「俳句と歴史的仮名遣い」を受けて、次のような素敵なメールを友人からいただいた。
“「○○い」のような色を表現する形容詞は四語のみshiro kuro aka ao のみが日本語の「基本色彩語」とされています。色を言葉で表現する「色彩語」と何かに例えて表現する「色名」がありますが、色名は「世につれ、時代や地域、文化」の違いで様々に変化し、興味深いものです。少し前の伝統工芸の職人ならば、客に「ピンクのが欲しい」と言われても「日本人なら鴇色ッて言ってくれ!」と文句が返ってきました。
全国の小中学校対象の色名実態調査では(40年近く前)赤と黄の間の色名呼称は「橙」より「オレンジ」が使われており、小中学生はほとんどオレンジ、先生の半数弱が橙だったと聞いております。(学習指導要領改訂時に提言したとのこと)「橙」を「だいだい」と呼べる大学生も一人いるかどうかで、「お正月の御供え餅の上にあるもの」と説明しても大学生は「オレンジ」「ミカン」としか理解してないのが現状です。縁起担ぎで先祖「代々」子子孫孫から「ダイダイ」を乗せていると説明しても、中々理解してもらえない状況です。
鴇は大空を羽ばたいている姿の、太陽に透けた風切り羽の「鴇色」の美しさが理由で絶滅したとも言われているのに、呼び名まで「撫子」の英名 pink に滅ぼされてしまった、という話しがしたくなり「歴史的仮名遣い」に絡めて書きました。”
そう「俳句は伝統芸術だから歴史的仮名遣いでなければならない」という人々の多くは、私からすると枝葉末節な使い方にこだわりながら、大切なところを忘れていないだろうか。季語に載せられている言葉をそれこそ習い事を諳んじるように覚えることにエネルギーを費やし、その一方で大切な季節感をあらわすことを忘れ、季語以外の言葉遣いに無神経になっている「芸事」としての「俳句」になっていないだろうか。
たとえば、月の満ち欠けによる小望月、望月、十六夜、立待月、居待月、臥待月、二十日月などの言葉、雲や空の様子の言葉、色の言葉、花の言葉などなど、一昔前はベストセラーとなったカラー写真の本があった。季語として、あるいは教養として知ることは悪くない。しかしそれ以上に、季節感をもって使い切ること、現代の言葉の中に無理なく自然に生かし、再び定着させようとするささやかな努力、これに私も心しよう。
同時に、時代とともに忘れ去られ、死語となる語も当然ある。江戸の町並みや明治の文明開化時代の季節感と、現代の季節感は違う。あたらしい季節感をもった言葉も当然生まれてくる。季節感に関係ない言葉の死滅と誕生も当然ある。語感の変化もある。ここも当然わきまえて綴っているつもりだ。
麦酒でなくビール、燕尾服でなくタキシードという言葉の持つ語感からするとすべてが翻訳語でなければならないわけではないが、しかしもともとある和語が廃れるのはさびしいものがある。
私は右よりの政治的言語による「日本の伝統」なんてもは鼻から信用していないが、左翼の特許であった機能主義的な芸術論も信用していない。スターリニストの「民族論」「伝統芸能論」なども、もってのほかである。しかし万葉集以降の詩歌をはじめ、あらゆる芸術、技術に興味があるし好きである。自分の中に取り込みたいと思っていることだけは表明しておきたい。
“「○○い」のような色を表現する形容詞は四語のみshiro kuro aka ao のみが日本語の「基本色彩語」とされています。色を言葉で表現する「色彩語」と何かに例えて表現する「色名」がありますが、色名は「世につれ、時代や地域、文化」の違いで様々に変化し、興味深いものです。少し前の伝統工芸の職人ならば、客に「ピンクのが欲しい」と言われても「日本人なら鴇色ッて言ってくれ!」と文句が返ってきました。
全国の小中学校対象の色名実態調査では(40年近く前)赤と黄の間の色名呼称は「橙」より「オレンジ」が使われており、小中学生はほとんどオレンジ、先生の半数弱が橙だったと聞いております。(学習指導要領改訂時に提言したとのこと)「橙」を「だいだい」と呼べる大学生も一人いるかどうかで、「お正月の御供え餅の上にあるもの」と説明しても大学生は「オレンジ」「ミカン」としか理解してないのが現状です。縁起担ぎで先祖「代々」子子孫孫から「ダイダイ」を乗せていると説明しても、中々理解してもらえない状況です。
鴇は大空を羽ばたいている姿の、太陽に透けた風切り羽の「鴇色」の美しさが理由で絶滅したとも言われているのに、呼び名まで「撫子」の英名 pink に滅ぼされてしまった、という話しがしたくなり「歴史的仮名遣い」に絡めて書きました。”
そう「俳句は伝統芸術だから歴史的仮名遣いでなければならない」という人々の多くは、私からすると枝葉末節な使い方にこだわりながら、大切なところを忘れていないだろうか。季語に載せられている言葉をそれこそ習い事を諳んじるように覚えることにエネルギーを費やし、その一方で大切な季節感をあらわすことを忘れ、季語以外の言葉遣いに無神経になっている「芸事」としての「俳句」になっていないだろうか。
たとえば、月の満ち欠けによる小望月、望月、十六夜、立待月、居待月、臥待月、二十日月などの言葉、雲や空の様子の言葉、色の言葉、花の言葉などなど、一昔前はベストセラーとなったカラー写真の本があった。季語として、あるいは教養として知ることは悪くない。しかしそれ以上に、季節感をもって使い切ること、現代の言葉の中に無理なく自然に生かし、再び定着させようとするささやかな努力、これに私も心しよう。
同時に、時代とともに忘れ去られ、死語となる語も当然ある。江戸の町並みや明治の文明開化時代の季節感と、現代の季節感は違う。あたらしい季節感をもった言葉も当然生まれてくる。季節感に関係ない言葉の死滅と誕生も当然ある。語感の変化もある。ここも当然わきまえて綴っているつもりだ。
麦酒でなくビール、燕尾服でなくタキシードという言葉の持つ語感からするとすべてが翻訳語でなければならないわけではないが、しかしもともとある和語が廃れるのはさびしいものがある。
私は右よりの政治的言語による「日本の伝統」なんてもは鼻から信用していないが、左翼の特許であった機能主義的な芸術論も信用していない。スターリニストの「民族論」「伝統芸能論」なども、もってのほかである。しかし万葉集以降の詩歌をはじめ、あらゆる芸術、技術に興味があるし好きである。自分の中に取り込みたいと思っていることだけは表明しておきたい。