『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(6)

2024-04-19 00:51:54 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(6)



【12】〈(イ)商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもよいのである。(ロ)彼が関心をもつのは、ただ商品に含まれていて販売で実現される剰余価値だけである。(ハ)剰余価値の実現は、おのずから、前貸しされた価値の補填を含んでいる。(ニ)ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例して低下するのだから、つまりこの同じ過程が商品を安くすると同時に商品に含まれる剰余価値を増大させるのだから、このことによって、ただ交換価値の生産だけに関心をもっている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかという謎(ナゾ)が解けるのである。(ホ)この矛盾によって、経済学の創始者の一人であるケネーは彼の論敵たちを悩ましたのであり、それにたいしてこの論敵たちは彼への答えを借りっぱなしにしていたのである。(ヘ)ケネーは次のように言っている。
(ト)「諸君も認めるように、生産を害することなしに、工業生産物の製造における費用を、または費用のかかる労働を、節約することができればできるほど、この節約はますます有利である。というのは、それは製品の価格を下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、工業者の労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値の増大にある、と信じているのだ(6)。」〉(全集第23a巻421頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもよいのです。彼が関心をもつのは、ただ商品に含まれていて販売で実現される剰余価値だけだからです。剰余価値の実現は、おのずから、前貸しされた価値の補填を含んでいます。

  資本家の関心は彼の商品の売り上げ総額ではなくて、そこから経費を差し引いた、純利益でありますように、商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、ある意味ではどうでもよいのです。彼が関心をもつのは、ただその商品に含まれていて販売によって実現される剰余価値だけなのですから。剰余価値が実現できるということは、前貸しされた価値(不変資本と可変資本)の補填を当然含んでいます。なぜなら、実現した価値総額から前貸し資本の価値を差し引いたものこそが、すなわち剰余価値だからです。

  (ニ) ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例して低下するのですから、つまり同じ過程が一方では商品を安くすると同時に他方では商品に含まれる剰余価値を増大させるのですから、このことによって、ただ交換価値の生産だけに関心をもっている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかという謎(ナゾ)が解けます。

  すでに指摘しましたように、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大します。それに反して、一商品の価値は労働の生産力の発展に反比例して小さくなります。つまり同じ過程が一方では商品を安くし、同時に他方では、商品に含まれている剰余価値を増大させるのです。つまり一商品の全体の価値そのものは小さくなるのに、そのなかに含まれている剰余価値は大きくなるということです。これは一見すると一つの矛盾です。価値が小さくなるのに大きくなるのですから。
  しかしこの矛盾から、ただ交換価値の生産だけに関心をもっている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかという謎が解けます。彼は商品の価値を引き下げることによって、相対的剰余価値を増大させようとしているわけです。
  『61-63草稿』から引用しておきます。

   〈このところで、次の二つのことが注意されなければならない。--
    第一に。交換価値を目的とし交換価値によって支配される生産が個々の生産物の価値の最小限を追い求めるということは、一つの矛盾のように見える。しかし、生産物の価値それ自体は、資本主義的生産にとってはどうでもよいことである。それの目的は、できるかぎり大きな剰余価値の生産である。だからまたそれは、個々の生産物の、個々の商品の価値によって規定されているのではなく、剰余価値の率によって、つまり商品のうち可変資本を表わす部分の、その変化量にたいする、すなわち可変資本の価値を超えて生産物に含まれている剰余労働にたいする比率によって規定されている。それの目的は、個々の生産物が、だか/らまた生産物総量ができるだけ多くの労働を含むということではなくて、できるだけ多くの不払労働を含むということなのである。〉(草稿集⑨391-392頁)

  (ホ)(ヘ)(ト) この矛盾によって、経済学の創始者の一人であるケネーは彼の論敵たちを悩ましたのです。それにたいしてこの論敵たちは彼への答えを借りっぱなしにしているのです。ケネーは次のように言っています。「諸君も認めるように、生産を害することなしに、工業生産物の製造における費用を、または費用のかかる労働を、節約することができればできるほど、この節約はますます有利である。というのは、それは製品の価格を下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、工業者の労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値の増大にある、と信じているのだ。」

    しかしこれは一つの矛盾です。商品の価値にだけ関心がある資本家が、なぜ商品の価値を引き下げようとするのか。自分の獲得する価値の増大を求める資本家が、どうして商品の価値を引き下げようと努力するのか。この謎を論敵たちにぶつけたのが、かの経済学の創始者であるケネーでした。それに対して論敵達はそれに答えることがいまだにできていないのです。ケネーは次のように述べています。
    「諸君も認めるように、生産を害することなしに、工業生産物の製造における費用を、または費用のかかる労働を、節約することができればできるほど、この節約はますます有利である。というのは、それは製品の価格を下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、工業者の労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値の増大にある、と信じているのだ。」と。


◎原注6

【原注6】〈6 “Ils conviennent que plus on peut,sans préjudice,épargner de frais ou de travaux dispendieux dans la fabrication des ouvragee des artisans,plus cette épargne est profitable par la diminution des prix de ces ourages,Cependant ils croient que la production de richesse qui résulte des travaux des artisans cosiste dans I'augmentation de la valeur vénale de leurs ouvrages"(ケネー『商業および手工業者の労働に関する対話』、188、189ページ。)〉(全集第23a巻421頁)

    これは本文のケネーの一文の最後に付けられた原注です。これはその典拠を示すとともに、その全文を原文で紹介しています。初版も同じですが、フランス語版は次のように簡単なものになっています。

  〈(7) ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』、188、189ページ(デール版)。〉(江夏・上杉訳332頁)

  また新日本新書版でも次のようになっています。

  〈ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』(所収『重農主義学派』デール編、第1部、パリ、1846年)、188、189ページ〔堀新一訳『商業と農業』、有斐閣、226ページ〕。〉(559頁)

  草稿集⑨ではケネーのこの著作に言及しているところはありますが、同じ部分を引用しているところはありませんでした。ここでは『資本論辞典』から概要を紹介しておきます。

    ケネーFrancois Quesnay (1694-1774)フランスの外科医・経済学者・重農学派(Physiocratie)の祖.……/哲学上の立場は,当時の啓蒙哲学の傾向をうつしてイギリスのロックならびに.彼を大陸に移植して感覚論を体系化したフランスのコンディヤックの影響がつく,感覚論的・唯物論的特徴をうち出すが,それと同時にフランス伝来のデカルト哲学, とくにマルブランシュの哲学の影響が決定的であり,この二つの相反する傾向が対立し,矛盾をはらみながら結びつく.ケネーのこのような哲学上の立場は,その経済思想の性格と照らしあわせてわれわれの興味をよぶ./
    彼は《百科全書》に<借地農論>および<穀物論>をよせたが,これらの論稿はフランスに移植された<政治算術>の方法に立脚する農業経済の実証的研究である.かかる実証的研究は.もともと生理学者らしい信条にもとづいて,社会という体躯を支配する自然的秩序を解明し.とくに経済生活の自然的組織を貫ぬく物理的法則をあきらかにするために行なわれたものであるが,しかもこのような意図のうちに,現状の批判,なかんずくフランス重商主義批判の動機がふくまれているのである.批判の対象となった社会はいうまでもなく,アンシャン・レジーム下の経済的に荒廃し.財政的に破綻に瀕した農業国フランスであり,解決の狙いは農業経営の資本主義化である.……/
    ケネーがその論稿<経済表の分析>(1767) に掲げた<定式> は,各階級間の個別的流通行為を階級間の大量運動として総括的に示すものであり,社会的総資本の再生産過程を端的にあらわそうとしたものである./
    マルクスは《経済表》をもって. したがってまた重農主義の理論的立場をもって,商品資本循環の方式(W'-G'-W…P…W')を基礎とするものと解する. W'...W'〔商品資本循環の形式〕はケネーの《経済表》の基礎をなすものであり.彼が(重商主義によって固執された形式)G…G'(商業資本の循環形態〕に対立するものとしてむしろこの形式を採り.〔生産工程の目的はひっきょう生産そのものにあると考えさせやすい)P…P〔生産資本循環の方式〕を採らなかったことは,彼の手際の偉大にしてかつ正しかったことを示すのである.マルクスのこうした把握は,重商主義にたいする重農主義の対決の基礎をあきらかにしようとする動機と深く結びついている.……(以下、略)〉(487-488頁)


◎第13パラグラフ(労働の生産力の発展による労働の節約は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的としてはいない)

【13】〈(イ)こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約(7)は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的と/してはいないのである。(ロ)それは、ただ、ある一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮を目的としているだけである。(ハ)労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間にたとえば以前の10倍の商品を生産するようになり、したがって各1個の商品には10分の1の労働時間しか必要としないということは、けっして、相変わらず彼を12時間働かせてこの12時間に以前のように120個ではなく1200個生産させることを妨げないのである。(ニ)それどころか、それと同時に彼の労働日が延長されて今度は14時間で1400個を生産するようなことになるかもしれない。(ホ)それだから、マカロックとかユアとかシーニアとかいうたぐいのもろもろの経済学者たちの著書を見ると、あるページには、生産力の発展は必要な労働時間を短縮するのだから労働者はそれを資本家に感謝するべきだ、と書いてあり、次のページには、労働者は10時間ではなく今後は15時間働いてこの感謝を表わさなければならない、と書いてあるのである。(ヘ)労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのである。(ト)このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるであろう。(チ)次にこの方法の考察に移ろう。〉(全集第23a巻421-422頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的とはしていません。それは、ただ、ある一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮を目的としているだけです。労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間にたとえば以前の10倍の商品を生産するようになり、したがって各1個の商品には10分の1の労働時間しか必要としないということは、けっして、相変わらず彼を12時間働かせてこの12時間に以前のように120個ではなく1200個生産させることを妨げないのです。それどころか、それと同時に彼の労働日が延長されて今度は14時間で1400個を生産するようなことになるかもしれません。

 こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約は、個別資本には特別剰余価値を、資本全体では相対的剰余価値の増大を目的としているわけですから、資本主義的生産においてはけっして労働時間の短縮を目的とはしていないわけです。
    それはただある一定の商品量に必要な労働時間の短縮を目的としているだけですから、労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間に以前の10倍の商品を生産することができるようになった、ということは各1個の商品の生産に以前の10分1の労働時間しか必要でなくなったからといって、彼を相変わらず12時間働かせて、12時間にうちに120個ではなくて、1200個を生産させることを妨げないのです。それどころか、資本は彼の労働日をさらに延長させて、12時間ではなくて14時間(フランス語版では18時間)働かせて、14時間で1400個(同1800個)の商品を生産させるようなこともありうるわけです。

  (ホ) それだから、マカロックとかユアとかシーニアとかいうたぐいのもろもろの経済学者たちの著書を見ると、あるページには、生産力の発展は必要な労働時間を短縮するのだから労働者はそれを資本家に感謝するべきだ、と書いてあり、次のページには、労働者は10時間ではなく今後は15時間働いてこの感謝を表わさなければならない、と書いてあるのです。

    それだから、マカロックとかユアとかシーニアという資本におべっかを使う経済学者たちは、あるページでは、生産力の発展は必要な労働時間を短縮するのだから、労働者はそれに感謝すべきだなどと書いていながら、次のページでは、労働者は10時間ではなくて、15時間働いてこの感謝の気持ちを表さなければならないなどと平然と書いているわけです。
    マルクスはマカロックについて口を極めて非難しています。以前にも紹介しましたが、次のように書いています。

   〈〔マカロックは、〕リカードの経済学を俗流化した男であり、同時にその解体の最も悲惨な象徴である。彼は、リカードだけでなくジェームズ・ミルをも俗流化した男である。
  そのほか、あらゆる点で俗流経済学者であり、現存するものの弁護論者であった。喜劇に終わっているが彼の唯一の心配は、利潤の低下傾向であった。労働者の状態には彼はまったく満足しているし、一般に、労働者階級に重くのしかかっているブルジョア的経済のすべての矛盾に満足しきっている。〉(全集第26巻Ⅲ219-220頁)
    マカロックは、徹頭徹尾リカードの経済学で商売をしようとした男であって、これがまた彼にはみごとに成功したのである。〉(同224頁)

    ユアについて、マルクスは〈工場制度の破廉恥な弁護者としてイギリスにおいですら悪名の高いあのユア〉(草稿集⑨208頁)という表現をとっています。しかしマルクスは同時に〈彼は、工場制度の神髄をはじめて正確に把握し、自動作業場とA・スミスによって重要問題として論じられた分業にもとづくマニュファクチュアとの差異対立を鮮明に描いたのである。(あとで引用しよう。)能力の等級制の廃棄、「分/業」の背後でゆるぎなく固められた専門的技能の破砕、それとともに受動的な従属--それと結びついた専門的規律、統制、時針そして工場法への服従--〔これらのすべてを〕彼は、これから若干の抜き書きでみるように、非常に正確に指摘している。〉(同208-209頁)とその業績を正確に評価しています。工場制度に関して、ユアとエンゲルスの『状態』とを比べて、次のように述べています。

  〈ユア博士とフリードリヒ・エンゲルスの両著作は、無条件に、工場制度にかんする最良のものである。両者は、エンゲルスがその自由な批判者として述べていることを、ユアがこの制度のしもべとして、この制度の内部にとらわれたしもべとして述べているという点を別にすれば、内容は同じものである。〉(同216頁)

    また以前「第7章 剰余価値率」の「注32a」で『資本論辞典』から紹介したことがありますので、それを再掲しておきます。 

    ユア Andrew Ure (1778-1857)イギリスの化学者・経済学者.……彼の経済学上の主著には『工場哲学』(1835)がある. そこでは,当時の初期工場制度における労働者の状態が鮮細に記述されているのみならず,機械や工場制度や産業管理者にたいする惜しみなき讃美と無制限労働日のための弁解とが繰返されている.……彼の視点はまったく工場主の立場のみに限られ,一方ではシーニアと同じく工場主の禁欲について讃辞を呈するとともに.他方では断乎として労働日の短縮に反対する.そして1833年の12時間法案を‘暗黒時代への後退'として.罵倒するのみならず,労働者階級が工場法の庇護に入ることをもって奴隷制に走るものとして非難する(KⅠ-284,314:青木3-469,509:岩波3-235,284)というごとく露骨をきわめている.〉(572頁)

    シーニアについては、「第7章 剰余価値率」の「第3節 シーニアの「最後の1時間」」で問題にしましたので、特に解説は必要ないでしょう。

  (ヘ)(ト)(チ) 労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのです。このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるのか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるでしょう。次にその方法の考察に移りましょう。

    資本主義的生産における労働の生産力の発展は、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、その分、労働者が資本家のためにただで働く部分をできるだけ延長することを目的にしているのです。
    こうしたことは、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるのかは、相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法によって検討されます。次にその検討に移りましょう。


◎原注7

【原注7】〈7 (イ)「自分たちが支払わなければならないであろう労働者たちの労働をこんなに節約するこれらの投機師たち。」(J・N・ビド『大規模製造機械により工業技術と商業とに生ずる独占について』、パリ、1828年、13ページ。)(ロ)「雇い主は、つねに全力をあげて時間と労働とを節約しようとするであろう。」(デュガルド・ステユアート『経済学講義』、所収、サー・W・ハミルトン編『著作集』、第8巻、エディンバラ、1855年、318ページ。)(ハ)「彼ら」(資本家)「が関心をもつのは、自分たちが使用している労働者の生産力ができるだけ大きいということである。この力を増進することに彼らの注意は向けられており、しかもほとんどただそれだけに向けられている。」(R・ジョーンズ『国民経済学教科書』、第3講。〔大野訳『政治経済学講義」、72ページ。〕)〉(全集第23a巻頁)

    これは〈こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約(7)は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的としてはいないのである〉という本文に付けられた原注です。
    三人の経済学者の三つの著書からの引用がなされています。借りのこの三つの引用を(イ)(ハ)に分けて示すと、(イ)(ロ)は資本が労働の節約に熱心であることを、(ハ)は労働の生産力を高めることに注意を向けていることを指摘しています。

    これらの著者とその文献からの引用は、『61-63草稿』で次のように抜粋されています。

    〈「資本家階級は、はじめは部分的に、ついでついには完全に手仕事の必要から解放される。彼らの関心事は、彼らが使用している労働者の生産力を可能なかぎり最大にすることでありる。この力を増進することに彼らの注意は集中されており、しかもほとんどもっぱらそれだけに集中されている。思考は、ますます人間の勤労のあらゆる目的を達成させる最良の手段に向けられる。知識は広がり、その活動領域を倍加し、勤労に力を貸すのである」(リチャド・ジョウンズ『国民経済学教科書』、ハートファド、1852年)(第3講、[39ページ〔日本評論社版、大野清三郎訳『政治経済学講義』、72ページ。]
    「雇主はつねに、時間と労働とを節約するために全力をつくすであろう」(ドゥーガルド・スティーアト『経済学講義』、ハミルトン編『著作集』、第8巻、318ページ。「そうでなければ自分たちが支払わなければならなかったであろう労働者たちの労働をこんなに節約するこれらの投機家たち」(J・N・ビド『大規模製造機械により工業技術と商業とに生じる独占について』、第2巻、パリ、1828年、13ページ)。〉(草稿集④490-491頁)

   なおビドについては『資本論辞典』に記載はありませんので、全集版の人名索引から、ステュアートとジョーンズについては『資本論辞典』からその概要を紹介しておきます。

  ビド,J.N. Bidaut,J.N.(19世紀前半)フランスの官吏,経済問題についての著述がある.〉(全集第23b巻78頁)

   ステュアート デュゴルドDugald Stewart (1753-1828) スコットランドの哲学者・経済学者.……ステュアートのこの《経済学講義》は.マルクスにとっては,学説として批判の対象となるほどの意義はみとめられなかったようである.ステュアートの名は『資本論』以前のマルクスの著作のなかには.みいだすことができない.『資本論』でも,第1巻のいわゆる‘より多く歴史的に叙述'された部分.とくにそのうちの第4篇の‘相対的剰余価値の生産'を論じた部分で,主として分業に関連した四箇所ばかり,彼の著作に典拠がもとめられ注として利用されているにすぎない.これらの点を考えあわせると,マルクスAが1866年当時<労働日>にかんする篇を歴史的に拡張することをこころみたころ,もっぱら資料的価値をもつものとして,ステュアートの講義もとりあげられたのではないかとおもわれる.〉(506頁)

  ジョーンズ Richard Jones(1790-1865)イギリスの経済学者.……/
  ジョーンズの主題は,1830年以降ようやく歴史の舞台に登場してきた労働者階級の現状および将来という問題であった.いいかえれば,労働者階級の所得である賃銀がいかにして決定されているかをみずからの研究の主題とした.……/
  マルクスは《剰余価値学説史》第3部において.《遺稿集》をのぞき,ジョーンズの諸著を全面的にとりあげ,批判している.マルクスは《地代論》を批判して,ジョーンズの貢献をつぎのように把握しているが.これは,ジョーンズの著作全体に妥当するものと考えられる.‘この最初の地代にかんする著述は,……すべてのイギリスの経済学者に欠けているところの生産様式の歴史的差別の理解をもってすぐれている.すなわちイギリス古典派経済学者スミス、リカード等が資本主義的生産様式を絶対的かつ自然的なものとしてとりあつかっているのにたいし. ジョーンズがそれを歴史的・可変的な生産様式としてとりあげたところに,ジョーンズに最大の功績をあたえている.すなわち.ジョーンズは資本主義社会を,地代の形態からは,第一に,土地所有が生産を, したがって社会を支配する関係でなくなったときに,第二に,農業そのものが資本主義的生産方法で営まれるときにはじめてあらわれてくる土地所有形態として把握し.また労働元本の形態からみたそれを,労働元本が‘収入から貯蓄され利潤の目的をもって賃銀を前払いするのに使用される富,すなわち資本'としてあらわれてくる社会,いいかえれば労働者の生活手段はそれが賃労働と対立するとき,資本の形態をとってあらわれてくることを正しく把握した.マルクスは,前資本主義的諸関係のジョーンズの分析を高く評価するとともに,この資本主義把握にジョーンズの最大の功績をみとめ,‘ジョーンズをして.おそらくシスモンディをのぞくすべての経済学者にたいして優越せしめている点は,彼が資本の社会的形態を本質的なものとして強調した点であり,また資本主義的生産様式の他の生産様式にたいする差異をすべてこの形態規定上の区別に還元する点である.と述べている.……(以下、略)〉(501-502頁)

 (付属資料に続きます。)

 

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