『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(3)

2024-06-13 16:16:08 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(3)



◎第5パラグラフ(生産手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない)

【5】〈(イ)生産手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない。(ロ)第一には、この節約が商品を安くし、またそうすることによって労働力の価値を低下させるかぎりで。(ハ)第二には、それが、前貸総資本にたいする、すなわち総資本の不変成分と可変成分との価値総額にたいする剰余価値の割合を変化させるかぎりで。(ニ)このあとのほうの点は、この著作の第3部の第1篇ではじめて論究されるので、すでにここでの問題にも関係のあるいくつかのことも、関連上、そこで述べることにする。(ホ)このような、対象の分割は、分析の進行の命ずるところであるが、それは同時に資本主義的生産の精神に対応するものである。(ヘ)というのは、資本主義的生産にあっては、労働条件は労働者にたいして独立して相対するのだから、労働条件の節約もまた、労働者にはなんの関係もない一つの特殊な操作として、したがって労働者自身の生産性を高める諸方法からは分離された操作として、現われるのである。〉(全集第23a巻427頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 生産手段の節約は、一般には、二重の観点から考察されなければなりません。第一には、この節約が商品を安くし、またそうすることによって労働力の価値を低下させるかぎりにおいて。第二には、それが、前貸総資本にたいする、すなわち総資本の不変成分と可変成分との価値総額にたいする剰余価値の割合を変化させるかぎりにおいて。このあとのほうの点は、この著作の第3部の第1篇ではじめて論究されますので、すでにここでの問題にも関係のあるいくつかのことも、関連上、そこで述べることにします。

    このように共同で使用されることによる生産手段の節約は、ここではそれが生産物の価値を引き下げ、よって労働力の価値を下げて、相対的剰余価値の生産をもらたす限りで、ここでは私たちは問題にします。
    しかし第3部では同じ生産手段の節約を「不変資本充用上の節約」として考察します。つまり同じ生産手段の節約の問題ですが、『資本論』ではそれを論じるのが分離して論じることになるのです。
 以前、第3部は第1部、第2部で明らかにされた資本主義的生産の内在的諸法則が資本主義的生産の表面に転倒して現れてくる諸形象化が問題になると説明しましたが、その意味では第3部で扱う不変資本充用上の節約は、相対的剰余価値の生産の一つの契機として考察される生産手段の節約のその具体的な現象形態ともいうこともできるかと思います。
    そういう事情から生産手段の節約は、一般的に二重の観点から考察されなければならないわけです。第一には、その節約が商品の価値を引き下げ、よって労働力の価値を引き下げて、相対的剰余価値の生産をもたらすという観点からです。第二には、私たちが第3部で前貸総資本(不変資本+可変資本)と剰余価値との割合(すなわち利潤)を変化させるものとしての不変資本充用上の節約の問題としてです。第3部では不変資本充用上の節約としてさまざまな観点から論じられますが、ここで論じるべきことにはそれに関連するものもありますが、詳しくは第3部で論じることにするということです。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈{あるいはここで、協業のこの単純な形態は多くの産業部門で労働の諸条件の、たとえば燃料、建物、等々の、共同利用を許すものであることが想起されるかもしれない。しかしこのことは、ここではまだわれわれにかかわりがない。それは利潤のところで考察されるべきである。われわれがここで見ておかなければならないのは、必要労働と剰余労働との割合がどの程度まで直接に影響を受けるか、ということだけであって、投下された資本の総額にたいする剰余労働の割合が受ける影響ではない。このことは以下の諸項目においても堅持しなければならない。}〉(草稿集④413頁)

  (ホ)(ヘ) このように、考察の対象を分割することは、分析の進行の命ずるところなのですが、それは同時に資本主義的生産の精神に対応するものでもあるのです。というのは、資本主義的生産にあっては、労働条件は労働者にたいして独立して相対するのですから、労働条件の節約もまた、労働者にはなんの関係もない一つの特殊な操作として、したがって労働者自身の生産性を高める諸方法からは分離された操作として、現われるからです。

    このように生産手段の節約という同じ主題でありながら、一つはこの相対的剰余価値の生産で取り扱い、もう一つは第3部の利潤論で取り扱うという形で分離して取り扱うのは、
ただ分析の進行の命ずるところだと述べています。
    そしてそれは同時に資本主義的生産の精神にもかなったものだということです。というのは資本主義的生産においては、労働諸条件は労働者に対して独立して資本として相対しするからです。だからその節約も労働者には何の関係もない資本の操作として、いやむしろ労働者に敵対する操作としても現れるのです(例えば資本家は労働者を機械など運動から保護する安全装置などもできるだけ"節約"しようとするからです)。だからそれらは必ずしも労働の生産力を高めるものとは違ったものとしても現れるのです。だから後者ものは第3部で詳しく論じることになるわけです。


◎第6パラグラフ(同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という)

【6】〈(イ)同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という(10)。〉(全集第23a巻427頁)

  (イ) 同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業といいます。

    ここで初めて「協業」の規定がなされています。
    これまでにも同様のことが述べられてきましたが、そこではそれを「協業」とは述べてきませんでした。例えば第1パラグラフでは〈かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働く〉と述べられていました。しかしこれは資本主義的生産の出発点として述べられたものです。しかし資本主義的生産の出発点として述べられたものが、「協業」の規定とほぼ同じ内容であるということはどうでよいことではありません。それは協業は資本主義的生産が歴史的に開始されるとともに、あるいはそれが開始される条件としてあるということなわけだからです。
 そのあとマルクスは労働者を同じときに、同じ空間(場所)で、同じ種類の商品の生産のために同じ資本家のもとで働くという条件が、最初はそれは雇用される労働者数の量的相違をもらたすだけですが、しかしそれは平均労働への還元を最初から資本にもたらし、剰余価値の法則が貫徹する基礎を形成すること、さらにはその量的相違が生産手段に一つの革命をもたらすことを指摘し、そのあとやっとそうした作業様式を「協業」というのだと、規定しているわけです。どうしてこのような展開になっているのでしょうか。
    何度も紹介しますが、マルクスは第1パラグラフで〈かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている〉と述べています。つまり〈歴史的にも概念的にも〉そうしたことが言えるというのです。だからマルクスはこの「第11章 協業」と、次の「第12章 分業とマニュファクチュア」、さらに「第13章 機械と大工業」へと「相対的剰余価値の生産」の発展をあとづけるにおいて、それは資本主義的生産様式そのものの歴史的な発展過程に合致したものであると同時に概念的な(論理的な)発展過程でもあるものとしても論じようとしているのだと思います。
    だから「協業」も資本主義的生産そのものが歴史的に生まれてくる一つの契機として論じ、同時に資本主義的生産様式のもっとも基礎的な契機でもあると述べているのだと思います。ということで「協業」についても、今、この段階で初めて概念としてその規定をあたえるという展開になっているのではないでしょうか。
    すでに第11章の位置づけを論じるところで紹介しましたが、マルクスは『61-63草稿』で協業は資本主義的生産の〈基本形態〔Grundform〕であ〉り、それは分業にも、機械にもとづく作業場にもそれがベースとなっていて、むしろそれらは協業の特殊な様式にすぎないのだと述べています。しかし同時に、協業はそれ自体が特殊な形態であって、それがさまざまな特殊な諸形態に発展したものと並んでそれ自体が一つの単純なものとしても存在しているのだとも述べています。
    私たちはその単純に存在している協業をまずは対象にして分析を深めていくわけです。第6パラグラフ以前においては、協業の前提になる労働の社会的平均労働への還元であるとか、協業による外的諸条件(物的諸対象)における変革などが問題になりましたが、しかし第6パラグラフで協業を規定したあと、すなわち第7パラグラフ以降では、単純な協業そのものがもたらす生産力の発展が問題になっていくわけです。


◎原注10

【原注10】〈10 「諸力の協同。」〔“Concours de forces"〕(デステュット・ド・トラシ『意志および意志作用論』、80ページ。)〉(全集第23a巻427頁)

    これは第6パラグラフの最後に付けられた原注です。すなわち〈同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という(10)〉という一文に付けられたものです。「諸力の協同」という文言が引用されているだけです。
    今回の原注では簡単な引用だけですが、マルクスは『61-63草稿』はかなり詳しい引用を行っています。それを紹介しておきましょう。

  〈労働の生産性を増大させる手段として、デステュット・ド・トラシは次のような区別をしている。--
  (1)諸力の協同〔concours〕(単純協業)。「防禦が問題だとしようか? 10人の人間なら、彼らの一人ひとりを次次に襲うのであれば彼らを全滅させてしまったであろうような敵にたいしてでも容易に立ち向かっていくものである。重い荷物を運ぶ必要があるとしようか? たった一人の努力ではとても打ち勝てないような抵抗を示す重量物も、い/っしょに行動する数人の努力にはあっさりかぶとを脱ぐであろう。ある複雑な仕事の実行が問題だとしようか? いくつものことが同時になされなければならない。一人があることをしているあいだに別の一人は別のことをし、こうして、すべての人々が、一人だけでは生みだせないような結果に寄与するのである。一人が漕いでいるあいだに別の一人は舵をとり、第3の一人は網を投げたり、銛(モリ)で魚を突いたりし、こうして、漁業は、このような協力なしには不可能であろうような成果をあげるのである」(デステュット・ド・トラシ『イデオロギー要論。第四部および第五部。意志および意志作用論』、バリ、1826年、78ページ〉。この場合、この最後の協業では、すでに分業が行なわれている。なぜなら「いくつものことが同時になされなければならない」からである。しかし、これは、本来の意味での分業ではない。この3人は、協働活動のときにそれぞれただ一つのことをするだけではあるが、彼らは代わるがわる、漕いだり、舵をとったり、魚をとったりすることができる。これにたいして本来の分業の眼目は、「数人が互いにたすけあって働くとき、各人は、自分が最も優れている仕事にもっぱら従事することができる、云々」(同前、79ページ)ということである。〉(草稿集④420-421頁)

    なおデステュット・ド・トラシについては、以前、「第2篇」「第2節 一般的定式の矛盾」の原注14にでてきたときに『資本論辞典』から簡単に紹介しました。しかし『辞典』では、今回の協業や分業についてのデステュット・ド・トラシ論及についてはまったく触れていません。よって以前のものを再敬するだけにしておきます。

  《『資本論辞典』によれば、デステュット・ド・トラシ Antoine Louis Claude Destutt de Tracy (1754-1835)はフランスの哲学者ということです。〈彼はその主著の第4巻で経済学の原理を展開するが,マルクスはまず,リカードがその『経済学および課税の原理』において,価値の源泉を労働にもとめるデステュットの見解を労働を引用しているいきさつに触れる.デステュットは,たしかに富を形成するものがすべて労働を表示するというが,しかし他方ではそれらのものが労働の価値からその価値を受けとるとするのであって,特定商品(労働)の価値をまず前提し,しかる後に他の商品の価値を規定する俗流経済学の浅薄さを示している点を指摘するのである.……云々〉(517頁)》


◎第7パラグラフ(集団力でなければならないような生産力の創造)

【7】〈(イ)騎兵一中隊の攻撃力とか歩兵一連隊の防御力とかが、各個の騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に違っているように、個別労働者の力の機械的な合計は、分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、たとえば重い荷物を揚げるとかクランクをまわすとか障害物を排除するとかいうこと/が必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っている(11)。(ロ)このような場合には、結合労働の効果は、個別労働では全然生みだせないか、またはずっと長い時間をかけて、またはひどく小さい規模で、やっと生みだせるかであろう。(ハ)ここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなく、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのである(11a)。〉(全集第23a巻427-428頁)

  (イ) 騎兵一中隊の攻撃力とか歩兵一連隊の防御力とかが、各個の騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に違っていますように、個別労働者の力の機械的な合計は、分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、たとえば重い荷物を揚げるとかクランクをまわすとか障害物を排除するとかいうことが必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っています。

    ここからは単純な協業が独自に生みだす生産力について問題しています。
    すなわちこれは原注10のデステュット・ド・トラシからの引用文のなかでも〈「防禦が問題だとしようか? 10人の人間なら、彼らの一人ひとりを次々に襲うのであれば彼らを全滅させてしまったであろうような敵にたいしてでも容易に立ち向かっていくものである〉と触れられていましたが、騎兵一中隊の攻撃力とか歩兵一連隊の防御力というものは、
騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に異なる力を発揮するものだということです。
    このように、個別の労働者の力をただ機械的に合計しただけのものとは、同じだけの労働者を分割せずに同時に多数の手が同じ作業をする場合には、本質的に違った力が生じるものだということです。
    例えばこれもデステュット・ド・トラシからの引用文のなかで〈重い荷物を運ぶ必要があるとしようか? たった一人の努力ではとても打ち勝てないような抵抗を示す重量物も、いっしょに行動する数人の努力にはあっさりかぶとを脱ぐであろう〉と触れられていましたように、一緒に重い荷物を揚げるとか、あるいはクランクを回すとか障害物を排除するとかが必要なときに発揮される社会的な潜勢力は個別的な力とは本質的に違ったものなのです。

  (ロ)(ハ) このような場合には、結合労働の効果は、個別労働では全然生みだせないか、またはずっと長い時間をかけて、またはひどく小さい規模で、やっと生みだせるかのようなものです。だからここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなくて、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのです。

    このように結合労働の効果というものは、個別の労働ではまったく生みだせないものか、
あるいは個別労働では長い時間がかかるものであるとか、あるいはもっと小さい規模でやっとやれるようなものです。
    しかし注意が必要なのは、今問題にしているのは、協業によって個別的な生産力の総合力が増大するというようなこと(もちろんこれも重要ですが)ではなくて、それとは本質的に違った集団力とでもいうべき新たな生産力が生まれるという問題なのです。

    部分的に先取りするところもありますが、同じような問題を論じている『61-63草稿』から紹介しておきます。

    〈この協業の最古の形態の一つが、たとえば狩猟のなかに見いだされる。同様にそれは戦争のなかにも見いだされるが、戦争は人間狩り、つまり発展した狩猟にすぎない。たとえば一騎兵連隊の突撃がもたらす効果は、一人ずつ別個に取り出した連隊の個々の隊員ではもたらすことができないものであって、このことは、突撃のあいだに各個人が--彼がそもそも行動するかぎり--行動するのはただ個人としてでしかないにもかかわらず、そうなのである。アジアの大建築物はこの種の協業のもう一つの見本であるが、一般に建築では、協業のこの単純な形態の重要性が非常にきわだって現われるものである。小屋ならたった一人で建てもしようが、家屋の建築ともなれば、それには同時に同じことをする多数の人々が必要である。小さなボートならたった一人で漕ぎもしようが、ちょっと大きな舟ともなれば、それにはある数の漕手が必要である。分業では、協業のこの側面が倍数比例の原理として現われるのであって、〔分業の〕どの特殊的分肢にも〔同じ〕倍数が用いられなければならないのである。自動式の作業場では、その主要な効果は、分業にではなくて、多数の人々によって同時に遂行される労働の同一性にもとづいている。たとえば、同じ原動機によって同時に動かされるミュール精紡機をしかじかの数の紡績工が同時に見張っている、ということにもとづいているのである。〉(草稿集④409頁)


◎原注11

【原注11】〈11 「いくつもの部分に分割できないような単純な種類の作業でも、多くの人手の協力なしには遂行できないものがたくさんある。たとえば大きな材木を荷車に揚げること……要するに、分割されていない同じ仕事で同じときに非常に多くの人手が互いに助け合わなければできないようなすべてのもの……。」(ど・G・ウェークフィールド『植民の方法に関する一見解』、ロンドン、1849年、168ぺージ。)〉(全集第23a巻428頁)

    これは〈騎兵一中隊の攻撃力とか歩兵一連隊の防御力とかが、各個の騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に違っているように、個別労働者の力の機械的な合計は、分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、たとえば重い荷物を揚げるとかクランクをまわすとか障害物を排除するとかいうことが必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っている(11)〉という本文に付けられた原注です。
    これはウェークフィールドの著書からの引用ですが、多数の人手の協力になしには遂行できない作業が具体例をあげて論じられています。

  『61-63草稿』ではウェークフィールドの植民制度の功績について言及しながら、今回の注で引用しているものも紹介しています。

  〈つまり植民地では、とくにその発展の最初の諸段階では、ブルジョア的諸関係はまだできあがっておらず、古くから確立されている諸国とはちがってまだ前提されていない。それらはやっと生成しつつある。したがって、その生成の諸条件がより明瞭に現われる。この経済的諸関係はもともとから存在するものでもなければ、経済学者がともすると資本等々をそう理解しがちであるのとは異なり、でもない、ということが明らかになるのである。ウェイクフィールド氏が植民地でこの秘密を嘆ぎつけ、彼自身が驚いているという次第は、のちに見ることにしよう。ここではさしあたり、協業のこの単純な形態に関連する箇所を引用するにとどめよう。
  「諸部分に分割する余地がないような単純な種類の作業でも、多くの入手の協業なしには遂行できないものがたくさんある。たとえば、大木を荷車に積みあげること、穀物が成長している広い畑で雑草がのびないようにすること、大群の羊の毛を同時に刈りとること、穀物が十分に実りしかも実りすぎないときにその取り入れをすること、なにか非常に重いものを動かすこと、要するに、非常に多くの入手が、分割されていない同じ仕事で、しかも同時に、互いに助けあって行なう、というのでなければできないようなすべてのことである」(エドワド・ギボン・ウェイクフィールド『植民の方法に関する一見解、大英帝国への現在の関連で』、ロンドン、1849年、168ページ)。〉(草稿集④410頁)

    また『資本論辞典』からも紹介しておきましょう。

  ウェイクフィールド どdward Gibbon Wakefield (1796-1862) イギリスの経済学者・植民政策家.……/マルクスは『資本論』第l巻第7篇「資本の蓄積過程」第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」の例解において, 1830年前後のイギリス農業プロνタリアートの状態に関連して.『イギリスとアメリカ』の描写を引用するさい,ウェイクフィールドにたいし「この時期におけるもっとも重要な経済学者」という包括的な好備をあたえ、同篇第25掌に「近代植民税」のタイトルを附して,ウェイクフィールドの植民論の経済学的側面をとりあげている.
    ウェイクフィールドの諸著作をつうずるいわゆる「組織的植民」の骨子は,イギリス産業革命から1825年の恐慌をへて30年代にいたるあいだの.イギリスの資本の蓄積と大衆の窮乏,過剰資本と過剰人口の形成を論じ.その対策として植民地への資本輸出と植民.貿易の振興を目的とするイギリス自治植民地の開拓と育成を主張したものである.イギリス植民地政策における自由主義から帝国主義への過渡をあらわす一個の植民政策論であったが,その反面に古典派経済学にたいする種々の批判点を蔵していた.マルクスが「近代植民地説」としてとりあげた論点もその一つである.(以下略)〉(474頁)


◎原注11a

【原注11a】〈11a 「1トンの重さを揚げることは、1人にはできないし、10人でも努力が必要だが、100人でならばめいめいの指一本の力でもやることができる。」(ジョン・ベラーズ『産業専門学校設立提案』、ロンドン、1696年、21ページ。)〉(全集第23a巻428頁)

    これは〈ここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなく、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのである(11a)〉という本文に付けられた原注です。集団でなければできない力を発揮する例が紹介されています。
    草稿集にはベラーズの別の著書からの抜粋はありますが、協業に関連した『産業専門学校設立提案』からの引用はありませんでした。
    ここでは『資本論辞典』から紹介しておきます。

   ベラーズ John Bellers (c.I654-1725)イギリスのクウェイカー派(フレンド派)の博愛主義者・織物商人.その一生を,貧民のための授産所の経営,教育制度の改善,慈善病院の役立などの社会事業や.監獄の改革,死刑の廃止にささげた.……前者の著作(=『産業専門学校設立提案』--引用者)は,多数の業種にたずさわる労働者およびその家族を産業専門学校と称する施設に収容して,彼らに適当な教育と生活環境をあたえることを主張したものである.その経営は,富裕なひとびとの基金によっておこなわれるが.その企業の利益は,これをもっぱら労働者たちの生活向上のためにあてられるべきだと訴えている.マルクスは,彼を「経済学史上の非凡なる人物」と呼んで,この書の内容のいくつかをきわめて高く評価している.たとえばベラーズは,貨幣は商品にたいする社会的な担保物(pledge)をあらわすにすぎない,したがって貨幣は富それ自体とはいえない,むしろ真の富は土地や労働であると述べ,貨幣の蓄蔵形態は「死んだ資本」というべく.外国貿易に使用されるばあいのほかは,国になんらの利益をももたらさないと記している.またベラーズは,協業は個別的生産力をますばかりでなく,集団力としてのひとつの生産力の創造であるとして,協業の利益を示唆したり,機械と労働者との闘争に言及して労働日の規制を主張したり,社会の両極に持てるものの富裕化と持たざるものの貧困化をつくりだす資本主義社会の教育/と分業との組織を排除せよと訴えたり,労働者の労働こそ富めるひとびとの富裕化の源泉だととなえたりしている.17世紀の末に,すでに,マニュファクチュア時代の資本主義的生産の諸矛盾について,これだけの洞察をなしている点で,イーデン もまた.ベラーズをその著作でしばしば引用している.〉(549-550頁)


◎第8パラグラフ(単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高める)

【8】〈(イ)多くの力が一つの総力に融合することから生ずる新たな潜勢力は別としても、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個別労働者または引き続き12日間労働する1人の労働者が供給する総生産物よりも、ずっと大きいのである(12)。(ロ)このことは、人間は生来、アリストテレスが言うように政治的な動物(13)ではないにしても、とにかく社会的な動物だということからきているのである。〉(全集第23a巻428頁)

  (イ) 多くの力が一つの総合力に融合することから生ずる新たな潜勢力は別にして、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個別労働者または引き続き12日間労働する1人の労働者が供給する総生産物よりも、ずっと大きいのです。

    今度は協業がもたらす生産力の発展のもう一つの側面です。すでに指摘しました、多くの力が一つの総合力に融合することによって発揮される新たな潜勢力は別にしましても、多くの人が一緒に労働することによって互いに刺激し合い、競争心や活力を引き出して、それぞれの個別的な作業能力を高めるという問題です。だから12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日が供給する総生産物は、めいめいが個別に12時間ずつ労働して生みだす12人分の総生産物や一人が12日間続けて労働して生みだす総生産物よりも、ずっと大きくなるということです。
    これは有名な秀吉の一夜城や、家康の江戸城普請でも、城壁の石垣作りを各大名に分割担当させ、互いに競争させたなどの例が思い浮かべられます。

    新日本新書版では〈単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして〉という部分は〈単なる社会的接触によって、生気("動物的精気*")の独自な興奮と競争心とが生みだされ〉と訳され、*印の「動物的精気」に次のような訳者注が付いています。

  〈脳髄から発して運動や感覚を生む微妙な流動体。アリストテレスやデカルトなどの仮説で、中世哲学では、自然精気(肝臓に発し生長などを促す)、活力精気(心臓に発し熱と命を与える)と区別された〉(569頁)

  (ロ) このことは、人間は生来、アリストテレスが言うに政治的な動物ではないにしても、とにかく社会的な動物だということからきているのです。

    こうした効果は、人間は生来、アリストテレスがいうような政治的動物ではないにしても、社会的な動物だということから来ているのです。

   〈政治的な動物〉には原注13が付いていますが、新日本新書版では同じところに次のような訳者注も付いています。

  〈『政治学』、第1巻、第2章。山本光雄訳、『アリストテレス全集』15、7ページ。同訳、岩波文庫、35ページ〉(569頁)

 そこで『アリストテレス全集』15から該当個所を少し前から紹介しておきましょう(太字は該当する箇所と思われる部分)。

  〈しかし、二つ以上の村からできて完成した共同体が国である、これはもうほとんど完全な自足の限界に達しているものなのであって、なるほど、生活のために生じてくるのではあるが、しかし、善き生活のために存在するのである。それ故にすべての国は、もし最初の共同体も自然に存在するのであるなら、やはり自然に存在することになる、何故なら国はそれらの共同体の終極目的であり、また自然が終極目的であるからである。何故なら生成がその終極に達した時に各事物があるところのもの--それをわれわれは各事物の、例えば人や馬や家の自然と言っているからである。さらに或る事物がそれのためにあるところのそれ、すなわち終極目的はまた最善のものでもある、しかし自足は終極目的であり、最善のものでもある。/
  そこでこれらのことから明らかになるのは、国が自然にあるものの一つであるということ、また人間は自然に国的動物であるということ、また偶然によってではなく、自然によって国をなさぬものは劣悪な人間であるか、あるいは人間より優れた者であるかのいずれかであるということである、〉(6-7頁)


◎原注12

【原注12】〈12 「またそこには」(同じ人数が、10人の借地農によって30エーカーずつの土地でではなく、1人の借地農によって300エーカーの土地で使用される場合には)「農僕の数における一つの利益があるのだが、それは実際家似外の人にはたやすく理解されないであろう。4に対する1は、12に対する3に等しい、と言うのは当然であるが、それは実際にはあてはまら/ないであろう。なぜならば、収穫時やその他の同様に急を要する多くの作業では、多くの人手をいっしょにすることによって、仕事はもっと良くもっと速くなされるからである。たとえば、収穫時には、2人の御者、2人の積み手、2人の投げ手、2人の掻き手、その他わら積みをしたり穀倉にいる人々は、同数の人手が別々の農場で別々の組に分かれている場合にする仕事の2倍の仕事を片づけるであろう。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究』、一農業家著、ロンドン、1773年、7、8ページ。)〉(全集第23a巻428-429頁)

    これは〈多くの力が一つの総力に融合することから生ずる新たな潜勢力は別としても、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個別労働者または引き続き12日間労働する1人の労働者が供給する総生産物よりも、ずっと大きいのである(12)〉という部分に付けられた原注です。
    アーバスノトが述べているものはやや分業の契機も入っているように思われますが、最初の部分で述べように、同じ人数が10人ずつに分割され働かされるよりも、1人の借地農業者によって10倍大きな土地で一緒に働かせた方が一つの利益があると述べており、労働者たちが互いに刺激し合い、競争心や活力などの興奮を生みだすというようことは必ずしも指摘していませんが、マルクスはそうした内容を含んでいると考えたのだと思います。
  『61-63草稿』でも、若干数値に相違がありますが、同じような引用がされていますので、紹介しておきましょう。

  単純協業。「一農場での彼らの(元小屋住み農夫たちの)共同労働による場合のほうが、各自が小さな土地で1人で休みなく働かなければならない場合よりも、生産物の増加は大きいであろう。」(同前、128ページ。)
  「また使用人の比率の面で(同数の人が、3人の農場主によって100エーカーずつの土地で使用されるのではなく、1人の農場主によって300エーカーの土地に集められる場合には)利点があるが、その利点は、実際家たちによってしかたやすくは理解されないであろう。というのは、1対4は3対21と同じであるということは当然であるが、そのことは、実際にはうまくあてはまらないだろうからである。というのは、収穫時には、またあの種の敏速さを要する他の多くの作業では、多くの入手を一度に投入することによって、仕事は、よりよく、かつより速くなされるからである。たとえば、収穫時には、2人の御者、2人の荷積み人、2人の投げ込む入、2人の掻き集める人、そして穀物置き場や納屋にいる残りの人々は、同数の人手が別々の農場で別々のグループに分かれた場合にそうするであろう仕事を2倍速く片付けるであろう。」(同前、7、8ページ。)〉(草稿集⑨454頁)


◎原注13

【原注13】〈13 アリストテレスの定義は、元来は次のようにいうのである。人間は、生来、市民である、と。この定義は、古典的古代の特徴を表わすもので、それは、人間は生来道具をつくる動物だ、というフランクリンの定義がヤンキー気質の特徴を表わしているのに似ている。〉(全集第23a巻429頁)

    これは〈アリストテレスが言うように政治的な動物(13)ではないにしても〉という本文に付けられた原注です。
    実際のアリストテレスの定義は、人間は、生来、市民である、というものだということです。(これは先に紹介した『アリストテレス全集』では〈人間は自然に国的動物である〉となっています)。この定義は古典古代の特徴を表すものであり、古代の都市国家の構成員である市民こそが本来的な人間であるということでしょう。ということは奴隷などは人間ではないということにほかなりません。
    それはフランクリンが人間を道具をつくる動物だと規定したのが、ヤンキー気質を表すのと似ているというのですが、要するにそそれぞれの時代背景があってこうした定義も出てきたのだということでしょうか。

    アリストテレスについては『資本論辞典』から概要を紹介しておきます。

  アリストテレス Aristoteles(紀元前384-322)ギリシヤの哲学者. ……アリストテレスは、プラトンの分析的なイデア鈴にたいして弁経法的な形相(形態)論をたて,古代において観念弁経法に最高の思弁形式をあたえた.マルクスのヘーゲリアンとしての学位論文『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』はアリストテレスを典拠としている.「古代ギリシャの哲学者中,もっとも博学な頭脳」,「すでに弁駐在長的思惟のもっとも根本的な緒形式を探求した」というエンゲルスの評価(『Anti-Dühring』)は,マルクスと共有のものであろう.経済学に入ってからのマルクスも.アリストテレスの名を尊敬の念をもって呼ぴ.アリストテレスは「きわめて多くの思惟形態・社会形態および自然形態と同じように,価値形態をはじめて分析した」といい,彼が商品規定や貨幣規定へ深い洞見をしめしている点を称揚している.(以下、略)(469頁)

    フランクリンの定義については、以前、第3篇第5章第1節 労働過程で出て来ましたが(⑤パラグラフ)、そのときに『資本論辞典』からの紹介を行いましたので、それを再掲載しておきます。

  フランクリン Benjamin Franklin (1708-1790) アメリカの政治家.ボストンに生まれ,はじめは出版業者・科学者.1757年からは政治家.外交官として活躍.アメリカ独立運動では大きな役割を演じ,1776年には独立宣言起草委員に任命され,1787年憲法制定会議では大小の州のあいだの利益調停のため努力した.またアメリカにおける啓蒙運動のもっとも署名な代表者として,著述家でもあった.生まれながらの自由主義者,功利主義者であり,典型的なアメリカ人であり,マルクスも,彼をブルジョア的生産諸関係が輸入されて急速に生長した新世界の人だと評価し,彼の"人間は道具をつくる動物だ"という言葉はヤンキー主義の特徴を示すものとした.マルタスは,彼が,ウィリアム・ペティ以後はじめて商品価値の本性が労働であることを意識的に明確にした人であり,"近代的な経済学の根本法則を定式化した"人と高く評価……『資本論』第1巻第4章では,彼の"戦争は盗奪であり,商業は詐取である"という言葉を引用して,それは,商品所有者間に寄生的に介在する商人の詐取的な性格を示すものとしている。(KⅠ-171-172:青木2-310-311 ;岩波2-40-41)……以下略〉(540頁)

   ((4)に続く。)

 

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