Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

俳句と歴史的仮名遣い

2010年06月20日 10時55分32秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日のブログを以下のように書き換えてみた。

 夕べからの雨を受けてか、どこの紫陽花も美しく見えた。帰りがけに夕べの雨と今朝の紫陽花の様子を思い出しながら4句ほど作ってみた。

あじさい
たいらかに四葩新葉に雨一夜
あじさいを打つ雨赤きしずくへと
あじさいを打つ雨いとど赤いよよ
紫陽花の蕊それぞれにしずく秘す


 いろいろと俳句誌をさがしているが、どこも「歴史的仮名遣い」に固執している。それで取り寄せたものの見本誌だけで、継続の申込を行っていない。
 私は現代仮名遣いで作ることにしている。他の作者の俳句を鑑賞するのはどちらの仮名遣いでもいいのだが、歴史的仮名遣いに「こだわる」結社誌の在り様が私には理解できない。
 結社誌で「歴史的仮名遣いでなければ投句を受け付けない」となると、拒絶反応を示してしまう。歴史的仮名遣いにこだわるならば、他の文言、言葉遣いも、いつの時代かの、芭蕉なら芭蕉の時代の、子規ならば明治前半の、それぞれの模範とすべき俳人の活躍した時代の文言を基準とすべき話となってしまわないだうか。
 たとえば私の第3句目、いい作品かどうかの評価はまったく別に考えるのだが。「いとど」「いよよ」は古い言葉である。源氏物語・万葉集所載のことばである。現代の辞典(例・角川新国語辞典)には記載されていない。しかし現代でもわりと会話にも使われる。大げさに言ったり強調したりするときに、あるいはふざけた会話の中で使われる。この微妙な差異を作者である私は利用して俳句に仕立ててみたのである。あくまでも古語であっても現代の時点での感覚で利用している。
 この場合はたまたま違いはないが「しとど」「いよよ」がもし歴史的仮名遣いがあるからといって、それに従わなければならない必然はあるだろうか。歴史的仮名遣いでないと語感は伝わらないであろうか。
 あるいはその前におかれた季語でもある「あじさい」を「あじさゐ」に変えなければならない理由はあるだろうか。どのことばも現代の語感・意味・感覚で作っているのである。
 たしかにもし「いよよ」「しとど」に歴史的仮名遣いがあるとして「強調」の意味で作者が使うことはあることと思う。それは作者自身の作為・思いを尊重すればよいだけである。
 また、歴史的仮名遣いには合理的な側面も多くあり、戦前に教育を受けた方をはじめ、慣れもある。そのような世代の方々や慣れに従う方はそれが自然な表記方法であろう。私はそれは絶対に否定しない。
 作者にとって歴史的仮名遣いが好ましければ、その作者に任せればいいだけの話だ。それぞれの思いに従えばよいのである。たとえば「居る」ということば、「いる」よりも「ゐる」という表記がすんなりと気持ちに沿うという方は存在すると思う。「匂い」より「匂ひ」の語感の方が優しさがあるという方、雰囲気という意味合いが強いと感じて使われる方もおられることは確かだ。
 「俳句は伝統的な文芸だから歴史的仮名遣い」などといっているかぎり、俳句は廃れるだけの運命であろう。歴史的仮名遣いでなければ強調として使えないのであれば、逆に「いよよ」「しとど」は俳句では使えないことになる。
 また、歴史的仮名遣いにこだわるということは、語句の使い方も古風にしなければならなくならないのだろうか、という思いも出てくる。その時点を江戸時代におくか、明治・大正、昭和の戦前か、昭和の後期におくか、定点を決めなくてはならない。江戸も明治もそれぞれに微妙に違う時期がいくつもある。

(2)に続く

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