『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第24回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-05-21 13:02:06 | 『資本論』

第24回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

◎まぶしい新緑

 第24回「『資本論』を読む会」が開催された、16日はさわやかな五月晴れに恵まれ、会場の堺市立南図書館の3階の窓から見る新緑は色鮮やかでした。
 この図書館は、大阪の南の丘陵に位置する広大な泉北ニュータウンの中心駅ともいうべき泉が丘駅のすぐに近くにあります。交通の便のよいところにある図書館ですが、その裏には開発される以前の小高い山が一部そのまま残っており、それが教室の窓から一望できます。一言で新緑と言っても、その色合いは千差万別であり、とても言語に尽くすことはできません。ショッキンググリーンとでも表現するしかないようなものもあれば、茶褐色に近い濃緑色をまるでフリルのようにクリーム色で縁取ったものもあったりします。いくら眺めても見飽きることはありません。
 窓からの風景をながながと書いたのは、ピースさんが少し開始時間に遅れてきたので、その間、窓から外を眺める時間がたっぷりとれたからです。今回から、新しい項目「4 単純な価値形態の全体」に入りましたが、色々と意見が出たためか、進んだのは、なんと、たったの二つのパラグラフだけでした。しかしその議論は充実しており、報告の内容も決して見劣りするものではありません。それでは、さっそく、その報告に移りましょう。

◎「4 単純な価値形態の全体」について

 まず、最初に、ピースさんから、今回から始める新しい項目について、簡単にそれまでの等価形態までの展開との関連などが説明され、亀仙人からも一定の補足がありました。この項目の位置づけとして、次のような確認がされたといえます。

 まず、この〈単純な価値形態の全体〉というのは、これまで〈A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態〉として、〈x量の商品A=y量の商品B または、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値する)〉という等式を例に上げ、まず〈一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態〉で、〈単純な価値形態〉には、相対的価値形態と等価形態が価値表現の両極として含まれていることが確認され、そのあと〈二 相対的価値形態〉と〈三 等価形態〉とにわけて、それぞれを個別に考察してきたわけです。
 だから今回の新しい項目である〈単純な価値形態の全体〉というのは、それまで個別に考察してきたそれぞれのもの(相対的価値形態と等価形態)を総合して、全体として考察するということです。だからこの項目は〈A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態〉の最後に位置しているわけです。
 だからまた、この「4 単純な価値形態の全体」は、項目「A」で考察された「単純な価値形態」を一つの自立した主体として捉えかえし、その直接的な考察(【1】パラグラフ)、学説史的考察(【2】パラグラフ)、総括的な考察(【3】パラグラフ)、歴史的な考察(【4】パラグラフ)、そして歴史的考察から不可避に生じる、次の発展(「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」(【5】~【7】パラグラフ)が論じられることになるわけです。

 こうした確認と見通しのもとに、第1パラグラフから具体的に検討を開始しました。

◎「単純な価値形態の全体」の直接的な考察

 今回も、これまでの通り、最初に『資本論』の本文を紹介し、それを文節ごとに検討していくという形で紹介したいと思います。また関連する資料は【付属資料】として、一番最後に別途まとめて紹介することにします。では最初は、第1パラグラフの本文です。

【1】

 〈(イ)一商品の単純な価値形態は、種類を異にする一商品に対するその商品の価値関係のうちに、あるいはそれとの交換関係のうちに、含まれている。(ロ)商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される。(ハ)それは、量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。(ニ)言いかえれば、一商品の価値は、「交換価値」としてのそれの表示によって、独立に表現されている。(ホ)この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。(ヘ)商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。(ト)商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。(チ)もっとも、このことを心得ておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。〉

 このパラグラフでは、「単純な価値形態の全体」の直接的な考察が行われます。ここではわれわれは最初の「単純な価値形態」の直接的な表象に戻ります。しかし「A」の最初にわれわれに与えられた直接的な表象は、まだその内的構造はまったくわれわれには分からないものでしたが、今では、われわれはその内的な構造を詳しく分析して辿ってきた結果、それらは論理的に透けて見えています。つまり「単純な価値形態の全体」の論理的な構造が透けて見えているような、「全体」としての最初の直接的な表象にもどっているわけです。だから直接的な考察といっても、その内部構造が何も分からない状態のものとは異なり、それらが透けて見えている状態での考察なのです。だから直接的なものが、その内的なものとどのように関連し合い、内的なものがどのようにして自らを発現して直接的なものとして現われているのかというように、直接的なものとそれがそのようなものとして発現してきた内的なものとの論理的・必然的な関連において、再び全体としての直接的なものを説明するというような考察になるわけです。まず、このような観点を踏まえて、このパラグラフを各文節ごとに詳しく検討して行くことにしましょう。

 (イ)われわれが、これまで考察してきたように、一つの商品の単純な価値形態は、別の種類の一商品に対する、その商品の価値関係のうちに、あるいは交換関係のうちに、含まれていました。

 さて、ここに「価値関係」と「交換関係」という言葉が出てきます。この二つは同じと考えてよいのか、違うならどのように違うのか、ということが問題になりました。
 まず「交換関係」については、第1節の価値の分析の最初のあたりで次のように出てきました。

 〈さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば 1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 というように。この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに、すなわち一クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。〉(下線は引用者)

 だから交換関係というのは、価値と使用価値の統一物である商品が互いに交換される関係、あるいは割合を意味します。それらが交換されるということは、二つの商品の、価値が量的に等しいだけでなく、使用価値が異なるからであり(同じであれば交換する意味がありません)、だから交換関係という場合は、商品を価値とともに使用価値において見ていることが分かります。

 次に「価値関係」ですが、これは初版付録の相対的価値形態の考察の小項目をみると分かります。

 〈(2)相対的価値形態
   a 同等性関係
   b 価値関係  〉

 先の第1節からの引用文では、二つの商品の交換関係のなかに、同等性の関係を見ていました。つまり引用文の例でいうと、「小麦=鉄」の関係がそこにあるわけです。この二つの異なる使用価値が同じものであるのは、それらのなかに同じものがあるからです。そしてその同じものというのがすなわち価値なのです。つまり両者は価値であるかぎりにおいて同じなのです。だから小麦が自分と同じものとしての鉄に関係するということ、あるいは、鉄が同じ実体を持つものとして小麦に等置されるということは、鉄がこの関係において価値として認められている、ということを表現しているわけです。鉄は小麦に等置されますが、それもやはり小麦が価値であるかぎりにおいてのことです。だから、二商品の同等性関係というのは、「価値関係」なのだ、と初版付録では書いています。
 だから「交換関係」というのは、二商品が互いに交換される関係や割合のことですが、二つの使用価値が異なる商品が交換されるということは、それらの異なる商品が互いに等しい関係を持っているということ、「同等性関係」にあるということです。そして二つの商品が同等であるというのは、それらが価値である限りにおいて言えることです。だから二つの商品の「同等性関係」は「価値関係」なのです。だから「価値関係」というのは、「交換関係」におかれた二つの商品が、価値という一面においては互いに等しいのだと関係しあうものだということができます。そしてこの「価値関係」のなかに一つの商品の「価値表現」が潜んでいたわけです。ただし、二商品の共通な価値属性が、それらを互いに価値関係のなかに置くのであって、二商品の交換関係、あるいは価値関係が、両者に共通な価値属性を持たせるのではないということが肝心です。
 そして少し先走って論じるなら、この社会を労働によって支える生産者たちが彼らの労働によってとり結ぶ彼らの社会的関係が、これらの物の、すなわち諸労働生産物の、「価値関係」として現われているということです。だから「価値関係」は、その背後に隠されている一つの社会的な関係の現象形態でしかないということです。

 (ロ)次は単純な価値形態の全体を、質的な面と量的な面から考察します。まず質的な面では、商品Aの価値は、商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されています。つまり価値関係の内実は、商品Aの価値が商品Bに対して、商品Bは自分と直接交換可能だと一方的に宣言し働きかけることによって表されているわけです。

 (ハ)次は量的な側面です。商品Aの価値の大きさは、一定量の商品Bが、ある与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現されています。つまり商品Bの一定の使用価値量によって表されています。

 ここで量的な考察では質的な場合とは異なり、「交換可能性」が言われるだけで、「直接的交換可能性」とはなっていないのはどうしてなのかという疑問が出されました。それは「直接的」に交換可能かどうかという問題は量の問題ではなく、等価形態の質の問題だからではないか、という意見が出されました。実際、「3 等価形態」の第1パラグラフでは等価形態の質的な考察がなされていましたが、そこでは〈したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である〉と言われていたのでした。それに対して、等価形態の量的考察が行われている第2・3パラグラフでは、そうした文言は出てきません。つまり量的には、そうした直接交換可能性という質的なものを前提して論じられているから、ただ「交換可能性」でよいのではないかというのです。
 もちろん、これはこれでよいのですが、もう少し内容に踏み込んで考えてみましょう。
 「直接的交換可能性」の「直接的」とはどういうことかを考えてみましょう。これは文字通り「直接」に交換可能ということです。商品はそのままでは決して直接には交換可能ではありません。というのは商品の直接的な存在はその自然形態であり、使用価値だからです。使用価値の場合は、偶然、交換相手がそれを必要としていた場合は交換可能ですが、そうでなければ、使用価値のままでは直接には交換できません。だから商品は交換可能となるためには、一旦、直接に交換可能なもの(貨幣)に転換する必要があるのです。
 つまり等価物が直接に交換可能なのは、等価物の使用価値そのもの、その自然形態が価値そのものに、価値が具体的な形態をとって現われたものとして通用しているかにほかなりません。だから等価物の場合は、価値の具体物として認められるその使用価値のままで、それこそ「直接」に交換可能なのです。それ自体が価値そのものですから、あらゆる商品の価値に等置されうるからです。しかもここで商品Bが商品Aに対して直接的交換可能性を持っているというのは、商品Bの使用価値が商品Aの価値が具体的な形で現われたものだからなのです。つまり商品Bの使用価値によって商品Aの価値が表されているからなのです。だからマルクスはここで〈商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される〉と述べているのだと思います。ここで〈質的には〉と述べているのは、ここでは商品Aの価値の量ではなく、価値そのものが如何に表現されるかということだけが問題になっているからです。
 それに対して、量的には商品Aと商品Bが交換されるということは、商品Aの価値の大きさと商品Bの価値の大きさが同じであるからにほかなりません。この両方の価値の大きさというのはいずれも両方の商品に内在的なものであって、だからここでは直接性は何も問題にはならないのです。ただ商品Aの価値の大きさは、それと交換される商品Bの使用価値の量(例えば上着ならその1着、2着というその使用価値量)によって表現されているのです。だから商品Aの価値量は、ある与えられた内在的な量なのですが(だからそれは当然目に見えません)、それはそれと交換可能な商品Bの使用価値量によって目に見える形で表現されているのです。だからマルクスは(商品Aの価値は)量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される〉と述べているのだと思います。

 (ニ)一商品の価値が質的にも量的にも、どのように表現されているかを確認して言えることは、一商品の価値は、「交換価値」として表示されることによって、初めて独立に表現されているのだということです。そもそも私たちは第1節で商品の価値を探るために、次のように考察を開始しました。

 〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる。〉

 これが交換価値をもっとも直接的に表象として捉えたものでした。さらに私たちの分析は次のように進みました。

 〈ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合の諸商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、ただ一つの交換価値をもっているのではない。〉

 だからこうしたさまざまな交換価値こそ、1クォーターの小麦の価値を表すものだったのです。だからこの第1節でも、次のような考察がなされていました。

 〈およそ交換価値は、ただ、それとは区別されるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない〉。

 そして今では私たちは、こうしたことは、「ある内実」、つまり「価値」の表現様式であり、現象形態であることをすでに知っているわけです。
 つまり20エレのリンネルの価値は、それと直接に交換可能である別の商品、上着1着によって表されているわけです。上着1着というのは、20エレのリンネルの「交換価値」なのです。それは20エレのリンネルの価値が、リンネル自身とは区別されて、上着1着として独立して表現されているものなのです。

 ここで〈独立に〉というのは、どういうことかが問題になりましたが、すでに上記の説明でお分かりだと思います。すなわち一商品の価値は、その商品のなかに使用価値と統一された形で内在的に存在しています。だからその限りでは価値そのものは、独立した定在はないわけです。しかし交換価値はそうした内在的な価値が、その商品の使用価値とは区別された形で、すなわち〈独立に〉、別の異種の商品の姿を借りて存在し、表されていることなのです。

 (ホ)この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言いましたが、これは厳密にいうと間違いでした。

 ここで「この章のはじめ」というのは、どこを指しているのか、ということが問題になりました。「この章」というのは、当然「第1章 商品」を指しています。では「商品は使用価値および交換価値である」という文言は、どこで言われたのでしょうか。それは第2節の冒頭の次の一文を指すのではないかと思われます。

 〈最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた〉

 また『経済学批判』では、「第1章 商品」の冒頭のパラグラフに次のように出てきます。

 〈一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集まりとして現われ、一つ一つの商品はその富の基本的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値と交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている。〉(国民文庫版23頁)

 しかしこうした言い方は厳密にいうと間違いだったというのです。

(ヘ)というのは、厳密にいうと、商品は使用価値または使用対象であるとともに「価値」であるというべきだからです。

 初版付録の「価値形態」では、冒頭、次のように言われています。

 〈商品の分析は、商品は一つの二重物、使用価値にして価値である、ということを示した。〉(国民文庫版128頁)

 また『資本論』の第3節の冒頭でも次のように言われていました。

 〈それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。〉

(ト)商品はそれを孤立的に見ているだけでは、こうした二重物として見えません。というのは商品の直接目に見えるものはその現物形態であり、価値は目に見えないからです。だから商品の価値が、商品自身の現物形態と異なる別の現物形態として現われて、初めて商品は二重物として見えることになります。その商品の価値が目に見える現物形態をとったものが、すなわち「交換価値」なのです。だから商品は、こうした二重物として現われるためには、常に、第二の種類を異にする商品との価値関係または交換関係のなかに置かれる必要があるのです。

 第3節の最初でも次のように言われていました。

 〈商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現われるのであり、言いかえれば商品という形態をもつのである。〉

 だからこうした商品の二重形態は、常に別の商品との価値関係または交換関係をとることによって示されるわけです。

(チ)もっとも、こうしたことを心得ておけば、先の言い方、つまり「商品は使用価値および交換価値である」という言い方も、有害ではなく、簡約に役立つでしょう。

 先の第2節冒頭の一文や『経済学批判』の冒頭の一文をみると、「われわれにたいして……現われた」とか「自己をあらわしている」というようになっていて、厳密には、必ずしも「商品は使用価値および交換価値である」という文言になっているわけではありません。つまりそれだけ慎重に書かれているわけです。しかし例え「現われた」とか「現わしている」といっても、一つの商品を孤立的に見ている限りでは、そうした二重物としては「現われない」わけで、その意味では、二つの言い方もやはり厳密にいうと正しいとはいえません。しかし常に商品が二つの商品の関係のなかで二重物として現われるということが分かっているなら、こうした言い方も意味があるといえるわけです。リンネルの交換価値は、確かにリンネルとは異なる別の商品、上着の現物形態の一定量として表されますが、しかしそれもリンネル自身の価値の形態であることに違いはないのですから、だからこういう意味で、商品は使用価値および交換価値であるといえるわけです。


(第2パラグラフは(その2)に続きます。)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第24回「『資本論』を読む会... | トップ | 第25回「『資本論』を読む... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『資本論』」カテゴリの最新記事