『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(5)

2024-02-15 18:21:58 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(5)


【付属資料】(2)

 

●原注192

《61-63草稿》

  〈{ユアは、国家の側からの労働日の規制である、12あるいは10時間法等々が、まったく労働者の「反逆」のせいで、彼らの組合(彼は攻撃的に「結社」と呼ぶ)のせいで存在するようになったことを認める。「(1818年ごろの紡績工組合の)これらの騒動や抗議の結果、工場の労働時間を規制するサー・ロバト・ピールの法案が1818年に通過した。同様な反抗の風潮がひきつづき現われ、1825年には第二の法案が、1831年にはサー・J・C・ホブハウスの名を冠した第三の法案が通過した。」(第二巻、19ページ。)}
  {「紡績工組合は、白人奴隷とか、キャラコの王冠をいただく黄金神の祭壇に毎年捧げられる児童の生賛とかいったおとぎ話ふうの絵を描いてみせることで、彼らのいいなりになる連中を育成することに完全に成功した。」(第二巻、39、40ページ。)}〉(草稿集⑨272頁)

《初版》

 〈(192) ユア(フランス語訳)『工場哲学、パリ、1836年』、第2巻、39、40、67、77ページ等々。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈(160) ユア、フランス語訳『工場哲学』、パリ、1836年、第2巻、39、40、67、77ページなど。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈(本文注157: *ユア 「フランス語訳 製造業者達の哲学」パリ 1836年 第2巻)〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

   〈「フランスでは、1848年以前には工場における労働日を制限するための法律は存在しないも同然であった。工場(原動機または持続的火力を用いている、工場(ファクトリ)、製造所(ワーク)、作業場(ワークショップ)、および、20人以上の労働者を就業させているすべての施設)における児童労働を制限するための1841年3月22日の法律(この法律の基礎となったのは、ウィリアム4世治下第3年および第4年法律第103号である)は死文のままであり、今日にいたるまでノール県でしか実際に施行されていない。ちなみにこの法律によれば、13歳未満の児童を、「緊急の修理の仕事の場合、または水車の停止のさい」には、夜(午後9時から午前5時までのあいだ)でも使うことができ、13歳以上の児童を、「彼らの労働が不可欠であるならば」夜どおしでも使うことができるのである。〉(草稿集④348頁)
  〈②〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「フランスで労働を規制している法律には二つのものがある。一つは、指定されたある種の諸労働における児童の労働と教育とにかかわるもので、1841年に制定された。もう一つは、あらゆる種類の労働における成人の労働時間を制限するもので、1848年に制定された。
  第一の法律は多くの討論と熟慮とののちに承認されたが、わが国の法令であるウィリアム4世治下第3年および第4年法律第103号の諸条項にもとづいていた。この問題は諸県にあるさまざまの商工会議所に回付された。そしてけっきょく法律は、工場における労働時間の制限にたいして主張された各地方の異論にこれをできるかぎり一致させるようなかたちで承認されたのである。
  その諸条項の大要は次のとおりである。--
    1841年3月21日の法律
  児童の労働は次のところにおいては規制されるべきである。--
  原動機または持続的火力を用いている、工場、製造所、作業場、および21人以上の労働者を就業させているすべての施設。
  児童の労働は次のように規制されるべきである。--
  『8歳未満の児宣を使用してはならない。
  8歳以上12歳未満の児童は、1回の休憩時間をはさむ8時間を越えて使用してはならない。
  12歳以上16歳未満の児童は、少なくとも2回の休憩時間をはさむ12時間を越えて使用してはならない。
  16歳未満の児童の労働時間は、午前5時から午後9時までのあいだになければならない。
  児童の年齢は、戸籍吏によって無料で発行される証明書によって証明されなければならない。
  夜間とは、午後9時から午前5時までのあいだと宣言される。
  13歳未満の児童は、緊急の修理の仕事の場合、または水車の停止のさいを除いて、夜間に使用してはならない。また夜間における2時間の労働は、昼間における3時間の労働と見なされる。』」〉(④349頁)

  〈①1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。臨時政府は、標準労働日がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った前提に立っていたのである。だが、--「多数の紡績工場で、労働は14-15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いなもっと長時間でさえあった」(〔ジエローム-アドルフ・〕ブランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級について』)。
  ①〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「……3月2日に彼らは次のように布告した。--
  『1日の労働は1時間縮小されねばならない。したがって、それが現在11時間から成っているパリではそれは10時間に短縮され、それがこれまで12時間から成っていた各県ではそれは11時間に短縮される。』
  政府の執効な命令にもかかわらず、この法令は執行されえなかった。人民の政府が人民のための立法を発議するときに、この政府は、通常の労働時間がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った仮定にもとづいていたが、これに反してそれらはこうした制限をはるかに越えていたのであって*、人民は、労働日の長さが実際には3、4、5時間も短縮されるのに、こんなに突然の変化、しかもこんなに広範囲な性格をもつ変化が当面の賃銀に影響を与えることはないものと期待したのであった。しかしこの法律は、パリをも各県をも満足させず、雇主をも労働者をも満足させなかった。パリでは1日10時間、各県については11時間と規定したその不公平は……。
  *『多数の紡績工場で、労働は14時間または15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いな、もし私がよく知らされていたならば、もっと長時間でさえあったろう。』--『1848年におけるフランスの労働者階級について』、ブランキ氏著。」
  ①国民議会はこの法律を、1848年9月8日の法律によって次のように修正した、--「工場(マニュファクチュア)および製造所(ワーク)における労働者の1日の労働は12時間を越えてはならない。政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣告する権能を有する」。1851年5月17日の布告によって、政府はこの除外例を指定した。まず第一に、1848年9月8日の法律が適用されないさまざまの部門が規定されている。そしてさらに、次のような制限が加えられた、--「1日の終りにおける機械類の掃除。原動機、ボイラー、機械類、建物の故障によって必要となった作業。以下の事例においては労働の延長が許される。--染色場、漂白場、綿捺染場における反物の洗浄および伸張について、1/日の終りに1時間。砂糖工場、精練所、化学工場では2時間。染色場、捺染場、仕上げ工場では、工場主が選定して知事が認可した年間120日は2時間」。{工場監督官A・レッドグレイヴは、『工場監督官報告書。1855年10月31日にいたる半年間』の80ページで、フランスにおけるこの法律の実施について次のように述べている、--「若干の工場主が私に請け合ったところによれば、彼らが労働日を延長する許可を利用したいと思ったときには、労働者たちは、あるときに労働日が延長されればほかのときにいつもの時間数が短縮されることになるだろう、という理由で反対した。……また、彼らが1日12時間を越える労働に反対したのは、とくに、この時間を規定した法律が、共和国の立法のうち彼らに残された唯一の善事だからである」。
  ①〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「……そして、工業中心地においてそれから生じている悲惨な諸影響は、国民議会に、1848年9月8日、次の法律を制定させることになったが、この法律は、申し分のないものとして一般に受け入れられた。--
  『工場および製造所における労働者の1日の労働は121時間を越えてはならない。
  政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣言する権能を有する。』
  政府は、このようにしてそれに与えられた権限を行使して、1851年5月17日、許可されるべき除外例を次のように布告した。--
  『以下の職種は1848年9月8日の法律による規制には含まれない……。』」
  「労働日の延長は労働者の選択にまかされている。……それが相互に同意されている場合には、……(12時間を越える)1時間あたりの賃率は一般に彼らの通常の賃銀よりも高い」(同前、80ページ)。A・レッドグレイヴは81ページで述べている、--過度労働とそれに結びついた肉体的衰弱および精神的退廃の結果、「ルアンとリールの労働人口は……斃(タオ)れきて」、「増加がわずか」になった。また、「イギリスでは『工場障害者(クリツブルズ)』の名で呼ばれる犠牲者を出しているような種類の不具に、多くの人々が苦しめられている」(同前、81ページ)。)(④349-351頁)
  〈「児童労働調査委員会はこの数年、報告書を公刊し、多くの無法な行為を明るみに出したが、そうした行為はいまだに続いており、しかもそれらのなかには、工場や捺染場がこれまでに罪に関われたどの行為よりもはるかにひどいものがある。……議会にたいして責任を負っていて自分たちの処置を半年ごとに報告する義務を守る有給の公務員による、組織化された監察体制がなかったならば、法律はすぐに効力がないものとなるであろう。このことは、1833年の工場法に先だつすべての工場法が効果がなかったことによって証明されており、また今日フランスで--1841年の工場法が系統的な監察についての規定を含んでいないために--そうなっているとおりである」(『工場監督官報告書。1858年10月31日にいたる半年間』、10ページ)。〉(④355頁)

《初版》

 〈フランスが、イギリスのあとから、のろのろとびっこを引いてやってくる。フランスは、12時間法(193)の誕生のために2月革命を必要としたが、この法律は、イギリスの母法に比べればはるかに欠陥が多い。それにもかかわらず、フランスの革命的な方法にも、特有な長所が示されている。この方法は、すべての作業場と工場とに無差別に、同じ労働日制限一挙に課しているのに、イギリスの立法のほうは、あるときはこの点あるときはあの点で、四囲の事情の圧迫にいやいやながら屈服していて、新しい法律上の紛糾を孵化する方向に進んでいる(194)。他方、フランスの法律のほうは、イギリスでは児童や未成年者や婦人の名においてのみ戦い取られ、近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(194)を、原則の名において宣言しているのである。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈フランスはイギリスの後についてゆっくりと進んでいる。12時間法(161)を産み出すために、フランスは2月革命(1848年) を必要とするが、この法律は、そのイギリスの母法よりもはるかに欠陥が多い。それにもかかわらず、フランスの革命的方法にもその特有な利点がある。それは、すべての作業場とすべての工場とに、無差別に同じ労働日制限を一挙に負わせるのに対し、イギリスの立法は、あるときはこの点、あるときはあの点で、いやいやながら諸事情の圧迫に屈しながら、法律上の異議という一巣の雛全体を孵化させるのに最良の手段をいつもとっている(162)。他方、フランスの法律は、イギリスでは児童や未成年者や婦人の名においてのみ闘いとられ、やっと最近一般的な権利として要求されたものを(163)、原則の名において宣言しているのである。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈(4) フランスは、英国の後をゆっくりとびっこを引きながら歩く。12時間法を世にもたらすためには二月革命が必要であった。だが、この12時間法*は、英国の原形に較べれば、より不完全なものである。
  とはいえ、フランスの革命的な方式は、特別なる前進も獲得している。労働日に係る同じ制限を、作業場であろうと工場であろうと区別することなく全てに対して命じている。一方の英国法では、状況の圧力に不承不承屈している。今回はこの点で、その次はあの点でと。そして、展望もなく、途方にくれる矛盾の絡まりあう条項*だらけに堕する。
  英国では、単に、児童たち、年少者たち、女性たちで勝利を得たのみであり、僅かに最近になって、最初の一般的権利として勝利したに過ぎない。一方フランス法は、原理*そのものを宣言する。〉(インターネットから)


●原注193

《初版》

 〈(193)『1855年のパリ国際統計会議』の報告書には、なかんずくこう書かれている。「工場や作業場での1日の労働時間を12時間に制限しているフランスの法律は、この労働を、一定の固定した時間(時限)の範囲内に制限しないで、児童労働にかぎって午前5時から晩の9時までの時限を規定している。だから、一部の工場主たちは、この不運な沈黙が与えてくれる権利を利用して、おそらく日曜日を除いて毎日、間断なく労働させているのである。このために、工場主たちは、2組に分けた労働者--どちらの組も仕事場で12時間以上時を過ごすことはない--を使っているが、工場の作業のほうは、昼も夜も続けられている。法律は守られているが、人道も守られているであろうか?」「夜間労働が人体に及ぼす破壊的な影響」は別にしても、「うす暗い同じ仕事場で男女が夜間一緒に働いていることのゆゆしい影響」も、強調されている。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈(161) 1855年にパリで催された国際統計会議の報告では、なかんずく次のように述べられている。「工場や作業場での毎日の労/働時間を12時間に制限するフランスの法律は、この労働が履行されるぺき特定の時刻をきめていない。ただ児童の労働についてだけ、朝の5時から晩の9時までの時間が規定されている。したがって、工場主たちは、この不吉な沈黙が自分たちに与えてくれる権利を利用して、おそらく日曜日を除いて、毎日中断なく労働させるのである。彼らはそのために2組の別々の労働者を使うのであって、そのどの組も作業場で12時間以上を過ごすことはないが、事業所では作業が昼夜続いている。法律は守られているが、人道も同じく守られているか?」。この報告では、夜間労働が人体に及ぼす破壊的な影響のほかに、照明のひどく悪い同じ仕事場で男女が夜間一緒にいることの不吉な影響も、浮き彫りにされている。〉(江夏・上杉訳309-310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注158: * パリにある国際統計会議の報告書 1855年 には、次の様に書かれている。「工場と作業場での日労働の長さを12時間に制限するフランスの法は、この労働の時間を明確な不動の時間としては限定していない。ただ児童労働については、朝5時から夕9時の間と明記されている。であるから、工場主のある者らは、日曜日を除いては、できる限り、日が始まろうと、終わろうと、休みもなしに、自分らの作業を自分らの好きなように継続できるという、この致命的な沈黙で示されている権利を利用する。この目的のために、彼等は、2組の異なる労働者の班を利用する。班はいずれもその作業場には1回では12時間を超えないが、作業は昼も夜も続く。法は納得されたが、人間性は納得されたか?」さらに、「人体にとっての、夜間労働の破壊的な影響」に触れ、さらにまた、「夜、男女が、同じように暗い照明の中でごったに置かれることの致命的な影響」にも触れている。〉(インターネットから)


●原注194

《初版》

 〈(194) 「たとえば私の管区では、同じ工場建物のなかで、同じ工場主が、『漂白工場および染色工場法』のもとでは漂白業者および染色業者であり、『捺染工場法』のもとでは捺染業者であり、『工場法』のもとでは仕上げ業者である、云々。」(『1861年10月31日の工場監督官報告書』、20ページ中のレッドグレープ氏の報告。)これらの法律のいろいろな規定と、そ/こから生ずるごたごたとを列挙したあとで、ベーカー氏はこう言う。「工場所有者が法網をくぐろうとすれば、これらの三つの国会制定法の施行を確保することがどれほど困難にならざるをえないか、ということがわかる。」ところが、このことによって弁護士諸氏に確保されているものが、訴訟なのである。〉(江夏訳338-339頁)

《フランス語版》

 〈(162) 「たとえば、私の管区では、同じ工場主が同じ事業所内で漂白業者および染色業者であり、そのかぎりで漂白業および染色業を規制する法律の適用を受け、さらに捺染業者でもあり、そのかぎりで『捺染工場法』の適用を受け、最後に仕上業者<finisher>でもあって、そのかぎりで『工場法』の適用を受けている……」(『1861年10月31日の工場監督官報告書』、20ページ中のべーカー氏の報告)。べーカー氏は、これらの法律の種々の条項をあげてそこから生ずるややこしさを浮き彫りにした後で、こうつけ加える。「工場主が法網をくぐろうとすれば、これら三つの国会制定法の実施を確保することがどんなに困難にならざるをえないか、ということがわかる」。だが、このことによって法律家諸君に保証されているものは、訴訟である。〉(江夏・上杉訳310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注159: * 「例えば、私の地区の一人の居住者は、同じ宅地内で、漂白と染色工場法下にある漂白業者であり、同時に染色業者でもある。また捺染工場法下の捺染業者であり、工場法下の仕上げ業者である。」(工場査察官報告書 1861年10月31日におけるベイカー氏の報告) これらのいろいろと異なる対応を列挙したのち、これらに起因する複雑な状況について、ベイカー氏は、「であるから、居住者が、法を逃れる道を選ぶことになれば、これらの3つの議会法の執行を確保するにはかなりの困難性が避けられないということになるであろう。」結果として、法律家がこれに対して自信を持って云えることは、法衣を持ち出すことのみである。〉(インターネットから)


●原注195

《初版》

 〈(195) そこで、工場監督官は、おしまいにはあえてこう言う。「これらの異議(労働時間の法的制限にたいする資本の)は、労働者の権利という大前提の前に周すべきものである。……たとい疲労が問題にならなくても、労働者の労働にたいする雇主の権利が停止して労働者の時間が労働者自身のものになるような時点が、あるものだ。」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、54ページ。)〉(江夏訳339頁)

《フランス語版》

 〈(163) ついに工場監督官は、勇気を振って言う。「これらの異議(労働時問の法的制限にたいする資本の)は、労働の権利の大原則の前に屈服すべきである。……自分の労働者の労働にたいする雇主の権利が停止して労働者が自分自身を再びわがものにする、そういった一つの時点がある」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、54ページ)。〉(江夏・上杉訳310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注160: * 工場査察官も、最後には敢えて、このように云っている。「これらの異議申し立て ( 資本家の、労働日の法的な制限に係る異議申し立て) は、労働の権利という大きな原理の前には屈伏せざるを得ない…. そこに、資本家の労働者に対する権利を停止する時が来る。そして労働者の時間が彼自身のものとなる。仮に、そこになんの疲労も無いとしても、勿論のことである。(工場査察官報告書 1862年10月31日)〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《アメリカ合衆国大統領エーブラハム・リンカンへ》(1865年1月7日)

  〈拝啓
  私たちは、あなたが大多数で再選されたことについて、アメリカ人民にお祝いを述べます。奴隷所有者の権力にたいする抵抗ということが、あなたの最初の選挙の控えめのスローガンであったとすると、奴隷制に死を、があなたの再選の勝利に輝く標語です。
  アメリカの巨大な闘争の当初から、ヨーロッパの労働者たちは、彼らの階級の運命が星条旗に託されていることを、本能的に感じていました。あの凄惨をきわめた大叙事詩のはじまりとなった諸准州をめぐる闘争は、広漠たる処女地を、移住民の労働と結ばせるか、それとも奴隷監督の足下にけがさせるか、を決定すべきものではなかったでしょうか?
  30万の奴隷所有者の寡頭支配が、世界の歴史上にはじめて、武装反乱の旗印に奴隷制ということばを書くことをあえてしたとき、まだ1世紀もたたぬ昔に一つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言(13)が発せられ、18世紀のヨーロッパの革命に最初の衝激があたえられたほかならぬその土地で、その同じ土地で反革命が系統的な徹底さをもって、「旧憲法の成立の時期に支配していた思想」を廃棄する、と得意になって吹聴し、「奴隷制こそ有益な制度であり」、それどころか、「労働と資本の関係」という大問題の唯一の解決策であると主張し、そして人間を所有する権利を「新しい建物の礎石(16)」と厚顔にも宣言したとき、そのときただちにヨーロッパの労働者階級は、南部連合派の郷紳(17)にたいする上流階級の狂熱的な支持によって不吉な警告をうけるよりもなお早く、奴隷所有者の反乱が、労働にたいする所有の全般的な神聖十字軍への早鐘をうちならすものであり、労働する人々にとっては、未来にたいする彼らの希望のほかに、彼らが過去にかちえたものまでが、大西洋の彼岸でのこの巨大な闘争において危うくされているのだということを理解しました。だからこそ彼らはいたるところで、綿業恐慌が彼/らにおわせた困苦を辛抱つよく耐えしのび(18)、彼らの目上の人々がしつこく迫った奴隷制支持の干渉にたいして熱狂的に反対し、またヨーロッパの大部分の地域からこのよき事業のために彼らの応分の血税を払ったのであります。
  北部における真の政治的権力者である労働者たちは、奴隷制が彼ら自身の共和国をげがすのを許していたあいだは、また彼らが、自分の同意なしに主人に所有されたり売られたりしていた黒人にくらべて、みずから自分を売り、みずから自己の主人を選ぶことが白人労働者の最高の特権であると得意になっていたあいだは--彼らは真の労働の自由を獲得することもできなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったのであります。しかし、進歩にたいするこの障害は、内戦の血の海によって押し流されてしまいました。
  ヨーロッパの労働者は、アメリカの独立戦争が、中間階級〔ブルジョアジー〕の権力を伸張する新しい時代をひらいたように、アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸張する新しい時代をひらくであろうと確信しています。彼らは労働者階級の誠実な息子、エーブラハム・リンカンが、鎖につながれた種族を救出し、社会的世界を改造する比類のない闘争をつうじて、祖国をみちびいていく運命をになったことこそ、来たるべき時代の予兆であると考えています。
  国際労働者協会中央評議会を代表して署名(署名は略)〉(全集第16巻16-17頁)

《個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示》(『ジ・インタナショナル・クリア』1867年2月20日および3月13日付第6/7号および第8/9/10号)

  〈3 労働日の制限

  労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である。
  それは、労働者階級、すなわち各国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも、ぜひとも必要である。
  われわれは労働日の法定の限度として8時間労働を提案する。このような制限は、アメリカ合衆国の労働者が全国の労働者が全国的に要求している(138)ものであって、本大会の決議はそれを全世界の労働者階級の共通の綱領とするであろう。
  工場法についての経験がまだ比較的に日のあさい大陸の会員の参考としてつけくわえて言えば、この8労働時間が1日のうちのどの刻限内におこなわれるべきかを決めておかなければ、法律によるどんな制限も役にはたたず、資本によってふみにじられてしまうであろう。この刻限の長さは、8労働時間に食事のための休憩時間を加えたもので決定されなければならない。たとえば食事のためのさまざま/な休止時間の合計が1時間だとすれば、法定の就業刻限の長さは9時間とし、たとえぽ午前7時から午後4時までとか、午前8時から午後5時までとかと決めるべきである。夜間労働は、法律に明示された事業または事業部門で、例外としてのみ許可するようにすべきである。方向としては、夜間労働の完全な廃止をめざさなければならない。
  本項は、男女の成人だけについてのものである。ただ、婦人については、夜間労働いっさい厳重に禁止されなければならないし、また両性関係の礼儀を傷つけたり、婦人の身体に有毒な作用やその他の有害な影響を及ぼすような作業も、いっさい厳重に禁止されなけれぽならない。ここで成人というのは、18歳以上のすべての者をさす。〉(全集第16巻191-192頁)
  〈注解(138)--アメリカ合衆国では、内戦以後、法律による8時間労働日の制定を要求する運動が強まった。全国にわたって、8時間労働日獲得闘争のための8時間労働連盟(Eight-Hour Leagues)が結成された。全国労働同盟がこの運動に参加した。同盟は、1866年8月ボルティモアでひらかれた全国大会で、8時間労働日の要求は資本主義的奴隷制から労働を解放するための必要な前提である、と声明した。〉(第16巻637頁)

《初版》

 〈アメリカ合衆国では、奴隷制度がこの共和国の一部を不具にしていたあいだは、独立した労働者運動はすべて麻癖状態にあった。黒人の労働が汚辱を加えられているところでは、白人の労働が解放されるはずがない。だが、奴隷制度の死からは、たちまち、新しく若返った生命が発芽した。南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で、大西洋から太平洋まで、ニューイングランドからカリフォルニアまでを闊歩する、8時間運動であった。ボルチモアの全国労働者大会(1866年8月16日) はこう声明している。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するための、現在における第一級の大必要事は、アメリカ連邦の州で標準労働日を8時間とする法律を、制定することである。われわれは、この輝かしい成果に到達するまで、全力を尽くすことを決意した(196)」。それと同時に(1866年9月初め)、ジュネーブの「国際労働者大会」は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、こう決議した。「労働日の制限は、この制限を欠いては解放を求める他のいっさいの努力が挫折せざるをえない一つの前提条件である、とわれわれは声明する。……われわれは、8労働時間が労働日の法的限度である、と提案する。」〉(江夏訳339頁)

《国際労働者協会総評議会の第4回年次報告》(1868年9月6日から13日にブリュッセルでひらかれたインタナショナル第3回大会のために)から

 〈総評議会は、合衆国の全国労働同盟と不断の連絡をたもっている。アメリカの同盟は、1867年8月にひらかれた同盟の前回の大会で、本年のブリュッセル大会に代表を派遣することを決議したが、時間の不足のため、この決定の実行に必要な措置をとることを怠った(205)。
  北アメリカの労働者階級の潜在的な力は、連邦政府の官営事業場で8時間労働日が法律によって実施されたことや、連邦加盟の8つないし9つの州で一般的な8時間労働法が公布されたことによって明らかである。にもかかわらず、/目下アメリカの労働者階級は、たとえばニューヨークで、8時間労働法の実施をその力に及ぶあらゆる手段をもちいて妨げようとしている反抗的な資本にたいして、必死の闘争をおこなっている。この事実は、最も有利な政治的条件のもとでさえ、労働者階級がなんであろうと重大な成果をおさめることは、彼らの勢力をきたえ集中する組織の成熟度にかかっているということを、証明している。〉(全集第16巻320-321頁)
  〈注解(205)--アメリカ合衆国の全国労働同盟(National Labor Union)は、1866年8月にボルティモアの大会で創立された。アメリカの労働運動のすぐれた代表者であるW・H・シルヴィスがこの創立に積極的に参加した。全国労働同盟は、当初から国際労働者協会を支持した。1867年8月の全国労働同盟シカゴ大会では、トレヴェリックが国際労働者協会の定例大会への代議員に選出されたが、彼はローザンヌ大会に出席しなかった。全国労働同盟の一代議員キャメロンが、1869年にインタナショナルのバーゼル大/会の終わりの数回の会議に参加した。1870年8月、シンシナティでひらかれた全国労働同盟の大会は、国際労働者協会の原則にたいする同意を宣言し、協会への加入の意向を表明した決議を採択した。しかしこの決定は実行されなかった。
  全国労働同盟の指導部は、その後まもなく、ユートピア的な通貨改革の計画に没頭した。これは、銀行制度の廃止と、国家による低利信用の供与とを目標とするものであった。1870-1871年に労働組合が全国労働同盟から脱退し、1872年には同盟は実際上存在することをやめた。〉(第16巻652-653頁)

《アメリカ合衆国全国労働同盟への呼びかけ(205)(ロンドン、1869年5月12日)

 〈仲間の労働者諸君!
  わが協会の創立綱領のなかで、われわれは言明した。
--「大西洋の彼岸に奴隷制を永久化しひろめることを目的とするいまわしい十字軍に、西ヨーロッパがまっしぐらにとびこまずにすんだのは、支配階級の賢明さのおかげではなくて、イギリスの労働者階級が支配階級の犯罪的な愚行に英雄的に抵抗したおかげであった。」いまや戦争を防止するために諸君が立ち上がる番がきた。この戦争が起こるならば、その最も明白な結果は、上げ潮に向かっている労働者階級の運動が、大西洋の両側で、無期限に後退を余儀なくさせられるということであろう。
  アメリカ合衆国をイギリスとの戦争に追い込もうと必死/になっているヨーロッパ列強があることは、いまさら諸君にいうまでもない。貿易統計をひと目眺めさえすれば、ロシアの原料品輸出--そしてロシアにはこれ以外に輸出するものはないのであるが--が急速にアメリカとの競争に敗退しはじめていたときに、内戦が突如として形勢を逆転したのだということが見てとれる。アメリカの鋤を剣に変えることは、諸君の共和党の政治家が賢くも心を許した助言者に選んだあの専制国家を、まさにいま迫りくる破産から救いだす道なのである。だが、あれこれの政府の特殊的利益は別としても、急速に成長しつつあるわれわれの国際的協力を共倒れの戦争に転化することは、われわれの共通の抑圧者たちの一般的利益ではないだろうか?
  リンカン氏の大統領再選にあたってわれわれが送った祝辞のなかで、われわれは、アメリカの独立戦争が中間階級〔ブルジョアジー〕の進歩にとって重大な意義をもったのと同様に、アメリカの内戦は労働者階級の進歩にとって重大な意義をもつことになるだろうというわれわれの確信を表明した。じじつ、反奴隷制戦争の勝利の終結は、労働者階級の歴史に新しい時代をきりひらいたのである。合衆国自体のなかでも、この日以来、諸君の古い政党とその職業的政治家から憎悪の目でみられる独立した労働者階級の運動が誕生したのであった。この運動は、結実を見るためには、平和な年月を必要としている。それを破壊するためには、合衆国とイギリスのあいだの戦争が必要とされている。
  内戦の第二の明白な結果は、もちろん、アメリカの労働者の地位の悪化であった。ヨーロッパと同様、合衆国においても、国債の悪夢のような重荷は手から手へと転嫁されて、結局は労働者階級の肩におちついたのである。諸君の政治家のひとりの言うところでは、日用必需品の価格は1860年以来78%上昇したが、一方、不熟練労働者の賃金は50%、熟練労働者のそれは60%上がったにすぎない。この政治家は不満を述べていう。
  「極貧状態はいまやアメリカでは人口より急速に増大する。」
  そのうえ、労働者階級の苦難は、金融貴族、成上り貴族、そして戦争の甘い汁を吸った同様の害虫どもの新奇な贅沢とあざやかな対照をなしている。しかしそれにもかかわらず、内戦は、奴隷を解放し、その結果として諸君自身の階級の運動に精神的刺激をあたえたがゆえに、これらのことを償ってあまりあるものであった。第二の戦争は、崇高な目的や偉大な社会的必要によって清められる戦争ではなく、古い世界の型にしたがった戦争であり、それは奴隷の鎖を断つかわりに、自由な労働者のた/めの鎖を鍛えることになるであろう。そのあとに残される悲惨の堆積は、常備軍の無慈悲な剣によって労働者階級をその勇敢で正しい望みから引き離すための動機と手段とを、諸君の資本家たちにあたえることになるだろう。
  だから、労働者階級が、もはや卑屈な従者としてではなく、みずからの責任を意識した俳優、自称主人たちが戦争を叫ぶときに平和を命じることのできる独立した俳優として、いまやついに歴史の舞台を堂々と歩んでいることを世界に示すという光栄ある任務が、まさに諸君の肩にかかっているのである。
   国際労働者協会総評議会の名において(以下、略)〉(全集第16巻頁)
  〈注解(245)--全国労働同盟にあてた総評議会の呼びかけは、1869年春にイギリスとアメリカ合衆国とのあいだに戦争の危険が生まれたことに関連して、マルクスが起草し、5月11日の総評議会で読み上げられたものである。〉(全集第16巻662頁)

《フランス語版》

 〈アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部の土地を汚していたあいだは、労働者の側での独立しようとする気持はすべて麻痺したままであった。黒人の労働が汚名をきせられ屈辱を受けているところでは、白人の労働は解放されるはずがない。だが、奴隷制度の死はただちに新しい生命を孵化させた。南北戦争の第一の果実は8時間運動であって、この運動は機関車という1歩7里の長靴で、大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、駆けまわった。ボルティモアの全国労働者大会(1866年8月16日) は次のように宣言した。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するための、現在の第一かつ最大の要求は、アメリカ連邦全州において労働日は8時間で構成されるべきだという法律を発布することである。われわれは、この光栄あ.る成果が達成されるまで全力を尽すことを決意した(164)」。同時に(1866年9月の初めに)、ジェネーヴの国際労働者大会は、ロンドンの総務委員会の提案に/もとづいて同じような決議をした。「労働日の制限は、それなしには解放を目ざすいっさいの努力が挫折せざるをえない前提条件である、とわれわれは宣言する。われわれは8時間を労働日の法定限度として提案する」。〉(江夏・上杉訳310-311頁)

《イギリス語版》

  〈(5) 北アメリカ合衆国では、共和国の一部が奴隷制度で汚れているかぎりでは、あらゆる独立した労働者の運動は、麻痺させられていた。黒き烙印が白い皮膚にあるかぎり、労働は、自分を解放することは出来ない。しかし、奴隷制度の死以後、新たな生命が直ちに開花した。市民戦争の最初の果実は、8時間運動である。この運動は、大西洋から太平洋まで、ニューイングラインドからカリフォルニアまで、一足3マイル×7倍という民謡に登場するあの深靴を実現した機関車で一気に走った。ボルチモアで開かれた労働者一般会議 ( 1866年8月16日) は、次のように宣言した。
  (6) 「現在やらなければならないことの第一で名誉ある事は、この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放することである、そのためには、アメリカ連邦全州において、標準労働日を8時間とする法を議会で制定することである。我々は、我々の全力を以て、光栄ある結果が達成されるまで、これを前進させることを決意する。」*
  (7) 同じ頃、ジュネーブの国際労働者協会の会議は、ロンドンの一般評議会の提案を受けて、次のように決議した。「労働日の制限は、それなくば、以後の改善や解放の推進が流産させられかねない前提条件である…. 会議は、8時間を労働日の法的制限として建議する。」〉(インターネットから)

 (付属資料(3)に続く。)

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