わたしは詩の読者としては劣等生かもしれない。中学のころ読んだ詩集は『月下の一群』だけ。学生の頃は、それにギンズバーグと西脇順三郎が加わった。ひどく少食だし、ひどく偏食だ。しかもそれ以降、詩集を読まないままに年月が過ぎた。気がつけば老境である。ただ、ある年齢を伴わなければ出会えない詩もあるのだなあと、近頃思うようになった。橡木弘『鱈景』に出会ったからである。
それ以前にも、いくつかの誌上で橡木の作品を目にはしていたけれど少しも理解できなかった。柔な抒情を寄せつけない、あまりに硬質な批評性がわたしから橡木弘『鱈景』を遠ざけていた。それなのに、ある日突然わたしの耳に言葉が届いた。朗読されることによって、その詩の面白さと批評性が明かされる詩もあるということを初めて識った。何しろ心地よい東北弁の音感とリズム。そのおかしみは上質で思わずくすり。
ところで、『鱈景』は装丁自体が作品でもある。土俗なのに知的でスタイリッシュ、深層部には哄笑も憤怒もありながらどこまでも抑制されストイック。藤富保男が栞に書いていたように、まさに文字打ちの語法なのだ。橡木は亡くなる数年前、パリで開催された「ヴィジアル・ポエジィ展」にも出品していた。ご存知の方もいるだろうが(わたしは迂闊にも長い間気づかなかった)、橡木弘とは注射針を撒き散らしたアッサンブラージュや「釘打ち圖」シリーズで知られた現代美術家、村上善男の別名である。
詩人は2006年に亡くなるまで5冊の詩集を上梓した。どれも素晴らしいけれど村上善男と橡木弘が拮抗するがごとくに立ち上ってくる詩集は『鱈景』(1996年)だと思う。収録されている9篇の作品のうち8篇が〈彼岸之内〉と題されている。最後の1篇の傍題だけが〈再録〉であり、文字通り『林檎蜂起』(1986年)からの再録「巡禮」なのだ。
つまり8篇は此岸ではなく彼岸のことであり、最後の一篇のみが津軽八十八所霊場を巡礼し「六カ所村七鞍平に陽が落ちる」と結ばれるこの世の物語だ。橡木の反骨の姿勢には、いつもユーモアと抑制がある。六カ所とは核燃料再処理施設のある場所だが、「巡礼」の最後に添えられた反歌の、そのおかしみにひそむ反骨の伊達っぷりはどうだ。
見落としのサイン・プレーを諫めらる
サロメチールの匂う義経
おわりに詩集と同名の「鱈景」を紹介したい。「一九九四年十二月青森県下北半島佐井村瀧沖で捕まえた真鱈を八戸水産研究所で調べたところ」と新聞記事のように始まる三つのスタンザからなる「鱈景」の最終連。何が虚か実か判然としないまま帰着地は雪の津軽。
やがて都市再開発の名の下に失われた風景が浮上する。
鉤かざす男 路上に鱈 恐らく真鱈
津軽雪降り鱈ひたすら鱈鱈喰って鱈一条の縄を鱈口に通し雪
上を滑べれば鱈一条鱈血染めの鱈滑べって鱈血ツツツツーと引
けば鱈ただ引け鱈鱈鱈とばかりに引けば鱈塩引け鱈真鱈に鱈か
ざす鱈ぐさり鱈鱈ひたすら津軽は真鱈です
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