仙台での学生時代、なかなか果物を手に入れることが出来なかった。その中で秋の柿は安かったので、売れ残りで熟れきったものを八百屋さんで、一篭か二篭を捨て値で譲ってもらったことが幾度もある。バス代が100円になり、高いと文句を言っていたころで、20円から30円位だったと思う。熟れきって手にするとすぐ崩れてしまうものばかりであった。蝿がたかったりしていたが、それをそっと水をかけただけで洗い、切れない包丁で押しつぶすように切れ目をいれ、啜るようにして食べた。一篭で夕食1回分であった。
スイカは自然と亀裂が入ってしまったものを格安で譲ってもらい、友人と数人で、公園で分けて頬張った。
それ以外の果物の記憶は枇杷である。私は日当たりの悪いアパートから50分ほどサンダルか下駄で歩いて大学まで通った。途中何軒かの家の日当たりのよくない玄関側には枇杷の木がよく植えられていた。6月下旬から7月にかけて、決して大きくはないが黄色く色づいたものがたくさん実っていた。
特にアパートを出て500メートルほどの直線の道の突き当たりの家と、右に曲がってその先3軒ほどはいつもこの時期以降、枇杷が道に張り出して、実っていた。伊達政宗がねむる瑞鳳殿のある墓域(霊屋(おたまや))まで200メートルもないところで、人通りも極めて少なく、よく1~2個ずつ計5個ほどを失敬して、瑞鳳殿の脇を霊屋下(おたまやした)という町並みに抜けるまでの間に食した。いや、いただいた、というべきだろう。
この時期は果物はあまりなく、高価なのでとてもありがたかったのを覚えている。毎日いただくのは遠慮して、週に2回ほど、それも梅雨の雨の降る日に傘で隠すようにしてもぎ取った。
先日、仙台に行ったとき、その道を歩いてみた。枇杷がなっていた家は建て替えられて、未だに枇杷が植えられている家は古びた一軒のみであった。今は、枇杷を日の当たらない北側や玄関脇に植える習慣がなくなっている。横浜でも稀である。
さらに現在は昔と違って瑞鳳殿脇の霊屋の道の通り抜けは自由ではなくなっていた。当時は近道として、深夜も明け方もずいぶん利用させてもらった。またデモが荒れて機動隊に追われて逃げ込んだことが二度ほどあった。当時の機動隊員もここまで踏み込んではこなかった。私自身はその他大勢の参加者のひとりのつもりであり、それほどの大物ではなかったはずであるので‥。鬱蒼とした大木の連なる道は、当時は昼も暗く森の中の道のようであった。
聖域として、江戸時代初期より人が入り込むのは憚られてきた区域だけあって、いつもひっそりと静まり返っていた。広瀬川が大きく蛇行して仙台の市街に突き出ていて、ここお霊屋下はそれこそ枇杷の形のような地形をなしている。決して広大な区域ではなかったが、大木が並ぶ小高い丘は、東北側がなだらかに広瀬川に続き、橋を渡って片平の大学構内に面している。南側はわりと急な崖で一本道だけが裏の向山(むかいやま)に通じ、西側は急な崖が広瀬川に直接落ちていた。東南側は鹿落(ししおち)坂として有名な広瀬川の絶壁にのぞむ。
私が仙台を離れた翌々年に発掘調査が行われ、伊達政宗の遺骨の調査が行われたと聞く。それ以来、解放された空間ではなくなり、有料の開園時間以外の通り抜けは出来なくなったようだが、引き続き森閑とした雰囲気は保たれており、周囲の開発も進んでいないことが私には好ましいことに思われた。
私の罪は二重である。当時住んだ安アパートに引っ越してから3年は続けて、数十個の枇杷を無断でいただいた。そして瑞鳳殿のなかの道に食べた枇杷の実と皮を捨てて歩いた。もし枇杷の木が生えてしまっていたらそれは隠れもなく私の罪の証であろう。
願わくば、40年近く経った枇杷の木がひょっとして在ったとしても、余計な樹として邪魔になっていないこと、そして瑞鳳殿の中と周囲とが引き続き森として静かな空間を提供してくれることを、祈る。
スイカは自然と亀裂が入ってしまったものを格安で譲ってもらい、友人と数人で、公園で分けて頬張った。
それ以外の果物の記憶は枇杷である。私は日当たりの悪いアパートから50分ほどサンダルか下駄で歩いて大学まで通った。途中何軒かの家の日当たりのよくない玄関側には枇杷の木がよく植えられていた。6月下旬から7月にかけて、決して大きくはないが黄色く色づいたものがたくさん実っていた。
特にアパートを出て500メートルほどの直線の道の突き当たりの家と、右に曲がってその先3軒ほどはいつもこの時期以降、枇杷が道に張り出して、実っていた。伊達政宗がねむる瑞鳳殿のある墓域(霊屋(おたまや))まで200メートルもないところで、人通りも極めて少なく、よく1~2個ずつ計5個ほどを失敬して、瑞鳳殿の脇を霊屋下(おたまやした)という町並みに抜けるまでの間に食した。いや、いただいた、というべきだろう。
この時期は果物はあまりなく、高価なのでとてもありがたかったのを覚えている。毎日いただくのは遠慮して、週に2回ほど、それも梅雨の雨の降る日に傘で隠すようにしてもぎ取った。
先日、仙台に行ったとき、その道を歩いてみた。枇杷がなっていた家は建て替えられて、未だに枇杷が植えられている家は古びた一軒のみであった。今は、枇杷を日の当たらない北側や玄関脇に植える習慣がなくなっている。横浜でも稀である。
さらに現在は昔と違って瑞鳳殿脇の霊屋の道の通り抜けは自由ではなくなっていた。当時は近道として、深夜も明け方もずいぶん利用させてもらった。またデモが荒れて機動隊に追われて逃げ込んだことが二度ほどあった。当時の機動隊員もここまで踏み込んではこなかった。私自身はその他大勢の参加者のひとりのつもりであり、それほどの大物ではなかったはずであるので‥。鬱蒼とした大木の連なる道は、当時は昼も暗く森の中の道のようであった。
聖域として、江戸時代初期より人が入り込むのは憚られてきた区域だけあって、いつもひっそりと静まり返っていた。広瀬川が大きく蛇行して仙台の市街に突き出ていて、ここお霊屋下はそれこそ枇杷の形のような地形をなしている。決して広大な区域ではなかったが、大木が並ぶ小高い丘は、東北側がなだらかに広瀬川に続き、橋を渡って片平の大学構内に面している。南側はわりと急な崖で一本道だけが裏の向山(むかいやま)に通じ、西側は急な崖が広瀬川に直接落ちていた。東南側は鹿落(ししおち)坂として有名な広瀬川の絶壁にのぞむ。
私が仙台を離れた翌々年に発掘調査が行われ、伊達政宗の遺骨の調査が行われたと聞く。それ以来、解放された空間ではなくなり、有料の開園時間以外の通り抜けは出来なくなったようだが、引き続き森閑とした雰囲気は保たれており、周囲の開発も進んでいないことが私には好ましいことに思われた。
私の罪は二重である。当時住んだ安アパートに引っ越してから3年は続けて、数十個の枇杷を無断でいただいた。そして瑞鳳殿のなかの道に食べた枇杷の実と皮を捨てて歩いた。もし枇杷の木が生えてしまっていたらそれは隠れもなく私の罪の証であろう。
願わくば、40年近く経った枇杷の木がひょっとして在ったとしても、余計な樹として邪魔になっていないこと、そして瑞鳳殿の中と周囲とが引き続き森として静かな空間を提供してくれることを、祈る。