っていいとも」が終わって以来、ほとんど笑ってないです。
宝くじ売る人が出る小窓から今日は獏がどんどん出てくる 夏野雨
いっしゅん考えて、あ、夢を食べちゃったのね、と思ったけれど、もしかしたらそうじゃなくて、獏は詩人の山之口獏(の幽霊)のことで、なにせ彼はとてもお金に苦労したそうなので……、だったら怖いですよね。夏野さんの「バースデーケーキに順繰り立ててゆくいつか吹消すためのロウソク」も、ロウソクに命のさみしさが感じられて好きです。
祖父の椅子が定位置になった老猫の鳴き声 テレビの音量を上げる 平地智
耳がとおくなった老猫さんが「聴こえんのう……」と言ったので、音量を上げてあげたのでしょうか。お祖父さまと老猫さんへの愛情が感じられてほっこりしました。
いろはすを捻り潰して「えいえん」はたぶん人魚の継ぎ目のにおい 南葦太
たぶんみなさんそうだと思うけど、人魚の継ぎ目のにおいのことなんて考えたことないですよね。こんなこと書かれたら気になっちゃうじゃないですか。でも人魚になんてなかなかお目にかかれないし。あ、ディズニーシーにたしか一匹(一人?)居たけど、容易には嗅がせてくれなさそうだし。入園料も上がったし。
この風が直(ぢき)にぬるんで夏が来るいやだなあ墓はもうないんだし 山下翔
たしかに、私のお墓の前で泣かないで、とかいう歌も流行りましたけど、ないとないで、いやだなあ、ですよね。
諦めてこなければ君は生きてなどいられなかった 地球儀にひび 吉村桃香
たぶん、それが生きのびるということであり大人になるということなんですよね。ひびだらけの地球儀。
手をはなす 貴方はベストアルバムの真ん中らへんに入れておきます ろくもじ
これって光栄なことなんですよね、きっと……というのは、私はそもそも「ベストアルバム」ってものが好きじゃなくて。シングル盤の3曲目とかのほうが居心地よさそうです。
木蓮に水がめぐれば二番目の妻であることうすまってゆき 鯨井可菜子
宮澤賢治的というか、思想や感覚が、樹木などの自然とつながって、呼応していく感じが、すっと腑に落ちる、とてもうつくしい詩と思います。
新鋭特集もはや呼ばれず引き出しの奥の小箱のヘッドロココよ 黒瀬珂瀾
たしかに黒瀬さん、ヘッドロココっぽい感じがします(イメージ、ですが)。スーパーゼウスでも魔肖ネロでもないですものね。
さいごに『PIED PIPER』から、
受難せしイエスのかばね眠るとふ千本桜の花霞はも 桜井夕也
梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」とか書きましたが、ここではその屍体がイエスのものだという、しかも千本もある桜のどれかだというので、これじゃもう、おちおちお花見などしていられないじゃないですか。突然むくりと復活するかもしれないし。
禿頭の男にぢつと指さされをり 新宿駅十五番線 主水透
これまた、かなり怖いです。なんなんですか、この男は。こんなの読んだら十五番線近寄れないじゃないですか。これこそ、「山手線事件」じゃないですか。
ハロー天使、ハロー原宿、新しく仲間になった椅子を祝おう 山修平
そんなわけでとっとと十四番線から山手線にのって原宿へ。よかった。この歌は怖くないですね。天使だものね。いや、まてよ、この椅子、江戸川乱歩の人間椅子みたいな椅子じゃないですよね? さっきから怖いのがつづいてるから、びくびくなのです。(というか、ほんとは、みなさまの短歌に好き勝手なコメントを書いてしまって、あとでどなたかに叱られやしないかと、びくびくなのです。)
この夜はひどくにごったたましいで一人ユッカの隣に眠る 天道なお
天道さんの七首は、ほかにも「額なでる西日に花のゆらぎありわっと詫びたき半生のこと」とか「樹のように黙りこくって半身にすんすんと白湯ゆき渡らせり」とか、植物を近しく感じているような気配があり、市川春子さんの漫画に出てくるみたいな、植物と一体化していくような身体性を感じました。人間は植物にこがれる動物なのかも。
産まれたというより落ちた子の皮膚はむらさき 命のおわりのような 田中ましろ
田中さんの「波と意思」と題された十三首は出産とその前後を描かれた連作のようですが、「強くいのちを思えば朝は美しくいのちまみれの街へ踏みだす」などの、こういった時期ならではと思わせる生命力への感応の歌も好ましいですが、先の歌や「関係者以外立ち入り禁止という通路の先で人は産まれる」といった歌に、人が生まれるときの、明るさだけでない、暗さのほうも突きつけられて、どきりとしました。
祖父も祖母も父も母もいない妹はもちろんいないわたしの新居 嶋田さくらこ
嶋田さんの「山の子」と題された十三首は、いまの歌や「山のない町は平たく大きくて声がどこにも届いてゆかない」などに見られるように、「山の子」が大人になって「山のない町」で生きる生きにくさが描かれている感じでせつないですが、同時に山の記憶、幼少期の記憶が、深いところで熱源となって、たとえ山のないところでも生きていけるのだ、といった強さも感じました。
山羊足の風船売りに手をひかれ昼の国では影絵のわたし 藤本玲未
藤本さんの七首は「ビスケット島」と題されていて、棹尾をかざる一首が「ポケットに海の代わりがあるらしい 集まれあつまれおやつにしよう」とあり、まど・みちおさんの歌(ポケットのなかにはビスケットが……というやつ)を踏襲されているのだと思うけれど、ほかにも「歪みとは何 健全な島にいて それは病と指さされ 何」という歌もあり、「健全な島」あるいは「ビスケット島」は叩けば脆く崩れてしまいそうな、私たちの島のことかもしれません。
ズッキーニたっぷり入れたラタトゥイユ煮込むあしたはたぶん死なない 田丸まひる
田丸さんの「last love letter」と題された連作、「短銃をいくつか日々に忍ばせてどうして息の根を止めなかったんだろう、きみの」とか、なかなか穏やかでなく、田丸さんの歌のなかでは「ズッキーニ」「シリカゲル」「リーバイス」というカタカナが、短銃のなかの銃弾のように、なにやら不穏な響きをたたえて耳に残ります。
ペリカンの飛来地にある木の橋にペリカンでない君を待ちおり 中畑智江
連作のタイトルにもなっているように「ペリカンではない君」なので、いくら待っても来てはくれないのかもしれません。ほかに「あの頃となってしまって輝きを増してしまった君の残像」「ああ君と行き違えるはわがひとり月のひかりを浴びしゆえかも」とあるので、やっぱり来ないのかも。うーん、せつないですね。
風船のひもが手のひらすりぬけるその感覚が圧倒的で 浅羽佐和子
この歌を読んで、色の赤い風船を思い浮かべるひとは多いのではないかと思うんですけど、昨年みた美術家フィオナ・タンの映像作品でも、赤い風船がモチーフになっていて、それは彼女が幼少期に見た映画『赤い風船』の記憶につながっているそうです。おなじ映画をもとにして日本の絵本作家のいわさきちひろさんも絵本にしているんですね。小津安二郎監督の『麦秋』にも、風船がひとつ、中空へ消えていくシーンがあって、白黒映画なのであの風船は何色かわからないですが、あれはおそらく戦死した息子を象徴していて、風船って、その手から離れたとき、どこかにんげんのたましいのようなものをひとに連想させるのかもしれません。
その夢に怒りをなだめる猫がゐた京王帝都「火薬庫前駅」 大西久美子
え、そんな駅あるの?と思って調べてみたら、あって、しかも私の家の最寄駅から一本でいける駅で、ちゃんと急行もとまるんですね。しかも、となりはダイダラ坊駅なんだ。
歩合制バイトのひとが今日もまた郵便受けに入れてくチラシ 法橋ひらく
法橋さんの「春」と題された連作、「アンニュイは春の季語かもしれないね染谷将太が老けていっても」という歌も素敵ですが、このチラシの一首もまたアンニュイで、「歩合制バイトのひと」もまた(染谷将太と変わらず)いずれ老けていくことを思うと、さらにもさらにもアンニュイ。
月蝕に悲鳴をあげるレコードの針であなたを傷つけたかった 中家菜津子
内田百原作、鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』みたいな怖さがありますね(サラサーテのレコードに紛れ込んだ謎の声……)。レコード>カセットテープ>CD>i-Podとどんどん怖さ(神秘性、といいかえてもよいですが、)を喪失していく感じで寂しい限りです。
いつまでもエッシャーの絵のかいだんをおりてくみたいにネクラな彼女 堀田季何
この「彼女」は、いつまでもエッシャーの絵のかいだんをのぼってくみたいなひとといっしょになるとうまくいくんじゃないでしょうか。
フイルムをたまに買ってた写真屋の跡地のモデルルームの跡地 岡野大嗣
森山直太朗の「どこもかしこも駐車場」という歌を思い出しました。「百年経ったら世界中たぶんほとんど駐車場」と歌われます。せつないですね。岡野さんの「カフェで観るライブのときに厨房で食器のこすれあう音がすき」もすきです。ビル・エヴァンズの「ワルツ・フォー・デビー」に食器のこすれあう音が入ってなかったら、あんな名盤になってないと思います。たぶん。そのカフェもやがては「跡地」に、あるいは駐車場になってしまうのでしょうか。
つづいて『あるところに、vol.5』から、
つい多く含んでしまうアクエリアスこれはひと泣きぶんのひと口 たえなかすず
これ、アクエリアスじゃなくてポカリスエットだとどうなるかな、と思ってポカリスエットに置き替えてよんでみると、なんかちがうんですよね。広告みたいになっちゃう。アクエリアスは「みずがめ座」とのことなので、それでどこか遠く神話と接続される感じがあるのかも。遠い神話の時代から、私たちはこのからだにかわらずに水を運んできたのですよね。
赦されて生まれてきたね 車窓から見えない場所にコスモスが咲く 空木アヅ
とすると、空木さんのこの歌も「コスモス」の一語で、神話的、宇宙的なひろがりを感じさせます。「赦されて生まれてきたね」……とても優しい歌と思います。
養殖の光を受けて伸び伸びと日本語だけで短歌を詠むよ しろいろ
しろいろさんの「HAPPY BIRTHDAY」と題された連作は、ほかにも「除染した区域の薔薇も薔薇だからぼくらは何を殴ればいいの」「ぼくだけのあかるい国であの日以来ゴミから象牙をくみたてている」など、私たちのいまいる世界、現状にたいする怒りや焦燥感のようなものが、ひりひりと伝わってきます。
「あたたかくなったら、花見」拭い取る床にこぼして乾かない水 佐藤真夏
だから、ほおっておいても乾きはしない、こぼした水(こぼしたのは自分かもしれないし他の誰かかもしれない)を拭い取ってゆかなければならないのでしょう私たちは、たとえば「あたたかくなったら、花見」とか、とおく夢みるようにつぶやきながら。
つづいて『福岡歌会(仮)アンソロジーⅢ』から、
汝には成れずついには一人立つ 我は汝にあらず想うのみ 岸田信一
「汝には成れず」「我は汝にあらず」と、当たり前といえば当たり前のことが書かれているのですが、あるいはそれゆえに、ぐっと迫ってくるものがあります。
飲ませたね 喉を過ぎたら甘くなるミルクに目薬入れて寝たふり 桜葉明美
これ、オマジナイか何かでしょうか?「飲ませたね」が怖くて、どきっとしました。
天国の待合室で……から始まる、心理テストを聞く、夢、うつつ Seia
是枝監督の『ワンダフルライフ』みたいな話かと思ったら、心理テストでした。つづきが気になってあれこれ想像しているうちに、私がこの歌にテストされてる気がしてきました。
人混みに流されていく苦しみを叫んだ(部屋を出たこともなく) 水本まや
水本さんのプロフィールを見ると「お布団在住。たい焼きのバリになりたい。」とあり、「およげたいやきくん」から四十年経って、われわれはもはや「たい焼き」本体ではなく「バリ」のほうに同一化するしかないところまできてしまったのであります……ああ。ところで、神田神保町に「バリ」がでかくて有名なたいやき屋さんがあって、なかなかおいしいのだけど、近所で知り合いだったら差し入れしてあげたいところなのですが。
葉桜の真下で揺れるカマキリの刃(やいば)に惹かれおずおずと指 麦野結香
からはじまる麦野さんの「初夏の蟷螂」四首はどれもカマキリについて書かれていて、はじめ「おずおずと指」を差し出していたのですが、三首目には「はつなつの風も分からずビルの中斧を隠して今を戦う」と、いつのまにか詠み手自身がカマキリになってしまっている感じで、頑張れカマキリ、と応援したくなりました。
噴き出してくるものに名を生きものの音楽がある夏の始まり 生田亜々子
音楽というものの始原にまで思いを馳せるようなスケールの大きさ、ゆたかな生命感を感じます。
ふるさとを離れなければ「ふるさと」と呼べぬ気がして雨のなかゐる 漆原涼
漆原さんのプロフィールを見ると、「福岡生まれ、福岡育ち。プルーストの忌日に生まれました。この街の海と音楽がとても好きです。」とあります。詩人の西脇順三郎はプルーストの『失われた時を求めて』に対抗して『失われた時』という詩集を出していて、何千行にもおよぶ大長篇詩ですが、それはふるさとのほうへと、生まれた川へとさかのぼっていくような詩集です。西脇は実際には亡くなるひと月ほど前に、ふるさとに帰郷しました。
雨ちかき風にふくらむカーテンのよう縦書きで書かれたる詩は 白水麻衣
とすると、横書きで書かれたる詩はなにのようでしょうか?……とか考えてしまいます。雨ざらしでズブ濡れの座布団……とか?(まさか。)
あああ恋もできずに終わる一日の笑っていいとも増刊号よ 竹中優子
「笑っていいとも増刊号」ももう終わってしまったので、ますます、やるせないです。あああ、です。私は「笑っていいとも」が終わって以来、ほとんど笑ってないです。
宝くじ売る人が出る小窓から今日は獏がどんどん出てくる 夏野雨
いっしゅん考えて、あ、夢を食べちゃったのね、と思ったけれど、もしかしたらそうじゃなくて、獏は詩人の山之口獏(の幽霊)のことで、なにせ彼はとてもお金に苦労したそうなので……、だったら怖いですよね。夏野さんの「バースデーケーキに順繰り立ててゆくいつか吹消すためのロウソク」も、ロウソクに命のさみしさが感じられて好きです。
祖父の椅子が定位置になった老猫の鳴き声 テレビの音量を上げる 平地智
耳がとおくなった老猫さんが「聴こえんのう……」と言ったので、音量を上げてあげたのでしょうか。お祖父さまと老猫さんへの愛情が感じられてほっこりしました。
いろはすを捻り潰して「えいえん」はたぶん人魚の継ぎ目のにおい 南葦太
たぶんみなさんそうだと思うけど、人魚の継ぎ目のにおいのことなんて考えたことないですよね。こんなこと書かれたら気になっちゃうじゃないですか。でも人魚になんてなかなかお目にかかれないし。あ、ディズニーシーにたしか一匹(一人?)居たけど、容易には嗅がせてくれなさそうだし。入園料も上がったし。
この風が直(ぢき)にぬるんで夏が来るいやだなあ墓はもうないんだし 山下翔
たしかに、私のお墓の前で泣かないで、とかいう歌も流行りましたけど、ないとないで、いやだなあ、ですよね。
諦めてこなければ君は生きてなどいられなかった 地球儀にひび 吉村桃香
たぶん、それが生きのびるということであり大人になるということなんですよね。ひびだらけの地球儀。
手をはなす 貴方はベストアルバムの真ん中らへんに入れておきます ろくもじ
これって光栄なことなんですよね、きっと……というのは、私はそもそも「ベストアルバム」ってものが好きじゃなくて。シングル盤の3曲目とかのほうが居心地よさそうです。
木蓮に水がめぐれば二番目の妻であることうすまってゆき 鯨井可菜子
宮澤賢治的というか、思想や感覚が、樹木などの自然とつながって、呼応していく感じが、すっと腑に落ちる、とてもうつくしい詩と思います。
新鋭特集もはや呼ばれず引き出しの奥の小箱のヘッドロココよ 黒瀬珂瀾
たしかに黒瀬さん、ヘッドロココっぽい感じがします(イメージ、ですが)。スーパーゼウスでも魔肖ネロでもないですものね。
さいごに『PIED PIPER』から、
受難せしイエスのかばね眠るとふ千本桜の花霞はも 桜井夕也
梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」とか書きましたが、ここではその屍体がイエスのものだという、しかも千本もある桜のどれかだというので、これじゃもう、おちおちお花見などしていられないじゃないですか。突然むくりと復活するかもしれないし。
禿頭の男にぢつと指さされをり 新宿駅十五番線 主水透
これまた、かなり怖いです。なんなんですか、この男は。こんなの読んだら十五番線近寄れないじゃないですか。これこそ、「山手線事件」じゃないですか。
ハロー天使、ハロー原宿、新しく仲間になった椅子を祝おう 山修平
そんなわけでとっとと十四番線から山手線にのって原宿へ。よかった。この歌は怖くないですね。天使だものね。いや、まてよ、この椅子、江戸川乱歩の人間椅子みたいな椅子じゃないですよね? さっきから怖いのがつづいてるから、びくびくなのです。(というか、ほんとは、みなさまの短歌に好き勝手なコメントを書いてしまって、あとでどなたかに叱られやしないかと、びくびくなのです。)
冊子、手に取っていただき、本当にありがとうございます。カニエさんからご感想をいただき、とても嬉しいです!
えっと、気付いた誤記について。天「道」なおさんです。あと、僕の歌は「新鋭特集」です。
「ヘッドロココ」根強い人気で、いまプレミア価格が付いているんですね。「引き出しの奥の小箱」に眠らせておくには勿体ないです…!