昼からの検査も無事何事もなく終了。結果も良好、とのこと。18時前までぐっすりと睡眠。
夕べからの雨を受けてか、どこの紫陽花も美しく見えたので、帰りがけに夕べの雨を思い出しながら3句ほど。
あじさい
たいらかに四葩新葉に雨一夜
あじさいを打つ雨赤きしずくへと
紫陽花や花それぞれにしずく秘す
いろいろと俳句誌をさがしているが、どこも「歴史的仮名遣い」に固執している。それで見本誌だけで、終わってしまっている。
私は現代仮名遣いで作ることにしている。鑑賞するのはどちらの仮名遣いでもいいのだが、歴史的仮名遣いに「こだわる」ことが理解できない。
結社誌で「歴史的仮名遣いでなければ投句を受け付けない」となると、拒絶反応を示してしまう。歴史的仮名遣いにこだわるならば、他の文言、言葉遣いも芭蕉の頃の文言にすべき話となってしまう江戸時代前・中・後・末期と明治・大正・戦前の文言が珍妙に混在するだろう。現代でも使う近世語があるのは事実だし私も使う。それは普段も強調などで使うからだ。しかし「あじさい」を「あじさゐ」と「書かなくてはならない」根拠などない。
芭蕉もそんなことは言っていない。新しい時代の新しい言葉でつくるべきものではないだろうか。作者にとって歴史的仮名遣いが好ましければ、その作者に任せればいいだけの話だ。
夕べからの雨を受けてか、どこの紫陽花も美しく見えたので、帰りがけに夕べの雨を思い出しながら3句ほど。
あじさい
たいらかに四葩新葉に雨一夜
あじさいを打つ雨赤きしずくへと
紫陽花や花それぞれにしずく秘す
いろいろと俳句誌をさがしているが、どこも「歴史的仮名遣い」に固執している。それで見本誌だけで、終わってしまっている。
私は現代仮名遣いで作ることにしている。鑑賞するのはどちらの仮名遣いでもいいのだが、歴史的仮名遣いに「こだわる」ことが理解できない。
結社誌で「歴史的仮名遣いでなければ投句を受け付けない」となると、拒絶反応を示してしまう。歴史的仮名遣いにこだわるならば、他の文言、言葉遣いも芭蕉の頃の文言にすべき話となってしまう江戸時代前・中・後・末期と明治・大正・戦前の文言が珍妙に混在するだろう。現代でも使う近世語があるのは事実だし私も使う。それは普段も強調などで使うからだ。しかし「あじさい」を「あじさゐ」と「書かなくてはならない」根拠などない。
芭蕉もそんなことは言っていない。新しい時代の新しい言葉でつくるべきものではないだろうか。作者にとって歴史的仮名遣いが好ましければ、その作者に任せればいいだけの話だ。