今日は、お習字教室の為にお御堂をお借りしている専立寺の春のお彼岸の法要だった。
私は、祖母の時代からこのお寺の行事には参加していたというか、準備の手伝いの祖母にくっついていた。
私は3歳ぐらいの頃から、祖母と一緒にいつも居たので習わぬ経を読み、お線香の香りの中で育った。
今のご住職とは幼なじみで、毎日のように、暗くなるまでお御堂やお寺の庭で遊んだ。
私がここのお寺さんで習字教室を開かせていただけたのも、現在、私の書の歴史があるのもお寺さんの温かいお気持ちがあったからだと深く感謝している。
今回の春のお彼岸のお手伝いは随分久しぶりだった。
一月の御正忌は大体毎年お手伝いしているが、お彼岸はお休みできない時にはなかなかお手伝いが出来なかった。
昔は、お重に手作りのお赤飯、お煮しめ、辛し和え、お漬物を綺麗に詰め、ご講話の後、門徒さんにお茶と一緒にお出ししていた。
しかし、お重を洗うのがとても大変で(お赤飯がついて)お手伝いの方々の年齢も上がったことで、数年前から、お弁当パックに手作りのもの(中身は前と変わらない。)を詰めるというスタイルに変わった。
今回は、12人のお手伝いさんで、180人分の法要のお弁当(精進弁当)を作った。
毎年のことだが、なれるまで何をすればいいのかわからないが、次第に流れができて、時間に間に合うようにちゃんと出来上がるから、不思議な事だ。
ご講話をお御堂で聞かれる方々も座布団から椅子がけに代わった。
時代はいろいろと変わっていく。
講話といえば・・・。
昔、ある方から面白いものを頂いた。
それは、
絵心経(えしんぎょう)
絵心経とは、江戸時代の中頃に、文字の読めない人にもお経を唱えることが出来るようにと考案されたもの。釜(かま)を逆に描いて“摩可”、腹の絵を描いて“波羅”食べている人を“空”、指が六本で“無”というように字が読めなくても絵でお経が読める。
人々を様々な苦悩から、救おうとした先人の僧たちはいろいろと方法を変えて仏教を布教したと言う。
中世に入る前後から、字の読めない庶民受容を容易にするため絵を伴う縁起が多くつくられ、絵解き芸能も盛んになる。説話文学との関係も密になる。このころは寺社の宣伝と庶民の信仰が呼応した絵巻縁起の最盛期である。『石山寺(いしやまでら)縁起』『北野天神縁起』『當麻曼荼羅(たいままんだら)縁起』『春日権現験記絵(かすがごんげんけんきえ)』『信貴山(しぎさん)縁起』などが代表作品。
地獄絵なども、僧が民衆の前で因果応報を講話で話したりしたものらしい。
竹取物語も中国の説話文学からきているし・・・。
またまた、私の体の中の知りたい病のウイルスが騒ぎはじめる!!!
毎年毎年、こうしてお寺の行事にご縁があると言うのは本当に有り難い。
古いもののなかに生きる知恵は隠れているはず。
こんな複雑に絡まった時代だから、単純に素朴に考えることも大切だと思う。
お寺に居ると脈々と繋がってきた歴史の中に自分が居ることに気づかされる。
私が、次世代の子ども達に何を伝えることが出来るか・・・と。
私は、祖母の時代からこのお寺の行事には参加していたというか、準備の手伝いの祖母にくっついていた。
私は3歳ぐらいの頃から、祖母と一緒にいつも居たので習わぬ経を読み、お線香の香りの中で育った。
今のご住職とは幼なじみで、毎日のように、暗くなるまでお御堂やお寺の庭で遊んだ。
私がここのお寺さんで習字教室を開かせていただけたのも、現在、私の書の歴史があるのもお寺さんの温かいお気持ちがあったからだと深く感謝している。
今回の春のお彼岸のお手伝いは随分久しぶりだった。
一月の御正忌は大体毎年お手伝いしているが、お彼岸はお休みできない時にはなかなかお手伝いが出来なかった。
昔は、お重に手作りのお赤飯、お煮しめ、辛し和え、お漬物を綺麗に詰め、ご講話の後、門徒さんにお茶と一緒にお出ししていた。
しかし、お重を洗うのがとても大変で(お赤飯がついて)お手伝いの方々の年齢も上がったことで、数年前から、お弁当パックに手作りのもの(中身は前と変わらない。)を詰めるというスタイルに変わった。
今回は、12人のお手伝いさんで、180人分の法要のお弁当(精進弁当)を作った。
毎年のことだが、なれるまで何をすればいいのかわからないが、次第に流れができて、時間に間に合うようにちゃんと出来上がるから、不思議な事だ。
ご講話をお御堂で聞かれる方々も座布団から椅子がけに代わった。
時代はいろいろと変わっていく。
講話といえば・・・。
昔、ある方から面白いものを頂いた。
それは、
絵心経(えしんぎょう)
絵心経とは、江戸時代の中頃に、文字の読めない人にもお経を唱えることが出来るようにと考案されたもの。釜(かま)を逆に描いて“摩可”、腹の絵を描いて“波羅”食べている人を“空”、指が六本で“無”というように字が読めなくても絵でお経が読める。
人々を様々な苦悩から、救おうとした先人の僧たちはいろいろと方法を変えて仏教を布教したと言う。
中世に入る前後から、字の読めない庶民受容を容易にするため絵を伴う縁起が多くつくられ、絵解き芸能も盛んになる。説話文学との関係も密になる。このころは寺社の宣伝と庶民の信仰が呼応した絵巻縁起の最盛期である。『石山寺(いしやまでら)縁起』『北野天神縁起』『當麻曼荼羅(たいままんだら)縁起』『春日権現験記絵(かすがごんげんけんきえ)』『信貴山(しぎさん)縁起』などが代表作品。
地獄絵なども、僧が民衆の前で因果応報を講話で話したりしたものらしい。
竹取物語も中国の説話文学からきているし・・・。
またまた、私の体の中の知りたい病のウイルスが騒ぎはじめる!!!
毎年毎年、こうしてお寺の行事にご縁があると言うのは本当に有り難い。
古いもののなかに生きる知恵は隠れているはず。
こんな複雑に絡まった時代だから、単純に素朴に考えることも大切だと思う。
お寺に居ると脈々と繋がってきた歴史の中に自分が居ることに気づかされる。
私が、次世代の子ども達に何を伝えることが出来るか・・・と。
お坊さんはお経を上げるときに一段高いところに座りますね。あれを「高座」といいます。
落語を話すときも一段高いところに座布団を敷きそれを「高座」といってます。
そのためか、お寺での落語会はあちこち沢山あります。
という建物がありますよね。
ここも、講話がされていたから講堂って言うのですか?
「高座」
そうだったんですね。
落語の歴史も調べなきゃ!!!
落語の「おち」って言うのも面白いですよね。
落語には座布団がつきものですね。
私たちの趣味対象の奈良時代には、お寺は、「塔」、「金堂」(本尊を祀るところ)、「講堂」、「僧房」、「鐘楼」、「経蔵」、「中門(他に南門、北門)」、「回廊」などで編成されていました。これが「七堂伽藍」です。
その後時代、宗派により編成が異なり、七堂伽藍も変わっていきます。
この中の「講堂」はお坊さんたちの修行、勉強の場で、もちろん指導僧の講話も聞く場所でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A0%82%E4%BC%BD%E8%97%8D
落語には「落ち」がついてないと、「落ち着かない」ものになりますね。でも、「人情話」といわれる落語だけは「落ち」が無くてもいいとなっているんですよ。
私の趣味の一つが落語でして、、、、、三遊亭円窓の集まりに入っています。
京都の当時に行ったときに東司(とうす)西浄というのがトイレと言うのにびっくりしました。禅寺だけそう言うのでしょうか?食堂も(じきどう)っていうのですよね。
四天王寺伽藍は南門から、全部並んでいますね。
密教系の伽藍構成は独特のようですが、何故でしょうか?