Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

土門拳を見る・読む(6)

2010年06月04日 21時21分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
西芳寺庭園書院前四半石1962
 

 「ある日、一個の切石がぼくの眼にとまった。ほぼ一尺四方のその石は、痛いように芽吹いた杉苔にかこまれており、本来は踏まれる運命にある石が、まるで踏まれることを拒否しているようである。石と苔との静か調和に、しばらく見惚れていたが、ヨシッとカメラを立ててシャッターを切った。その写真は大層ぼくの気に入った。」

 土門拳の写真が生まれる秘密を垣間見せてくれる文章ではないだろうか。きっと絵画や写真や、あるいは芸術的な作品が生まれる一瞬のときというのはこのように、対象物とのひらめきのような対話、会話、相互関係が成立する瞬間であるような気がする。
 あるいはアルキメデスが風呂場から飛び出していったように、物理や数学などの分野でもそうなのかもしれない。河川の堤防があふれて水が平野に一挙にあふれ出て新しい水の流れが現れるように、理論も発見も、美もそのように一挙に成立するものなのかもしれない。ただしそれが成立するには、あふれ出たものを受け止める感性が、理論の下地がなければならないのだろう。それがなければ一方的な噴出、発光に終わるだけだ。そんなことを考えさせてくれる文章だと思う。
 私はこの構図がすごいと感じた。菱形に四角い石を画面ギリギリに切り取ったのまではわかる。私もそうする。しかし上に少し見える同じ形の四角い石はどうだろう。わたしなら、素人ならこの二つ目の石も全体を写し込んだのではないだろうか。
 二つある方が繰り返しをより強調でき、石の長い連続を予想できるようにしてしまう。
 しかしそれでは、構図として完結してしまう。三つ目の石の存在が希薄になる。土門拳の作品の方が、石の連続性をより暗示している。
 感心するばかりだ。