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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案再読(33)

2021-11-07 09:56:19 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(33)

(現行憲法)
第81条
 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
(改正草案)
第81条(法令審査権と最高裁判所)
 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する最終的な上訴審裁判所である。

 「終審裁判所」と「最終的な上訴審裁判所」は、どうちがうのか。改正草案は「三審制」を踏まえての表記なのかもしれないが、よくわからない。
 一審、二審で「違憲判決」が出ても、それは「確定」ではない。最高裁に上訴し、最高裁が判断しないかぎり「違憲」にはならない、と言うことなのかもしれない。
 つまり、二審で「違憲判決」が出たとき、政府はあえて上訴しない。上訴しないことで「違憲」であることを受け入れない。つまり、「上訴審裁判」で確定したわけではないから、「違憲ではない」と主張するための「逃げ道」なのかもしれない。
 こういう問題は、法律の専門家がもっと国民向けに語らないといけないのではないのか。すでに語り尽くされているのかもしれないが、テレビも見ないし新聞もろくに読まない私のような人間には、議論がどこまで進んでいるのか、さっぱりわからない。

(現行憲法)
第82条
1 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。
(改正草案)
第82条(裁判の公開)
1 裁判の口頭弁論及び公判手続並びに判決は、公開の法廷で行う。
2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害するおそれがあると決した場合には、口頭弁論及び公判手続は、公開しないで行うことができる。ただし、政治犯罪、出版に関する犯罪又は第三章で保障する国民の権利が問題となっている事件の口頭弁論及び公判手続は、常に公開しなければならない。

 「対審」が「口頭弁論及び公判手続」と変更されている。裁判には、民事裁判と刑事裁判があるが、そのふたつの違いに配慮して、こうなっているのか。
 第2項でも「対審」をすべて「口頭弁論及び公判手続」と書き直しているのは、何か意味があるのかもしれない。ことばの経済学から「これを」を「削除する」のが改憲草案の大きな特徴である。それは2項でもおこなわれている。一方で、「口頭弁論及び公判手続」はしつこく書きつらねている。奇妙な印象を受ける。たぶん「政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利」が関係しているのだと思う。何を狙っているか、予測がつかないが。

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Estoy loco por espana(番外篇118)Luciano González Diaz

2021-11-06 09:49:16 | estoy loco por espana

la obra de Luciano González Diaz

Esta es la obra de Luciano, que se exhibirá en la exposición de Valencia, se inaugura el 17 de noviembre.

El tema es el refugiado.

Los refugiados llegan en barco roto. Además, se mantiene en equilibrio en el barco.

No hay seguridad en ningún lado.

¿Pero es un refugiado? ¿No es nuestra propia figura?

Más bien, los refugiados pueden ser nuestra "esperanza". Él está mirando hacia adelante. Cree en su dirección. Debemos unir el poder. El poder de creer en el future.

En otras palabras,

Las personas a las que debemos tomarnos de la mano son "refugiados". No es una persona que se sienta aliviada de quedarse en casa, comer, mirar televisión y reír.

Luciano, que está al lado de la obra, parece decirlo.

Hay palabras en su obra. Su obra tiene palabra y voz.

Amo sus palabras tanto como sus trabajos.

 

 

11月17日開幕するバレンシアでの展覧会に出品されるルシアーノの作品。
難民をテーマにしている。
難民は壊れたボートでやってくる。しかも、ボートの上でバランスをとって立っている。

安全は、どこにもない。

だが、それはほんとうに難民なのか。私たち自身の姿ではないのか。

むしろ、難民は、私たちの「希望」かもしれない。彼はしっかりと前を見ている。自分の進む方向を信じている。その信じる力を、私たちは結集しなければならない。言い換えるならば、手をつなぐべき相手は「難民」である。安心して、家に閉じこもり、食事をし、テレビを見て笑っている人間ではない。
作品によりそって立つルシアーノは、そう言っているようにみえる。

 

彼の作品には、ことばがある。声がある。

私は作品と同様に、彼のことばも大好きである。

 

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破棄された詩のための注釈2021(1)2021・11・05

2021-11-05 18:49:17 | 破棄された詩のための注釈

破棄された詩のための注釈2021(1)2021・11・05

 課題。鉛筆画。白いバラ。花瓶は円筒形のコップ。水があまり入っていない。夕暮れが近づくに連れて、水の影が揺れた。
 「どうしても思ったように描けなかった」。なぜか。 
 教師が近づいてきた。主人公の描いた太い線をじっと見ていたが、突然、スケッチブックをとりあげた。主人公のバラの花びらの輪郭に、細い線を沿わせた。線は、ときに交錯し、花びらの外と内側を行き来した。透明な影が生まれ、バラの花びらが開いていく。画用紙に、鉛筆がこすれるときのような、音。
 それは、いつのことか。
 「あの部屋には、いつも白いバラの花があった」ということばで詩を閉じるために、何度、推敲すればいいのだろうか。
 

 

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Estoy loco por espana(番外篇117)Joaquín Llorens

2021-11-05 09:05:24 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns

T. Hierro(blanco) M. 1.90x40x40 S. AF

La impresión de la obra cambia mucho dependiendo de cuándo y dónde la veamos.

La primera vez que vi el trabajo de esta serie fue en el taller de Joaquín.

Aún sin colorear, el hierro brillaba por sí solo.

Como un bebé recién nacido, gritaba: "Estoy aquí".

Recuerdo tocar la obra mientras me acercaba y le dije a Joaquín: "Qué sorpresa! Me encanta mucho esto".

Después de eso, tomé fotos con Joaquín y la obra, y conmigo y la obra.

Ese bebé recién nacido y enérgico ahora está parado en silencio en esta foto.

¡Qué calma! Sencillo, simplemente hermoso.

 

Blanco. Me parece que esta obra está buscando un nuevo blanco en la gradación gris.

Algunas artesanías japonesas usan laca.

El blanco de la laca no es el blanco en sí mismo. Mezclar un poco de laca negra. Entonces el blanco se asenta.

El blanco de esta foto es similar al blanco de la laca japonesa.

Eso puede darme una sensación de intimidad aún mayor.

Este trabajo, quiero mirarla en un color gris tranquilo como esta foto.

Es una obra que incluye espacio, luz y sombra.

 

作品は、どこで見るか、によって印象が非常に変化する。

このシリーズの作品を最初に見たのは、ホアキンのアトリエだ。

まだ彩色されておらず、鉄がそのまま輝いていた。

生まれたての赤ん坊のように、元気一杯、「私はここにいる」と叫んでいた。

私は、「これはいいなあ」と近づいていって、作品にさわったことを覚えている。
そのあとホアキンと作品、私と作品の写真を撮った。
あの、生まれたての元気な赤ん坊が、この写真では静かに、何もいわずに立っている。

 

白。灰色のグラデーションのなかで、新しい白を探しているようだ。

日本の工芸品に漆をつかったものがある。
漆の白は、白そのものではない。黒い漆を少し混ぜる。そうすると白が落ち着く。

この写真の白は、日本の漆の白に似ている。

そういうことが、私に、よりいっそう親近感をもたらすのかもしれない。

静かな灰色のなかで、孤独のなかで、見つめたい作品だ。

空間、光と影を含めてひとつの作品になっている。

 

 

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Rosa blanca

2021-11-05 07:45:31 | 

Rosa blanca

 

Rosa blanca

La palabra de las flores: castidad, te merezco, profundo respeto

Siempre en aquel hotel, en aqulla habitación

Había flores artificiales. Una rosa blanca falsa

La coloreamos con algo que desborda del cuerpo

Sudor como la lluvia de abril, el olor a fluidos corporales indelebles, el gemido ardiente

Riéndose de las palabras de la rosa blanca

Porque sabiamos no era un amor alabado

 

Cuantos años han pasado desde entonces?

Compro para recordarte

Una flor de rosa blanca

Castidad, te merezco, profundo respeto

Recuerdo las palabras al otro lado de nuestro amor

Lo que está grabado en el cuerpo, no en la mente

 

Me enseñabas todo

Te lo quitaste todo

Déjame solo el recuerdo

Castidad, te merezco, profundo respeto

Tu eras existencia absoluta para mi…..

 

 

yachishuso

 

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自民党憲法改正草案再読(32)

2021-11-04 21:50:59 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(32)

(現行憲法)
第79条
1 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
3 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
4 審査に関する事項は、法律でこれを定める。
5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
6 最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。
(改正草案)
第79条(最高裁判所の裁判官)
1 最高裁判所は、その長である裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官で構成し、最高裁判所の長である裁判官以外の裁判官は、内閣が任命する。
2 最高裁判所の裁判官は、その任命後、法律の定めるところにより、国民の審査を受けなければならない。
3 前項の審査において罷免すべきとされた裁判官は、罷免される。
4 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
5 最高裁判所の裁判官は、全て定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、分限又は懲戒による場合及び一般の公務員の例による場合を除き、減額できない。

 よくわからない。気になるのが改正草案の2項の「法律の定めるところにより、国民の審査を受けなければならない」の部分。現行憲法では「法律の定めるところにより」ではなく、憲法そのもののなかに書かれている。憲法から法律に「格下げ」されている印象が残る。
 これと同じことは改正草案の5項(現行憲法では6項)の「分限又は懲戒による場合及び一般の公務員の例による場合を除き」ということば。最高裁判所の裁判官の「分限又は懲戒」って、何? 誰が、その処分を決める? 国民審査の「罷免」以外の処分があるのか。もし、あるとすれば、そしてそれを誰がするかといえば、1項に「最高裁判所の長である裁判官以外の裁判官は、内閣が任命する」(改正草案)とあるのだから、内閣が処分するのだろう。これでは、裁判官の「地位」は内閣次第である。つまり、内閣が求めていない判決を出すということは、事実上なくなるのではないのか。司法の独立はなくなり、司法は内閣の「下部機関」になってしまうのではないか。「三権分立」は崩壊する。
 それを裏付けるのが「一般の公務員の例」(改正草案)ということば。現行憲法には登場しない「一般の公務員」ということばが突然出てくる。最高裁判所の裁判官は「一般の公務員」と同列になっている。内閣の意志次第で「異動」できるのだ。「異動できる」とは書いてはないが、「解任」という形の運用がはじまるのではないか。
 「任期」から「十年」ということばも消えている。いったん任命されれば「十年」は最高裁の裁判官でいられるはずなのに(国民審査による罷免をのぞく)、その「保障」が改憲草案では消えてしまっている。
 この「任期」の問題は、最高裁判所だけではなく、下級裁判所にも書き込まれている。
(現行憲法)
第80条
1 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。
2 下級裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。
(改正草案)
第80条(下級裁判所の裁判官)
1 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣が任命する。その裁判官は、法律の定める任期を限って任命され、再任されることができる。ただし、法律の定める年齢に達した時には、退官する。
2前条第五項の規定は、下級裁判所の裁判官の報酬について準用する。

 「任期十年」(現行憲法)が削除され「法律の定める任期」(改憲草案)になっている。これでは「身分保障」は骨抜きだろう。内閣の気に食わない裁判官は、次々にやめさせられてしまう。
 「任命」については、「最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する」が踏襲されているようにみえるが、実際は、どうなるだろうか。
 裁判官ではないが、学術会議の会員は、学術会議が提出した名簿に従って任命されるはずだったが、菅は、名簿通りの任命を拒否した。同じことが裁判官でも起きるだろう。
 この問題を考えるとき「これを」という「テーマ」を提示することばを削除した意味は大きい。改憲草案は「テーマ」をみえにくくするのである。裁判官の任命(任期)がテーマなのに、あたかも「内閣の権限」がテーマのように書き換えている。「内閣はこれこれができる」に書き変えられている。現行憲法は、「内閣はこれこれをしてはいけない」なのに、逆の意味になっているのだ。

 

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Estoy loco por espana(番外篇116)Jose Enrique Melero Blazquez

2021-11-03 08:45:18 | estoy loco por espana

Jose Enrique Melero Blazquez “nudo”

"Nudo" es un "結び目" en japones. Sin embargo, asocio el sonido "nudo" con "desnudo/裸、はだか" .
Y asocio la palabra desnudo con sexo.
El sexo es un vínculo físico. En japonés,  " vínculo " es “絆” o ”結合”.
"結び目" significa ”結合”
El trabajo de la izquierda me parece que un hombre y una mujer  se estan abrazándo.
El trabajo de la derecha me parece que un genital masculino penetra en lo femenino.
Quizás creo que sí porque soy un viejo verde.
El hierro tiene la imagen de ser duro y frío, pero cuando pasa por la mano de José, se convierte en un cuerpo suave y caliente. Es vida fresca y perfecta.
Es algo que no deberíamos mirar. Sin embargo, a mi, es algo que me hace querer verlo.
El trabajo de José estimula el deseo de "ver más".

“nudo” は「結び目」。しかし、私は音から「裸/”desnudo”」を連想する。
そして、裸は、セックスを連想させる。
セックスは肉体の結びつき。日本語では「結ぶ」ということばが重なり合う。
左の作品は、男と女が抱擁している姿に見える。
右の作品は、女性性器を貫く男性性器に見える。
私が好色だから、そう思ってしまうのか。
鉄は、硬くて冷たいイメージがあるが、ホセの手を通ると、やわらかくて熱い肉体にかわる。むきだしの、生々しい命にかわる。
それは、見てはいけないものである。しかし、どうしても見たくなってしまうものである。
ホセの作品は、「もっと見たい」という欲望を刺戟する。

コメント (2)
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徳永孝「空のくじら」、緒方淑子「知らず」、青柳俊哉「未知は寂しく」、池田清子「比較」

2021-11-02 18:09:43 | 現代詩講座

徳永孝「空のくじら」、緒方淑子「知らず」、青柳俊哉「未知は寂しく」、池田清子「比較」(2021年10月1 8 日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

空のくじら  徳永孝

夜空に一頭の大きなくじら
キラキラした明かりをまとい
ゆったりと泳いでいく
通り過ぎた後には星屑の航跡

くじらが潮を吹くと
空気がふるえる
飛び跳ねると
世界が揺れる

空には月や惑星もすい星の星々
見てまわるのは楽しいだろう
時にはオールトの雲まで
遠出するのもいいかもしれない

でも少しさみしそう
くじらさん、君はひとりじゃないよ
世界のあちこちで夜空を見上げ
君を探している視ている人達がいるよ

それでも やっぱり
仲間に会いたいかのなあ
くじらの心は
わたしにはわからない

 ここに書かれているのは、一義的には「空を飛ぶくじら」。その「空を飛ぶくじら」を書かせているものは何だろう。受講生の間から「孤独」ということばが何度か出てきた。「仲間に会いたいのかなあ」という最終連の一行を手がかりにすれば、くじらが孤独、ということになる。「さみしそう」ということばも、それを裏付ける。
 そこから、少し進んでみたい。
 「書かれている何か」があるとき、それを「書いている人」がいる。「書かせている何か」と言い換えることもできる。
 「くじら」は四連目で「君」と言いなおされている。そして、「君を探している視ている人達がいるよ」ということばがつづく。「君を探している視ている人達がいる」とは誰だろう。私は、問いかけてみた。「さみしさを理解している地上の人達」という答えが返ってきた。そこで、私はもう一度問いかける。そこには作者は含まれるか。「含まれる」。
 ここからである。
 詩では「人達」と書かれている。複数。だから、どうしても多くの人のことを想像するのだけれど、ほんとうにそこには多くの人がいるのか。くじらが作者の「空想」(幻想)であるように、「人達」も空想、幻想かもしれない。つまり、はっきりしているのは、「人達」に作者が含まれるということではなく、逆に、作者が「人達」を含んでいる。「人達」ということばに誘われて、読者は「人達」のなかのひとりにすーっと入っていくことができる。徳永に感情移入し、徳永と一体になるより先に、自然に「人達」の一人なって夜空を飛ぶくじらを見上げることになる。自分の見たかったのは、空飛ぶくじらだったと気づくことになる。そのあとで(といってもほとんど同時だが)、読者は徳永になってしまう。
 それから私はさらに聞いてみた。「さみしそう」ということばが出てくるけれど、「さみしそう」と「分かる」のは、どういうとき? もちろん、その人の様子がいつもと違うからだが、それが分かるのは「さみしい」ということを読者が理解しているとき。喜びのさなかに、隣にいる人が「さみしそう」と感じるときもあるかもしれないが、自分が「さみしい」ときの方がより静かな感じて「さみしさ」がわかるだろう。少なくとも「さみしい」という気持ちを味わったことがない人には「さみしそう」はわからない。
 そうであるなら。
 「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちも「仲間に会いたい」という気持ちを味わったことがある人にしかわからない。空飛ぶくじらを見ながら「楽しいだろう」と思う一方で「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちを想像するのは、徳永のこころのなかに「仲間に会いたいのかなあ」という気持ちがあるからだろう。
 「くじらの心は/わたしにはわからない」のと同じように、人間には自分自身の「心は/わからない」。自分のことだからわかっているつもりでいるが、よく考えるとわからない。一人で夜道を歩き、空を見上げる。くじらが飛んでいる。そんな空想を持ってしまうのは、自分がさみしいからだろうか、仲間に会いたいからだろうか。それとも最初に出てきたように宇宙を見てまわるが楽しいからだろうか。
 わからない。
 わからないことを、どう書くか。これは、とてもむずかしい。徳永は、なんでもないことのように、

君を探している視ている人達がいるよ

 と書いている。まるで客観的な事実のように。しかし、これもまた「空想」である。しかし、その空想は強い想像力に支えられている。この一行に、徳永の「孤独」があふれている。もし、だれかといっしょに「空飛ぶくじら」を見ることができたなら。その人が自分と同じ「孤独」、そしてくじらと同じ「孤独」を生きているだろう。「人達」の「達」のひとことは、とても重要である。孤独とは孤立したものである。しかし、孤独は孤独と共存し、呼びかけあっている。
 この詩には、その孤独の「呼びかけ」がある。

知らず  緒方淑子

今朝の金木犀を撮って
誕生日の娘におくる
白く映る空
青く撮れば雲は羊に

往きに忘れた花のなまえ
帰り道 気付く 花のなまえ

わたし金木犀すきよ、ありがとう

知らず
10月になれば香り咲いていた花の
27年目の歳月を覚えた

 「白く映る空/青く撮れば雲は羊//往きに忘れた花のなまえ/帰り道 気付く 花のなまえ」という行が印象的だという声。受講生は「最初、意味が入ってこなかった。ことばにして綱気ようとしていないところが新鮮」とつけくわえた。最終連の「知らず」という単独のつかい方にもおどろきの声があった。どちらも「散文」になっていないという指摘だと思う。「今朝の金木犀を撮って/誕生日の娘におくる」という書き出しの二行に「主語(私)」は書かれていないが、私が娘に金木犀の写真を撮って送った、ということがすぐにわかる。しかし、「白く映る空/青く撮れば雲は羊」はいろいろなことばを補わないと散文(意味の連続)にならない。
 どういう状況だと思う?
 金木犀を撮るとき、空がまぶしくて白く見えた。でも空だけ見つめると、空は青くて白い雲が羊に見えた。最初に見えた「白」はこの雲ではなく、光全体の印象。
 作者の緒方に、確認する。そういうことですか? そうです。
 散文でなくても、ことばを追いかけていくとき、私たちは無意識にいろいろなことばを補っている。その補ったことばを、ふつうはわざわざ口にしないが、口にしないまま納得している。そのときの「意識の飛躍」というとおおげさかもしれないが、意識の切断と持続の自由な感じのなかに「詩」というものがあるかもしれない。
 「往きに忘れた花のなまえ/帰り道 気付く 花のなまえ」には意味と同時に「リズム」がある。対句形式がそれを支えている。それも、自然に詩を作り上げる。
 最終連の「知らず」には、ふたつの意味がある、と緒方は言った。
 そのことと関係するのだが、直前に出てくる「わたし金木犀すきよ、ありがとう」の「わたし」とは誰なのか? 
 「メールで写真を受け取った娘」「えっ、作者じゃないの? 作者が金木犀に好きよと言ったら、金木犀がありがとう、と答えた」
 緒方の意図は、前者。娘が金木犀が好きだったということを知らなかった。ここに金木犀があるということを知らなかった。27年も。
 でも、そういう作者の意図を超えて、金木犀と対話している、と読むのは楽しくないですか? 連歌(連句)では、先に書かれた句の意味をあえて「文脈」から解放し、別の「文脈」へ引き継いでいくが、それは詩を読むときだって、そうしていいのだ。もちろん作者には作者の「意味」があるが、読者は読者で自分自身の「意味」を抱えて生きているから、他人のことばを自分の「意味」に置き換えて読む。
 それは、間違い?
 学校のテストなら、「間違い/正しい」は「採点」のために設定されるだろうけれど、詩を読むのは試験を受けるわけではない。自分のことばを豊かにするためだ。どこまで自由に考えることができるか。感じることができるか。考えや感じを繰り返し、自分がかわっていければいい。成長か、後退か。そういう「価値」は与えずに、あ、こんなことも感じることができる、考えることができると楽しめばいいと思う。
 最初に読んだ徳永の詩。徳永には徳永の「意味」があるようだが、それはあえて説明してもらうのを避けた。作者の思いを知ることも大事だが、それよりも自分の考えことばにすることが大事だと私は考えている。
 この講座では、谷川俊太郎やその他の詩人の作品も読むが、そのときも、「意味/正解」を求めるのではなく、むしろ、どうやって「間違い」を広げていくかを中心にことばを読んでいる。どれだけ「間違い」を繰り返しても、だれの迷惑にもならない。特に、講座に同席しているわけでもない谷川や他の詩人の作品は、どんなふうに読もうと谷川に聞こえないわけだから、まったく自由。ほめるのもいいが、けなすことも大事。ことばは悪口を言うためにもある。
 脱線した。

未知は寂しく  青柳俊哉

未知は寂しく 
蒼穹の朝が 深くさけるように冴えわたって 
鳥の声が絶える 

人のうまれる朝があり 鳥のしぬ朝がある 
いのちと隔絶しているために 
朝はみちたりていた

空を切るようなモズの声に 水仙の花が散りこぼれる 
蠅のように頭上を打つ 雨の羽音がまぶしい 
すべての空が 人に親しいのではなかった 

光が打ちよせて 明日の鳥がうまれる前に 
みしらぬ空に 名を与えねばならない すべての朝に 
隔絶する 蒼穹を打ち立てねばならない

 「魅力的なことばが多い」「対比が美しい」。具体的にはどのことば? どの行? 魅力的とか、美しいとか、感動したというのは、詩を読まなくても言える。そうではなくて、具体的に言ってください。「空を切るように…の行」「すべての空が…の行」「最後の二行」
 「でも、いのちと隔絶しているために/朝はみちたりていた、がわからない。いのちと隔絶していても存在しているのだろうか」
 「前の行に生まれる、死ぬが出てくる。生死は必ずやってくる。すべてを含んでいるということが満ちているということでは?」
 「隔絶」している、を別のことばで言いなおすと? 自分のことばで言いなおすと?
 「隔たっている」「たどりつけない」
 隔絶している、隔たっているというと、ふつう平面的な距離を思い浮かべるけれど、垂直だと、どういうかな?
 「やっぱり隔絶している」
 超越とか、超絶ということばはどうかな? 前の行の「うまれる」「しぬ」。それを超越した世界。いのちある人間や鳥は、生まれて死ぬ。朝の光も夜には消えるけれど、人間や鳥と違って、いのちが消えるわけではない。人間や動物のいのちを超越したものを朝の光は含んでいる。宇宙の運動ということかもしれない。いわば朝の光は、人間が生まれようが死のうが関係なく存在している。そういうことを「満ち足りている」と言っているのではないだろうか。「すての空が 人に親しいのではなかった」という一行も、そういうことをあらわしている。「親しい」の反対は親しくない、情がない、非情だに通じる。漢詩の世界のように、朝は「非情」なのである。
 この「みちたりている」は、「死ぬのにみちたりている、というのは変」と論理的に読むと、きっと「変」なまま。「みちたりている」は、ことばを言い換えて「意味」をつかまえないといけない。辞書に書いてあるような「意味」だけではなく、作者がそのことばに込めようとしているものを読み取る。詩のことばは、日本語だけれど、日本語ではなく、それぞれ個人の「固有の言語」。ここは「青柳語」で書かれている。矛盾した形でしかいえないことが書かれている。
 「方丈記」に、あした生まれ、夕べに死ぬ、というようなことばがあるけれど、そういうものを超越して、「朝」がある、それは自己完結している(足すものがない)から「みちたりる」という動詞をつかったのではないだろうか。二連目で「鳥がしぬ」と書き、四連目で「鳥がうまれる」と書く。これも矛盾というか、前に書いたことと齟齬があるけれど、そういう矛盾・対比が、この詩に力を与えている。それが簡潔にあらわされているのが二連目だと思う。
 青柳は「蒼穹」ということばは古すぎ、強すぎるので、「蒼穹」と「青空」とどちらをつかうか迷ったが、宮沢賢治の詩にもつかわれているのでつかったということだった。
 「青空」でも「意味」は違わないのかもしれないが、音から受ける印象は全く違う。詩を書くときは、リズムや音の響きも重要。この詩の場合「青空」あるいは「青い空」では響きが柔らかくすぎるという声が占めた。私もそう思う。
 また受講生が指摘したが「蒼穹」の「蒼」には「暗い」という意味があり、それが「寂しい」ともつながる。
 最終連で繰り返される「ねばならない」という強い響きにも「蒼穹」の方が似合っていると思う。

比較  池田清子

人と比べないことは
いいことだと思っていた

自分の中に入り込むと
人のことはどうでもよかった
視界はとても狭かった

しかし 中学高校では
学校側が人と比べてくる
一喜一憂してしまった
勉学以外では まだ
周りを全く見ていなかった

大人になって やっと
比べることは良いことだと思った
小さい時から もっとしっかり
見つめ 見渡し 気づいていたら
どんなに世界が広がっていただろう
自分がわかる
他人も 社会も見えてくる

年を重ねた今も
しっかり比べている
落ち込んでいる

 「意味」にとらわれる意見がつづいた。「他人の見方が自分を広げてくれるから、比較は悪いことではない」「共感する」「学校の先生には、比較するな、と言われた」「ひとではなく、野生の動物の行動を見て、自分を振り返るときがある」
 私が問いかけてみたのは四連目の「わかる」とはどういうことだろうか。「見える/見えない」とどう違うんだろうか。「わかる」を自分自身で言いなおすと、どういうことばになる? 「自信が出てくる」「自由になる」「環境に慣れる」
 「最後の一行は自分を卑下しすぎている」という意見もあった。では、どう書き換える? これは、なかなかむずかしかった。「ケ・セラ・セラ」ということばが出てきたが、やはり「意味」のつづきのような気がする。 谷川俊太郎なら、どう書くと思う? 「まったく違うことばを書くと思う」「そうですね、谷川の詩は、最後に全然関係ないようなことばが突然出てくることがあるね」。
 答えは必要はない。
 ただ、書いている詩が行き詰まったとき、他人ならどう書くかなあと知っている詩人を思い浮かべてみるのもいいかもしれない。

 

 

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ピカソとダリ

2021-11-02 10:06:57 | estoy loco por espana



¿En qué se diferencia Dalí de Picasso?

Hay un espacio absoluto en las pinturas de Dalí.
En mi sentido, "espacio absoluto" es "nada del pensamiento oriental".
Allí se rechaza a los humanos.
Lo que los humanos pueden aceptar es el movimiento de imágenes que nacen de la nada y continúan transformándose.
El movimiento de la imagen crea una "perspectiva".

Picasso no tiene este idea como "absolutamente nada".
Sus obras no tiene perspectiva como Dalí.

ダリは、ピカソとどう違うか。

ダリの絵には絶対的な空間がある。
それは私の感覚で言えば「東洋思想の無」である。
そこでは人間は拒絶されている。
人間が受け入れることができるのは、その「無」から生まれてきて、変形し続けるイメージの運動である。
イメージの運動が「遠近感」をつくる。

ピカソには、この「絶対無」としての空間意識がない。

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Estoy loco por espana(番外篇115)Joaquín Llorens

2021-11-01 09:02:34 | estoy loco por espana

Joaquín Llorens

Obra Joaquín Lloréns  Hierro M. 50x23x20 S. J. S. G

 

En el momento en que vi este trabajo, me acordé de "Orizuru", una orgulla de papel.
Esta es "Orizuru" de hierro.
Entonces escribí un poema.
*
Lo que me quedara

Si todo lo que me quedara fuera un trozo de papel
Haría una grulla pequeña de papel
Alinee los bordes del papel exactamente
Alegría superpuesta en ese momento
El papel se rompe una vez y se vuelve a encontrar
La separación se debe a que se superponen de Nuevo
Por lo que se atan más fuerte.
El corazón que se esparce dentro del papel
Cada vez que se repite
Ese corazon es donde vivo

Lo recuerdo de
Cada palabra tuyo que me enseñó la grulla de papel
No se trata de hacer formas, se trata de hacer corazon
En lugar de doblarlo con los dedos
Dale forma con una oración.

Es la primera y última oración
Solo una oración

una vez más···


この作品は「折鶴」を思わせる。
ホアキンの「祈り」が聞こえたような気がした。
それで詩を書いてみた。

私に残されたものが

私に残されたものが一枚の紙だとしたら
私は折鶴をつくろう
紙の端と端をぴったり合わせる
重なる喜び
一度離れ再び出会う
別れるのは再び重なるため
繰り返すたびに
紙の内部に広がるこころ
そこが私の生きる場所

私は覚えている
折鶴を教えてくれたひとの
ことばのひとつひとつ
形をつくるのではない
こころをつくるのだ
指で折るのではない
祈りで形を整えるのだ

それは最初で最後の祈り
たったひとつの祈り

もう一度・・・

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇114)Juan Núñez-Romero Cortés

2021-11-01 08:03:53 | estoy loco por espana

Juan Núñez-Romero Cortés

“Rincón moralo”
Acrílico sobre madera. 102x57 cms.

Paisaje en la esquina de la calle.
Es una pintura figurativa, pero es como una pintura abstracta.
La sombra de la derecha es impresionante y parece que estás disfrutando de la división de colores.
La sombra crea un ritmo alegre.
Puedo escuchar la musica.

街角の風景。
具象画だが、まるで抽象画。
右側の影が印象的で、色の分割を楽しんでいるよう。
影がかろやかなリズムをつくりだしている。
音楽が聞こえてきそう。

 

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