『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(6)

2024-03-14 15:13:14 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(6)


【付属資料】(2)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

  〈競争がひき起こすものは、利潤の均等化--つまり諸商品の価値平均価格への還元である。個々の資本家は、マルサス氏の言うように、自分の資本のあらゆる部分について均等な利潤を期待する--これは言い換えれば、個々の資本家が資本のあらゆる部分を(その有機的な機能を無視して)利潤の独立な源泉とみなすということ--資本のあらゆる部分が彼にはそのように現われるということ--にほかならない、それと同じように、それぞれの資本家は、資本家の階級にたいして、自分の資本を、あらゆる他の同じ大きさの資本が個々の資本家にもたらすのと同じ大きさの利潤の源泉とみなすのである。すなわち、ある特殊な生産部面のそれぞれの資本は、総生産前貸しされている総資本の部分とみなされるにすぎないのであって、それぞれの資本は、--その大きさ、その持ち分に比例して--それが総資本の一可除部分であるのに比例して、総剰余価値にたいする--不払労働または不払労働生産物の全体にたいする--その分けまえを要求するのである。こうした外観は資本家にたいして--資本家には一般にすべてのことが競争のなかで転倒して見えるのである--次のことを保証する、またそれは資本家にたいしてだけでなく、若干の、資本家に最も傾倒しているパリサイの徒や学者たちにたい/しでも次のことを保証する。すなわち、資本は労働とは独立な所得源泉だということである。というのは、実際に、それぞれの特殊な生産部面における資本の利潤は、けっして、ただ、自分で「生産する」ところの不払労働の量によってのみ規定されているのではなく、これは総利得の壷(ツボ)のなかに引き寄せられるのであって、そこから個々の資本家は総資本にたいしてもつ自分たもの持ち分に比例して取り分を引き出すのだからである。〉(草稿集⑥87-88頁)
 〈{先に見たように、A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。この両方の把握が、彼においては、素朴に交錯しており、その矛盾に彼は気づいていない。これに反して、リ力ードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。彼が非難されるべきことは、一方では、彼の抽象がまだ十分であるにはほど遠く完全に十分ではない、ということである。したがって、たとえば彼は、商品の価値を理解する場合に、すでに早くもあらゆる種類の具体的な諸関係への考慮によって決定的な影響を受けることになっている。他方では、彼が非難されるべきことは、彼が現象形態を、直接にただちに、一般的な諸法則の証明または説明と解して、それをけっして展開していない、ということである。前者に関して言えば、彼の抽象はあまりにも不完全であり、後者に関して言えば、それは、それ自体まちがっている形式的な抽象である。}〉(同145頁)
 〈リ力ードウの場合に一面性が出てくるのは、次のようなことからである。すなわち、彼は一般にいろいろな経済的/諸範疇または諸関係が価値理論と矛盾しないことを証明しようとするのであって、逆にそれらを、それらの外観的な諸矛盾とともに、この基礎〔価値理論〕から展開することはやっていないということ、すなわち、この基礎そのものの展開を明示することはやっていない、ということである。〉(同212-213頁)
  〈経済学は、A・スミスにおいてある一定の全体にまで発展し、それが包括する領域はある程度まで確定された。だからこそ、セーは経済学を一冊の教科書のなかに浅薄に体系的にとりまとめることができたのである。スミスとリ力ードウとのあいだには、なお、生産的および不生産的労働、貨幣制度、人口論、土地所有および租税に関する細部の研究が現われるにすぎない。スミス自身は、非常に素朴に、絶えまない矛盾のなかで動揺している。一面では、彼は、経済学的諸範疇の内的関連を、すなわちブルジョア的経済体制の隠れた構造を、追求する。他面では、彼は、これとならんで、競争の諸現象のうちに外観的に与えられているとおりの関連を、したがってまた、実際にブルジョア的生産の過程にとらわれてそれに利害関係をもつ人とまったく同様な非科学的な観察者にたいして現われるとおりの関連を、併置している。この二つの把握方法--そのうちの一方は、ブルジョア的体制の内的関連のうちに、いわばその生理学のうちに、突入するものであり、他方はただ、生活過程のうちに外面的に現われるものを、それが現われ現象するとおりに、記述し、分類し、物語り、それに図式的な概念規定を与えるにすぎないものである--が、スミ/スの場合には平気で併存しているだけでなく、入り乱れ絶えず矛盾し合っているのである。彼の場合には、このことは正当であった(貨幣に関する個々の細部の研究を除いて)。なぜならば、彼の仕事は事実上二重のものだったからである。一方では、ブルジョア社会の内的生理学に突入しようと試みているが、他方では、一部にはまずブルジョア社会の外的に現われる生活形態を描き、その外的に現われる関連を叙述し、また一部には、さらにこの現象にたいして専門用語と適切な知的概念を見つけだし、したがって一部にはこの現象をまず言葉と思考過程のうちに再生産しようと試みている。一方の仕事も他方の仕事も、同じように彼の関心をひく。そして、両方がそれぞれ独立に行なわれるので、ここにはまったく矛盾する考え方が出てくる。その一方は、内的関連を多かれ少なかれ正しく言い表わすものであり、他方は、同じ正当性をもって、そしてなんらの内的関係もなしに--他方の把握方法とまったく関連なしに--、現象として現われる関連を言い表わしている。ところで、スミスの後継者たちは、彼らがスミスに反対してもっと古いすでに克服された把握方法の反動を示さないかぎりでは、自分たちの細部の研究や考察において支障なく進行することができるし、また、つねにA・スミスを自分たちの土台とみなすことができる。それは、彼らがスミスの著書の深遠な部分に結びつくにしろ、通俗的な部分に結びつくにしろ、または、つねにほとんどの場合がそうであるが、両方をごちゃまぜにするにしろ、同じことである。しかし、最後にリ力ードウがそのあいだに踏み込んで、この科学にむかつて、止まれ! と号令する。ブルジョア的体制の生理学の--その内的な有機的な関連および生活過程を把握することの--基礎、出発点は、労働時間による価値の規定である。そこからリ力ードウは出発し、いまやこの科学にたいして、そのこれまでの慣行を放棄し、次のことについて答弁するように強要する。すなわち、この科学によって展開され叙述されたその他の諸範疇--生産関係と交易関係--や諸形態が、この基礎に、出発点に、どこまで一致するかまたは矛盾するかということ、すなわち単に過程の諸現象形態を再現し再生産するにすぎない科学(したがってまたこれらの現象そのもの)が、ブルジョア社会の内的関連つまり真実の生理学の土台またはそれの出発点をなすところの基礎に、そもそもどこまで適合するかということ、すなわちこの体制の外観上の運動と真実の運/動とのあいだの矛盾はそもそもどんな事情にあるのかということについてである。したがって、これこそは、この科学にたいするリ力ードウの偉大な歴史的意義なのであり、そのためにこそ、愚かなセーは、リ力ードウに自分の足場を奪われて、次のような文句で自分のうっぷんを晴らしたのである。「すなわち、それ(この科学)を拡張するという口実で、それを無に押しやってしまった」と。この科学的功績と緊密に結びついているのは、リ力ードウが諸階級の経済的対立を--その内的関連が示すとおりに--暴露し、言い表わしているということであり、したがってまた、歴史上の闘争と発展過程との根源が、経済学のなかで理解され発見されているということである。したがって、ケアリは、のちにその箇所を見よ、リ力ードウを共産主義の父として告発するのである。「リ力ードウ氏の体系は不和の体系である。……その全体が、階級間と諸国民間との敵意を生みだす傾向をもっている。……彼の本は、土地均分論、戦争および略奪の手段によって権力を得ょうとするデマゴーグのほんとうの手引き書である。」(=・〔C・〕ケアリ『過去、現在および未来』、フィラデルフィア、1848年、74、75ページ。)〉(同233-235頁)
  〈競争ではすべてのことがまちがって現われ、転倒しているので、個々の資本家は、1、自分は商品の価格の引下げによって商品1個当たりの自分の利潤を減少させるが、しかし量の増加によってより大きな利潤をあげるのだと思いこむ。(この場合にも、やはり、利潤率がいっそう低下する場合でも充用資本の増大から利潤量の増大が生ずることが思い違いされる) 2、自分は商品1個当たりの価格を確定してから掛け算によって生産物の総価値を決めるのだと思いこむ。ところが、本来の手続きは割り算なのであって、掛け算は、ただ、第二次的に、この割り算を前提したうえで、正しいだけなのである。俗流経済学者がやっているのは、実際には、競争にとらわれている資本家たちの奇妙な考えを外観上はもっと理論的な言葉に翻訳して、このような考えの正当性をでっちあげようと試みること以外のなにものでもないのである。〉(同377頁)
  〈質的には(量的には必ずしもそうでないとしても)価値としての表現であるにもかかわらず、価格は非合理的な表現にも、すなわち価値をもたない諸物象の貨幣表現にもなることができる。たとえば、誓言は価値をもつものでないにもかかわらず(経済学的に見ればここでは使用価値は問題にならない)、偽りの誓言が価格をもつことはありうる。というのは、貨幣は商品の交換価値の転化された形態にほかならず、交換価値として表示された交換価値にほかならないのではあるが、他面でそれは一定分量の商品(金、銀、あるいは金銀の代理物)なのであって、なにもかにもが、たとえば長子相続権と一皿の豆料理とが、互いに交換されうるのだからである。価格は、この点では、0/0などのよ/うな代数学における不合理な表現と同様の事情にある。〉(草稿集⑨397-3987頁)

《初版》

 〈この法則は、外観にもとづくあらゆる経験とは明らかに矛盾している。周知のように、充用総資本の百分比を計算してみて、相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する綿紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者に比べて、手に入れる利益あるいは剰余価値が小さいわけではない。この外観上の矛盾を解決するためには、なお多くの中間項が必要なのであって、このことはちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである。古典派経済学は、この法則をけっして定式化しなかったにもかかわらず、この法則に本能的に執着しているが、その理由は、この法則が価値法則一般の必然的な帰結であるからである。古典派経済学は、むりやりな抽象にたよって、この法則を現象との諸矛盾から救い出そうとする。リカード学派がどのようにしてこのつまずきの石につまずいたかは、あとになって(203)わかるであろう。「ほんとうはなにも学びはしなかった」俗流経済学は、いつものようにここでも、現象の法則を無視して外観にしがみついている。この経済学は、スピノザとは反対に、「無知は充分な根拠にな/る」と信じている。〉(江夏訳346-347頁)

《フランス語版》

 〈この法則は、外観にもとづくすべての経験と明らかに矛盾している。誰でも知っているように、相対的に多くの不変資本とわずかな可変資本とを使用する紡績業者は、それだからといって、相対的に多くの可変資本とわずかな不変資本とを使用する製パン業者よりも小さい利得または剰余価値を獲得するわけではない。この外観上の矛盾の解決が多くの中間項を必要とすることは、代数において0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには多くの中間項が必要である、のと同様である。古典派経済学は、この法測をけっして定式化しなかったとはいえ、この法則が価値の本性そのものから生じているがゆえに、この法則に本能的に執着しているのである。どのようにしてリカード学派がこのつまずきの石につまずいたかは、後に見るであろう(3)。俗流経済学はどうかといえば、それはいたるところでそうであるよ/うにここでも、現象の外観を盾にとって現象の法則を否定する。スピノザとは反対に、「無知は充分な根拠になる」と信じているのである。〉(江夏・上杉訳317-318頁)

《イギリス語版》

  〈(10) この法則は、外観を見る限りでのあらゆる経験とは、明らかに矛盾している。誰もが知っている様に、綿紡績工場主は、自分が注ぎ込んでいる資本の全部について、多くの部分を不変部分に、わずかな部分を可変部分に用いていることを知っており、だからといって、可変部分に多くを、不変部分には殆ど注ぎ込んでいない製パン工場主に較べて、少ない利益、または少ない剰余価値を懐にしていると云う分けではない。この外観的矛盾の解答のためには、多くの中間項が依然として必要なのである。丁度、初等代数の地点から見れば、0 / 0 が実際の大きさを表していることを理解するためには、多くの中間項が必要なのと同じ様なものである。この法則を未だに把握していない古典経済学ではあるが、この点に本能的に固執する。なぜかと云えば、これが価値の一般法則としての必然的帰結だからである。古典経済学は、強引なる抽象化によって、この矛盾する現象の混乱から法則を解消しようとする。リカード派が、この躓きの石を乗り越えるためにどのように嘆いたか*2 は、後に、明らかにする。(本文注: 2 *より詳細については、第4冊 剰余価値学説史で示されるであろう。) 全くのところ、「実際には何も学ばない」俗流経済学は、この点で、法則が明瞭に成り立ち、その内容を説明しているにも係わらず、いつもの様に、至るところで、その反対側にある外観に固執する。スピノザとは逆に、彼等は「無知であることが、その充分な理由である。」と信じている。〉(インターネットから)


●原注203

《初版》

 〈(203) これについての詳細は「第4部」で。〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈(3) 第4部で。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》 本文に挿入されている。


●第10パラグラフ

《初版》

 〈ある社会の総資本が毎日動かす労働は、1個の単一労働日と見なすことができる。たとえば、労働者の数が100万で、労働者1人の平均労働日が10時間であれば、社会的労働日は1000万時間から成り立っている。この労働日の限界が肉体的に画されていようと社会的に画されていようと、それの長さが与えられていれば、剰余価値の量は、労働者数すなわち労働者人口の増加によってしかふえることができない。労働者人口の増加が、このばあいには、社会的総資本による剰余価値生産の数学的限界を成している。逆に、労働者人口の大きさが与えられていれば、この限界を形成するものは、労働日の可能な延長である(204)。次章で見るように、この法則は、これまでに扱われた剰余価値形態にだけあてはまる。〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈一社会の総資本が日々平均して動かしている労働は、ただ一つの労働日と見なすことができる。たとえば、労働者の数が100万であって平均労働日が10時間であれば、社会的労働日は1000万時間から成る。この労働日の長さが与えられておれば、その限界が肉体的にきめられていようと社会的にきめられていようと、剰余価値の量は、労働者の数すなわち労働者人口の増加によってしか増加することができない。ここでは労働者人口の増加が、社会資本による剰余価値生産の数学的限界をなす。逆に、労働者人口の大きさが与えられておれば、この限界を形成するものは労働日の延長の可能性である(4)。この法則がこれまで取り扱われてきた剰余価値の形態についてのみ有効であることは、次章でわれわれの見るところであろう。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》

  〈(11) 朝になると同時に、そして夜が終わるまでの間、社会の全資本によって注ぎ込まれる労働を、一労働日の集合体とみなしてみよう。もし、そこに労働者が100万人いて、一労働者の平均労働日が10時間であるとすれば、この社会的労働日は、1,000万時間を構成する。この労働日の長さが与えられているならば、それが物理的に決められていようと、社会的に決められていようと、剰余価値の大きさは、労働者の数 すなわち 労働人口の増加によってのみ増加され得る。ここでは、人口の増大が、全社会的資本による剰余価値の生産の数学的限界を形成する。これとは逆に、人口の大きさが与えられるものであるとしたら、この限界は、労働日の可能的長さ*3 によって形成される。〉(インターネットから)


●原注204

《61-63草稿》

 〈著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン1821年には2、3の非常にすぐれた独創的論点が含まれてる。〉(草稿集⑨478頁)
  〈絶対的剰余労働相対的剰余価値
  「労働、すなわち社会の経済的時間は、ある一定の部分であり、たとえば100万人の1日当り10時間、または1000万時間である。」(四七ページ。)
  「資本にはその増加の限界がある。この限界は、たとえ共同社会の生産諸力はまだ改善の余地があるとしても、どの一定の時期においても、使用される経済的時間の現実の長さによって、画されるであろう。社会は、労働量を拡大することによって、または労働をより効果的にすることによって、言い換えれば、人口、分業、機械、科学的知識を増加させることによって、〔生産諸力を〕増大させることができる。」(49ページ。)「もし資本が、活動中の労働によって与えられた等価物または価値しか受け取ることができないとすれば(したがって経済的時間すなわち労働日が与えられているとすれば)、もしこのことが資本の限界であり、そのときどきにおいて現存する社会状態ではそれを/乗り越えることは不可能であるとすれば、賃金に割り当てられるものが大きければ大きいほど、利潤はそれだけ小さくなる。このことは一般的原理であるが、個々の場合において生じるのではない。なぜなら、個々の場合における賃金の増加は、普通、特定の需要の結果であり、この需要は、他の諸商品およびそれらの利潤との関係で価値の増加をもたらすのがつねだからである。」(49ページ。){利潤--および剰余価値率でさえも--は、ある個別の部門では、一般的水準を超えて上昇することがありうる。とはいっても、それと同時に賃金も、この部門では一般的水準を超えて上昇するのであるが。しかし資本家が、商品にたいする需要が平均を超えるのと同じだけの賃金を支払うならば(利潤を規定する他の諸事情を別にすれば)、資本家の利潤は増えないであろう。一般に、個別の部門における一般的水準を超える賃金および利潤の騰落は、一般的関係とはなんの関係もない。}〉(草稿集⑨479-480頁)

《初版》

 〈(204) 「社会の経済的時間である労働は、ある与えられた部分であって、たとえば100万人の1日につき10時間、すなわち1000万時間になる。……資本には、増加の限界がある。この限界の到達点は、どの与えられた時期においても、使用される経済的時間の現実の長さであろう。」(『国民経済学にかんする一論、ロンドン、1821年』48、49ページ。)〉(江夏訳347頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「社会の経済的時間である労働は、一つの与えられた量、つまり、100万の人間の1日につき10時間、すなわち1000万時間である。……資本には増加の限界がある。この限界は1年のどの時期にも、使用される経済的時間の現実の長さの範囲内にあるだろう」(『国民経済学にかんする一論』、ロンドン、1821年、47、49ページ)。〉(江夏・上杉訳318頁)

《イギリス語版》

  〈(本文注:3 * 「社会の、経済的時間としての労働が与えられたものであるとしよう。例えば、100万人の日10時間 または 1,000万時間…. 資本は増加に境界線を持っている。この境界は、ある与えられた期間、雇用された経済時間の現実の延長によって獲得さる。」(「諸国の政治経済に関する一論」ロンドン 1821年 ) ) しかしながら、このことは、つまりこの法則は、ここまで取り上げて来た剰余価値の形成のためにのみ適用されているということを次章で知ることになろう。)〉(インターネットから)


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

 〈同職組合や中世的な労働組織の側からの禁止令、であって、まさに二人といないすぐれた親方といえども〔きめられた〕最大数をこえる労働者の使用を禁じられ、親方でない、ただの商人にいたってはそもそも労働者の使用自体を禁じられていたのである。〉(草稿集⑨253頁)

《初版》

 〈剰余価値の生産にかんするこれまでの考察から明らかなように、任意の貨幣額または価値額がどれも、資本に転化できるわけではなく、この転化には、むしろ、個々の貨幣所持者または商品所持者の手中にある貨幣または交換価値の一定の最小限が、前提になっている。可変資本の最小限は、まる1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われている1個の労働力の費用価格である。この労働者が、自分自身の生産手段をもっていて労働者として生活することに甘んずれば、彼にとっては、自分の生活手段の再生産に必要な労働時間たとえば毎日8時間で、充分であろう。だから、彼が必要とする生産手段も、8労働時間分だけでよいであろう。これに反して、この8時間以外にたとえば4時/間の剰余労働を彼に行なわせる資本家は、追加生産手段を調達するための追加貨幣額を必要とする。ところが、われわれの仮定では、この資本家は、毎日奪取する剰余価値で労働者と同じように暮らすことができるためには、すなわち、不可欠な必要をみたしうるためには、すでに2人の労働者を使っていなければならないであろう。このばあい、彼の生産目的は、単なる生活維持であって富の増加ではないであろうが、後者は、資本主義的生産では前提されている。彼が普通の労働者の2倍だけよい暮らしをし、しかも、生産された剰余価値の半分を資本に再転化するためには、彼は、労働者数と同時に前貸資本の最小限を、8倍にふやさなければならないだろう。もちろん、彼自身が、彼の労働者と同じように生産過程で直接に働いてもかまわないが、そのばあい、彼は、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかない。資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が、資本家すなわち擬人化された資本として機能している全時間を、他人の労働の奪取したがって統御のためにも、この労働の生産物の販売のためにも、費やすことができる、ということを条件としている(205)。中世の同職組合事業は、手工業親方が資本家になることを、1人の親方が使ってもかまわない労働者数の最大限を非常に小さく制限することによって、むりやり阻止しようとした。貨幣または商品の所持者は、生産のために前貸しされる最小額が中世の最大限をはるかに越えるときに初めて、現実に資本家になるのである。ヘーゲルがその論理学のなかで発見した法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な差異に一変するという法則の正しいことが、自然科学のばあいと同様にここでも実証されている(205a)。〉(江夏訳347-348頁)

《フランス語版》

 〈いまわれわれが行なったばかりの剰余価値の生産についての考察からは、どの価値額または貨幣額も資本に転化できるわけではない、という結果が生ずる。最小限度の貨幣または交換価値が資本家の位を志願する者の手中に見出されなければ、この転化は起こりえない。可変資本の最小限度は、剰余価値の生産に1年中使用される1個の労働力の平均価格である。この1個の労働力の所有者が自分の生産手段を用意していて、労働者として生活することに満足するならば、自分の生活手段の支払いをするために必要な時間、たとえば1日に8時間労働するだけで充分であろう。彼はまた、8労働時間のための生産手段しか必要としないであろう。これに反して、この8時間以外にたとえば4時間の剰余労働を彼に行なわせる資本家は、追加の生産手段を調達するための追加の貨幣額を必要とする。われわれの与件にしたがえば、/彼が毎日ふところに入れる剰余価値をもって1人の労働者と同じように生活しうるためには、すなわち、自分の不可欠な必要をみたすためには、彼はすでに2人の労働者を使っていなければならないであろう。このばあい、彼の生産の目的はただたんに自分の生活を維持することであって、富の獲得ではないであろう。ところで、後者が、資本主義的生産の、言外に意味された目的なのだ。彼が普通の労働者よりも2倍だけよい生活をし、生産された剰余価値の半分を資本に転化するためには、彼は労働者の数と同時に前貸資本を8倍に増加しなければならないであろう。もちろん彼自身も彼の労働者と同様に作業につくこともあるが、そのばあいには彼はもはや雑種生物、資本家と労働者との中間物、「小親方」でしかない。ある程度の発展段階では、資本家は、彼が擬人化された資本として機能するあいだの全時間を、他人の労働の奪取と監督のためにもこの労働の生産物の販売のためにも使うことができる、ということが必要である(5)。中世の同職組合事業は、同職組合の頭(カシラ)である親方が使用権をもつ労働者の数を、非常に限られた最大限度に制限することによって、この親方が資本家に変わるのを妨げようと努めた。貨幣または商品の所有者は、彼が生産のために前貸しする最小額が、中世の最大限度をすでにはるかに越えたときにはじめて、現実に資本家になる。ここでも、自然科学においてと同様に、へーゲルがその論理学で証明した法則、すなわち、単なる量における変化はある程度に達すると質における差異を惹き起すという法則が、確証されている(6)。〉(江夏・上杉訳318-319頁)

《自然弁証法》(エンゲルス)

  〈したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、
 量から質への転化、またその逆の転化の法則、
 対立物の相互浸透の法則、
 否定の否定の法則。
 これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる #思考# 法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている。誤謬は、これらの法則が思考法則として自然と歴史とに天下り的に押しつけられていて、自然と歴史とからみちびきだされてはいないという点にある。そしてここからあの無理にこしらえあげられ、しばしば身の毛もよだつものとなっている構成の全体が生じてきている。すなわちそこでは、世界は、好むと否とにかかわらず、ある思想体系――じつはそれ自体がやはり人間の思考のある特定の段階の産物でしかないところの、――に合致していなければならないのである。われわれがもし事柄をひっくりかえしてみるならば、すべては簡単になり、観念論的哲学ではことのほか神秘的に見えるあの弁証法の諸法則はたちどころに簡単明瞭となるのである。……/
  一、量から質への転化とその逆の転化の法則。上述のわれわれの日的からすれば、この法則は次のように表現することができる。すなわち、自然のなかでは、各個の場合ごとにそれぞれ厳密に確定しているある仕方で、質的な変化はただ物質または運動(いわゆるエネルギー)の量的な加減によってのみ起こりうる、と。
 自然のなかでの質的区別はすべて化学的組成の相違にもとづくか、運動の量ないしは形態(エネルギー)の相違にもとづくか、あるいは、これはほとんどいつでもそうなのだが、これら二つのものの相違にもとづいている。だから物質あるいは運動を付加ないしは除去することなしには、つまり当該物体の量的変化なしには、その質を変化させることは不可能である。こうしてヘーゲルの神秘的な命題もこのような形式のもとではまったく合理的にみえるばかりでなく、ほとんど自明でさえある。/
  しかしながらヘーゲルによって発見されたこの自然法則が最大の勝利をおさめた領域は、化学の領域である。化学は、組成の量的な変化による物質の質的な変化にかんする科学とよぶことができる。このことはすでにヘーゲル自身も知っていた(『論理学』、全集、第三巻、四三三ページ)。まず酸素をとろう。通常の二原子のかわりに三原子が結合して一つの分子になれば、われわれは、臭気と作用とによって普通の酸素とははっきり異なる一物質、オゾンを得る。そして酸素が窒素または硫黄と結合するさいのあのさまざまな比にいたってはどうだろう! じつにそれらの比のどれからも、他のすべての物質と質的に異なる物質が一つずつ形成されてゆくのである。笑気(一酸化窒素〔亜酸化窒素〕N2O)と無水硝酸(五酸化窒素〔五酸化二窒素〕N2O5)とはなんと異なっていることだろう! 前者は常温で気体であり、後者は常温では固体結晶をした物質である。しかも組成上の区別はといえば、後者が前者より五倍多い酸素をもつというのがそのすべてである。そして両者のあいだにはなお別の三つの窒素酸化物(NO,N2O3,NO2)があって、それらはさきの二者ともおたがいどうしとも質的に異なっているのである。
 このようなことは炭素化合物の同族列、とくに比較的簡単な炭化水素の同族列ではなおいっそう適切なものとして現われてくる。正パラフィン系のうちの最低位のものはメタン CH4 である。この場合には炭素原子の四個の結合単位は四個の水素原子で飽和している。第二番目のエタン C2H6 はたがいに結合した二個の炭素原子をもち、遊んでいる六個の結合単位は六個の水素原子で飽和している。このようにして公式 CnH2n+2 にしたがって C3H8,C4H10 等々とすすみ、CH2 が付加されるごとにそのまえのものとは質的に異なる物質が形成されてゆく。この系列の最低位の三つの成員は気体であり、既知の最高位のもの、ヘキサデカン C16H34 は沸点が摂氏二七八度の固体である。パラフィン系からみちびきだされる(理論的に)公式 CnH2n+2O の第一アルコールの系列と、一塩基脂肪酸(公式 CnH2nO2 )についても事情はまったく同じである。C3H6 の量的付加がいかなる質的区別をもたらしうるかは、どうにか飲めるかたちにしたエチルアルコール C2H6O を他のアルコール類と混ぜないで飲んだ場合と、同じエチルアルコールを飲むにしても、こんどは悪名高いフーゼル油の主成分をなすアミールアルコール C5H12O を少量つけくわえておいた場合の、二つの場合の経験が教えてくれるだろう。われわれの頭は翌朝には確実に、しかも頭痛とともに、これをさとることだろう。だから酔いとその後の二日酔いとは、一方はエチルアルコールの、他方はこれにつけくわえられた C3H6 の、ともに同じく質に転化された量だとさえいえるのである。〉(全集第20巻379-383頁)

《イギリス語版》

  〈(12) これまでの、剰余価値の生産で取り上げたことからは、あらゆる貨幣総額、またはあらゆる価値が、気ままに資本に変換できるものではないということが云える。この変換がなされるためには、実のところ、ある最小限の貨幣、または、交換価値が、貨幣とか商品の個人的所有者の手の中に、予め必要条件として前提されていなければならない。最小限の可変資本とは、一単位労働力の費用価格と云うことである。1年間を通して、朝から夕まで、剰余価値の生産のために用いられる一単位労働力の価値と云うことである。もし、この労働者が彼自身の生活手段を所有している状態にあるならば、そして労働者として生きていくことに満足しているならば、彼は、彼の生活手段の再生産に必要な時間を超えて働く必要はない。例えばそれは日8時間で足りよう。彼は、他には、ただ、8労働時間に必要な生産手段を求めることだけであろう。他方、資本家は自身をしてどうするか。これらの8時間の他に、云うなれば4時間の剰余労働を、追加的な生産手段を装備するための追加的な貨幣を要求する。とはいえ、我々の仮説によれば、彼は、日々妥当な剰余価値を得た上で、一労働者と同じように、それ以上ではなく、生活して行くためには、2人の労働者を雇わねばならないであろう。すなわち、彼の必要な欲求を満足させることができるためには。この場合、彼の生産の行き着く先は、単に生活の維持であって、富の増加ではない。だが、この後者こそ資本家的生産を意味している。通常の労働者の2倍の生活を送り、それに加えて、その剰余価値の半分を資本に転換するためには、彼は、労働者の数とともに、前貸し資本の最小限度額を8倍に増額しななければならないであろう。勿論、彼は労働者の様に、自身をして働かせることはできる。直接的に生産過程に加わればよい。だがしかし、そうしたからと言って、どうなるか。ただの資本家と労働者のハイブリッド、小工場主である。資本家的生産のある段階では、資本家は全ての時間を資本家として機能するように身を捧げることができる。すなわち人格化した資本として、従って、他の労働者の管理をし、この労働の生産物の販売を管理する者として、特化するに至る。*4
  それ故、中世のギルドは、親方が資本家に変態しないように力をもって阻止することを試みた。一親方が雇用し得る労働者の数の最大限を小さく制限したのである。ただ一つ、この中世の最大限数を大きく超えて生産のために前貸しされることで、実際に、貨幣または商品の所有者が、資本家に転化するのである。ここに、自然科学のごとく、ヘーゲル ( 彼の「論理」) によって発見された法則の正しさが現われている。すなわち、単なる量的な違いが、ある一点を超えれば、質的な変化へと転じる。*5〉(インターネットから)


●原注205

《初版》

 〈(205) 「借地農業者は自分自身の労働をあてにすることはできない。もしあてにすれば、あてにしたことで損をする、と私は主張するだろう。彼の仕事は、全体にたいする一般的な注意でなければならない。彼の打穀夫は監視されていなければならない。そうでないと、彼はやがて、打穀されない穀物の分だけ賃金を損するであろう。彼の草刈り夫や刈り入れ夫なども、監視されていなければならない。彼は絶えず、自分の柵(サク)の周囲を歩き回っていなければならない。なおざりにされていないか気をつけなければならない。どこか一箇所に閉じこもっていようものなら、必ずや、なおざりにされるであろう。」(『食糧の〔現/在〕価格と農場規模との関連の研究、借地農業者著、ロンドン、1773年』、12ページ。)この本は非常に面白い。この本では、「資本家的借地農業者」または「商人的借地農業者」--はっきりそう名づけられている--の発生史を研究することができるし、また、もともと生計を維持さえすればよい「小借地農業者」に対抗的な自己賛美を、とくと聞くことができる。「資本家階級は、最初は部分的に、しまいには全面的に、手の労働の必要から解放される。」(『国民経済学にかんする講義の教科書、リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年』、第3講。)〉(江夏訳348-349頁)

《フランス語版》

 〈(5) 「借地農業者は自分自身の労働をあてにすることはできない。もし彼がそうすれば損をするだろう、と私は主張する。彼の職分は全体を監督することである。彼は自分の打穀夫、草刈夫、刈入夫などを監視しなければならない。彼は絶えず自分の柵を一周してなにごとも粗略にされていないかどうか注意していなければならず、もし彼がどこか1ヵ所にじっとしていれば、必ず万事が粗略にされるだろう」(『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究、一借地農業者著』、ロンドン、1773年、12ページ)。この著者は非常に興味深い。この著書のなかでは、「資本家的借地農業者」または「商人的借地農業者」と略さずに呼ばれているとおりのものの発生を研究することができるし、また、自分の生計の気苦労しかもたない「小借地農業者」に比べての自己賛美を読みとることができる。「資本家階級は当初は部分的に、しまいには全面的に、手の労働の必要性から解放される」(『国民経済学にかんする講義教科書』リチャード・ジョーンズ師著、ハートフォード、1852年、第3講、3/9ページ)。〉(江夏・上杉訳319-320頁)

《イギリス語版》

  〈注:4 *「借地農場経営者は、彼自身の農業労働に勤しむことはできない。もし、そう彼がしたら、彼はそれによって、損をすることになる。と私なら云うであろう。彼のやるべきことは、農場すべての全般的監視でなければならない。彼の脱穀作業者は監視されねばならぬ。そうでないと、脱穀されぬままの小麦のために、直ぐに彼の賃金を失うことになろう。彼の干し草の刈り取り作業者も、その他の者も監視されねばならない。彼は、常に、農場の柵を巡らねばならない。なにものも放置されないことを見て行かねばならない。彼がもし、ある一ヶ所に留められていたなら、このようには行かない。」(J.アーバスナット 「食糧の現在価格と農場規模との関係についての一研究」ロンドン 1773年) この本は非常に興味深い。この本から、「資本家的借地農場経営者」または「商人的借地農場経営者」と系統だって呼称される者の起源を学ぶことができる。そして、生存だけしかなし得ない小農場者を踏みつけにしての自己称賛の記録を見出す。「資本家階級は最初は部分的に、そして、自分の手作業から解放されて、最終的には完璧にそのようになる。」(「諸国の政治経済についての講義教科書 聖リチャード ジョーンズ」ハートホード 1852年 第三講義 ) 〉(インターネットから)


●原注205a

《初版》

 〈(205a) 近代化学で応用され、ロランジェラールが開拓し、ヴュルツ教授がパリで初めて科学的に述べた分子説は、これ以外のどんな法則にも立脚しているものではない。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》

 〈(6) ロランとジェラールがはじめて科学的に展開した近代化学の分子説は、この法則を基礎にしている。〉(江夏・上杉訳320頁)

《自然弁証法》(エンゲルス)

  〈しかし最後にこのヘーゲルの法則は化合物だけではなく、化学的元素そのものにたいしてもなりたつのである。われわれは今日、
  「元素の化学的性質は原子量の周期関数であること」(ロスコー=ショルレンマー『詳解化学教程三第二巻、八二三ページ)、
  したがってその質が原子量という量によって条件づけられていることを知っている。そしてこのことの検証はみごとになしとげられた。メンデレーエフが立証したように、原子量の順に配列された親縁な元素の系列中にはさまざまな空位があり、それらはその箇所になお新元素が発見されるべきことを示唆するものである。これらの未知の元素の一つで、アルミニウムにはじまる系列中でアルミニウムの次にあるところからエカアルミニウムと彼が命名した元素について、彼はその一般的な化学的性質をまえもって記述し、おおよそその比重と原子量および原子容を予言しておいた。数年後ルコック・ド・ボアボドランはこの元素を実際に発見したが、メンデレーエフが予想していたことはごくわずかのずれを除いては的中した。エカアルミニウムはガリウムとして実在のものとなった(48)(前掲書、八二八ページ)。量の質への転化についてのヘーゲルの法則の--無意識的な--適用によって、メンデレーエフは、未知の惑星、海王星の軌道の計算におけるルヴェリエの業績(49)に堂々と比肩しうるほどの科学的偉業をなしとげたのである。〉(全集第20巻384頁)

《イギリス語版》

  〈注:5 *近代化学の分子理論が最初に科学的に系統建てられたのは、ローランとジェラールによってであり、他の法則に依拠してはいない。(第三版への追加) この理論の説明ために、化学者でない者にとっては、なかなか難しいが、我々は、1843年に、C.ジェラールによって最初にそのように命名された炭素複合物の同族系列について、命名者本人が、この時、述べていることを書き留めておこう。この系列は、この物 独特の一般的な代数的公式を持っている。すなわち、パラフィン系列ではCnH2n+2 、標準アルコールは、CnH2n+2 O 、標準脂肪酸は、CnH2nO2 、他いろいろと。ここに述べた例は、CH2という単純な形のものを量的に 分子公式に追加して行くもので、その度ごとに、質的に違った物質が形成されるのである。この重要な事実の決定に関するローランとジェラールの功績(マルクスによって過大評価されている) については、コップの「化学の発達」(ドイツ語) ミュンヘン 1873年 と、スコークマーの「有機化学の起源と発展」ロンドン1879年を見よ。--エンゲルス (マルクスからエンゲルスへの手紙1867年6月22日、MIA英文にはそれへのリンクも施されている。) (また、ヘーゲルの論理についても、同様、リンクがある。) ( 量の、質変換への可及性は、これらの化学的事項に加えて、今日的には、DNAや、脳の生化学的な解明や、コンピュータや、証券とか国債とか、中国産の鰻の蒲焼に検出された、極微量の化学物質にすら及ぶ。イトーヨーカドーの名をマラカイトグリーンから隠さしめる迄に至る。このようなどうでもいい訳者小余談的追加にも及ぶ。)〉(インターネットから)

 (【付属資料】(3)に続く。)

 

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