Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

土門拳を見る・読む(5)

2010年06月02日 21時55分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
臼杵石仏群 古園大日如来坐像頭部 1943


 この画像は幾度が眼にすることがあった。といっても大型の土門拳の写真集で見たのだと記憶しているが、判然とはしない。そして不思議なことに同じ感想を持った記憶がある。それはこの私の持っている文庫版の写真集の既視体験かもしれないと云われると、きっぱりと否定はできないが‥。
 そのいつもの同じ感想とは、「仏像は製作時の色彩、金箔など当時の製作者の意図、当時の時代の要請に沿った復元が必要ではないか。出来るならば現在の姿と当時の姿を並べて展示する必要があるのではないか。その二者の落差が、大切ではないか」ということ。
 製作者の意図に反して屋外のものになってしまったものもあるだろうし、反対にいつの間にか屋内にしつらえられてしまったものもあるだろう。それぞれに良さがあり、思いがけない効果があるかもしれない。
 しかしここにあげた仏像に限っては、風雨にさらされたための効果が表に表れているのではないだろうか、という思いが先にたつ。そして5年ほど前に実際に訪れたときも、同じように感じた。
 それほどこの仏像の表面の模様はごく自然にその長い歳月を示している。そして嫌味がない。製作当時の姿はあまりの通俗性を示すことがあり、歳月をかけたほうがそんな通俗性や現世利益追求の生々しさをそぎ落としてくれているかもしれない。この仏像の顔の表情は「もともとそんな嫌味な性格に作られていないよ」と平然としている顔でもある。歳月とともに嫌味がうせた顔ではなく、もともとこのように嫌味のない顔なのだろう。それはこの仏像の表面の風合いが、なまなましい現実を最初から拒否するような風格を有していたためだと思う。
 こんなことを必ず思わせてくれるものであり、その雰囲気を十分に伝えてくれる写真ではないだろうか。

好天、気分も少し晴れ間

2010年06月02日 12時36分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 政局とは一切関係はなく、日常の悩みもイライラも、楽しみも過ぎて行く。政治が私には風景となって何年過ぎただろうか。
 そう、過ごしやすい陽射しと風、こんな日は、何もかもホッポリ出して大の字の仰向けでこの陽射しを浴びたいもの。
 例えば、山の縦走路の小ピークでリュックを枕に、雲雀や鶯の囀りを聞きながら昼寝を貪りたい。
 せめて空き地の草むらか、石の上で寝ていたい。