『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(4)

2024-02-15 18:38:39 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(4)


【付属資料】(1)


●第1パラグラフ

《初版》

 〈読者が記憶しているように、労働が資本に従属していることから生じうる生産様式そのもののあらゆる変形はさしおいて、剰余価値の生産あるいは剰余労働の抽出が、資本主義的生産の独自な内容と目的になっている。読者が記憶しているように、これまでに述べられた立場からすれば、独立した、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのである。だから、われわれの歴史的なスケッチのなかで、一方では近代的産業が主役を演じ、他方では肉体的にも法的にも未成年者である労働が主役を演じているとすれば、われわれにとつては、前者は労働搾取の特殊な部面としてのみ意義をもち、後者はこの労働搾取の特に適切な実例としてのみ意義をもっていたわけである。とはいうものの、これから行なう説明を前もって考慮しなくとも、歴史的諸事実の単なる関連からは次のような結論が出てくる。〉(江夏訳335頁)

《フランス語版》

 〈読者が記憶しているように、労働が資本に従属していることから生ずる生産様式のあらゆる変化はさしおいて、資本主義的生産の特有な目的、すなわち真の目標は、剰余価値の生産すなわち剰余労働の強奪である。これまで展開してきた観点では、独立の、法律上親権を解除された労働者だけが、商品の所有者として資本家と契約を結びうることも、読者の記憶にある。われわれは歴史的なスケッチのなかで、一方では近代的産業に、他方では児童の労働や肉体上も法律上も未成年である者の労働に、重要な役割を与えたとしても、なおかつこの産業はわれわれにとっては労働搾取の特殊な領域でしかなかったし、この労働は労働搾取の特殊な実例でしかなかった。しかし、これからの展開の先回りをしないでも、事実の単なる説明から次のことが結論される。〉(江夏・上杉訳307頁)

《イギリス語版》

  〈(1) 労働の、資本への、隷属を生じるであろう生産様式の様々な変化を別にすれば、剰余価値の生産、または剰余労働の摘出は、資本主義的生産の特別なる終端であり目的である、絶総計であり本質である。読者はこのことを忘れることはないであろう。読者には、我々が今まで読んで来たところでは、ただ独立した労働者にのみ触れており、であるから、その労働者のみが、彼自身をして、商品の販売者として資本家との折衝に入る資格を有する。ということを思い出して貰いたい。従って、もし、我々がスケッチしてきた歴史において、一方で近代製造業が、他方で肉体的にも法的にも未熟な労働者が重要な役割を演じているとしたら、前者は我々にとっては単なる特別の部門であり、後者は、単に労働搾取の特別かつ衝撃的な事例ということである。とはいえ、我々の考察の進展の成り行きの予想は別として、我々の前にある歴史的な事実の単なる関連として、次の事に触れておく。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈第一に。水や蒸気や機械によって最初に変革が行なわれた諸産業では、すなわち、綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業のような近代的生産様式の最初の創造物では、無制限で容赦のない労働日の延長を求める資本の衝動が、まず/最初にみたされる。変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係(186)とは、まず、無制限な行き過ぎを産み出し、次にはこれと反対に、社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みつきの労働日を法的に制限し、調節し、画一にする。だから、19世紀の前半には、この取締りはたんに例外立法としてのみ現われる(187)。この取締りが新しい生産様式の最初の領域を征服しおえたときには、その間に、他の多くの生産部門が本来の工場体制に踏み入っていただけでなく、製陶業やガラス工業等々のような多少とも時代おくれの経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後に、釘製造業等々のようなあちこちに分散していたいわゆる家内労働(188)さえも、もうとっくに、工場と全く同じように、資本主義的搾取の手におちいっていたことが、わかった。だから、立法は、例外的な性格をしだいに捨て去らざるをえないか、さもなければ、イギリスのばあいのようにこの立法がローマ的な決疑論〔法律問題を細かい法解釈によって決定すること〕的なふるまいをするところでは、労働が行なわれているどんな家でも、任意に工場(factory)だと宣言されざるをえなかった(189)。〉(江夏訳335-336頁)

《フランス語版》

 〈第一に、水、蒸気、機械によって変革された諸産業において、すなわち、木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業のような近代的生産様式の最初の創造物において、労働日をひっきりなしに情容赦なく延長しようとする資本の性向が、まず満足させられる。物質的生産様式の変化と、これに対応する社会的生産関係の変化(154)とは、かの法外な違反の第一の原因であり、この違反は次いで、釣り合いをとるために、社会的干渉--今度はこの干渉のほうが労働日をその法定の休息時間とともに画一的に制限し規制することになる--を要求する。したがって、この干渉は、19世紀前半のあいだは例外的立法としてしか現われない(155)。この干渉が新しい生産様式の最初の領域を征服してしまったときには、その間に他の多くの生産部門が厳密な意味での工場体制のなかに入っていたばかりでなく、さらになお、ガラス工業、製陶業などのよ/うな多かれ少なかれ時代遅れの経営様式をもったマニュファクチュア、製パン業のような古風な手工業、そして最後に、釘工の労働のようなあちこちに分散した家内労働(156)さえもが、工場そのものと全く同じょうに、資本主義的搾取の領域のなかに陥っていたのが、見出されたのである。したがって、立法は、その例外的な性格をだんだんと抹消するか、または、イギリスにおけるように、ローマ的決疑論〔法律問題を細かい法解釈によって決定すること〕にしたがって、労働が行なわれるどんな家屋も工場<factory>であると便宜上言明するか、そのどちらかを余儀なくされたのである(157)。〉(江夏・上杉訳307-308頁)

《イギリス語版》

  〈(2) 第一 資本家の、無制限かつやりたい放題の労働日の拡大を希求する激情は、水力、蒸気力 そして機械類によって最も早くから大変革が起こった製造業部門で、最初に満足を得た。すなわち、近代生産様式の最初の型というべき綿、羊毛、亜麻、そして絹の紡績業と織物業である。生産の物質的様式の変化、そしてそれに呼応する生産者達*の社会的諸関連の変化が、あらゆる諸関連を超えて、まず最初の特別なる拡張として出現した。そして、これに拮抗するもの、社会的要請としての規制が呼び出される。すなわち、法的な制限、規則、そして労働日とそこに含まれる休息の斉一化である。とはいえ、この規制は、19世紀前半では単に、例外的な規則*として現われる。
  この新たなる生産様式の初期的な領域が法の支配下に置かれる頃には、様相は一変、同じ工場システムを採用する他の多くの生産各部門ばかりでなく、なんとも古臭い方式で製造業、例えば製陶業、ガラス製造や、昔のまんまの手工業、例えば製パン業、さらに、いわゆる家族的業種と呼ばれる、釘製造業ですら、*完全に、資本家的搾取下と同様な状況に、彼等の工場そのものが落ち込んで久しいのであった。従って、規則は、次第に例外的性格を捨てることを余儀なくされるか、または英国では、かってのローマの詭弁家達のやり方に習って、仕事がなされる建物としての家を工場*と宣言することを余儀なくされた。〉(インターネットから)


●原注186

《初版》

 〈(186)「これらの階級(資本家と労働者)のそれぞれの態度は、それぞれの階級がおかれていた相対的な立場の結果であった。」(『1848年10月31日の工場監督官報告書』、112ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(154) 「これらの階級(資本家と労働者) のそれぞれの行為は、これらの階級が置かれていた相対的地位の結果であった」(『1848年10月31日の工場監督官報告書』、112ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注151: *これらの各階級 ( 資本家達と労働者達 ) の行動は、それぞれが置かれた関係における相対的関係の結果から引き起こされる。」(工場査察官報告書 1848年10月31日)〉(インターネットから)


●原注187

《初版》

 〈(187) 「制限を加えられている諸業種は、繊維製品を蒸気力または水力を用いて製造することと関連があった。ある業種に工場検査を受けさせるためには、この業種がみたさなければならない二つの条件があった。すなわち、蒸気力または水力の使用、および、特定の繊維の加工である。」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(155) 「ある工業が監督に従うべきものになってそこで労働が制限されうるためには、二つの条件が必要である。そこで水力または蒸気力が用いられることと、そこである独特な織物が製造されることとが、必要である」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注152: *規則の下に置かれる雇用者は、蒸気力または水力の助けによって行われる織物製造業に関係する者である。雇用者がその対象者であると見なされるべき者であるかどうかは、二つの条件が存在する。すなわち、流れまたは水力を利用し、かつある特殊な繊維の製造業に属すると。(工場査察官報告書 1864年10月31日)〉(インターネットから)


●原注188

《初版》

 〈(188) こういったいわゆる家内工業の状態については、『児童労働調査委員会』の最近の諸報告中に、非常に曲帯以官闘な材料が掲載されている。〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(156) この種の工業の状態については、「児童労働調査委員会」の最近の報告書のなかに非常に多数の情報が掲載されている。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注153: *いわゆる家族的製造業の状況については、極めて価値のある材料が、最近の、児童の雇用に関する委員会 の報告書に見出される。〉(インターネットから)


●原注189

《初版》

 〈(189) 「前議会(1864年)の諸法律には、……習慣が非常にちがっている種々雑多な職業が含まれていて、機械を動かすための機械力の使用は、もはや、以前そうであったように、法律用語での工場を構成するために必要な諸要素の一つではない。」(『1864年10月31日の工場取督官報告書』、8ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(157) 「前議会(1864年)の諸法律は、方式の非常にちがった多数の事業を包括しており、機械を運転するための蒸気の使用は、もはや以前のように、法律上工場と呼ばれるものを構成するために必要な諸要素の一つではない」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注154: *「前委員会の法(1864) ...習慣の大きく異なる様々な職業を包含し、かつ機械類の作動を生み出す機械的な力の利用は、以前は法的な字句「工場」を構成するものであったが、もはや必要なる要素ではない。」(工場査察官報告書 1864年10月31日)〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈第二に。幾つかの生産様式〔フランス語版では「生産部門」に訂正〕では労働日の規制の歴史が、また、他の生産様式ではこの規制をめぐっていまもなお続いている闘争が、明白に示しているように、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、孤立した労働者は、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は、無抵抗に屈服している。だから、標準労働日の創設は、資本家階級と労働者階級とのあいだの、長たらしく統く多かれ少なかれ隠蔽された内乱の、産物である。この闘争は、近代的産業の周囲で開始されるものであるから、この産業の祖国であるイギリスで、最初に抽出じられる(190)。イギリスの工場労働者たちは、たんにイギリスの労働者階級の選手であるばかりでなく近代的労働者階級一般の選手でもあったが、それと同じに、彼らの理論家も資本の論理に最初に挑戦したのであった(191)。だから、工場哲学者ユアは、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本にたいして、イギリスの労働者階級が、「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたのは、この階級のねぐい去ることのできない恥辱である、と非難だかしている(192)。〉(江夏訳337頁)

《フランス語版》

 〈第二には、幾つかの生産部門では労働日の規制の歴史が、また、ほかの部門ではこの規制についていまなお続いている闘争が、明白に証明するところによると、孤立した労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は、資本主義的生産がある段階に達するやいなや、できるだけ抵抗するということもなしに屈服するのである。したがって、標準労働日の設定は、資本家階級と労働者階級とのあいだの長期で執拗な、また多かれ少なかれ隠蔽された内乱の結果である。この闘争は、近代的産業の領域で開始されたのであるから、それは、この産業の祖国にほかならないイギリスで、まず宣言されざるをえなかった(158)。イギリスの工場労働者は近代的労働者階級の最初の選手であったし、彼らの理論家は資本の理論を攻撃した最初の選手であった(159)。したがって、工場哲学者のドクター・ユアは、資本が「労働の完全な/自由(150)」のために男らしく闘ったのに反し、「工場法という奴隷制度」を自分たちの旗に書き記したのは、イギリスの労働者階級にとってぬぐいがたい恥辱である、と言明している。〉(江夏・上杉訳308-309頁)

《イギリス語版》

  〈(3) 第二 ある生産部門の労働日の規制の歴史は、そしてこの規制に係る他の部門で依然として続く闘争は、孤立させられた労働者、彼の労働力の「自由」なる売り手、かってある時点で資本主義的生産が獲得した者が、何の抵抗の力もなく、屈伏したことを結果的に証明する。従って、標準的労働日の創設は、資本家階級と労働者階級間の、どの程度隠されたものかは別として、長い市民戦争の産物である。この競技は近代工業という競技場で始まるのであるから、その最初の開始地は、工業の故郷- 英国*である。
  英国の工業労働者達は、英国のと云うだけでなく、近代労働者階級一般のチャンピオンであった。彼等の理論家達は、資本の理論に対して最初の鞭*を振り降ろした。〉(インターネットから)


●原注190

《初版》

 〈(190) 大陸的自由主義の天国であるベルギーも、この運動の痕跡をなんら示していない。この国の炭坑や鉱山においてさえ、あらゆる年齢の男女の労働者は、どれだけの時間でもどんな時刻でも、完全に「自由」に消費されている。そこでの従業員各1000人のうち、733人が男、88人が女、135人が16歳未満の少年、44人が16歳未満の少女である。熔鉱炉等々では、各1000人のうち、668人が男、149人が女、98人が16歳未満の少年、85人が16歳未満の少女である。さて、なおその上に、成熟した労働力や未成熟の労働力の法外な搾取にたいして支払われるのは、1日平均、男が2シリング8ペンス、女が1シリング8ペンス、少年が1シリング2[1/2]ペンス、という低い労賃である。ところが、その代わりに、ベルギーでは、1863年には、1850年に比べて、石炭や鉄等々の輸出の量も価値も、ほぼ2倍になった。〉(江夏訳337頁)

《フランス語版》

 〈(158) 大陸の自由主義のかの天国であるベルギーは、この運鋤の痕跡を少しも示し  ていない。この国の炭鉱や金属鉱山でさえ、あらゆる年齢の男女労働者が、なんらの時間制限もなく完全な「自由」をもって消費されている。従業員1000人のうち、男733人、女88人、16歳未満の少年135人、16歳未満の少女44人である。熔鉱炉でも、やはり1000人のうち、男668人、女149人、16歳未満の少年98人、16歳未満の少女85人である。さらに付言すると、成熟または未成熟の労働力の莫大な搾取と比較すれば、賃金はさほど高くない。賃金は1日平均、男では2シリング8ペンス、女では1シリング8ペンス、少年では1シリング2[1/2]ペンスである。したがって、ベルギーは1863年には、1850年に比べて石炭や鉄などの輸出の量と価値をほとんど倍加した〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈本文注155: * ベルギー 大陸の自由主義者の楽園は、この運動の痕跡を何ら残していない。炭鉱や金属鉱山の男女及びあらゆる年令の労働者達でさえ、いかなる期間、いかなる時間の長さであれ、完全なる「自由特権」を以て消費されていた。毎1,000人の雇用者のうち、男子733人、女性88人、少年135人、16歳未満の少女44。溶鉱炉他では、毎1,000人の雇用者のうち、男子668人、女性149人、少年98人、16歳未満の少女85人である。これに加えて、熟練・非熟練労働力の莫大なる搾取の結果として、低賃金である。成年男子は平均日支払額 2シリング8ペンス、女性は1シリング8ペンス、少年は1シリング2 1/2ペンス。その結果として、ベルギーの自由主義者らは、1863年、1850年に較べて、約2倍の量と価値の石炭、鉄等々の輸出を得た。〉(インターネットから)


●原注191

《イギリスにおける労働者階級の状態》

 〈工場制度の破壊的な作用は、すでにはやくから一般的な注意をひきはじめた。1802年の徒弟法については、すでにわれわれは述べた。その後、1817年ごろ、のちのイギリス社会主義の建設者で、当時ニュー・ラナーク(スコットランド)の工場主であったロバート・オーエンが、請願書と回顧録をつうじて、労働者、とくに子供の健康にたいする法的保証の必要を、行政当局にたいして説ぎはじめた。故R・ピール卿やそのほかの博愛家たちがオーエンに味方し、あいついで1819年、1825年および1831年の工場法を獲得したが、そのうち、はじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。サー・J・C・ホブハウスの提案にもとつくこの1831年の法律は、どんな木綿工場でも、21歳以下の人々を夜間、すなわち夜の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の若い者を最高毎日12時間、土曜日には9時間以上働かせてはならない、ということをきめた。しかし労働者は、首を覚悟しなければ自分の雇い主の意に反する証言をすることはできなかったので、この法律はほとんど役にたたなかった。労働者がわりと不穏なうごきを見せた大都市では、とにかくおもだった工場主たちが申し合わせて、この法律にしたがうことになったが、ここでさえも、農村の工場主と同じように、まったくこの法律に無関心な工場主がたくさんいた。そうこうするうちに、労働者たちのあいだで、10時間法案、すなわち18歳未満のすべての者を10時間よりも長く働かせることを禁止する法律にたいする要求がおこった。労働団体は、この要望を扇動によって促進し、工場で働く人たちの一般的な要望にしてしまった。当時マイクル・サドラーによってひきいられていたトーリ党の人道派は、この計画をとりあげて議会に提出した。サドラーは、工場制度を調査する議会委員会の任命の承認をえた。そしてこの委員会は、1832年の会/期にその報告を提出した。この報告は決定的に党派的であり、工場制度のまったくの反対者の手によって、党派的な目的のために書かれたものであった。サドラーは、自分の高貴な情熱にかられて、極度にかたよった、極度に不当な主張をおこなった。彼は、その質問のしかたからして証人を誘導し、たしかに真実はふくんでいるが、しかし、逆立ちした、かたよったかたちで真実をふくんでいる答弁をつりだした。工場主たちは、自分たちをまるで化け物のようにえがいた報告を見てびっくりし、こんどは自分たちからすすんで公式の調査をこうた。工場主たちは、いまとなっては、もっと正難報告だけしか自分たちの役にたてることができないことを知っていた。彼らは、自分たちと仲がよく、工業の制限に反対する主義をもっていた生粋のブルジョアであるウィッグ党が、政権の座を締めていることをよく知っていた。工場主たちは、まさしく生粋の自由主義的なブルジョアだけから構成される委員会を手に入れた。この委員会の報告が、私がこれまでしばしば引用したものなの燈ある. この報告は、サドラー報告よりもいくらか真実に近くなっているが、真実からそれている点は、サドラー報告とは反対の面にある。この報告は、どのページでも工場主にたいする同情、サドラー報告にたいする不信、独立の労働者と10時間法案の支持者とにたいする嫌悪の情を示している。この報告は、どこにも労働者が人間らしい生活をし、労働者にふさわしい活動をし、労働者にふさわしい意見をもつ権利を認めていない。この報告は、労働者が10時間法案を問題とするさいに、子供のことだけでなく自分自身のことも考えているのだ、といって労働者を非難している。この報告は、扇動する労働者をデマゴーグだとか、悪意のあるやつだとか、よこしまなやつ、などとよんでいる。つまりこの報告は、ブルジョアジーの味方をしているのだ--それでもなおこの報告は、工場主たちの汚れを、あらいおとすことはできなかった。それでもなお、この報告そのものの告白によって、非常に多くの卑劣な行為が工場主たちの責任とされたので、この報告によってさえ、10時間法案運動や、工場主にたいする労働者の憎悪や、サドラー委員会が工場主にたいしてあたえた冷酷きわまる名称も、完全に正当なものとなってしまうのである。ただちがうところといえば、サドラー報告が、公然かつ露骨な野蛮行為という点で工場主を非難しているのに反し、いまやこれらの野蛮行為が、たいてい文明と人道という仮面のもとでおこなわれていた、ということが明らかになったことくらいである。それでも、ランカシァを調査した医者の委員であるホーキンズ博士は、はやくもその報告の最初の第1行に、自分から10時間法案に断固賛成である旨/を明らかにしている! また委員マキントシュは、労働者を、自分たちの雇い主の利益に反して証言させることが非常に困難であるばかりでなく、さらに工場主たちも--そうでなくても、すでに労働者のあいだの騒ぎによって、いっそう大幅な譲歩を労働者にしなければならなくなっているのに--委員の視察にそなえて準備をし、工場を掃除したり、機械の運転速度を減らしたりすることなどを、かなりしばしばおこなったので、彼の報告はありのままの真実はふくんでいない、と自分で言明している。とくにランカシァにおいては、工場主たちは、作業室の監督を「労働者」といつわって委員のまえにつれだし、彼らに工場主の情けぶかいことや、労働の健全な作用や、10時間法案にたいして労働者が無関心であり、それどころか嫌悪さえしていることを証言させる、という策略をもちいた。しかしこの監督は、もはやほんとうの労働者ではけっしてない。彼らは、わりと高い賃金をいただいてブルジョアジーへの御奉公にあがり、資本家の利益になるように労働者とたたかう自分の階級からの逃亡者である。彼らの利益はすなわちブルジョアジーの利益である。また、だからこそ彼らは、工場主自身より以上に労働者から非常に憎まれている。それにもかかわらずこの報告は、製造業ブルジョアジーが自分の雇用労働者にたいしてふるまう恥辱このうえもない傍若無人さと、工業的搾取制度の全汚名とを、そのありのままの非人間的な姿で示すには、まったく十分である。この報告のなかで、一方には過度労働による病気や不具の長ったらしい記録が、他方には工場主の冷たくて打算的な国民経済学が、対置されているのをみること以上にしゃくにさわることはない。この国民経済学において、工場主は、もし自分が年々しかじかの人数の子供を不具にすることがもはやゆるされないとすれば、自分はもとより、自分といっしょにイギリス全体も破滅しなければならない、ということを数字によって証明しようとしているのである--私がついさきほど引用したユーア氏の厚顔無恥なことばは、もしもそれがあまりにも滑稽至極なものでなかったならば、もっとしゃくにさわったことであろう。
  この報告の結果が、1833年の工場法であった。この法律は、9歳以下の子供の労働を禁止し(製糸工場を除く)、9歳ないし13歳の子供の労働時問を週48時間または1日最高9時間に、14歳ないし18歳の年少者の労働時間を週69時間または1日最高12時間に制限し、食事のための休み時間を最低1時間半と規定し、18歳以下のすべての者の夜間労働をもう一度禁止した。同時に、毎日2時間の強制就学が14歳以下のすべての子供にたいして実施され、工場主は、もしも工場医の年齢証明書か、ある/いは教師の出席証明書を持たない子供を雇用すれば、処罰されることが明らかにされた。そのかわり工場主は、教師に支払うために、毎週1ペニーを子供の賃金から控除することをゆるされた。そのほか、工場医と監督官が任命された。彼らは随時工場に立ち入り、労働者を宣誓させて訊問することをゆるされ、治安裁判所へ告発することによって法律をまもらせなければならなかった。これこそユーア博士が、あのようにめちゃくちゃにののしる法律なのだ!
  この法律の結果、ことに監督官の任命の結果、労働時間は平均12時間ないし13時間に短縮され、子供はさしつかえのないかぎり大人とかえられた。それとともに、いくつかのもっともひどい病気は、ほとんど消滅してしまった。不具は、非常に虚弱な体質の場合にしか生じなくなり、労働の作用は、それほどはっきりとはあらわれなくなった。それにもかかわらずわれわれは、工場報告のなかに、つぎのような証言をふんだんにもっている。すなわち、わりとかるい病気である足関節のはれ物、脚・腰および脊椎の脆弱と疹痛、静脈瘤性の血管、下部四肢の潰瘍、一般的な虚弱、とくに下腹部の虚弱、吐き気、はげしい食欲と交替におこる食欲の欠乏、消化不良、憂うつ症、それに工場の塵埃や汚れた空気からおこる胸部疾患等々、これらすべての病気が、J・C・ホブハゥス卿の法律の規定にしたがって--すなわち12時間ないし最高13時間働く工場においても、またこのように働く個人の場合でもおこった、といった証言である。グラスゴーおよびマンチェスターからの報告を、ここではとくに参照すべきである。これらの病気は、1833年の法律のあとでもあとをたたず、今日にいたるまで労働者階級の健康を害しつづけている。ひとはブルジョアジーの野蛮な利欲心にたいして、偽善的な、文明化された形式をよそおわせることに尽力したし、また工場主たちにたいしては、法律の力によって、あまりにはなはだしい破廉恥な行為はできないようにしたが、それだけいっそう多く、彼らのいつわりの博愛を得意になって見せびらかすうわべの理由を、あたえることに尽力したのである--これがすべてであった。たとえいま新しい工場調査委員会が発足したとしても、そこに見いだすのは、ほとんどあいもかわらぬ昔のままの姿であろう。一時のまにあわせにつくられた就学義務についていえば、政府は、それと同時にりっぱな学校をつくる配慮をしなかったので、この就学義務もまったく成果をあげずじまいのかたちである。工場主たちは、仕事もできなくなった老朽労働者を先生に任命し、彼らの子供たちを毎日2時間ずつよこして、それで法律の字句にはしたがったことにしていた--子供たちはなに一つまなばなかった。そして、自分たちの職務といえ/ば、工場法をまもらせることだけにかぎられている工場監督官の報告でさえも、上述の害悪がいまなお必然的に存続している、と結論することができる資料を、十分に提供している。監督官ホーナーおよびソーンダーズは、1843年10月および12月のその報告のなかで、子供の労働をかならずしも必要としない労働部門とか、あるいはそうでもしなければ失業する大人を子供のかわりにおきかえることのできるような労働部門では、多くの工場主たちは、14時間ないし16時間、またはそれ以上も働かせている、と述べている。これらの工場主のもとには、ことに、法律の制限年齢をやっとすぎたばかりの若い連中がたくさんいる。そのほかの工場主たちは、法律を公然とおかし、休憩時間を短縮し、ゆるされた時間以上に子供たちを働かせ、告発されるがままにまかせておく。なぜなら、罰金をかけられたところで、違反によってえられる利益にくらべると、はるかに少なくてすむからである。事業がことのほかうまくいっている現在では、とくにこうした違反をやりたい誘惑を、工場主たちはつよく感じているのだ。〉(全集第2巻402-416頁)

《61-63草稿》

   〈1817年に、労働者の、とくに子どもの健康を保障する法律の制定を求めてオウエン(当時、ニューラナークの工場主だった)の請願が行なわれた。1818年、1825年および1825年の法律のうちはじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。この1831年の法律(サー・J・C・ホブハウス〔の提案にもとづく〕)は、どんな木綿工場でも、21歳未満の人々を夜間に、すなわち晩の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の人々を最高毎日12時間以上、土曜日には9時間以上働かせてはならないことをきめた。(同上書、208ページ〔『全集』、第2巻、391ページ〕。)〉(⑨212頁)

《初版》

 〈(191) ロバート・オーウェンが、今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなくして、労働日の制限が必要であることを理論的に主張したばかりでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場でじっさいに採用したとき、このことは、共産主畿的ユートピアだと嘲笑された。ちょうど、彼の「生産労働と児童教育との結合」が嘲笑され、彼の産んだ労働者の協同組/合事業が嘲笑されたのと同じように。今日では、第一のユートピアは工場法であり、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公の常套句として現われており、第三のユートピアはすでに、反動的欺瞞の仮面として役立ってさえいる。〉(江夏訳337-338頁)

《資本論》

  〈322 ロバート・オーエンは、協同組合工場や協同組合売店の父ではあるが、前にも述べたように、この孤立的な変革要素の意義について彼の追随者たちが抱いたような幻想はけっして抱いていなかったのであって、実際に彼のいろいろな試みにおいて工場制度から出発しただけではなく、理論的にもそれを社会革命の出発点だとしていた。ライデン大学の経済学の教授フィセリング氏もそのようなことを予感しているとみえて、つまらない俗流経済学を最もそれにふさわしい形で講述している彼の『実際経済学提要』(1860-1862年) のなかで、熱烈に大工業に反対して手工業経営のために弁じている。--(第四版へ。互いに矛盾する工場法と工場法拡張法と作業場法とによってイギリスの立法がひき起こした「新しい裁判上の紛糾」(264ページ〔本巻、318(原)ページを見よ〕)はついに堪えられないほどひどくなったので、1878年の工場および作業場法〔Factory and Workshop Act〕において、関係立法全体の単一法典化ができあがった。このイギリスの現行産業法典を詳しく批評することは、ここではもちろんできない。それゆえ、ここでは以下の覚え書だけで満足することにしたい。この法律は次のものを包括している。(1)繊維工場。ここではほとんどすべてが元のままである。10歳以上の児童に許される労働時間は、毎日5[1/2]時間、または6時間ならば土曜は休みになる。少年と婦人は5日間は10時間で、土曜は最高6[1/2]時間である。--(2)非繊維工場。ここではいろいろな規定が従来よりは(1) の規定に近くなっているが、まだ資本家に有利な例外がいくつも残されてあり、それが内務大臣の特別許可によってさらに拡張されうる場合も多い。--(3)作業場。その定義は以前の法律のなかのものとだいたい同じである。児童、少年工または婦人がそこで従業するかぎりでは、作業場は/非繊維工場とほぼ同等に取り扱われるが、細目ではやはり緩和されている点がある。--(4)児童や少年工を使用せず、18歳以上の男女の人員だけを使用する作業場。この部類にはさらに多くの緩和が適用される。--(5)家庭作業場。この場合には家族成員だけが家族の住居で従業する。いっそう弾力性のあるいろいろな規定があり、また同時に、監督官は、大臣または判事の特別許可がないかぎり、同時に住居として利用されてはいない場所にしか立ち入ることができないという制限があり、そして最後に家庭内で営まれる麦わら細工業、レース編み業、手袋製造業の無条件放任がある。そのあらゆる欠陥にもかかわらず、今なおこの法律は、1877年3月23日のスイス連邦工場法と並んで、この対象に関する抜群の最良の法律である。この法律を今述べたスイス連邦の法律と比較することは、特に興味のあることである。というのは、この比較は立法上の二つの方法の--イギリス的な、「歴史的な」、臨機応変的な方法と、大陸的な、フランス革命の伝統の上に築かれた、より一般化的な方法との--長所と短所とを非常にはっきりさせるからである。残念なことには、イギリスのこの法典は、作業場への適用に関するかぎり、大部分は今なお死丈である。--監督官の数が足りないために。--F ・エンゲルス}〉(全集第23a654-655頁)

《フランス語版》

 〈(951) ロパート・オーエンが、今世紀の最初の10年を経た直後に、労働日の制限の必要性を理論的に主張したばかりでなく、さらになお、ニュー・ラナークの自分の工場で10時間労働日を実際に設定したとき、この革新は共産主義的ユートピアとして嘲笑された。人は、彼の「生産労働と児童教育との結合」を、また、彼がまっさきに産み出した労働者の協同組合を茶化した。今日では、これらのユートピアのうち最初のものは国家の法律になり、二番目のものはすぺての工場法のなかに公式の常套句として現われており、三番目のものは反動的な術策を蔽い隠すための仮面として役立つまでにいたっている。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈本文注156: * ロバート オーエンは、1810年になって直ぐ、理論として、(1)労働日の制限の必要性を主張しただけではなく、(2)実際に、彼のニュー ラナークの工場に日10時間を導入したのである。(3)そしてまた当時、共産主義者のユートピアのようなものと笑われたが、彼の云うところは「生産的労働と児童教育との調和と、労働者達の協働的社会」だが、彼によって最初に叫ばれて知られる所となった。( ここに括弧付きの数字 (1)-(3)を訳者の都合で挿入した。以下の文面との対応を明確にするためである。) 今日、(1)最初のユートピアは、工場法である。(2)二番目となるのは、全工場法の公式的な字句として、(3)三番目は反動的な企ての隠れ蓑としてすでに使われている。以来、工場の哲学者 ユアは、資本に対して、「工場法と言う名の奴隷制度を」なる文字 ( 訳者注: 実際は「工場法を守れ」というスローガンをユアが書くとこうなるのであろう) を旗に書き込んで、男らしく「完全なる労働の自由」のために突き進んだ英国の労働者階級を、神に向かってはとても云えないような言葉で罵る*のである。〉(インターネットから)

  (付属資料(2)に続く。)

 

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