Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

モーツァルトを聴く(2)

2010年06月09日 21時42分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は同じモーツアルトのピアノソナタの17番(K576)と14番(K457)、幻想曲(K475)をはやり内田光子の演奏で。
 この14番も幻想曲も昨日の曲のようにな感じに聞こえた。モーツアルトの他の曲のように滑らかにメロディーが次から次に湧いてくるような流れの前に、序盤はつっかえつっかえ進んでいくような、メロディーが広がるのを拒否しているような感じである。中盤の展開部も決して滑らかな進行ではない。行きつ戻りつのような感じのまま、終盤を迎える。そんな風に聞こえる。
 気持ちが晴れやかになるのを心のどこかでブレーキをかけている作曲家の影が見え隠れするようだ。晴れやかになるのを恐れている作曲家がいるのだろう。晴れ間は何となく見えているのだが、それでも「人の手ではなく、自分の足だけで地ならしをしながら歩きたいのだ」とこだわると、収拾がつかなくなることは重々承知をしているのに、どこかで二の足を踏んでいる作曲家がいる。なんかそんなモーツアルトを聞いているような気がする。
 このような曲がとても心地よく聞こえるときがある。そんな内省的な気分の時にはうってつけの曲だ。

モーツァルトを聴く

2010年06月09日 09時43分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨晩は内田光子のモーツァルトのピアノソナタ#15(K545)、同#18(K533/494)、ロンド(K511)を聴いてから就寝。
 ♯15はモーツァルト然として、昨晩の気分に合致していた。しかしロンドに至って、そのモーツァルトらしからぬ響きにびっくりした。
 以前にも幾度か聴いていたはずだが、聞き流していたのだろう。誰の、とは思いつかないが、ロマン派のピアノのといわれても頷いてしまう。こんな曲もあったのかと、認識をあらたにした。
 この気分のまま次の♯18を聴くと、同じ流れに乗っているような気分だ。暗い感情・想念に支配された憂鬱を入念に作品に仕上げたような、曲に聞こえた。
 新しいモーツァルトの魅力を見つけたような気がする。