『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第24回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2010-05-21 12:46:52 | 『資本論』

第24回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

◎学説史的考察

 次は第2パラグラフです。ただし注も一緒に検討します。またこのパラグラフで出てくる幾つかの経済学者やそれに関連する用語については、それぞれ『資本論辞典』などの説明を付属資料として紹介しますので、詳しくはそれらを参照するようにしてください。

【2】
 〈
(イ)われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現が商品価値の性質から生じるのであり、逆に、価値および価値の大きさが交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではない。(ロ)ところが、この逆の考え方が、重商主義者たち、およびその近代的な蒸しかえし屋であるフェリエ、ガニルなど(22)の妄想であると共に、彼らとは正反対の論者である近代自由貿易外交員、たとえばバスティアとその一派の妄想でもある。(ハ)重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、したがって貨幣をその完成姿態とする等価形態に重きをおき、これに対して、自分の商品をどんな価格ででもたたき売らなければならない近代自由貿易行商人たちは、相対的価値形態の量的側面に重きをおく。(ニ)その結果、彼らにとっては、商品の価値も価値の大きさも交換関係による表現のうち以外には存在せず、したがって、ただ日々の物価表のうちにのみ存在する。(ホ)スコットランド人マクラウドは、ロンバード街〔ロンドンの金融街〕の混乱をきわめた諸表現をできる限り学問的に飾り立てるという彼の職能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとの見事な総合をなしている。

 (22) 第2版への注。F・L・A・フェリエ(“関税副検査官 sous-inspecteur des douanes ”)『商業との関係から見た政府について』、パリ、一八〇五年、および、シャルル・ガニル『経済学の諸体系について』、第二版、パリ、一八二一年。〉

 このパラグラフは初版本文や初版付録にはありません。第2版で初めて登場したものです(実際には、第2版の準備のために書かれた『補足と改訂』で初めて出てきます)。第2版で初めて登場する事情を、山内清氏は次のように述べています。

 〈初版発行後に、マルクスは、ユーリウス・ファウハーが彼の発行する『国民経済・文化史四季報』第20巻に、匿名者のマルクスをバスティア追随者にみたてた書評をのせているのに出くわした。英国でそれをクーゲルマンから受取ったマルクスは、クーゲルマンに次のような手紙を出している。「ファウハーには同意の手紙をやらないで下さい。そうでないと、この小便小僧は自分をあまりにもえらく思いすぎるでしょう。彼が到達したところは、第2版が出るころにでもなれば私が価値の大きさに関する適当な箇所でバスティアに二つ三つ痛棒をくらわすだろう、ということに尽きています。」(1868.7.11付)。またマルクスは、同日付のエンゲルスあての手紙でもこの点に言及し、バスティア流の価値論が全くの俗流的な労働節約説にあることを指摘している。「さらにまたドイツのバスティア追随者たちは知らないことだが--商品の価値を規定する労働は、その商品に費やされる労働ではなくて、その商品が買い手のために省いてやる労働だ、というこの惨めな言い方(交換と労働との関連についてとりとめのないことを言う子供くさい文句)は、そのほかの、彼の葡萄酒販売買的な諸範疇のどれか一つと同様に、バスティアの発明品ではないのだ。」
 さらにマルクスは、1868年の『私のF・バスティア剽窃』という論文で逆にバスティアの剽窃を暴露し、そしてここで決定的な痛棒を加えたのである。〉(『資本論商品章詳注』87-8頁)。

 マルクスが、このパラグラフを加えた背景に、こうした事情があったことはそのとおりかも知れません。しかしこのパラグラフの内容を検討すると、確かにバスティアにも言及していますが、しかしそれだけが問題になっているわけではなく、バスティアに「痛棒をくらわす」ことが中心になっているようにも思われないのです。
 それよりも私たちはより重要な事実に気づきます。つまりこの「4 単純な価値形態の全体」という項目そのものが、初版本文や同付録にはないものなのです。例えば初版付録では、〈γ 等価形態の第三の特性私的労働がその反対物たる直接的に社会的な形態における労働になる。〉のあとに続くものは、〈δ 等価形態の第四の特性商品形態の呪物崇拝は等価形態においては相対的価値形態におけるよりもいっそう顕著である。〉という、第2版では「第4節 商品の物神的性格とその秘密」に移されたと思えるような内容の項目が続き、そのあと第2版の「単純な価値形態の全体」と内容的に一致するものが(四)~(九)の6つの項目にわけて論じられているだけなのです。
 つまり単純な価値形態における価値表現の両極である相対的価値形態と等価形態が、それぞれ個別に考察されたあとに、それらが総合されて、再度、「単純な価値形態の全体」が捉え返されるというような構成は、第2版で初めて採用されたものなのです(もちろん、実際には、『補足と改訂』ですでにこの項目は見られます)。だから「単純な価値形態の全体」が自立した主体としてあらためて捉え返される項目が新たに設定されることによって、初めてその学説史的な考察も本文のなかに挿入されるようになったと考える方が、このパラグラフが第2版で初めて挿入された理由として、より適切ではないかと思います。バスティアへの「痛棒」はむしろその“ついで”といえるのではないでしょうか。
 とりあえず、そうしたことを確認して、このパラグラフの内容を文節ごとに検討して行きましょう。

 (イ)私たちの、これまでの価値形態の分析で明らかになったように、商品の価値形態または価値表現は、商品の価値の本性から生じるのであって、逆に、価値やその大きさが、交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではありません。

 以前にも紹介しましたが、マルクスは初版本文のなかで次のように述べています。

 〈しかし、決定的に重要なことは、価値形態と価値実体と価値の大きさとの関係を発見するということ、すなわち観念的に表現すれば、価値形態は価値概念から発していることを論証するということだったのである〉(国民文庫版77頁)

 つまりこれまでの価値形態の分析が明らかにしてきたのは、価値形態は価値概念から発しているということ、価値形態は内在的な価値が現象したものであることを論証してきたわけです。だから当然、価値やその大きさが、現象形態である交換価値から生じるなどという考えは転倒以外の何物でもないのですが、しかしブルジョア経済学者たちはこの現象に固執するわけです。
 
 (ロしかし)こうした現象としての交換価値にしがみつく逆転した考え方が、かつての重商主義者たちや、その近代的な蒸し返し屋であるフェリエ、ガニルなどの妄想であり、さらに彼らの保護貿易主義とは正反対の論者である近代自由貿易外交員、例えばバスティアとその一派の妄想でもあるのです。
 
 ここでは「重商主義」という用語が出てきますが、『資本論辞典』は次のように説明しています。

 【ー般に重商主義とは.16~18世紀にわたる資本の〈本源的蓄積〉の時期にあらわれた経済政策および経済理論書の総称である。……重商主義政策の基本的主体は絶対主義的形態をもつ国家であり,それは〈商人資本〉の運動に支援されながらいわゆる本源的蓄積のための諸政策を暴力的に遂行する。この時期には,すでに大市場の形成がなされており,〈世界市場〉が発生し,商業資本はみずから生産に関与して小生産者を駆逐するにいたり,一方種々なる形の〈マニュファクチァ〉が発生した.国家は,貿易差額を大ならしめ国内の貨幣を増加させるために,輸出産業を奨励・統制し.労働日の延長と労賃の固定化を目的とする労働立法を制定した。……だが重商主義が,商業資本の運動において自立化した流通過程の表面的現象から出発して,それゆえに経済上の仮象のみをとりあげたことは,己の学説の根本的限界をなしている.……たとえば,剰余価値を剰余貨幣,つまり貿易差額の過剰分で表示したり.貨幣をそのまま資本だとみたりしたのは,そうした誤りにもとづいている。それゆえに重商主義的学説は,価値のうちにただ社会的形態の実体なき仮象のみをみたり貨幣や資本の形態規定性をそのまま一面的に説明することによって,ブルジョア社会の外面的特徴を端的につかみだすことに成坊したとはいえ,そうした現象の背後にひそむ本質的生産諸関係を洞察するまでには至らなかったのであり,そのために〈古典派経済学〉からの批判を受けることになるのである。】(石垣博美)(資本論辞典238-9頁)

 こうした重商主義者に対して、その〈近代的な蒸し返し屋〉といわれている、フェリエやガニルは、第一次フランス帝政の時代に帝政を擁護し、また帝政の公職について、ボナパルトの貿易禁止制度の賛美者であったと言われています。古典派経済学は価値形態に注意を払わなかったとマルクスは指摘していますが(後述参照)、彼らは逆に諸商品の価値とその大きさを、交換価値、あるいは価値形態から説明したのです。
 これに対して、彼らの保護貿易主義とは正反対の自由貿易主義の立場に立つバスティアは〈価値は交換されたサーヴィスの比例である〉とし、商品の価値も価値の大きさも交換関係による表現のうち以外には存在しない立場をとったと言われています(以上、付属資料参照)

 また先に紹介した初版本文の注24でマルクスは次のように書いています。

 〈(24) 古典派経済学の根本欠陥の一つは、商品の、またいっそう特殊には商品価値の、分析から、価値をまさに交換価値となすところの価値の形態を見つけ出すことに成功しなかった、ということである。A .スミスやリカードのような、まさにその最良の代表者たちにおいてさえ、古典派経済学は、価値形態を、まったくどうでもよいものとして、または商品そのものの性質には外的なものとして、取り扱っているのである。その原因は、ただ、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われてしまったということだけではない。それは、もっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、しかしまた最も一般的な形態なのであって、このことによってこの生産様式は、社会的な生産様式の一つの特殊な種類として、したがってまた同時に歴史的に、特徴づけられているのである。それゆえ、もしこの生産様式を社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的にまた、価値形態の、したがって商品形態の、さらに発展しては貨幣形態や資本形態などの、独自性をも見そこなうことになるのである。それだから、労働時間による価値の大きさの計測についてはまったく一致している経済学者たちのあいだにも、貨幣、すなわち一般的な等価物の完成した姿については、きわめて雑多できわめて矛盾している諸見解が見られるのである。このことは、たとえば、ありふれた貨幣の定義ではもはやまにあわない銀行業の取扱いにさいして、明瞭に現われてくる。このことから、反対に、復活した重商主義(ガニルその他) が生じたのであって、これは価値においてただ社会的な形態だけを、またはむしろただ社会的な形態の無実体な外観だけを、見るのである。--ここで一度はっきり言っておくが、私は、W ・ペティ以来の、ブルジョア的諸生産関係の内的な関連を探究する経済学のすべてを,俗流経済学と対立させて、古典派経済学と呼ぶのであって、俗流経済学のほうは、ただ外観上の関連のなかを右往左往するだけで、いわば粗雑きわまる現象のもっともらしい平易化と、ブルジョアの自家需要とのために、科学的な経済学によってはとっくに与えられている材料を絶えず繰り返して反芻するのであるが、そのほかには、自分たち自身の最良の世界についてのブルジョア的生産当事者たちのありふれた、ひとりよがりの見解を、体系づけ、屍理屈づけ、永遠の真理として宣言するだけで満足しているのである。〉(国民文庫版77-8頁)

 マクラウドについては、もっと時代は後になりますが、これは付属資料を参照して頂くだけにしましょう。

 (ハ)重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、だから等価形態の完成姿態である貨幣に重きを置き、それに対して、近代的自由貿易行商人たちは、とにかく自分の商品をどんな価格でもたたき売る必要から、相対的価値形態の量的側面を重視したのです。

 価値表現の質的な側面というのは、第1パラグラフでも述べられていたように、等価形態に置かれる商品が「直接的交換可能性」を持つことによって表現されるということでした。この等価形態の直接的交換可能性が発展し、完成したものこそ、どんな商品とも直接に交換可能である(何でも買える)貨幣です。重商主義者たちは、貿易差額を拡大して国内の貨幣の増大を追求し、輸出を奨励する一方、輸入を制限する保護貿易政策をとったと言われています。
 他方、自由貿易主義者は、市場の拡大を目的とし、そのためには価格の引き下げを必要としたので、商品の価格という量的側面だけに注意を払ったということです。

 (ニ)その結果、両者は、商品の価値も価値の大きさも、商品に内在するものとは見えず、ただ交換関係によるそれらの表現だけに固執し、ただ日々の物価表のうちに存在するものとみなすのです。

 (ホ)マクラウドは、ロンバード街という金融市場の中心において、銀行業者を代表して、これらの論者たちを総合して、混乱した諸表象をできる限り学問的に飾りたてています。

 このように第2パラグラフは、「単純な価値形態の全体」としてその直接的な表象として捉えられる交換価値が、歴史的には重商主義者たちによって(また近代にはその蒸し返し屋によって)、その質的側面が重視され、あらゆる商品との直接的交換可能性をもつ貨幣をとりわけ重視する主張として現われたこと、また近代の自由貿易論者も同じように現象としての交換価値だけに捕らわれているが、彼らは量的側面を重視し、市場拡大のために商品をたたき売ろうとしたこと、そしてさらに今日の金融街においても、同じ様な現象に捕らわれた主張がマクラウドに見られるというような展開になっています。つまり「単純な価値形態の全体」が学説史的に考察されていると言ってよいのではないかと思います。

(【付属資料】は(その3)に続きます)

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