『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(2)

2024-06-13 16:44:34 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(2)



◎第3パラグラフ(とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。価値増殖一般の法則は、多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである)

【3】〈(イ)とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。(ロ)価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、したがって平均的労働力の発現である。(ハ)ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけである。(ニ)どの産業部門でも、個別労働者、ペーターやパウルは、多かれ少なかれ平均労働者とは違っている。(ホ)この個別的偏差は数学では「誤差」と呼ばれるものであるが、それはいくらか多数の労働者をひとまとめにして見れば、相殺されてなくなってしまう。(ヘ)有名な詭弁家で追従者のエドマンド・バークは、彼が借地農業者としての実際経験から知るところでは、5人の農僕というような「小さな1組について見ても」すでに労働のいっさいの個人的な相違はなくなってしまい、イギリスの壮年期の農僕の任意の5人をひとまとめにして見れば、他の任意の5人のイギリスの農僕と比べて同じ時間ではまったく同じだけの労働を行なう、とさえ言っている(8)。(ト)それはとにかくとして、同時に働かされる比較的多数の労働者の総労働日をその労働者数で割ったものが、それ自体として、社会的平均労働の1日分であるということは、明らかである。(チ)1人の1労働日を、たとえば12時間としよう。(リ)そうすれば、同時に働かされる12人の労働者の1労働日は、144時間の1総労働日となる。(ヌ)そして、12人のうちの各人の労働は多かれ少なかれ社会的平均労働とは違っているかもしれないし、したがって各人が同じ作業に要する時間はいくらか多かったり少なかったりするかもしれないが、それにもかかわらず、各個人の1労働日は、144時間の1総労働日の12分の1として、社会的な平均質をもっている。(ル)しかし、12人を働かせる資本家にとっては労働日は12人の総労働日として存在する。(ヲ)各個人の労働日は総労働日の可除部分として存在するのであって、そのことは、12人が互いに手をとり合って労働するのか、それとも彼らの労働の全関連はただ彼らが同じ資本家のために労働するということだけにあるのか、ということにはまったくかかわりがないのであ/る。(ワ)これに反して、もし12人の労働者のうちの2人ずつがそれぞれ1人の小親方に使われるとすれば、各個の親方が同じ価値量を生産するかどうか、したがって一般的剰余価値率を実現するかどうかは、偶然となる。(カ)そこには個別的な偏差が生ずるであろう。(ヨ)かりに、ある労働者が、ある商品の生産に.社会的に必要であるよりも非常に多くの時間を費やすとすれば、つまり彼にとって個別的に必要な労働時間が社会的に必要な労働時間または平均労働時間とひどく違っているとすれば、彼の労働は平均労働とは認められないであろうし、彼の労働力は平均労働力とは認められないであろう。(タ)それはまったく売れないか、または労働力の平均価値よりも安くしか売れないであろう。(レ)だから、労働の熟練度の一定の最低限は前提されているのであって、われわれがもっとあとで見るように、資本主義的生産はこの最低限を計る手段を見いだすのである。(ソ)それにもかかわらず、この最低限は平均とは違っており、しかも他方では労働力の平均価値が支払われなければならない。(ツ)それゆえ、6人の小親方のうち、一方のものは一般的剰余価値率よりも多くを、他方のものはそれよりも少なくを、取り出すことになるであろう。(ネ)この不平等は、社会にとっては相殺されるであろうが、個々の親方にとっては相殺されないであろう。(ナ)だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである(9)。〉(全集第23a巻424-425頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) とはいいいましても、ある限界のなかでは、ある変化が生じるのです。価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、平均的労働力の発現です。ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけです。どの産業部門でも、個別労働者、たとえばペーターやパウルは、多かれ少なかれ平均労働者とは違っています。この個別的偏差は数学では「誤差」と呼ばれるものですが、それはいくらか多数の労働者をひとまとめにして見ますと、相殺されてなくなってしまいます。有名な詭弁家で追従者のエドマンド・バークは、彼が借地農業者としての実際経験から知るところでは、5人の農僕というような「小さな1組について見ても」すでに労働のいっさいの個人的な相違はなくなってしまい、イギリスの壮年期の農僕の任意の5人をひとまとめにして見れば、他の任意の5人のイギリスの農僕と比べて同じ時間ではまったく同じだけの労働を行なう、とさえ言っているほどです。

    これまではマルクスは資本家がそれ以前の手工業などを形式的に包摂しただけでは、ただ量的な変化が生じるだけで生産様式などに何の変化もない、だから相対的剰余価値の生産には何の影響もしないかに述べてきたのですが、しかしそうは言っても、ある限界のなかでは、ある変化(初版では「修正」)が生じるのだと述べています。それを以下、見ていくわけです。
    その変化の最初のものは、価値に対象化される労働というのは、社会的平均的な労働ですが、こうしたものはある程度の労働者の集まりがあってはじめて言いうるということです。平均量というのは多数の個別のさまざまなばらつきのあるものの平均として言いうるからです。どの産業部門でも、個別の労働者の労働は多かれ少なかれ平均労働とはそれぞれ違いがあります。しかしそれらの違いのある労働者をひとまとめに見ますと、その相違は相殺されて、平均的な労働者の集まりとみることができるようになるのです。エドモンド・バークは、借地農業者の経験から、5人の農僕をとってみただけでも、他の任意の5人との相違はなくなってしまうと言っているほどです。

    エドモンド・バークについては、以前「第6章 不変資本と可変資本」の原注32a)に出てきたときに、『資本論辞典』から紹介したことがありましたので、それを再掲しておきます。

  バーク どdmund Burke (1729-1797) イギリスの自由主義的政論家・著述家.……マルクスは,これらバークの政治的活動を評して,‘かつてアメリカの動乱の初期には,北アメリカ植民地に雇われてイギリス寡頭政府にたいし自由主義者たる役割を演じたのとまったく同様に,イギリスの寡頭政府に雇われてはフランス革命にたいしロマン主義者たる役割を演じたこの追従屋は.徹頭徹尾,俗物ブルジョアであった'(Kl-800;青木4-1156;岩波4-345) と非難した.そしてこの追従者たる無節操さから,バークは,'商業の法則は,自然の法則であり. したがって神の法則である'とのベ,自分自身その法則にしたがい最良の市場でみずからを売ることとなったのであり,そこになんの不思織もないと極言している〔同上). 
    なおバークの著書《Thoughts and Details on Scarcity,originally presented to the Rt.Hon.W.Pitt in Month of November1795》 (1800)からは,マルクス自身の主張を例証するものとして二,三の短い文章が引用されている.すなわち.生産過程において新価値を創造する賃労働者の労働が.他面では資本家に既存資本価値の維持という利益をもたらすことを示唆したものとして(K1-215;青木2-372;岩波2-116),また賃労働者は,自己の維持に必要な労働時間をこえて余分な労働時間を追加することによって,生産手段の所有者を養うことを示唆したものとして(KI-243;青木2-412-413;岩波2.166),さらに協業の発展が,各労働者の個別労働を社会的平均労働化する作用をもつことを例証したものとして(KI.338 ;青木3-544,546;岩波3-25,27)などである.〉(529-530頁)

  (ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) それはとにかくとしまして、同時に働かされる比較的多数の労働者の総労働日をその労働者数で割ったものが、それ自体として、社会的平均労働の1日分であるということは、明らかです。1人の1労働日を、たとえば12時間としましょう。そうしますと、同時に働かされる12人の労働者の1労働日は、144時間の1総労働日となります。そして、12人のうちの各人の労働は多かれ少なかれ社会的平均労働とは違っているかもしれません。だから各人が同じ作業に要する時間はいくらか多かったり少なかったりするかもしれませんが、しかしにもかかわらず、各個人の1労働日は、144時間の1総労働日の12分の1として、社会的な平均質をもっているものとすることかできます。そして実際、12人を働かせる資本家にとっては労働日は12人の総労働日として存在するわけです。各個人の労働日は総労働日の可除部分として存在するのであって、そのことは、12人が互いに手をとり合って労働するのか、それとも彼らの労働の全関連はただ彼らが同じ資本家のために労働するということだけにあるのか、ということにはまったくかかわりがありません。

    ですから例え量的相違と言っても、それなりに意味のある変化があるということです。同時に働かされる労働者が比較的多数であるということは、その総労働日をその人数で割ったものが、それがそのまま社会的平均的労働の1日分と考えられることになるわけですから。(ここで〈それはとにかくとして〉という部分は初版では〈彼が示している数はこのばあいどうでもよいが〉、フランス語版は〈この観察が正確であろうとなかろうと〉となっています)
    今1人の労働日を12時間としますと、同時に働かされる12人の1労働日は144時間になります。この12人の各人の労働はそれぞれ社会的平均労働とは違っているかもしれません。ある人は同じ作業をするのに多くの時間を要し、他の人は少なくもよい等々、しかし12人を一まとめにしますと、そうした個別の相違は均されて各人の労働は144時間の1総労働日の12分の1として、社会的平均的な質を持つものとして考えることができるわけです。
    これは12人が互いに手を取り合って労働するか、それともバラバラになって、ただ彼らの関連が同じ資本家の指揮のもとにあるだけなのか、ということにはまったく関係ありません。

  (ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ)(ソ)(ツ)(ネ) これとは違って、もし12人の労働者のうちの2人ずつがそれぞれ1人の小親方に使われているとしますと、各個の親方が同じ価値量を生産するかどうか、だから一般的剰余価値率を各親方が実現するかどうかは、確たることはいえなくなります。おそらくそこには個別的な偏差が生ずるでしょう。かりに、ある労働者が、ある商品の生産に.社会的に必要であるよりも非常に多くの時間を費やすとしますと、つまり彼にとって個別的に必要な労働時間が社会的に必要な労働時間または平均労働時間とひどく違っているとしますと、彼の労働は平均労働とは認められないでしょうし、彼の労働力は平均労働力とは認められないでしょう。だからその労働力はまったく売れないか、または労働力の平均価値よりも安くしか売れないかも知れません。ですから、労働の熟練度の一定の最低限は前提されているのです。これは私たちがもっとあとで見るのですが、資本主義的生産はこの最低限を計る手段を見いだすのです。もっともにもかかわらず、この最低限というのは平均とは違っています。しかも他方では労働力の平均価値が支払われなければなりません。だから、6人の小親方のうち、一人は一般的剰余価値率よりも多くを、もう一人はそれよりも少なくを、取り出すことになるでしょう。こうした不平等は、社会全体では相殺されるでしょうが、個々の親方にとっては相殺されません。

    こうした量的相違がもたら変化がより分かるように、それとは異なるケースを考えてみましょう。つまり12人の労働者のうち2人ずつがそれぞれ1人の小親方に使われていると考えてみましょう。そうすると6人の親方が同じ価値量を生産するかどうかは確たることはいえなくなります。つまり一般的剰余価値率を各親方が実現するかどうかは分からないのです。恐らく個別的な偏差が生じるでしょう。
    かりにある労働者が、商品の生産に社会的に必要であるよりも非常に多くの労働時間を費やすとしますと、彼の個別的な労働は社会的平均的な労働とは認められません。彼の労働力はまったく売れないか、あるいは平均的な価値よりも低いものとしてか売れないかも知れません。
    ですから労働の熟練度は一定の最低限は前提されているのです。といってもこの最低限は平均とは違います。しかし労働者には労働力の平均価値が支払われなければなりません。だから6人の小親方のうち、1人は一般式剰余価値率より多くを、もう1人はそれよりも少なくを、取り出すことになるでしょう。こうした不平等は、社会全体では相殺されますが、
個々の親方のあいでは相殺されません。
    だから比較的多くの労働者を一カ所に集めて、同じ労働をさせるという、単なる量的の相違は決して、どうでもよい相違ではないということです。
    ここでマルクスは〈だから、労働の熟練度の一定の最低限は前提されているのであって、われわれがもっとあとで見るように、資本主義的生産はこの最低限を計る手段を見いだすのである〉と述べています。初版ではこの部分は〈だから、労働能力の一定の最低限が前提されているのであって、もっとあとで見るであろうように、資本主義的生産はこの最低限を測る手段を見いだすのである〉となっています。
    〈この最低限を計る手段〉とは何を指すのはよくわからないのですが、「第24章 資本主義的蓄積の一般的法則」のなかで資本主義的生産はみずから相対的過剰人口をつくりだし、労働力の価値を資本の搾取欲と支配欲の枠内に抑制する手段を生みだすことが指摘されています。だから労働力の最低限に達しないものを停滞的過剰人口のなかに落とすことによって、その限度を計ることができるといえるのかも知れません。関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈だいたいにおいて労賃の一般的な運動は、ただ、産業循環の局面変転に対応する産業予備軍の膨張・収縮によって規制されているだけである。だから、それは、労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではなく、労働者階級が現役軍と予備軍とに分かれる割合の変動によって、過剰人口の相対的な大きさの増減によって、過剰人口が吸収されたか再び遊離されたりする程度によって、規定されているのである。……産業予備軍は沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景なのである。それは、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界のなかに、押しこむのである。〉(全集第23b巻830-832頁)

  (ナ) というわけで、価値増殖の一般的な法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し、多数の労働者を同時に充用して、だからはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるわけです。

    というわけで、私たちがこれまで考察してきた価値の増殖過程というものは、資本家が多数の労働者を同時に充用して、最初から社会的平均的労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるわけです。
    雇用する労働者数の単なる量的相違そのものは、その限りでは、生産される価値量には何の変化ももたらしませんが、「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の冒頭で〈これまでと同じに、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定される〉と述べ、「第10章 相対的剰余価値の概念」の冒頭でも〈労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのである〉と述べていますように、ある程度多数の労働者を同時に充用することによって、はじめから社会的平均労働を動かすことによって、初めて実際にもこうした前提が言えるのだということが分かります。
    つまりこの雇用される労働者数が比較的大量になるということ自体が、この単なる量的相違そのものが、最初から労働力を社会的平均労働に現実に還元することを可能にして、相対的剰余価値を生産する協業の基礎、前提を形成すると言えるわけです。


◎原注8

【原注8】〈8 「ある人の労働の価値と他のある人の労働の価値とのあいだには、力や熟練度や熱心さから見て、かなりの相違があるということは、疑いないことである。しかし、私が自分の最善の観察によって確信するところでは、どの任意の5人でも、全体としては、前述の年齢層に属する他の任意の5人と同じだけの労働を提供するであろう。それは、このような5人のうち、1人はよい労働者のあらゆる資格をそなえており、1人はわるく、残りの3人はその中間で前者または後者に近いであろう、ということである。こうして、5人というような小さな1組にあっても、5人でかせぎ出すことのできるものの完全な全量が見いだされるであろう。」(E・バーク『穀物不足に関する意見と詳論』、15、16ページ。〔河出書房版『世界大思想全集』、/社会・宗教・科学篇、第11巻、永井訳『穀物不足に関する思索と詳論』、254ページ。〕)平均的個人についてはケトレの所説を参照せよ。〉(全集第23a巻425-426頁)

    これは〈有名な詭弁家で追従者のエドマンド・バークは、彼が借地農業者としての実際経験から知るところでは、5人の農僕というような「小さな1組について見ても」すでに労働のいっさいの個人的な相違はなくなってしまい、イギリスの壮年期の農僕の任意の5人をひとまとめにして見れば、他の任意の5人のイギリスの農僕と比べて同じ時間ではまったく同じだけの労働を行なう、とさえ言っている(8)〉という本文に付けられた原注です。実際のバークの著書から該当部分の引用がされています。本文では〈農僕〉とされていましたが、実際の著書では〈労働者〉になっています。
   『61-63草稿』では同じ文献(エドマンド・バーク(故)『穀物不足に関する意見と詳論、もと1795年11月にW・ピット閣下に提出したもの』、ロンドン、1800年。)からのマルクスによる表題を付けた引用がされていますので、紹介しておきます。

  労働の価値多数の労働者の充用
  「ある人の労働の価値と他の人の労働の価値とは、強度、器用さ、実直な勤勉さにおいて大いに異なることは、疑いない。だが、私は非常によく観察した結果、以下のことをまったく確信している。どの与えられた5人の人々も、さきに述べた人生の時期〔12歳から50歳まで〕において、彼らの総計としては、いかなる他の5人とも同じだけの労働を供給するであろう。すなわち、その5人のなかには、優良労働者としてのあらゆる資格を有する者と劣悪な者とがおり、他の3人はその中問、前者に近い者および後者に近い者なのである。したがって、わずか5人からなるような非常に小さな一団においでさえも、一般に5人の人々ができるだけ努力して得られるものの総量が見いだされるであろう。」([15-]16ページ。)〉(草稿集⑨614頁)

    新日本新書版では最後の〈平均的個人についてはケトレの所説を参照せよ〉の〈ケトレ〉に次のような訳者注が付いています。

  〈19世紀のベルギーの統計学者、数学者、天文学者。『社会制度およびそれを規制する諸法則について』や『人間について』(平貞蔵・山村喬訳、岩波文庫)などで「平均人」を想定した〉(505頁)

  また全集第34巻の注解5には次のような説明があります。

  〈(5)「平均人」(average man)という概念は、ベルギーの統計学者ランベール-アドルフ-ジャック・ケトレが発展させたものである。ケトレは、人間の肉体的および精神的諸属性ならびにそれらの発達についての諸研究のなかで、個々の個人を捨象してひとつの「平均人」を仮定して/いる。この「平均人」を国民または社会に関連させて見れば、それは種属の合法則性の研究の手がかりとなりうる類型であり、モデルである、と彼は考えたのである。マルクスは人間の能力の発展にかんするケトレの基礎的所論を、英語版、『人間とその能力の発展についての一論』、エディンバラ、1842年、で読んだ。〉(449-450頁)


◎原注9

【原注9】〈9 ロッシャー教授は、教授夫人に2日間雇われる1人の裁縫婦は教授夫人が同じ1日に雇う2人の裁縫婦よりも多くの労働を提供するということを発見した、と主張している〔102〕。教授は、資本主義的生産過程の観察を子供部屋でやったり、主要人物である資本家のいない状態のもとでやったりしてはならないのである。〉(全集第23a巻426頁)

    これは〈だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである(9)〉という本文に付けられた原注です。
    これは本文に関連してロッシャー教授に対する皮肉を述べたものといえるでしょう。彼は教授夫人に雇われる裁縫婦について、2日間同じ裁縫婦がやる仕事の方が、1日に2人の裁縫婦がやる仕事より多いことを発見したと述べているが、彼は、資本主義的生産過程の観察を子供部屋でやったり、資本家のいない状態ですべきではない述べているわけです。

    全集版では注解102が付いていますがそれは次のようなものです。

  〈注解〔102〕W・ロッシャー『国民経済学原理』、第3版、シュトゥットガルトおよびアウクスブルク、1858年、88-89ページ。〉(全集第23a巻18頁)

    ロッシャーについては、「第4章 貨幣の資本への転化」の第2節の原注22に出てきたときに『資本論辞典』からの紹介をしておきましたので、それを再掲しておきます。

  ロッシャー Wilhelm Georg Friedrich Roscher (1817-1894) ドイツの経済学者. ……彼が究明しようとする歴史的発展法則なるものの概念が,いかに科学的な吟味にたええないものだったかは,彼のいわゆる〈経済発展段階説〉をみるだけでも,たちまち明瞭になる.すなわち,彼は生産の要素を自然,労働,資本の三つとなし. そのうちのどれが優位を占めるかによって,経済発展段階を(1)自然に依存する原始段階. (2)労働を主とする手工業段階. (3)機械の使用が支配的となる大工業段階の三つに区分するのであるが.このような段階区分は,少しも真の意味の歴史的発展,すなわち人間の社会的諸関係の発展をあらわすものではない.それにもかかわらず,彼の大著がたんにドイツ国内でだけではなく,多くの外国語に翻訳されて,海外(ことにアメリカ)でもひろく読まれたのは,それが古典学派にたいして理論的にあらたなものをふくんでいたからではなく,古典学派が研究の対象としたよりもはるかに広大な領域(たとえば学説史,社会政策,植民政策等々)にわたる雑多な知識にもっともらしい学問的粉飾を施していたからにすぎなかった. しかし,その影響がこのようにひろい範囲に及んでいただけに,マルタスは.ロッシャーのやり方を当時の俗学的態度の見本としてやっつける必要を痛感しており. 1862年6月16日づけのラサールあての手紙では,ロッシャーの〈折衷主義〉を口をきわめて罵倒し. その非科学性を暴露することの必要と意図とを述べている。〉(586-587頁)


◎第4パラグラフ(労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こす)

【4】〈(イ)労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こす。(ロ)多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などのための倉庫や、多くの人々に同時または交互に役だつ容器や用具や装置など、要するに生産手段の一部分が労働過程で共同に消費されるようになる。(ハ)一方では、商品の交換価値は、したがって生産手段のそれも、それらの使用価値の利用度がどんなに高められても、少しも高くならない。(ニ)他方では、共同で使用される生産手段の規模は大きくなる。(ホ)20人の織工が20台の織機で作業する1室は、2人の職人をもつ1人の独立の織匠の室よりも広くなければならない。(ヘ)しかし、20人用の仕事場を一つつくるためには、2人用の仕事場を10つくるためよりも少ない労働しかかからない。(ト)したがって、一般に、大量に集中されて共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないのである。(チ)共同で消費される生産手段は、各個の生産物には比較的小さい価値成分を引き渡す。(リ)というのは、一つには、それらの引き渡す総価値が同時により大きい生産物量のあいだに割り当てられるからであり、また一つには、それらは、個々別々に使用される生産手段に比べて、絶対的にはより大きい価値をもってであるとはいえ、それらの作用範囲を考えれば相対的にはより小さい価値をもって、生産過程にはいるからである。(ヌ)これによって不変資本の一つの価値成分は低下し、したがってこの成分の大きさに比例して商品の総価値も低下する。(ル)その結果は、ちようどこの商品の生産手段がより安く生産されるようになったようなものである。(ヲ)このような、生産手段の充用における節約は、/ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生ずるものである。(ワ)そして、この生産手段は、別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働の社会的条件としてのこの性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで協力して労働するのではない場合にも、受け取るのである。(カ)労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものがそれを得るよりもさきに、得るのである。〉(全集第23a巻426-427頁)

  (イ)(ロ) 労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こします。多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などのための倉庫や、多くの人々に同時または交互に役だつ容器や用具や装置など、要するに生産手段の一部分が労働過程で共同に消費されるようになります。

    このパラグラフはフランス語版を最初に紹介しておくことにします。

  〈作業工程が変化しなくても、多数の人員を使用することは、労働の物的条件に変革を惹き起こす。建物、原料や仕掛品のための倉庫、用具、あらゆる種類の装置、要するに生産手段は、多くの労働者に同時に役立つ。すなわち、生産手段が共同で使われる。〉(江夏・上杉訳336頁)

    やはり問題は依然としてかなり多くの労働者を同時に充用するという量的相違に過ぎませんが、今度はその量的相違が現実に生産力そのものの変化を引き起こすケースが問題になっています。つまりその量的相違が労働過程の対象的諸条件(建物や原料のための倉庫、多くの人々に同時にあるいは交互に役立つ容器や用具や装置)に一つの革命を引き起こすからです。
    ようするに大勢で一緒に労働するようになると、使う用具や容器、装置も共同で使えたり、原料を保存する倉庫も一つで足りたり、作業する建物は大なものが必要ですが、個々バラバラに建てるのに比べれば安くて済んだり。多数の労働者を一緒に集めて労働させれば生産手段が節約されるということです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 一方では、商品の交換価値は、だからまた生産手段の価値も、それらの使用価値の利用度がどんなに高められても、少しも高くなりません。他方では、共同で使用される生産手段の規模は大きくなります。20人の織工が20台の織機で作業する一つの室は、2人の職人をもつ1人の独立の織匠の室よりも広くなければなりません。しかし、20人用の仕事場を一つつくるためには、2人用の仕事場を10つくるためよりも少ない労働しかかからないのです。

    フランス語版です。

  〈生産手段の交換価値が上がるのは、生産手段からいっそう多くの有用な役立ちが引き出されるからではなく、生産手段がいっそう巨大になるからである。20人の織工が20台の織機で労働する部屋は、2人の職人しか使わない1人の織工の部屋よりも広くなければならない。だが、2人ずつで労働する20人の織工のための10の作業場の建設は、20人が共同で労働する一つの作業場の建設よりも費用がかかる。〉(同上)

    生産手段の価値は、それが共同で使用されその利用度が高められたからといって高くなるわけではありません。その価値が大きくなるのは、生産手段そのものが大きくなり、よってその生産に必要な労働量か大きくなるからでしょう。しかし生産手段が大きくなったからといって、その価値もそれに比例して大きくなるとは限りません。例えば20人の織工が20台の織機で労働する部屋は、2人の職人しか使わない1人の織工の部屋よりも大きなものが必要ですが、しかし2人の職人の仕事場を10作るより少なくて済むのです。

  (ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル) だから、一般に、大量に集中されて共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないのです。共同で消費される生産手段は、各個の生産物には比較的小さい価値成分を引き渡します。といいますのは、一つには、それらの引き渡す総価値が同時により大きい生産物量のあいだに割り当てられるからです。またもう一つには、それらは、個々別々に使用される生産手段に比べて、絶対的にはより大きい価値をもっていますが、しかしそれらの作用範囲を考えますと相対的にはより小さい価値をもって、生産過程にはいるからです。こうしたことから商品の価値として入る不変資本の価値成分は低下し、だからこの成分の大きさに比例して商品の総価値も低下するのです。そしてその結果は、ちようどこの商品の生産手段がより安く生産されるようになったのとおなじことになります。

    まずフランス語版を紹介しておきます。

  〈一般に、共同の、集中された生産手段の価値は、これらの生産手段の規模と有用効果に比例して増大することはない。この価値は、これらの生産手段にと/ってかわられる分散した生産手段の価値よりも小さく、その上、相対的にいっそう多量の生産物の上に配分される。こうして不変資本の要素が減少し、まさにそのことによって、この要素が商品に移譲する価値部分も減少する。この作用は、生産手段がいっそう費用のかからない工程によって製造されたばあいと、同じである。〉(江夏・上杉訳336-337頁)

 また〈その結果は、ちようどこの商品の生産手段がより安く生産されるようになったようなものである。〉という部分のフランス語版は上掲しましたが、初版では〈こういった作用は、生産手段を供給するような生産諸部門で労働の生産力が増大するのと同じである。〉(江夏訳368-369頁)となっています。

    ですから一般的に言えるのは、大量に集中して共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないということです。そして共同で使用される生産手段はその価値を相対的にいっそう多量の生産物の上に配分されるために、生産物に移転される価値部分は小さくなるということです。だから生産物の価値を構成する生産手段の価値部分が減少することになります。これは生産手段の生産部門で生産力が高まり、その価値が減少したのと同じ効果を生むということです。だからその生産部門における生産物の価値を引き下げ、だからまたそれは労働力の価値を引き下げることになり、相対的剰余価値の生産に結果することは明らかでしょう。

  (ヲ)(ワ)(カ) こうした生産手段の充用上の節約は、ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生ずるものです。そして、この生産手段は、別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働の社会的条件としてのこの性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで、協力して労働するのではない場合にも、受け取るのです。労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものがそれを得るよりもさきに、得るのです。

    フランス語版です。

  〈生産手段の使用における節約は、それらの共同消費からのみ生ずる。これらの生産手段が社会的労働条件としてのこういう性格--これらの生産手段を、分散されていて相対的により高価な生産手段と区別する性格--を獲得することは、集められた労働者が一つの共同作業に協力するのでなく、ただたんに同じ作業場内で互いに並んで作業するばあいでさえ、行なわれるのである。いかにも、物的労働手段は、労働そのものよりさきに社会的性格を受け取るのである。〉(江夏・上杉訳337頁)

    こうした生産手段の充用上の節約は、ただ、それを多くの労働者が労働過程で共同で消費するということだけから生じているものです。そしてこうした共同で使用される生産手段は、個々別々に独立して分散して使用される小親方のもとで使用される生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働の社会的条件としての性格を受けとることになるのです。それは多くの労働者がただ場所的に集合して労働するという条件だけで生じているもので、それらの労働が社会的に結合されていない場合でも、ただ共同で使用される生産手段にはそうした社会的性格が生じてくるということなのてず。つまりこの場合、物的労働手段は、労働よりも先に社会的性格を受け取ることになるわけです。

    全集版〈労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものがそれを得るよりもさきに、得るのである。〉、初版〈労働手段の一部は、こういった社会的性格を、労働過程自体がこの性格を獲得する以前に、獲得しているのである。〉、フランス語版〈いかにも、物的労働手段は、労働そのものよりさきに社会的性格を受け取るのである。〉新日本新書版〈労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものが獲得する以前に獲得する。〉(566頁)、イギリス語版〈労働手段のある部分は、労働過程そのものが起動する以前から、このような社会的性格を獲得している。
    これはどういう事態をマルクスは述べているのでしょうか?
  〈この生産手段は、……社会的労働の条件または労働の社会的条件としてのこの性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで協力して労働するのではない場合にも、受け取る〉、フランス語版〈これらの生産手段が社会的労働条件としてのこういう性格……を獲得することは、集められた労働者が一つの共同作業に協力するのでなく、ただたんに同じ作業場内で互いに並んで作業するばあいでさえ、行なわれるのである。
    つまり生産手段そのものが社会的労働の条件に適合した社会的性格を持つということですが、それは労働そのものが社会的に結びついて支出されるからそうなるのではなく、ただ労働が同じ場所で並んで同時に支出されただけなのに、つまり労働そのものは社会的に結びついて支出されるのではなかったとしても、彼らが共同で使用する生産手段や、あるいは労働手段の一部は、社会的性格受け取るのだということです。
    これは具体的にはどういうイメージを持てばよいのでしょうか。多くの労働者がただ並んで作業するだけでも、彼らを収容する建物や照明器具などは共同で使用されます。つまり建物や照明器具は多くの労働を共同で収容したり照らしたりして、労働そのものはいまだ社会的に結びついていないのに、ただ同時に同じ場所で作業するというだけで社会的な性格を帯びて共同のものとして使用される事態を述べているのではないでしょうか。

    ところで、この点に関して、ついでに触れておきますと、イギリス語版の訳者はこの部分に次のような訳者注を付けています。

  〈( 訳者注: 読者が頭を叩く前に、データを呼び出しておこう。例えば、木を運ぶとか、石をどけるとか、広場を設けるとか、煉瓦を積むとか)〉(インターネットから)

 しかし果たしてこれは適切な注といえるかは疑問です。それこそこんな注を付けられたら読者は〈頭を叩く〉でしょう。

   ((3)に続く。)

 

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