住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

住まいの安全性、食物の安全性、政治の危険性、感動の共有
心と体のリラクゼーション、誰かに秘密を話すストレス解消

男女共同参画事業・山形県

2009年09月18日 | 日記
  数多い政策の中で、私の目に入りこれほど“アホ”らしいと思えるものもそう多くは無い。
事の発端は、子供のリポートである。 いつもの事であるが、自分で思いあぐねる事は、私に意見を問うのが常である。  「男女平等を実現するにはどうすれば良いか」と聞いてきた。  私は忙しかったというか、自身の仕事が整理されていなかったので、あまり良いサジェスチョンをしたとは思えなかった。 なので、このブログで言い訳(頭の整理)をしておこう。 其の問題を、県の男女参画推進と結びつけたのは、早とちりだったかも知れないが…。

 
  医療は予防的医療によって、大きく経費を削減することが出来ることは、先進的自治体の実例を検証すれば明らかである。  男女平等の人権問題を県で予防的に推進してどうなるものか、なにを期待して人件費、予算を投入する事になったのか? 
行政の役割を今更おさらいする事も無いが、必要なことは市民に対して、最低の事に留どめるのが近代政治の通念であろう。 よって、このような問題の一般県民に周知徹底することの必要性を、許可する知事も知事である。  其の事業内容そっくり、中学校の社会学辺りまで学ぶべき事項として落とす事が必要な事であり、行政でノボリを立てて遣るべき事ではない。 あるいは、予算を使わないでここまで遣って来たかも知れないが…いや、ありえないか。

 そもそも、男と女は違う生き物である。 無垢の愛を子供にささげる事が出来る男などいるだろうか?  つい先日も、中距離を世界陸上で走ったアフリカの女子選手のセックスチェック云々…があった。 もちろん、100m走も男女混合で走る事など、永遠に有りえないだろう。 もう一歩踏み込めば男性が子供を身籠る事も永遠にありえないことであろう。 ある種の事は、やはり男の事、ある種の事は女の事、と分けてしかるべきである。 平等かどうかなどと、言う事は言葉の遊びである。 百歩下がって、もし教えるとしたら平等より異性への尊敬が先であろう。 

 水素と酸素を、分子としてみればそれは同じ種類であろうが、それを全く同じという人は居ないであろう。 それは、例えて言えば男と女に例えられる。
水素と酸素は燃焼という化学反応で、全く性格の異なる水になることができるのである。 そういう意味で、水素、酸素、水は平等には扱えないのである。

 『男は仕事、女は家庭』などの固定した観念からの解放を目指すものなら、そのこと事態に異議は無い。 それを自治体が良しとして県民に、推進、強制するのもおかしな事である。 こんな事は、各家庭の家風とか、成り立ちにより違うもので、もし奥様がそれを了解しているのなら、行政で口を挟むものではない。 そのことが3000年の歴史であるならなお更で、一時の思い付きで換えるべきものでもない。 


  公務に携わっている人を貶すわけではないが、公務員(組織人)を長年見た上で言えば、彼等の特性として部下を増やしたい、仕事を増やしたい、予算を増やしたい、給与を増やしたいという欲望は、後天的に備わった本能といっても、間違いではないだろう。 其の人達の組織の肥大化を正当化する為に作った法律と、そのための仕事が『共同参画』と思えないことも無い。  改めて言えば公務は、最低に留どめるべきである。
 
  無理な平等思想は、ストレスを生み、必ず社会に歪みをもたらす。
そしてそれが蓄積され、いつか内的にか外的にかあるいは両方に表出する事になる。
公務員が企画するのか、地方議員が企画するのか知らないが、実態社会は小中学校の延長ではない。 必要なのは、指導することでなく、住民の困りごとに対するサービスである。一言で言えば『公僕』であれということに尽きる。
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瑕疵担保履行法・鳩山氏・テクノクラート?

2009年09月18日 | 日記
  今はどうか知らないが私たちが学んだ時代、法科系に携わる人は、テクノクラートを卑下する傾向にあった。 こたびの鳩山兄は、工学部と有るのでビューロクラートから、一段軽んぜられて見られているのだろうか?

  それは、例えればあたかも言語学者が、一般人が話す言葉を文法が違うと言って卑下するのと似た感情が有るのではないか。 現実は、言語学者が規定するまでも無く、会話に文法をあわせて整理したに過ぎないので、文法より実体会話の方が優先されている。 このことを学者たちは時たま見失う傾向にある。
英語でもスペイン語でも、日本語さえも言語学者の言う事を聞いて、文法を間違わないように話そうとすれば、うかつに言葉を発する事もできない。 言葉は、生活が有って其の生活を円滑に運ぶ事ができるようにある訳なのだが・・・道具として…。

 振り返って、法律を見れば余りに煩雑すぎて、それを気に留めていれば、手足を動かす事もおぼつかない。  もちろん、法律に優先して、其の地方の生活習慣など有れば優先される事にはなっているのだが・・・。


  現在の法律は、建築関係におけるものだけでも住宅瑕疵担保履行法(10/1より施行)など、その法の趣旨は、国民を守ることが主ではなく、官僚を守ることが其の目的と思わざるを得ないことが多い。 あるいは講習会費、あるいは更新費用、あるいは保証費用と称していくつもの、訳のない税金補助団体が必要の無い会費を徴収し、天下りたちに供しているのではないか。

  法律の詳しい事情は分かりませんが、明治時代からの継続している民法もあるやに聞いているが、其の状況は自分の居室に、明治時代からのご先祖様の持ち物が散乱している状況と同じではないのか。
要は、法律の改廃はどうなっているのかという事である。

 法律家が、あたかも世の中は自分たちを中心にして地球が回っていると勘違いする、大元がこのところに有るのではないか。 建築の専門家でさえも必要の無い、関係の無い法律が多過ぎると言っている。 小難しい時代に合わない法律は、法律家のための法律は、無しとしても困らない事が多い。

  旧法は、言葉を現代に合わせて平易に誰でも理解できるように、新法として書き直し、不要な条文は焼却炉へ、建築関係だけでもすっきりと法体系を見直せば、行政(官制)不況などといわれることも無いのではないだろうか。

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