雪、といえば、まず思い浮かべる詩――三好達治の詩《太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。》(「雪」)。雪の降り積もる民家の群落――屋根の下で眠る(昔話に登場するありふれた名前)太郎、次郎。日本語のリズムとリフレインが冷たい雪の世界と同時に家の中の温もりをも感じさせ、懐かしく響きます。熱中症の危機の叫ばれている今は厳しい暑さの中ですが、この詩をおまじないのように呟くと、目の前にしんしんと無限の静けさがひろがります。
《雪がふると子守唄がきこえる》ではじまるのが、室生犀星の「子守唄」――この作品、金沢で生まれた犀星の生い立ちとつよく結ばれています。《母というものを子供のときにしらないわたしに/そういう唄の記憶があろうとは思えない》冷たく寒い雪国の、音のない、色彩のない世界に育った詩人だからこそ聴くことができた歌なのかもしれません。犀星の父・小畠弥左衛門吉種は加賀藩の足軽組頭。犀星は実の母の乳を飲むことなく、声を聴くこともなく育った。
中原中也は雪が好きですね。傑作がたくさんあります。雪が地上のすべての醜いものを隠し、あるいは自分の汚れたこころをも洗い流してくれるからでしょうか。「生い立ちの歌」という詩があります。Ⅰ章では、ライフサイクル(神童といわれた幼年時、父に反発した少年時から二十四歳まで)を雪に重ねて、《私の上に降る雪は》のフレーズの繰り返しの中――雪が、真綿、霙、霰、雹、吹雪、そしてⅡ章の《いとしめやかに》なるまでを歌っています。読者もまた中也の生涯と重ねて読んでしまう――中学を落第し京都へ、そして女優の卵・長谷川泰子と同棲、親友・小林秀雄のもとへ泰子が去り、友人・富永太郎の死……と。結局、Ⅱ章の《いとねんごろに感謝して、神様に/長生したいと祈りました》という願いは叶えられませんでした。
中也は芝居の紙吹雪のように雪を効果的な小道具に使っていますが、雪には回想、ノスタルジア、そしてまた個人をも超えた――民話や子守唄までをも呼び覚ます魔力があるようです。
花巻に生まれた宮沢賢治の童話や詩にもたくさん雪が降っています。「雪渡り」には、子どものころ、朝めざめて窓のむこうが目に沁みるような雪がひろがっていた感動が蘇ってきます。《こんな面白い日が、またとあるでせうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄でも行けるのです。平らなことはまるで一枚の板です。そしてそれが沢山の小さな小さな鏡のやうにキラキラキラキラ光るのです》。まさに雪は、一瞬にして見なれた世界を別の世界に変えてしまう魔法。読者もまた四郎とかん子のように《堅雪かんこ、凍み雪しんこ》と、雪沓をはいてキックキックキック、と野原を歩きたくなりますね。
賢治の作品に降るたくさんの雪はみな、からだで感じられます。「屈折率」で、《七つ森のこつちのひとつが/水の中よりもつと明るく/そしてたいへん巨きいのに》作者はあえて《でこぼこの凍つたみちをふみ/このでこぼこの雪をふみ》《陰気な郵便脚夫のやうに》急いでいます。《向ふの縮れた亜鉛の雲》にむかって。この詩、(序詩をのぞいて)『春と修羅』の一番はじめの作品です。なにか逆境にあらがって真っ白な紙の上を歩き出す、そんな決意が感じられます。「書く」ということと「歩く」呼吸とが一体になっている。この詩集、一九二三年、賢治が二十七歳のときに出版。現在の花巻農業高校の教師として生活が安定し、創作力も充実していた。数年後、二十九歳で農学校を退職、『羅須地人協会』をつくり農民に無料で農業に必要な科学知識(肥料のことなど)や芸術を教えます。
そして、つぎの作品「くらかけの雪」は《たよりになるのは/くらかけつづきの雪ばかり》で始まっています。鞍掛山は、岩手山のわきの馬の背に似たちいさな山ですが、古い地層を示すこの山に賢治は祈るような気持ちを持って見ていました。詩のおわりに《(ひとつの古風な信仰です)》と書いていますね。実際の「雪」は、そこに暮らす人々にとっては暗く陰惨なものですが、先に紹介した童話「雪渡り」や、賢治二十六歳のとき、最愛の妹に宛てた手紙のような有名な詩「永訣の朝」では、死の床で熱であえいでいる妹・とし子が《(あめゆじゆとてちてけんじや)》(雨雪とってきてください)と《わたくし》にたのむ。《蒼鉛いろの暗い雲から》落ちてくる霙が、透明な《兜卒の天の食》に変わる。妹に対するひたむきな愛と祈りの深さが、悲しいまでに透明な美しさに結晶しています。
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