『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(5)

2024-06-13 15:16:47 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(5)



◎第13パラグラフ(協業による結合労働日の独自な生産力は、如何なる事情のもとであろうと、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力である)

【13】〈(イ)個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べれば、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果の生産のために必要な労働時間を減少させる。(ロ)与えられた場合に結合労働日がこの高められた生産力を受け取るのは、それが労働の機械的潜勢力を高めるからであろうと、労働の空間的作用範囲を拡大するからであろうと、生産規模に比べて空間的生産場面を狭めるからであろうと、決定的な瞬間に多くの労働をわずかな時間に流動させるからであろうと、個々人の競争心を刺激して活力を緊張させるからであろうと、多くの人々の同種の作業に連続性と多面性とを押印するからであろうと、いろいろな作業を同時に行なうからであろうと、生産手段を共同使用によって節約するからであろうと、個々人の労働に社会的平均労働の性格を与えるからであろうと、どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。(ハ)この生産力は協業そのものから生ずる。(ニ)他人との計画的な協働のなかでは、労働者は彼の個体的な限界を脱け出て彼の種属能力を発揮するのである(19)。〉(全集第23a巻432頁)

  (イ) 個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べますと、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果の生産のために必要な労働時間を減少させることができます。

 このパラグラフはそれまで検討してきた労働過程における「協業」の一つのまとめになっているように思えます。この部分は初版やフランス語版の方がより簡潔で分かりやすく書かれているように思えますので、初版を紹介しておきましょう。

  〈結合労働日は、これと同量である個々別々の個別的労働日の総和と比べれば、いっそう多量の使用価値を生産し、したがって、一定の有用効果を生産するために必要な労働時間を減少させる。〉(江夏訳374頁)

    要するに協業によって結合された労働は、その量としては同じである個々別々の労働の総和に比べますと、生産する使用価値量は大きくなります(もちろん価値量としては同じですが)。だから一定の使用価値量を生産するに必要な労働時間を減少させるということです。つまりそれは生産力を高くするということにほかなりません。

  (ロ)(ハ) 与えられた場合に結合労働日がこの高められた生産力を受け取るのは、それが労働の機械的潜勢力を高めるからでしょうと、労働の空間的作用範囲を拡大するからでしょうと、生産規模に比べて空間的生産場面を狭めるからでしょうと、決定的な瞬間に多くの労働をわずかな時間に流動させるからでしょうと、個々人の競争心を刺激して活力を緊張させるからでしょうと、多くの人々の同種の作業に連続性と多面性とを押印するからでしょうと、いろいろな作業を同時に行なうからでしょうと、生産手段を共同使用によって節約するからでしょうと、個々人の労働に社会的平均労働の性格を与えるからでしょうと、どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのです。この生産力は協業そのものから生ずるのです。

    こうした協業による結合労働日が高い生産力を受け取ることか出来ますのは、①それが労働の機械的な潜勢力を高めるからでしょうと、②労働の空間的な作用範囲を拡大するからでしょうと、あるいは生産規模に比べて空間的な生産範囲を狭めるからでしょうと、③決定的な瞬間に多くの労働をわずかな時間に流動させるからでしょうと、④個々人の競争心を刺激して活力を緊張させるからでしょうと、⑤多くの人々の同種の作業に連続性と多面性とを押印するからでしょうと、⑥いろいろな作業を同時に行うからでしょうと、⑦生産手段を共同使用によって節約するからでしょうと、⑧個々人の労働に社会的平均的な性格を与えるからでしょうと、いずれにしましても、こうした結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのです。これらの生産力は協業から生じています。
    ここでは協業が生産力を高めるさまざまな契機が羅列されていますが、それに今番号を付しました。これらはこれまでに述べられてきたものに対応しているように思えます。それぞれに対応するパラグラフをあてはめてみますと、①--7パラグラフ、②--12パラグラフ、③--11パラグラフ、④--8パラグラフ、⑤--9パラグラフ、⑥--10パラグラフ、⑦--4・5パラグラフ、⑧--3パラグラフとなります。かならずしも順序だったものではありませんが、これまでのパラグラフで指摘されてきたものが挙げられていることがわかります。これらが協業が独自に生みだす生産力だということです。

(ニ) 他人との計画的な協働のなかでは、労働者に彼の個体的な限界を脱け出させ、彼の種属的な能力を発揮させるのです。

    こうした協業が独自な生産力を生みだすということは、労働者は他人との計画的な協働においては、彼の固体的な限界を抜け出し、その種族的な能力を発揮させるものであることを示しています。
    このパラグラフでは、協業そのものが生み出す生産力についての一つの纏めがなされています。これまでは労働過程における協業そのものについて述べていたといえるでしょう。それに対して、次からはそれが資本主義的な関係のなかで行われることによる新たな形態規定性が問題になっているといえます。


◎原注19

【原注19】〈19 「個々の人間の力はまったく小さいものであるが、このまったく小さないくつかの力の結合は、すべての部分力を合計したものよりも大きい一つの総力を生み出すのであり、したがって、単に諸力を結合するだけでも、時間を短縮し諸力の作用/の範囲を拡大することができるのである。」(P・ヴェリ『経済学に関する考察』、196ページへのG・R・カルリの注。)〉(全集第23a巻432-433頁)

    これは〈他人との計画的な協働のなかでは、労働者は彼の個体的な限界を脱け出て彼の種属能力を発揮するのである(19)〉という本文に付けられた原注です。

    フランス語版では同じ注ですが(注番号は13)、次のように長いものになっていますので、紹介しておきましょう。

 〈(13) 「個々の人間の力はきわめて小さいが、小さい力の結合は、これらの力の総和よりも大きな一つの総力を産み出し、したがって、これらの力の結合という事実だけでも、これらの力は時間を短縮し、自分たちの活動空間を増大することができるので/ある」(G・R・カルリ、P・ヴェリ、前掲書、第15巻、196ページへの註)。「集団労働は、個別的労働がけっして提供することのできない成果を提供する。だから、人類が数を増すにつれて、結合事業の生産物は、この増加から計算される単純な足し算の和をはるかに超過するであろう。……科学の仕事においてと同じように力学上の技術においても、現在では人間はたった1日で、単独の1個人がその全生涯中になすことよりも多くのことをなすことができる。全体は部分に等しいという数学者の公理は、もはや真実ではなく、われわれの主題にも適用されない。人間存在のこの大支柱である労働にかんしては、蓄積された労苦の産物は、個別的で分離された労苦がつねに生産しうるいっさいのものよりはるかに多量である、と言ってよい」(T・サドラー『人口法則』、ロンドン、1830年)。〉(江夏・上杉訳341-342頁)

   またイギリス語版では〈G・R・カルリの注〉からの引用になっています。

  〈本文注: 13* 「一歩は不確かで小さいものだが、それらを集めればあのメディア人のように大きく高くなり、時間を縮め、空間を自分のものとする。」( G.R. カルリ 「P. ブエリへの手記」 既出 テキスト 15 ) ( イタリア語 )〉(インターネットから)

    最後に『61-63草稿』から関連する引用を紹介しておきます。

 〈「各人の力はごく小さいものであるが、このごく小さい諸力の結合は、同じ諸力の合計よりも大きい一つの総力を生みだすのであり、その結果、単に諸力が結合されるだけでも、時間を短縮し諸力の作用範囲を拡大することができるのである」(ピエトロ・ヴェルリ『経済学に関する考察』、クストーディ編『イタリア経済学古典著作家論集』、近世篤1 第15巻、ミラノ、1804年、196ページへのG・R・カルリの注1)。〉(草稿集④413頁)
  〈「全体はその部分の合計に等しいという数学的原理も、われわれの対象に適用すれば誤りとなろう。労働という人間存在の大黒柱についていえば、結合された労苦による生産物の全体は、個人的でばらばらな努力があるいはなし遂げることができるかもしれないすべてのものを限りなく越えていると言ってさしっかえない」(マイクル・トマス・/サドラー『人口の法則』、第1巻、ロンドン、1830年、84ページ)。〉(草稿集④415-416頁)


◎第14パラグラフ(協業の規模は、第一に、1人の資本家が労働力の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって決まる)

【14】〈(イ)およそ労働者はいっしょにいなければ直接に協働することはできないし、したがって彼らが一定の場所に集まっていることが彼らの協業の条件だとすれば、賃金労働者は、同じ資本、同じ資本家が彼らを同時に充用しなければ、つまり彼らの労働力を同時に買わなければ、協業することはできない。(ロ)それゆえ、これらの労働力そのものが生産過程で結合される前に、これらの労働力の総価値、すなわち1日分とか1週間分とかの労働者たちの賃金総額が、資本家のポケットのなかにひとまとめにされていなければならない。(ハ)300人の労働者に、たった1日分だけでも、一度に支払うということは、少数の労働者に1年じゅうを通じて1週間ごとに支払う場合に比べて、より多くの資本投下を必要とする。(ニ)だから、協業する労働者の数、または協業の規模は、まず第一に、1人の資本家が労働力の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって、すなわち、1人1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分しうる程度によって、定まるのである。〉(全集第23a巻433頁)

  (イ)(ロ) およそ労働者はいっしょにいなければ直接に協働することはできませんし、だから彼らが一定の場所に集まっていることが彼らの協業の条件だとしますと、賃金労働者は、同じ資本、同じ資本家が彼らを同時に充用しなければ、つまり彼らの労働力を同時に買わなければ、協業することはできないことになります。だからこれらの労働力そのものが生産過程で結合される前に、これらの労働力の総価値、すなわち1日分とか1週間分とかの労働者たちの賃金総額が、資本家のポケットのなかにひとまとめにされていなければなりません。

    フランス語版の方がより簡潔に書かれているように思えますので、最初に紹介しておくことにします。

  〈一般に、人間は結合されなければ共同で労働することができない。彼らの集合は、彼らの協業の条件そのものである。賃金労働者たちが協業しうるためには、同じ資本、同じ資本家が、彼らを同時に使い、したがって、彼らの労働力を同時に買わなければならない。これらの労働力の総価値、すなわち1日分、1週間分などの若干の賃金総額は、労働者が生産過程で結合される以前に、資本家のポケットのなかに貯えられていなければならない。〉(江夏・上杉訳342頁)

    これまでは「協業」そのものについて論じてきましたが、ここからは、それが資本家のもとで資本主義的関係のもとにおいてなされるものであることによる諸特徴が問題にされることになります。
    川上肇の『資本論入門』ではここから「3 資本家的協業の特殊性」となっています。そして「前節(第3パラグラフからに該当するところに「2 協業のために生じる社会的生産諸力の増加」とあります)の研究対象と本節の研究対象との区別」と題して、次のように述べています。

  〈他の章におけると同じように、この章においても、協業はまず使用価値を生産する労働過程としての方面について観察され、しかるのち資本の増殖過程としての方面について観察される。それゆえ前節においてわれわれのみた協業の利益のなかには、資本家の介在がその条件となっているものは一つも含まれていなかったのである。しかるに本節においては、その協業が資本家の介在によって・資本家の利益のために・従って資本家の利益を主眼とする特殊な指揮監督のもとに・行われることから、その協業のうえに発生する諸特徴を明らかにすることを目的とする。〉(青木文庫版747頁)

    だからまずここでは協業は資本家によって多数の労働者が雇用され、一つの場所に集められることからはじまることが確認されているわけです。そしてそのためには資本家は多くの労働者を雇用するに必要な資本をポケットのなかに持っていなければならないことも確認されています。

  (ハ)(ニ) 300人の労働者に、たった1日分だけでも、一度に支払うということは、少数の労働者に1年じゅうを通じて1週間ごとに支払う場合に比べて、より多くの資本投下を必要とします。ですから、協業する労働者の数、または協業の規模は、まず第一に、1人の資本家が労働力の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって、すなわち、1人1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分しうる程度によって、定まるのです。

    まずフランス語版です。

  〈300人の労働者に一度に支払うには、ただの1日分にすぎないにしても、もっと少数の労働者にまる1年を通じて毎週支払うよりも多額な資本前貸しが、必要である。したがって、協業者の数または協業の規模は、まず第一に、労働力を買うために前貸しすることのできる資本の大きさに、すなわち、1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由にする大きさに、依存している。〉(同上)

    資本家がどれほどの資本を必要とするかは、例えば300人の労働者をたった一日働かせるだけでも、300人分の賃金が必要ですし、少数の労働者に1年間、1週間ごとに支払う場合に比べますと、より多くの資本を投下する必要があることがわかります。
    ですから、協業する労働者の数、あるいは協業の規模は、第一に、一人の資本家が労働力を買い入れるために投じることが出来きる資本の大きさによって決まってくることがわかります。言い換えますと、一人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分できる程度によって決まってくるということです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  協業--すなわち〔ここでは〕資本家・すなわち貨幣所有者または商品所有者・によるそれの利用--は、もちろん、彼の手中への労働手段の集積〔Konzentration〕ならびに生活手段(労働と交換される資本部分)の集積を必要とする。1人の労働者を年間36O日雇うのに必要な資本は、36O人の労働者を同じ日数だけ雇うのに必要な資本の1/360である。〉(草稿集④416頁)


◎第15パラグラフ(可変資本についていえることは不変資本についてもいえる。個々の資本家の手のなかにかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件である)

【15】〈(イ)そして、不変資本についても可変資本の場合と同じことである。(ロ)たとえば、原料のための投下は、300人の労働者を使っている1人の資本家にとっては、それぞれ10人ずつを使っている30人の資本家の一人一人にとっての投下の30倍である。(ハ)共同で利用される労働手段の価値量も素材量も、使用労働者数と同じ程度に大きくはならないが、やはりかなり大きくはなる。(ニ)だから、個々の資本家の手のなかにかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件なのであって、協業の程度または生産の規模はこの集積の程度によって定まるのである。〉(全集第23a巻433頁)

  (イ)(ロ)(ハ) そして、不変資本についても可変資本の場合と同じことがいえます。たとえば、原料のための投下は、300人の労働者を使っている1人の資本家にとっては、それぞれ10人ずつを使っている30人の資本家の一人一人にとっての投下の30倍が必要です。共同で利用される労働手段の価値量も素材量も、使用労働者数と同じ程度に大きくはなりませんが、やはりかなり大きくはなりますから。

    一人の資本家が多数の労働者を雇入れために必要とする資本、すなわち可変資本についていえることは不変資本についてもいえます。たとえば原料のための投下は、一人の資本家か300人の労働者を使う場合、10人の労働者を使っている30人の資本家の一人一人と比べますと、30倍の投下が必要です。
    もちろん、規模が大きくなりますと、工場の建屋や労働手段などは共同で使用される分、その価値量もその素材量も、節約されて必ずしも使用する労働者数の規模に比例して大きくなるわけではありませんが、しかしそれでもかなりの規模が必要になります。

  (ニ) ですから、個々の資本家の手のなかにかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件なのです。協業の程度または生産の規模はこの集積の程度によって定まるのです。

    ですから、個々の資本家が大量の労働者を雇用するということは、大量の生産手段が彼のもとに集積されていることが必要なのです。それが賃金労働者の協業の物質的条件なのです。一人の資本家のもとにおける生産手段の集積の程度が、協業の程度または生産の規模を規定しているわけです。


◎第16パラグラフ(小親方から資本家になるための資本の規模は、いまでは多数の賃労働者の協業を可能にする規模として現れている)

【16】〈(イ)最初は、同時に搾取される労働者の数、したがって生産される剰余価値の量が、労働充用者自身を手の労働から解放し小親方を資本家にして資本関係を形態的につくりだすのに十分なものとなるためには、個別資本の或る最小限度の大きさが必要なものとして現われた。(ロ)いまでは、この最小限度の大きさは、多数の分散している相互に独立/な個別的労働過程が一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件として現われるのである。〉(全集第23a巻433-434頁)

  (イ) 最初は、同時に搾取される労働者の数、よってまた生産される剰余価値の量が、労働を充用する者自身を手の労働から解放して小親方を資本家にして資本関係を形態的につくりだすのに十分なものとなるためには、個別資本の或る最小限度の大きさが必要なものとして現われました。

    このパラグラフはフランス語版ではかなり書き換えられていますので、最初に紹介していくことにします。

  〈われわれが見た(第11章)ように、価値または貨幣のある総額は、それが資本に転化するためには、ある最低限度の大きさに達しなければならないが、この最低限度の大きさがあってこそ、その所有者は、手の労働を転嫁しうるほど/に充分な労働者を、働かせることができるわけである。この条件がなかったら、協業の親方や小雇主が資本家にとってかわられることもありえなかったであろうし、また、生産そのものも、資本主義的生産の形態的な性格を帯びることもありえなかったであろう。〉(江夏・上杉訳342-343頁)

    自分でも働く小親方から、手の労働から解放されて資本家になるためには、個別の資本のある程度の大きさが必要であることは、最初のパラグラフでも紹介しましたが、「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の第11パラグラフで述べられていました。資本家が手の労働から解放されて、〈普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとすれば、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならない〉ことが確認されたのでした。
    フランス語版では〈(第11章)〉と訳者注が付いていますが、新日本新書版では〈はじめは〉のところに次のような訳者注が付いています。

  〈フランス語版では、「すでに述べたように」として本書の第9章「剰余価値の率と総量」をあげている。本訳書536ページ以下参照〉(575頁)

  恐らく訳者の勘違いでしょう。

  (ロ) いまでは、この最小限度の大きさは、多数の分散している相互に独立な個別的労働過程が一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件として現われるのです。

    フランス語版です。

  〈諸個人の手中にある資本の最低限度の大きさがいまや、全く別の外観のもとで現われる。それは、個別的な別々の労働が社会的な結合された労働に転化するには必要であるところの、富の集積である。それは、生産様式がやがてこうむるであろう変化の物的基礎になる。〉(江夏・上杉訳343頁)

    しかし私たちはすでに単に資本家が手の労働から解放されるためだけではなくて、賃労働者の協業が実現されるためには、個別の資本家の手にどれだけ多くの資本が集積される必要であるかが分かっています。つまり個別の労働者の労働が社会的労働に結合されるに必要な富の集積です。それは生産様式がやがてこうむる変化の物質的基礎をなしているのです。


◎第17パラグラフ(多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる)

【17】〈(イ)同様に、最初は、労働にたいする資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現われただけだった。(ロ)多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる。(ハ)生産場面での資本家の命令は、いまでは戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのである。〉(全集第23a巻434頁)

  (イ) 同じように、最初は、労働にたいする資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現われただけでした。

    このパラグラフもフランス語版ではかなり書き換えられていますので、最初に紹介することにします。

  〈資本の初舞台では、労働にたいする資本の指揮は、純粋に形態的な、ほとんど偶然的な性格をになっている。このばあい、労働者が資本の命令のもとで労働するのは、彼が自分の労働力を資本に売ったがゆえのことでしかない。彼が資本のために労働するのは、彼が自分自身のために労働するための物的手段をもっていないがゆえのことでしかない。〉(江夏・上杉訳344頁)

    最初にも確認しましたが、資本はただ最初は労働者を形式的に資本のもとに包摂し、一つの場所に集めて労働させるだけでした。だから資本家の命令もこの場合は、ただ労働者が彼の労働力を資本家に売った結果でしかありませんでした。彼が資本の指揮のもとで労働するのは、彼にはそれ以外に生活手段を得る方途がないからに過ぎません。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈資本家は、労働者に労働させることによって、労働者の労働能力を使用するのである。労働過程のすべての要因が、すなわち、労働材料、労働手段、それに資本家が買った労働能力の実証、使用としての生きた労働そのものが、資本家のものであるので、同様に、まるで彼自身が自分自身の材料と自分自身の労働手段とをもって労働しているかのように、労働過程の全体が彼のものなのである。だが、労働は同時に、労働者自身の生の発現であり、彼自身の人的熟練および能力〔Fähigkeit〕の実証--この実証は、彼の意志しだいであり、同時に彼の意志の発現である--であるから、資本家は労働者を監視し、自分のものたる行動としての労働能力の実証を統御する。彼は、労働材料が労働材料として合目的的に使用されるよう、労働材料として消費されるよう、気をつけるであろう。材料が浪費されれば、それは労働過程にははいらず、労働材料としては消費されない。労働手段についても、労働者がひょっとしてそれの素材的な実体を、労働過程そのもの/によってではなくそれ以外の方法で摩損させる〔aufreiben〕ことでもあれば、同じことが言えるであろう。最後に、資本家は、労働者がほんとうに労働するよう、時間いっぱい労働するよう、また、必要労働時間だけを支出するよう、すなわち、一定時間内に正常(ノーマル)な量の労働をするよう、気をつけるであろう。これらすべての側面から見て、労働過程が、同時にまた労働および労働者自身が、資本の統御のもとに、その指揮のもとにはいるのである。私はこれを、資本のもとへの労働過程の形態的包摂と呼ぶ。〉(草稿集④146-147頁)

  (ロ)(ハ) ところが、多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してきます。生産場面での資本家の命令は、いまでは戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのです。

    フランス語版です。

  〈だが、賃金労働者のあいだに協業が存立するやいなや、資本の指揮は、労働の実施にとっての要件として、生産の現実的な条件として、発展する。そうなれば、生産場面では、資本の命令が、戦場での将軍の命令と同様に不可欠になる。〉(同上)

    しかし雇用される労働者が多数になり、彼らのあいだに協業が生まれますと、資本の指揮は、実際の労働にとって必要不可欠なものとなってきます。つまり資本の指揮は生産のための現実的な条件として発展してくるのです。そうなりますと、資本の命令は、戦場で将軍の命令と同じように不可欠なものになるのです。
    協業そのものにはこうした労働の社会的関連をもたらす指揮が必要なように思えます。たとえば何人かで重いものを持ち上げるとき、力を合わせるためには掛け声をかけねばなりませんが、その掛け声が諸労働を結合させるわけです。そうした指揮を資本家が担うことになると、資本の指揮はだから協業を行う上で不可欠なものになるわけです


◎第18パラグラフ(協業による生産体全体の運動から生じる一般的な機能としての指揮や監督は、資本のもとでは、資本の独自な機能となる)

【18】〈(イ)すべての比較的大規模な直接に社会的または共同的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのであって、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。(ロ)単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮するが、一つのオーケストラは指揮者を必要とする。(ハ)この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。(ニ)資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのである。〉(全集第23a巻433頁)

  (イ)(ロ) すべての比較的大規模な直接に社会的または共同的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのでして、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのです。単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮しますが、一つのオーケストラは指揮者を必要とするのと同じです。

    このパラグラフもフランス語版を先に紹介しておきます。

  〈充分に大きな規模でくりひろげられる社会的または共同的な労働はどれも、個別的な諸活動を調和させるための指揮を必要とする。この指揮は、生産体の全体としての運動とこの生産体を構成する独立した諸成員の個別的運動との差異から生ずるところの一般的諸機能を、果たさなければならない。独奏する音楽家は自分自身を指揮するが、オーケストラは指揮者を必要とする。〉(江夏・上杉訳343頁)

    比較的大きな規模の共同的な労働は、どれもそれぞれの個別的な労働を関連させ、調和させるための指揮を必要とします。この指揮によって、個別的な諸労働は一つの生産体として統一されるのです。こうした指揮は、個々の労働とは区別される生産全体の運動から生じる一般的な機能として存在しています。たとえばバイオリンの独奏者は、自分自身を指揮して演奏できますが、オーケストラだと全体を指揮する人が必要です。この指揮者の機能はここの楽器を奏することとは別個のものであり、よってまた違った人格によって担われるのです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈多数者の結合労働〔Zusammenarbriten〕--彼らの連関そのものは彼らにとっては無縁の関係であり彼らの統一は彼らの外にある--とともに、指揮の、監督の必要性が、それ自身一つの生産条件として現われる、すなわち、労働者たちの協業によって必須のものになった、つまり協業が原因で生まれた新しい種類の労働、つまり監督労働〔labour of superintendence〕として現われる。それは、軍隊において、たとえそれが同一の兵科だけから成っているとしても、それが一つの兵団として行動しうるためには、指揮官の必要が、つまり命令の必要が生まれるのとまったく同じである。この指揮権は資本に属するものである。ただし個々の資本家はこの指揮権を、またふたたび独自な労働者によって行使させることができるが、〔この場合には〕この労働者たちは、労働者軍に対立して資本と資本家とを代表するのである。(奴隷制)(ケアンズ)〉(草稿集④419頁)

  (ハ)(ニ) この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になりますと、資本の機能になります。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのです。

    まずフランス語版です。

  〈資本に従属する労働が協業的になるやいなや、こういった指揮、監督、媒介の機能が資本の機能になり、それは資本の機能として、独自な性格を獲得する。〉(同上)

    この協業そのものから生まれる指揮・監督の労働は、資本家のもとで働く労働者たちの協業となると、その指揮は資本の一機能になり、それによって独自な性格を持つことになります。 

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈資本主義的生産にとってまさに特徴的なことは、労働の生産力を高める労働の社会的性格ですら労働自身には無縁の力として、つまり労働の外部に存在する諸条件として現われるのであって、労働自身の属性・条件としては現われない--なぜなら、労働者は依然として彼の協働者たちとの社会的な連関の外でばらばらな労働者として資本と相対するのだからである--ということである〉(草稿集⑨194頁)

   ((6)に続く。)

 

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