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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青木由弥子『星を産んだ日』

2017-08-09 14:35:59 | 詩集
青木由弥子『星を産んだ日』(土曜美術社出版販売、2017年06月30日発行)

 青木由弥子『星を産んだ日』の表題作は出産体験を書いたもの。

火の塊が私の中を降りる
押し開く力に息をあわせ
覚悟という言葉を押し出す
引き裂かれる痛みが全身の骨を走り
あふれこぼれて皮膚の内に張り詰める
全ての緊張が一息に流れ出した瞬間
心臓をむき出したような赤い産声が響いた

 すでに多くの女性が書いてきたことかもしれない。書かないまでも語ってきただろうと思う。似たような「声」は何度も聞いた気がする。あ、こういうことは聞いたことがない、という一行はない。
 でも、それが悪いこととは思わない。
 すでに語り尽くされていることだけれど、なんとか自分のことばで言いなおしたい、という強い願いを感じる。その「強い」という感じは、ことばの「力み」になっている。
 全部を言わなければ、という「決意」のようなものがある。

胎脂でべたべたの手足でもがき
小さな口を大きく開けて
乳首を求めて挑みかかる
吸い上げられて再びつながる
母と子の ふたつのからだ
ざわめいていた心が静まり
小さな口めがけて流れこんでいく

 ここでも「力み」はあるけれど、「吸い上げられて再びつながる」という「実感」が美しい。「つながる」ということばが甦ってくる感じが、とてもいい。「産む」という動詞が分離をあらわすのに対し、「流れ込んでいく」という動詞で一種の逆転がおき、それが「つながる」を強めている。
 「ざわめいていた心が静まり」は、私の感じでは「力み」だが、どうしても書きたかったことばなのだろう。「力み」はあるけれど、「静か」ということばで青木自身の昂りを抑えようとしているように感じる。

広げた両手にすっぽりおさまる
わずか2640グラムの重み
手足をそっと のばそうとしても
ばねのように力を弾いて
すぐに丸まってしまう

 三連目では「力み」は完全に消えている。赤ん坊を抱くのに力んでいたら、赤ん坊の方が困るだろう。自然に「力み」がとれているところに安心がひろがる。ことばがいきいきと動いている。

私が思わず指で触れると
すばやく小さな手が動いて
ぎゅうっと熱く握りしめた
その時 私の暗く深い場所から
熱く渦巻くものがほとばしり
押し寄せる黒い流れと一体となって
私を包み 通り過ぎていった

 「その時」からあとの部分で、またことばが硬くなる。
 けれど、こでは私は「力み」を感じなかった。
 ここで語られていることは初めて聞いたことだったからだ。
 こどもを産んで母親になる。母であることを初めて実感する、というのは何度も聞いた。その実感の奥には、「母の記憶」というものがあるのだろうとは想像はできる。「母たちの記憶」といってもいい。一種の「母性の遺伝子」のようなものだろう、と私は勝手に想像している。
 それが「肉体」の奥から溢れ出てくる。「私の暗く深い場所」とは意識できなかった「遺伝子」ということだろう。「熱く渦巻くものがほとばしり」は「母という遺伝子」が目覚める、ということだろう。それが「押し寄せる黒い流れと一体となって/私を包み 通り過ぎていった」。ずーっと、「肉体」のなかに残っているのではない。覚醒し、青木を包み(母親の遺伝子が全身行き渡り、包み込み)、「通り過ぎていく」。
 洗礼の儀式のようだ。「通過儀礼」に通じるものを感じる。
 この「通り過ぎていく」は実際に母親になった人間が体験することなんだろうと思う。私は想像するだけなのだが、この「通り過ぎていった」に、何か震えるようなすごさを感じる。
 もう、このあとは「母親の遺伝子」に頼るわけにはいかない。覚醒した自分の中にある遺伝子を、青木自身で生きなおさないといけない。「遺伝子」を生み出しながら生きなければならない、という覚悟が、この瞬間に生まれているといえばいいのか。
 「包み 通り過ぎていった」は「包まれていたところを、通り過ぎて出てきた」と言えばいいのか。
 青木は、「母の遺伝子」に包まれた瞬間「母親という胎児」になっている。そして、その「包み(子宮)」から「産道」を通り抜けて、「母親という赤ちゃん」になって生まれた。
 出産したのは青木だが、産んだ赤ちゃんに触れることで、母親として生まれる。そういうことを体験しているのがわかる。一人の体験ではなく、それは全ての母親の体験かもしれないが……。

 こういうことは全ての母親の体験であり、思いかもしれないが。
 そうであってもかまわないというか、そうでありたいという思いが青木にあるのかもしれない。
 「独自性(オリジナリティー)」はどうでもいいというと言い過ぎになるが、自分に正直に、真剣にことばをさがし、書いている。その真剣さが強く響いてくる。そこに美しさがある。
 すでに誰かが語っていてもかまわない。自分で語りなおす、真剣に語ることが、青木を青木自身にしている。

星を産んだ日 (詩と思想新人賞叢書11)
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清岳こう『つらつら椿』

2017-08-08 11:36:52 | 詩集
清岳こう『つらつら椿』(土曜美術社出版販売、2017年07月06日発行)

 清岳こう『つらつら椿』の詩篇は「椿の名前」をタイトルにしている。私は椿のことは知らない。名前をきいても花を思い出せないし、花を見比べても違いがわかるかどうか見当もつかない。
 あ、困った、と思いながら読むのだが。
 詩は、椿の花について書いているわけではない。たとえば「紅神楽」という作品は、こんな感じ。

日曜・祭日は産土神社の神主
平日は桑畑のなかの高校教師
けれど 山田先生の日本史は
ながれゆく「時間」でも
さかのぼる「時代」でもなかった
菊池川にうずまく「現在」だった
有明の海によせてはかえす「今日」だった

 「山田先生」のことを書いている。「ながれゆく」から後の部分は、三連目でこう書き直されている。

山田先生の楽しみは
机に並べた古代を聴くこと
甕のかけらは死者を抱きしめ ぶつくさつぶやき
にぶく光る矢じりは少年と鹿を追い落ち葉をふみしめ
職員会議中でも
まどかな石包丁は稲田をわたる乙女たちの歌を歌い
そのあとにつづく
乱世 爛熟 飢饉 富国強兵などとも無縁だった

 なぜそれが「現在」であり「今日」なのか。人間は変わらないものだからである。どんなふうに変わらないかというと、「いま」を楽しむ、「いま」を生きるのが人間である。「未来(計画)」などを生きるのではない、ということ。
 それを、どう、現実にはつたえるかというと。
 あるときの体育祭。まあ、高校生ははめをはずすものである。

まして 今回の借り物競走
あきれたことには 校長の手を取りゴールを駆けぬけ
あろうことか プールに投げ込み英雄きどり

あれもこれも 百害あって一利なし
伝統も何もあったものじゃない
今後 体育祭中止! 永久に 体育祭中止!
が職員会議で通過しそうになった時
トンカラリン遺跡の暗がりをぬくりあげ
山田先生がすっくと立ちあがり
巨体をふるわせ バカヤロウと叫び

 「現在」「今日」までつづく体育祭を守った。若者は(高校生は)反抗するもの。権威を否定するもの。そうやって生きている。その力を奪っては、教育を放棄すること。とは、書いてはいないのだけれど、まあ、そうなんだろう。そう思う。

 清岳は、そういう山田先生のような人間をていねいに描いている。椿とそこに描かれた人とのあいだにどういう関係があるのか、よくわからない。花がわかるひとは、関係がわかるかもしれないけれど、よっぽど花に詳しくない限り、いや、それはこの椿ではなく、あの椿ではないか、とは言えないだろう。
 で、思うのだが。
 そのほんとうにわかる人にもわかるかどうかわからないことを、きちんと書いているのがとてもおもしろい。
 いろいろな人が出てくる。その人たちは、書かれていることばを読めば確かにひとりひとり違う。けれど、思い出すと、えーっと、どの人だったかなあ、と私なんかは思ってしまう。
 詩を書いた清岳に申し訳ないという気持ちもあるが、心底申し訳ないわけでもない。だって、私には関係ない人なんだから。区別がつきようがない。区別がつかないけれど。
 ほら、椿が30種類以上も並んでいるのを見たとして、そのあと、その30種類を思い出せる? 思い出せないよね。あ、きれいな椿が並んでいた。あの椿、それぞれにひとつひとつ名前がついているんだよな。というようなことをぼんやり考える。あの白い椿よりも、赤い椿の方が強い感じがしたな、とかなんとかテキトウに振り返ったりする。
 それでいいんだと私は思う。
 それ以上のことを思うと、嘘になる。

 椿にはひとつひとつ名前がある。人間にもひとりひとり名前がある。それは、思い出したり、思い出さなかったり。あるいは忘れてしまったり。きょうはあの人を思い出し、あすは別な人を思い出す。そういう具合に、この詩集は読めばいいんじゃないだろうか、と思う。
 清岳はもっと思い出してよ、というかもしれないけれどね。


つらつら椿
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天皇制の行方

2017-08-08 10:32:08 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇制の行方
            自民党憲法改正草案を読む/番外111(情報の読み方)

 2017年08月08日読売新聞(西部版・14版)の3面。

陛下「お言葉」1年/新たな皇室像 模索中

 という見出しで、ビデオメッセージから1年を振り返っている。
 そのなかに、おもしろい記述が3か所あった。

(1)改元時期や新元号をめぐる準備も、政権の支持率低下を受けて不透明な状況だ。
(2)天皇陛下が4月24日、皇居・宮殿で臨まれた衆参両院議長らとの茶会の冒頭。「今回はカメラが会場に入ります」と説明があった。お言葉の後、私的な外出も含めて宮内庁が委嘱したテレビカメラが随行しており、関係者は、「天皇としての最後の日々を記録している」と明かす。
(3)政府は新元号の公表時期について、早ければ18年夏を想定していた。だが、ここにきて、政府内には「次の自民党総裁・首相が決まってからでよい」(内閣官房関係者)として、18年9月の党総裁選後にすべきとの声も出ている。

 私はNHKの「天皇生前退位」スクープからの動き(それ以前の動きを含め)は、すべて安倍が仕組んだものと見ている。憲法を改正するために、「護憲派」の天皇を除外するための動きと見ている。
 そのことと関連づけて、ここから読み取ったことを書いておく。

(1)は記事全体の前文。
 ここに「支持率の低下」ということばが出てくる。天皇制(天皇の生前退位)と内閣の支持率は無関係なものだろう。すでに「生前退位強制法」(と、私は呼んでいる)が成立しているのだから、その法律に則してさまざまなことを処理すればいいだけなのに、それができない。
 これは天皇の生前退位が安倍の主導によって行われている(行われてきた)ということを証明する。安倍が天皇よりも先に「内閣総理大臣を辞める」ということが起きれば、何も安倍の考えていることに従って処理する必要はない。
 そういう「意見」が自民党内部からも出始めているということだろう。
 それを「国民の」内閣支持率にかこつけている。

(2)は「最後の日々の記録」というよりも、逆の見方をしたい。
 天皇の生前退位は安倍によって仕組まれた。それに対抗する形で天皇は昨年8月8日に「象徴の務め」という形でメッセージを出した。
 「日々の記録」は天皇の「務め」の記録である。もし、安倍が次の天皇に対して「こうこうしろ」と命令してきたとき、「天皇はこういうときはこういう行動をしてきた」という「証拠」を見せ、安倍の命令を拒否するための準備をしている。
 安倍(内閣)が人事権を握る官庁職員は、先の国会で安倍の不都合な「記録」はすべて「ない」でとおしてきた。「記憶にない」という発言も繰り返された。
 これの逆のことを宮内庁はしようとしている。こういう「記録」がある。だから、その「記録」にのっとって天皇の行為は引き継がれる。天皇の側からの、安倍への抵抗はつづいている。

(3)は、アベノミクス(経済政策)に対する批判が、自民党内部からも始まったものと読むことができる。安倍の支配力が弱まっているために、規定方針通りことが進まなくなっていることを語っている。
 新元号については2019年1月1日から、という説が早々と打ち出された。なぜ1月1日か。「国民生活に影響が少ない(カレンダーなど混乱がない)」というようなばかげた説がまかりととおっていた。企業の事務処理にも影響が少ない。
 安倍の経済政策は、たかだか西暦と元号のスタートを揃える程度のものでしかないのだが、そういうことが「真剣」に報道された。
 「元号」は首相が移植する学識経験者の「考案」のなかから選ぶというが、実際は首相が決める、ということだろう。安倍にはすでに「新元号」の「案」があるはずである。それを「学識経験者」が「忖度」しながら提案する。
 首相が安倍でなくなれば、とうぜん好み(?)の「元号」も変わる。だから、いまから「元号」の準備をしても始まらない。

 この三つのことは、ひっくり返して言えば、安倍(内閣)、自民党は「天皇」については「政治利用する」ということ以外は何も考えていない(考えていなかった)ということを意味する。
 天皇の高齢化に配慮する、という「名目」で天皇を都合のいいように利用している。
 ほんとうに天皇の高齢化、高齢化する天皇のことを考えているのなら、安倍内閣の支持率とは関係なく、今後しなければならない手続きを進めるべきだろう。いや、安倍の支持率が落ちている、政局が変動するかもしれないというのなら、なおさら「粛々と」すべきことをしないといけない。政局の変動とは切り離して「天皇制」をどうするかを考えないといけない。
 そういう動きが出て来ないのは、天皇の生前退位というものが、安倍が強制したものであることを間接的に証明するものである。

 こういうことも考えてみるべきである。
 「天皇生前退位強制法」が成立する前後に、二つの「教育関係」をめぐる疑惑が国会で取り上げられた。森友学園と加計学園。まず森友学園を、籠池を「悪人」にすることで乗り切った。そのあと「天皇生前退位強制法」が成立した。あとは念願の「憲法改正」を推し進めるだけだ。
 安倍が読売新聞で、憲法改正への自説を展開したのは、森友学園の籠池を国会参考人招致で乗り切った後である。
 たぶん森友学園問題が予想以上にうまく処理できたので、安倍の気が緩んだのだろう。つづく加計学園問題も「記録がない」という主張で処理できると思い込んだ。前川の「文書」は「怪文書」、前川は「いかがわしい人物」という主張で解決できると思い込んだ。
 「天皇生前退位強制法」が野党の反対にもあわずに、すんなり通ったことも、安倍の気をゆるませることになった。これでもう「憲法改正」は思いのまま、と思い込んでしまった。
 ところが加計学園でつまずいた。「憲法改正の日程」もおかしくなってきた。それが「天皇生前退位強制法」に付随するいろいろなことにまで影響し始めている。なんのために「天皇生前退位強制法」を急いだのか、それもわからなくなったということだろう。
 「生前退位」のスクープ(リークしたのはどこか、誰か)から「天皇生前退位強制法」が成立するまでの経緯を検証するべきだと思う。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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仲田有里『マヨネーズ』

2017-08-07 10:28:38 | 詩集
仲田有里『マヨネーズ』(思潮社、2017年03月10日発行)

 仲田有里『マヨネーズ』には、まいってしまった。
 本の表紙には「歌集」と書かれているから歌集なのだろう。「短歌」なのだろう。けれど、どこまで読んでも「歌」が聞こえてこない。「リズム」と「メロディー」がない。私は古い人間なので、耳が退化してしまったのだろう。

 他の人には、どう聞こえているのだろう。田中庸介が「押しつけがましくなくうっすらと」という文章を寄せている。

 衣食住があり自分の身体がある。動植物がいて人がいる。しかしその存在の意味はまったくわからない、といった認識の混乱と、そこからの脱出の予感。本作『マヨネーズ』には、そんな作中主体の強く個性的な変遷が、日常語に限ったミニマルな文体でねばり強く書かれている。

 うーん、抽象的で、わからない。
 「認識の混乱と、そこからの脱出の予感」と「個性的な変遷」ということばを手がかりに考えると、まず「認識の混乱」が描かれ、そのあと「脱出の予感」が書かれている。つまり、「歌集」のなかに「時間の経過とそれにともなう認識の変化」がある。その「変化」のことを「変遷」と呼んでいるのだと思うのだが、具体的に、どの歌に「認識の混乱」が象徴的にあらわれているのか、またどの歌に「脱出の予感」が書かれているか、それが明示されていないので、どんな「変遷」を書いているかわからない。
 田中はさらに、こう書いている。

働いている若い女性の生活や恋愛がみずみずしいくったくのない文体でつづられていくのだけれども、作中主体はどこか心に苦しい葛藤をかかえたものとして描かれており、その葛藤によって右往左往することばの姿がまた非常に魅力的だ。

 先の文章に書いてあった「ミニマムな文体でねばり強く描かれている」と「みずみずしいくったくのない文体」が、私の意識の中では結びつかない。「ねばり強く」「みずみずしい/くったくがない」は、違う性質だろうなあ。「屈託」があれば「ねばる」と思う。
 同じように、「みずみずしいくったくのない文体」と「心の中に苦しい葛藤を抱えた」の同居がわからない。「みずみずしいくったくがない」なら「苦しい葛藤」は感じられないのでは? 
 さらに「葛藤によって右往左往することば」というのもわからない。「葛藤」があるなら「動けない」のでは?
 だから、まあ、私の感覚では「矛盾」としか思えないようなものを、仲田は描いていると考えればいいのかもしれないけれどね。
 でも、こんなことはいくら書いてみても、抽象から逃れられない。

 田中は、仲田の短歌のどこに感動したのだろうか。具体的にふれた部分は、どうなっているか。巻頭の「マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる」という短歌について、田中はこう書いている。

 このようないくぶんポップな文体の歌では、植物に関することばが、人間の頭部の器官の名称にダイレクトにつながっていくところにユニークな特徴がある。第一首はあっと驚くシーンであり、身体を食べ物でぐちゃぐちゃにする趣味を描いたものかと一瞬迷うけれども、あるいは植物の葉っぱに感情移入したものとして読んでいけば、これはサラダにマヨネーズを搾って食べることの描写なのかもしれない。

 「第一首」ということばからわかるように、田中は五首をまとめて引用している。だから第一首に触れる前の部分は「全体のまえがき」みたいなものなのだが。
 ここでは「いくぶんポップな文体」という新しい「文体認識」が書かれている。「日常語に限ったミニマルな文体」「みずみずしいくったくのない文体」と同じものかどうか、同じものであるなら、それをどう「言いなおした」ものなのか。よくわからない。
 わかるのは、田中が、植物(人間以外)と人間の頭部の器官(頭、口、目、耳)を結びつけていることに注目しているということ。
 「日常語に限ったミニマルな文体」というのは、日常的な細部を描く文体ということになるのか。「サラダ」は「葉っぱ(?)」と「マヨネーズ」に、さらに「マヨネーズのかかっている部分」は「全体」ではなく「頭の上(比喩だね)」という具合にとらえるということか。
 こういう「文体」に田中は出会ったことがないので、それを「みずみずしくくったくのない文体」と呼んだのか。さらに「いくぶんポップな文体」と言いなおしているのか。

 さらに「何本も出てきた葉っぱがてかてかと光って口の端っこにつける」「薄い葉が冷たくなってる冬の朝君の目と植物と話すような話を」という歌については、こう書いている。

葉っぱと「口」「息」が不思議な接続を遂げる。葉っぱを口の端っこにつけるのも、冷たくなっている薄い葉に白い息が出る口のイメージが接続するのも、顔を植物で飾った森の妖精を彷彿とさせる。

 「森の妖精」って「日常語」? 「森の妖精」は直接出て来ないが、そういうものを感じたから「みずみずしいくったくのない文体」と呼ぶのかなあ。
 読めば読むほど、わからなくなる。

 で、私はこれ以上田中の文章を手がかりにするのをやめた。田中の文書を読んでも、結局、私には何もわからないだろうなあということがわかったからである。
 仲田の短歌もわからなければ、田中の感動もわからない。

 仲田の歌にもどる。読み直してみる。

マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる

 リズムをまったく感じない。数えてみれば確かに「五七五七七」になるのかもしれないがリズムというのは数えて確かめるものではないだろう。最初の「マヨネーズ」は五音。「下七七」の「マヨネーズと」は六音。破調。しかし破調の効果を私は感じない。単に「散文」を「五七五七七」に近づけただけという感じがする。言い換えると「短歌」が仲田の肉体から生まれてきたというよりも、頭で短歌を装っているという感じ。
 それは最初のマヨネーズと次のマヨネーズが、仲田の中でどう変わっているか(田中のことばを借りて言えば「変遷」しているか)が直感的に感じられないことにも通じる。「意味」を考えれば「意味」は捏造できるかもしれない。でも「意味」を捏造してしまったら「詩(文学)」にはならないだろう。
 ことばがねじれ、別なことばになる。知っているはずなのに、知らないことばにであった感じ、あるいは、あ、そうだった、こういうことを覚えていると思い出す感じが、一首の中で「うねり」となってことばを支配しないと「音楽」は聞こえない。

ゆるやかに流れる町の空気から逃げるかばんを持って電車で

 「かばん」が見えてこない。どういう「かばん」か明確にならないと「町の空気」も「電車」も見えてこない。ことばがことばと呼応し合わない。メロディーやリズムが生まれようがない。

いつまでも続く季節が新しい夏と同時に始まっている

 「いつまでも続く」と「始まる」という動詞の矛盾、共存を「同時」ということばで印象づけることで「詩」をつくろうとしている。それは、しかし「頭」が理解することであって、ことばが響きあって直感させる「事件」ではない。

なるようにしてくださいと神様に祈ったけれど会いたい君に

 仲田がどんな「神様」に祈ったのか知らないけれど、ふつう「こうこうしてください」と祈るのであって、「なるようにしてください」というのは投げやりな諦めの態度ではないのか。「神様に祈った」というよりも、投げやりにそう祈ったけれど、「君に会いたい」「君に会えるようにしてください」といまは神様に祈っているということか。
 これも、「頭」で考え直さないといけない。

リピートにした一曲が繰り返し始まるたびに少し目覚める

 「リピート」と「繰り返し」。英語と日本語。音の数を合わせるためにつかいわけられている。「意味」はわかるが、「意味」には私は感動することができない。
 「意味」というのは誰もが持っている。「思想」と同じである。
 そんなものをわざわざ「他人」に寄り添って感じたり、考えたりすることはしたくない。「考える」前に、それが目の前にあらわれてきたとき、ひとは感動する。少なくとも、私の場合は、予想外の「意味」「思想」がなまなましくあらわれてきたときに、驚く。
 わざわざ「頭」で考え直すのはめんどうくさい。
 それはどういうことかと言いなおすと、この歌の場合「一曲」が何か、ぜんぜんわからないことにつきる。「かばん」の歌でも触れたが、そこに「仲田」がいないのだ。「他人」がいない。

 短歌なのにランボーを引き合いに出しては申し訳ないが。
 ランボーは「私とは一個の他者である」と言った。その「他者」が動かないと、詩は生まれない。「他者」こそが新しい音楽をつくる。「他者」を受け止めるために、それまでのことばがそれまでのリズムとメロディーを変えるとき、ことばが詩になる。
 これは、しかし、「頭」でつくりだすものではなく、「直感」がそうしてしまうのである。
 「頭」で動かされたことば、私は苦手だ。

マヨネーズ
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最果タヒ『愛の縫い目はここ』(2)

2017-08-06 13:06:50 | オフィーリア2016
最果タヒ『愛の縫い目はここ』(2)(リトルモア、2017年08月08日発行)

 最果タヒ『愛の縫い目はここ』を、私は理解しているか。たぶん理解していない。いや、きっと理解していない。私の感じていることは最果が書きたいと思っていること、あるいは最果の読者が感じていることとはまったく違っているだろう。「誤読」の典型といわれるだろう。
 私は「誤読」を承知でというか、「誤読」したいから読んでいる。昨日書いた「誤読」のつづきをもう少し書いてみる。
 「しろいろ」という作品。

レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、光
がそれを避けながら届いたとき、誰にも気づかれずに炎症し
た空気の、傷口をさがしていた。ひとりでいることが、私の
体温を不安定にするのはほんとう。手を伸ばしていくとその
うち、ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる
気がしていた。だから、うつくしいものへと手を伸ばすんで
しょう。私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 書き出しの

レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、

が繊細で美しい。これは「情景」の描写として読むことができる。けれど、たぶん「情景」ではない。では、何か。最果の「肉体感覚」である。どういう「肉体」感覚かというと、最後の

私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 である。たぶん、この最後の部分に最果の「特質」がある。「肉体」がちぎれていく。「肉体」が欠ける。そのかけた部分を「景色」が補う。「肉体」と「景色(情景)」が、そうやって「ひとつ」になる。
 これは最果独自の「一元論」である。世界に存在するのは「肉体」のみ、と最果が考えているかどうかわからないが、私は、実はそう考えているので、これは私の考えから見つめなおした最果ということになるかもしれないが。
 「肉体」と「景色(情景)」が「ひとつ」になる。これは「肉体」と「情景(もの)」を「ひとつ」と考えるということである。
 だから、書き出しの「レース」は実は「最果の肉体」そのものである。すでにこの段階で「私=最果の肉体」と「景色(レース)」は「まじっている」。つまり、最初のことばは、

「私の肉体」は、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、

 なのである。
 そして「縫い込む」という「動詞」は「傷口」という名詞(動詞の動いた部分)へとつながり、「ひとつ」であることを強める。自分の「肉体」のどこかに「傷口」と「縫い目」を探し当てたとき、最果は「レース」そのものになり、「光」を通過させる。「光」を通過させる「傷口」としての「肉体」。いま、最果が感じているのは、そういうものだろう。

うつくしいものへと手を伸ばす

 と最果は書くが、私にはむしろ、そうやって

うつくしいものに「なる」

 という具合に読める。読んでしまう。
 「ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる」、その「途切れ」が「傷口」かもしれない。自己というものの、一瞬の欠落。これは、もちろん最果の「誤読/誤った認識」だろう。「肉体」のなかで「肉体」が途切れる(ちぎれる)ということはない。けれど、そう錯覚する。
 たぶん、これは時系列としては逆なのだ。
 「景色/情景」が「肉体」のなかに入ってくる。「景色」が「肉体」のなかに入ってくるために、とまどい、自分の「肉体」が途切れた、傷が開いたと感じる。その傷を縫い閉じて「肉体」をもとに戻す。そうすると、「肉体」が「景色」にかわってしまっている。「肉体」の「内」と「外」が入れ替わっている。
 入れ替わるというよりも、それは「融合」である。あるいは「ひとつ」になることである。これを私は「最果の一元論」と名づけたいと思っている。
 この「最果の一元論」は、また、別の角度からも指摘できる。

私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。

 この文章の「動詞」のつかい方は、ある意味ではとても奇妙である。私なら、この文章は

私がちぎれて「いく」かわり、景色が私に混ざって「くる」。

 と書いてしまうかもしれない。「行く」と「来る」を対にすることで「一元論」にしてしまうだろうと思う。
 しかし最果は「いく」と「いく」を重ねる。「動詞」がすでに「ひとつ」になってしまっている。最初から「肉体」と「景色」は「ひとつ」になって動いている。「動詞」の「いく」が共有されるところから、それを読み取ることができる。
 「一元論」と言われても、たぶん最果と、「えっ、それ何のこと?」と思うに違いない。完全に「無意識」になっている。「一元論」が「肉体(思想)」になってしまっているのである。
 だからこそ、たとえば、

体を、論理で機械化していくのは楽しいかもしれないけれど。
                         (グーグルストリートビュー)

 のような「論理」批判が書かれたりする。ここに書かれている「機械」とは「肉体」と「景色」に対抗する存在のことである。「肉体」と「景色(存在)」を分断し、機械的に「二元論」を展開することばを「論理」と呼んでいることがわかる。
 最果にとっては「景色」は「心象風景」ではない。心象を風景に託す、というような近代的な「手法」をとらない。「景色」はさいはてにとって自己拡張した「肉体」そのものだ。
 (と書いてしまうと、きのう書いた感想と整合性が取れない部分が出てくるのだが、私は気にしない。昨日書いた感想は感想で、そうやって書くしかなかったものなのである。だから、修正するというよりも、さらに「誤読」を重ねることで、ごちゃごちゃにごまかしてしまう、というのが私の読書の仕方であり、感想の書き方なのである。きのうにはきのうの「事実」があり、きょうにはきょうしか書けない「事実」がある。)

暗いところから見る、明るい場所が好きだ。
喫茶店が流れていく車両を無視して、
大きな窓から橙の光をこぼしていた。
体の奥にああした部分があるなら、
もうすこし体をいたわって生きることもできる、    (冬は日が落ちるのが早い)

美しく光っている体が、また、目覚めて私になる。
昼間、口のなかに夜がひろがり、甘い気がした。
体の構造が複雑すぎて、内臓のどれもがまぶしくて、
生きるとは星空の真似事をしているみたいだった。          (12歳の詩)

 ここに書かれている「景色」と「肉体」の「一体化」も「最果の一元論」を証明することばだと言える。(説明は省略。)


愛の縫い目はここ
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リトル・モア
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最果タヒ『愛の縫い目はここ』

2017-08-05 10:09:44 | 詩集
最果タヒ『愛の縫い目はここ』(リトルモア、2017年08月08日発行)

 最果タヒ『愛の縫い目はここ』を読みながら「肉体」について考える。最果のことばから感じる「肉体」は、「肉体」という具体的な形よりも、「肉体」になる前の「いのち」のように感じられる。何にでも変わることのできる「いのち」、いま身近にあることばでいえば「iPS細胞」か。
 たとえば「ビニール傘の詩」

恋とは呼べない関係が、川とともに流れている。
私たちの気配を潰していくように雨が降り、
まるであなたが遠くにいるように思える。
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
私が生まれるまえ、あの建物ができるまえ、合戦の気配、開拓の気配、
走り抜けるニホンオオカミと、黒くなるほど生い茂った緑。
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。

ここからは、人類の時代です。

 「命のひとかけら」とは「細胞」と言い換えることができるだろう。その細胞をさらにどう言いなおすかというと、最果は「建物」「合戦(の気配)」「開拓(の気配)」「ニホンオオカミ」「緑」につながっているものととらえている。「生まれるまえ」とは、最果が最果になるまえのこと。他のものにもなる可能性はあったのだ。そういうものを感じている。他のものになりうる可能性--ここから私は「iPS細胞」を比喩として感じる。
 「生まれるまえ」、何にでもなりうるなら。
 「生まれたあと」、やはり何かのタイミング(突然変異?)で、何にでもなることがだできるだろう。
 「何になるか」というのは重要な問題だろうけれど、最果は「何になるか」は書かない。「未来」というか、「目標」を書かない。逆に「過去」を書く。「私はこうであったかもしれない」と「生まれるまえ」の「いのち」を肯定する。そうすることで「未来」を全方向に解放する。「いのち」というもの、「生きるということ」そのものになる。

 でも、こういうことは「論理」として語ってしまうと「論理的」になりすぎて、実はおもしろくない。
 最果の詩は、私が要約したように「整合性」が取れていない。
 と、私は感じる。
 そこに、私の「つまずき」がある。読んでいて、つまずく部分がある。そのことをこれから書く。(ここから書き始めて、前に書いた部分につなげると、ふつうの批評のスタイルになると思うのだが、あえて逆の書き方をしてみる。)

恋とは呼べない関係が、川とともに流れている。
私たちの気配を潰していくように雨が降り、
まるであなたが遠くにいるように思える。

 雨のなかを歩いている二人。川が流れている。そういう「情景」の描写である。「恋とは呼べない(関係)」は「気配」と言いなおされる。「気配」とははっきりしないが、なんとなく感じられるものである。それは「遠く」とさらに言いなおされる。
 「気配」は何かが(存在が)「隣(近く)」にあるとき感じるのではなく、直につかみとれないときに感じるものである。ただし、その「遠く」にあるものは、なぜか「直接」触れてくる感じもする。感じなければ「気配」は存在しない。そういう「矛盾」が「気配」である。
 このあいまいな、しかし直接的な「予感」のようなものは、「恋」をより強く意識させる。
 ここまでは、私は私のなじんできた「文学の文法」で読むことができる。
 しかし、

ここ数年でいちばん、心地いい時間。

 この一行は、私の「文学文法」からは非常に遠い。「文学文法」を破壊する。否定する。言い換えると、ことばが「情景」ではなくなる。「描写」ではなくなる。
 感情の説明、精神の説明、「むき出しの説明」と、私は感じてしまう。「主張」と言ってもいい。
 詩に限らず、あらゆる芸術は感情や精神を語るものだが、むき出しのままさらけだしては「読者」とのあいだに「あつれき」を起こす、あるいは「拒絶されてしまう」ので、それを別の何かに置き換えてつたえるのが文学、芸術である。
 恋になるのかならないのか、わからない不安な状態。それをたとえば雨のなかを歩くふたり、透明な(?)ビニール傘の「空間」で体を寄せる二人、という具合に。
 私は最初の三行を、まあ、そう読んだわけである。
 このとき「私(最果)」が何かを思う。感じる。その思い、感じは、やはり「情景」として説明されるのが、私の身につけいてる「文学文法」である。

ここ数年でいちばん、心地いい時間。

 という一行は、そういう私の「先入観」をたたき壊す。
 そして、一気に「内面」を「情景描写」とは違った形で展開する。

私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。

 「心地」と「命のひとかけら」と言いなおされていると思う。「こころ」というのは「命のひとかけら」。言い換えると「命の細胞」。「細胞」とは「肉体」のことでもある。「心」と「肉体」が入れ替わる。というか、混同する。あるいは融合すると言った方がいいのか。
 つまり、「ここ数年でいちばん、心地いい時間。」とは「心」の状態というよりも、

ここ数年でいちばん、「肉体の調子」がいい時間。

 ということになる。この「肉体の調子がいい」というのは、何でもできる、ということ。言い換えると何にでもなれるということ。
 建物になって、雨からひとを守る。合戦という「こと(事件)」になってしまう、「開拓」するという「こと」、誰かと合戦するときの強い肉体、未開の土地を開拓するときの頼もしい肉体、ニホンオオカミ、黒々と繁る巨大な森。
 それは「人間」の枠を超える。「命」はいつでも「人間」だけにとらわれない。世界は「命」に満ちていて、そのどれにでもなりうる可能性がある、と感じるくらいに「肉体」に可能性が満ちてくる。そう感じる。
 「命」の「過去(歴史)」が、そのまま「未来」として噴出する。そういう果てしないエネルギーを実感する。「心地いい」「肉体の調子がいい」。
 それは、

私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。

 ということである。
 「何にでもなれる(可能性)」は「すべて」と言いなおされている。それは「私の知らないもの」のことである。「知っている」ものは「すべて」ではない。「知らないもの」を「知らないまま」、直に「見ている」。「肉眼」でとらえている。「知らないもの」が見えるくらいに「肉体の調子」がいい。「心(眼)」が生きている。

 で。
 ここでも、私は「論理」的に書きすぎているかもしれない。
 そういうことを感じながらも、私は最果のことばの「文法」にどこかとまどっている。

私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。

 「はずだった」は「過去形」。
 うーん、どうして「過去形」なのかなあ。「現在形」として私は読みたい。
 「私が生まれるまえ」からつづく行は「過去」の思い出ではなく、「いま」の可能性として書かれていると思った方が、私にはリアル。

 もちろん最果文法にしたがって説明しなおすことはできる。「誤読」することができる。

私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。

 「はずだった」と「過去形」で書くのは、最果が「いま/ここ」で生きているからだ。「ここにいた」は「いま/ここにいる」ということである。それを肉体で実感するからである。
 「命の根源細胞」は何にでもなれる。過去から何でも噴出させることができる。それがわかっていて、なおかつ、過去を噴出させずに「いま」から手さぐりで生きる。その思いが「はずだった」にこめられている。
 「命の根源細胞」が何に変わるか。何でにも変われる。それを承知で、

わからない

 という「世界」へ飛び込む。

雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。

 ここに出てくる「わからない」は、とても美しく、強い。「わからない」ということを「わかっている」。それは「肉体」の「命の根源細胞」が「覚えている」何かである。
 最果は、「情景」へ戻ってくる。

 最初の三行は「起承転結」の「起」、次の三行は「承」というよりも「転」、その次の三行は「転Ⅱ」というか、「転」を「起」ととらえなおした「承」になるだろう。そして一行の空白をはさむ三行

雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。

ここからは、人類の時代です。

 が「結」。
 「命の根源細胞」は何にでもなれる。しかし最果は「人類(人間)」を選んで生きる。二人で生きる。それが「ここから」はじまる。



 昨日、一昨日に読んだちんすこうりな『女の子のためのセックス』に登場する「肉体」と最果の詩の「肉体」はどう違うかということを書こうと思っていたのだが、書いている内に気分が変わってしまった。
 ちんすこうの「肉体」はヒエラルキーを前提としている。最果はヒエラルキーなど知らないところで書いている。(熟知していて、それを拒絶しているのかもしれない。)彼女自身の「肉体」の真実をさぐろうとしている。そのため最果のことばを読む手がかり(参考書)はどこにもない。既成の概念に頼ると、そのたびに既成の方法が否定される。私は古い人間だから、どうしても既成の「文学」に寄りかかりながら、ただ最果のことばと向き合う。向き合いながらどきどきする。私が壊される瞬間、あ、何かが私の肉体のなかから生まれようとしていると感じる。生まれようとしているものを、私のことばは、まだどう書けばいいのかわからないのだが。


愛の縫い目はここ
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リトル・モア
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ちんすこうりな『女の子のためのセックス』(2)

2017-08-04 11:21:53 | 詩集
ちんすこうりな『女の子のためのセックス』(2)(人間社、2017年07月30日発行)

 昨日書いたちんすこうりな『女の子のためのセックス』の感想に対して、Tinsukou Rina さんから、こんなコメントがフェイスブックに寄せられた。

ありふれた「流通言語」内における用語が使われてるからダメってんだろう?全く逆だね。女性器を「穴」とみるそういう世界観の中に、詩を、あるいは「聖なる精神」をひきづりおろしたところにこの詩の本当の意味はあるのだ。
谷内さんのブログを読んだ知人の言葉です。

 同じ文面のコメントを、ちんすこうから、ブログのコメント欄にいただいた。
 気になることを書いておく。
 私は詩を読むとき、その詩と「一対一」で向き合う。Tinsukou Rina さん、ちんすこうの「知人」が誰なのか知らないが、その「知人」の感想は、私と『女の子のためのセックス』という詩集とは何の関係もない。その「知人」がどう評価するか、そんなことに配慮するつもりは、私にはない。
 感想はあくまでも詩集と(詩と)私との「一対一」の関係。私はしばしば詩の感想に「セックス」ということばをつかう。詩とセックスすることが、私の感想の目的。「一対一」のかんけいで、ことばをどこまで動かして行けるかにしか、私は関心がない。ほかのひとがその詩集(詩)とどういう関係を持とうが、それはその人の問題であって、私には無関係。
 もし、その「知人」が私に対して何かコメントしてくるのであれば、そこから私と「知人」との関係がはじまる。それだけのこと。
 「知人」の批評など引用せずに、Tinsukou Rina さんは自分自身の感想を書けばいい。ちんすこうは、自分自身のことばで、「こういうことを書いた」と語りなおせばいい。「知人」に寄りかかって、何の意味があるのだろう。

 引用された文章なので、「知人」が具体的にどう発言しているのかわからないが、二人が書いている文章のなかに、私が批判しようとしたことの「核心」がある。
 「知人」(既成のもの)への「よりかかり」を私は批判したのである。

 女性性器を「穴」と呼ぶのは、ちんすこう自身のことばなのか。男性の性器は「男性器」と呼び、女性の性器を「穴」と呼ぶのという「表現」はちんすこう自身が「発見」したものなのか。それはちんすこうが会ってきた男からの借用ではないのか。そういう表現を借りてくるとき、ちんすこうは「穴」という表現の支えている精神というものをどう評価するのか、そういう問題がある。
 男が女性の性器を「穴」と呼んだから、それをそのままつかっているのではないのか。そういうやり方は、自分の考えを自分のことばで語るというよりも、「穴」ということばをつかう男のことばで自分を語ること、それはちんすこうが語るというよりも男が語ることにならないか。
 ことばを「自分のことば」「他人のことば」と明確に区別しているかどうか。
 「知人のことば(評価)」と「自分自身の評価(ことば)」を区別していないのではないか。

 また、「知人」の書いている

(1)女性器を「穴」とみるそういう世界観
(2)詩を、あるいは「聖なる精神」

 という対比の仕方にも、私はとても疑問を感じる。
 こういう区別の仕方をほかの多くの人もするのかどうかわからないが、私は、そんなふうに対比はしない。
 発言した「知人」が「世界観」と「精神」をどうとらえているのか、私にはわからない。「世界観」と「精神」は、私の「意味領域」では「同じもの」。そして、そこには「聖なる精神」と「そうではない精神」の区別はない。
 ひとが向き合っているのは、その瞬間その瞬間の「真実」であり、それはいつでも「聖なる瞬間」(大事な瞬間、最優先にしている瞬間)である。人が生きているとき「聖なる精神」以外に存在しない。
 女性器を「穴」とみる(穴と表現する)精神は、そういう表現をする人にとっては「聖なるもの」だと私は思っている。いちばん大事な「思想」と言い換えてもいい。そう呼ばないことには自分を維持できない。「穴」と呼ぶことで、女性を見下し、その反作用として自分自身を守っている。「男尊女卑」。それが「穴」ということばを平然とつかう男のもっとも「尊い精神(聖なる精神)」である。
 逆に言えば、こうなる。男の性器を「棒」と呼ぶ言い方もある。「枯れた枝」とか「マッチ棒」「こん棒」という言い方もある。ちんすこうの詩をまねて書けば、その書き出しは、こうなる。

棒を
女性性器に入れて
こすると気持ちがいい
ただそれだけのことだ

 女性性器を「穴」と呼び、「男尊女卑」を「尊い精神/守るべき精神/聖なる精神」とぶ人間が、果たしてこう書くか。
 さらには、その「棒」を「マッチ棒」かは「枯れた枝」とか書くか。書かないだろう。そう書かれたら、女性を「穴」と呼ぶ男は怒るだろう。「黒光りのするこん棒」が俺だ、と主張するかもしれない。「黒光りのするこん棒(他人を思いのままに支配する棒/暴力の象徴としての棒)」が「男の性器」であるという「思想」を生きている人間が、女性性器を「穴」と呼ぶのである。
 女性性器を「穴」と呼ぶ。そのことが「定着」するまでには、さまざまな「歴史」がある。それを自分自身の「肉体」で確かめ、そのうえで「正しい」と判断して書いているのかどうか、それを私はちんすこうに問いたい。
 「ちんちん」の最後の二行。

本当に大切で守ってあげたい
たった一人の女の子になることはないんだって

 これもほんとうに女性のことばなのかどうか、私は疑問に感じている。「男が女を守る」という「思想」の延長にある。それをそのまま肯定している。男の視点に寄りかかっている。男がだらしないなら、女が男を守ったって問題はないだろう。だいたい、人間は誰かが誰かを一方的に守るという形で動いてはいないだろう。

 「穴」という呼び方が気に食わない。それを別の言い方で書いてみよう。
 「穴」ということばの借用は、私から見れば、何人かの詩人に見られる西洋哲学の「引用」と同じものである。「聖なる精神」を引用する方法とそっくりである。
 自分の「肉体」でつかみとったことばというよりも、すでにあるもの、「一定の評価を受けていることば」を借りてきて、自分の向き合っている世界について代弁させている。そんなことをすれば、自分で考える代わりに「他人(有名思想家)」に自分の見ているものを語ってもらうということになる。そこからわかるのは、その人の考えではなく、そのひとは誰それを読んだことがある、ということだけだ。自分は誰それの思想を読んでいる、だから「正しい」といういっているようにしか聞こえない。そんなものは「情報」であって、「思想」とか「精神」というものではない。「聖なる精神」の対極にあるものだ。
 ちんすこうのような表現をすれば、「男尊女卑」の「思想」を生きている男からは歓迎されるだろう。また「男尊女卑」の世界を生きた方が楽だという女性からも歓迎されるだろう。どんな悲しみも「既成の感情」のなかで居場所を見つけられる。

 もし、この詩集に「穴」という表現がなかったら(あるいはそれに通じる「男尊女卑」の既成の考えに直接結びつくことばがなかったら)、たとえば「おしまいの日」の印象などもずいぶん違ったものにある。

世界で
たった一本勃起して
私という存在を
はかない
望みのように
あたたかく照らしてくれていた
ちんこが
ゆっくりと頭を垂れるように
完全に
地を向いた日

 からはじまり、

おばさん友達と蟹食べ放題にゆくだろう
食べて
無口になって
幸せねえと呟く
食べながら泣ける
夢中で
いっぱい
食べる
いっぱい食べて
幸せになる
幸せになる

 ここに書かれているのは

女性器を「穴」とみるそういう世界観の中に、詩を、あるいは「聖なる精神」をひきづりおろした

 ということとは全く逆のことだと思う。女性性器を「穴」と見ることをやめることで、抑圧されていた精神が静かに動き始めている。
 だが女性性器を「穴」と見る「世界観」のなかにこの詩を置くと、女はやっぱり男に守られて生きるのが幸せなんだよ、になってしまう。
 この詩は、男に守られて生きるというよりも、一人で生きる、ということを描いているのだが、最初から「男に守られて生きていたら、つらい目に遭わずにすんだのに」という既成の「男尊女卑思想」の「同情」と結びついてしまうことになりかねない。
 こういう「かわいそうな女性」というのか「女性のかなしさ」の「定型表現」が、私は好きではない。
 こんな「定型」を破るために、ひとは生きているのではないのか。

 飛躍になるかもしれないが。
 私は20世紀最大の思想家は誰か、と問われたらボーボワールと答える。マルクスも毛沢東も、その「思想」は世界に広がらなかった。ボーボワールの「女はつくられたもの」(男女差別は社会制度が生み出したもの)という考えは世界中に広がった。「男女平等」世界で実現されつつある。ただひとつ国境を越えてひろがり、生き方の基礎になりつつある。
 それを21世紀を生きる女性が(たぶん、ちんすこうりなは女性だろう)、「かなしさ」を前面に出して壊そうとしている。非常に違和感を覚える。


青空オナニー
クリエーター情報なし
草原詩社
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ちんすこうりな『女の子のためのセックス』

2017-08-03 10:52:02 | 詩集
ちんすこうりな『女の子のためのセックス』(人間社、2017年07月30日発行)

 ちんすこうりな『女の子のためのセックス』を読みながら、どうしてこういう表現になるのかなあ、と思った。
 「女の穴」。

勃起した男性器を
穴に入れて
こすると気持ちがいい
ただそれだけのことだ
人間は
ばかみたいだ
そんな簡単なことは
誰とでもできるよ
そんなことをセックスと名づけて
愛しあっていると喜んでさ

そんなことを
とりあえずあなたとしてみたい
いれて
こすって
いく
他の人間たちがしているように
してみたいのさ

 私が不思議に思ったのは「穴」ということばである。何を指しているかはすぐにわかる。女性の性器である。私が不思議に思うのは、なぜ女性器と書かずに「穴」と書いたかということ。
 別な言い方をすると、「穴」というのは、ちんすこうの発見した「比喩」ではないのに、なぜ、それを平気でつかえるかということ。
 もちろんひとは誰でも他人の口にする「比喩」をつかう。「流通言語」をつかう。
 それならそれで「勃起した男性器」も「比喩」にすればいいだろう。
 一方で「比喩」を避け、他方で「比喩(流通言語)」をつかう。しかも、その「比喩」は重要らしい。(後半に、意味ありげに書かれる。)
 こういう「比喩」のつかい方をすると、私には、この「比喩」が動いている世界の視点で詩が書かれているような気がして、いやな気持ちになる。女性の性器を「穴」と呼ぶことで成立している世界がある。それを肯定している、と感じる。
 性の体験を包み隠さずに書いているようで、実は女性の性器を「穴」と呼ぶ視点で隠している。あるいは「穴」と呼ばれることで成立する視点でつくられた世界を肯定していると、感じる。
 これでは正直な体験とは思えない。
 ちんすこうが、どれだけ実際の体験を書いたと主張しようが、私は、それを女性の性器を「穴」と呼ぶ「思想」にのっかって書いたものと感じてしまう。

他の人間たちがしているように

 と、簡単にちんすこうは書くが、他の人間たちがしていることは、それぞれ違うのではないのか。「穴」に「いれて/こすって/いく」ということではないのではないか。簡単に「断定」してしまっているところで、私はつまずいてしまう。

穴なんだけど
ただの
真っ暗の




穴がどこに続いているのか
思い出して
体から涙があふれた

 ここで書かれている「穴」は「穴」という「比喩」をちんすこう自身のことばにしようとする試みなのだろうけれど、どうも、納得がいかない。

 「射精」という作品。

私の顔に出した
あたたかい精液
じっと見つめたあとで
申し訳なさそうにふいてくれた
子供になったような
くすぐったい気持ち

本で読んだんだけど
男って
射精した瞬間愛情の一部も
流れていくらしいね

だから
あなたの横顔は哀しそうなのか

 一連目は自然に読むことができたが二連目でつまずいた。「本で読んだ」か。
 ひとはだれでも「本で読んだ」ことばで自分の体験を整える。ちんすこうに限ったことではない。だから、それはそれでいいのかもしれないが、個人的な体験を語るとき、すぐに「流通言語」が動き、しかもそれが重要な働きをするというところが気になってしようがない。
 「愛情の一部も/流れていく」を喪失ととらえ、「哀しい」に結びつけるのも「流通文体」だろうなあ。流れていくものが「誘い水」になり、次々に新しい愛情が満ちてくるなら「哀しい」とは言わないだろう--と私のなかにある「流通言語」はすぐに反論してしまう。
 読みながら「漫才」でもしている気持ちになるのである。

 「ちんちん」という作品。

ちんちん舐めてたら
ちんちん、好きなんだね、
とあの人は言った
本当は
好きな人のだけ、好き、と言おうとしたけれど
うん、とだけ
それから
あたたかさの中でこう思ったんだ
私はもう二度と
本当に大切で守ってあげたい
たった一人のの女の子になることはないんだって

 「本当は」とそれに続く行は美しいと思う。
 私がちんすこうに聞いてみいたのは、二行目の「ちんちん、好きなんだね、」という男のことばをどう感じているかである。
 私の感覚では、これは男の「本当」のことばではない。
 こういうとき、こういうふうに言うのが、「男の流通言語」なのである。正直を隠し、「ちんちん、好きなんだね」ということばが流通している世界へ入っていくための「通過儀式」のようなものなのである。
 女性の性器を「穴」と呼ぶのも、顔に射精するのも、フェラチオをさせるのも、同じ。そうやってはじまる世界で動きながら、その世界を脱皮するというか、その世界の内部を新しく切り開くというのはむずかしいなあ、と思う。
 どうしたって「流通言語」が入ってきてしまう。読んでいる方にしたってね。
 「流通言語」を捨てて読むというのは、読む方にしてもとてもむずかしいのだ。ほんとうにちんすこうに会っているのか、「流通言語」を演じるちんすこうにあっているのか、判断がむずかしい。

 「愛子ちゃん」という作品は、どこかで読んだ記憶がある。この作品は好きだ。愛子ちゃんとふたりで体験を語り直している。そこには「流通言語」が入ってきても、「流通言語」という意識が動いている。「流通言語」を意識しながら、ふたりで「自分のことば」を探している。
 他の作品も「流通言語」と向き合いながら、ちんすこうがちんすこうのことばを探していると読めばいいのかもしれないけれど、「流通言語」への向き合い方が「流通姿勢」になっているような気がして、そこで落ち着かなくなる。

青空オナニー
クリエーター情報なし
草原詩社
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ニコラ・ブナム監督「ボン・ボヤージュ 家族旅行は大暴走」(★★★)

2017-08-02 20:30:06 | 映画
監督 ニコラ・ブナム 出演 ジョゼ・ガルシア、アンドレ・デュソリエ

 予告編を見たとき、ロバート・ダウニー・ジュニアがなぜフランス映画に、と思っていたが、フランス人だった。ジョゼ・ガルシア。というようなことは、どうでもいいことだけれど。
 まあ、いい加減なストーリーなのだけれど。
 なるほどフランス人というか、フランス人以外は、こんな行動をしないなあ。行動が、とってもとってもとっても「フランス個人主義」。
 フランス個人主義というのは、人間の関係が常に「一対一」。「個人対個人」。絶対に「組織対個人」というような動きがない。「一対一」のなかで「自己主張」をする。いいかえると「わがまま」になる。
 新車を買った。その新車が故障し、高速道路を暴走する。これって、基本的にメーカーの問題。メーカーの責任。でもフランスでは販売員(ディーラー)と運転者のあいだで「問題」が動き始める。販売店すら出て来ない。メーカーなんて、もちろん出て来ない。メーカーの製造責任なんて、どこにも出て来ない。
 ジョゼ・ガルシアが演じる整形外科医と患者の関係も同じ。医療ミス(?)というのは病院の問題だけれど、そのことに関する追及はない。
 車の暴走の、最初の被害者も、被害を警察に訴える、というような悠長なことをしない。「頭に来た、復讐してやる」と個人で行動する。その「事故」の背景に何があるかなんて、もちろん考えたりはしない。まわりで何が起きているか、そんなことは気にしない。自分の「感情」を優先する。(彼がずっーと映画のなかでは脇役のまま無視されるのは、主人公たちからは「一対一」の関係になっていないからだ。車を壊したのは主人公たちの車だけれど、一家は自分のことに夢中になっていて、彼が存在することを知らない。ほかのひとも、もちろん知らない。彼だけが、最初から最後まで、だれとも「一対一」の関係になれない。)
 警察組織も同じ。暴走する車を助けに行くのは個人。二人なんだけれど、二人は恋人同士。二人で何とかしようとする。「一組」という「一」になって、「家族」の「一」と向き合う。
 最終的に、組織が動き、ヘリコプターも出動するのだけれど、組織がどう動いたかなどはまったく描かれない。事故に気づいた警官が、直属の上司に対して「早く手配しないと、上層部に訴えるぞ」と言うくらい。これだって、組織というよりは、警官対直属の上司、警官隊上司の上司という構造をチラつかせるくらいで、組織そのものが問題に取り組むということではない。直属の上司は、部下との関係をピンポンの勝負(一対一の戦い)で支配している。組織なんて、少しも考えていない。「私の方がピンポンが強い。だから上司なのだ」という感じ。
 フランス人がおもしろいのは、こういう個人対個人という個人主義を生きているくせに(生きているからかもしれないが)、その個人対個人に個人が口をはさむ。あ、その問題なら、私が知っている、という感じ。これが、ことをややこしくする。また、どういうことでも「個人」の問題にして処理してしまうとも言えるけれど。
 イギリス個人主義の場合は、誰もが知っていることでも、問題の個人が「ことば」で語らない限り、絶対に、その関係に入り込まない。コメントしない。
 だから、というのはちょっと「強引」に聞こえるかもしれないけれど。
 映画の最初の方のシーンに、とてもおもしろいキーワードが出てくる。父親(ジョゼ・ガルシア)が娘に向かって、「家に置いていくぞ」と脅す(?)。すると娘は「よかった、やっと一人になれる」と言う。どんな「一人」も常にだれかと「一対一」であることを要求される。だれかと「一対一」であることを拒絶して生きることができない、というのがフランスの個人主義なのである。完全な「孤独」を許されない。
 あ、脱線しすぎたかな。
 ストーリーに戻って「一対一」の「個人主義」に関して言うと。
 フランスの車の運転というのは、もう、勝って気まぐれ。だれもルールを守らない。くねくねくねくね、隙間を見つけて走り回る。これはね、複数の車が「一本」の道路を走っているという感覚がないから。自分の車が走っている。そして、近くにまた別の車が走っているが、それは「自分の車対他人の車」だけの関係。ここで路線を変更して追い抜いたら他の車にも影響する、というようなことは考えない。自分が安全なら、他人の危険なんかどうだっていい。他人の安全が自分の安全につながるなんて、考えない。知ったことではない、というのがフランス人なんだなあ。
 こんなふうだと社会がでたらめになる?
 そうとも言えない。「一対一」を最優先するから、それでは「複数」がいるときはどうするかというと「暗黙の了解」がある。
 暴走する車からの救助では、最初に少女、次にその弟、そのあと若い娘という具合に順番が決まっている。だれも、何の相談もしない。母親は妊婦なのに、ほっておくのか、という問題が入り込むかもしれないが、これだって走る車から走る車への移動はむずかしい、ヘリコプターにまかせよう、ということが、もう「事前に」決まっている。
 基本的なルールが揺るがないから、「一対一」の「わがまま個人主義」がいきいきと動く。

 監督はフランス人の「わがまま個人主義」を描きたかったわけではないだろうけれど、私には、「フランス個人主義」の見本市のように見えた。
                     (KBCシネマ1、2017年08月02日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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金井雄二「反町公園」、小川三郎「港」

2017-08-01 07:12:01 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「反町公園」、小川三郎「港」(「Down Beat」10、2017年06月30日発行)

 金井雄二「反町公園」の全行。

冬にもこんなにも暖かい日もあるのだ

なぜだか
君がいない
そして
なぜだか
銀の手すりには
ピンク色の
上着が一枚
だれが
置き忘れたものか
置いてあるのか
ちょっと汚れた
ピンク色の
丈の短い
上着が一枚

 一行目(一連目)と二連目が「対」になっているのだろう。冬だけれど、暖かいのでだれかが遊んでいて上着を脱いだ。それがそのまま手すりにかけてある。置き忘れている。そういう情景。
 「ピンク色の/上着が一枚」が形をかえて繰り返される。繰り返されることで「焦点」になる。「焦点」になりながら、「絵」になってしまうのではなく、「絵」から解放されて「音楽」になる、という部分もあると思う。「歌」になる、といえばいいだろうか。
 「歌」になることで、「現実」が「共有」される。
 それが、おもしろい。
 「共有したい」という気持ちが金井にあるのかもしれない。それが一行目からはじまっているともいえる。「なぜだか/君がいない」にも含まれているかもしれない。けれど、こんなことは突き詰めない方がいい。



 小川三郎「港」は、軽い感じではじまる。
 
港で釣りをした。
その日船は
一隻も帰ってこなかった
当分のあいだ
釣りをしていていいと思った。

港だから
波は穏やかだったけれど
名前のわからない魚が数匹釣れた。
ときどき知らないおじさんが来て
魚の名前を教えてくれた。

 「名前のわからない魚」「魚の名前」と繰り返される。金井の詩の場合と同じで、繰り返されるけれど完全なリフレインではない。そこに実際に歌われる「歌」とはちがった音楽があり、「耳」だけではないものを刺戟してくる。「わからない」と「知らない」の交錯もおもしろい。
 で。

遠い記憶を
たぐろうとするときはたいてい
魚の名前を思い出すような気持ちになる。

 その「耳」意外のどこかを刺戟する音楽は、「魚の名前」といっしょに、こんなふうに動く。「記憶」は「思い出す」という動詞で言いなおされ、「気持ち」を具体的に描写する。
 ここは、とてもいい。
 でも、そのあとの行が、「意味」になりすぎている。
 あえて「引用」しなかったので、この文章を読んでいる人には何のことかわからないと思うが。私は、ときどき、こんなふうに引用を省略することがある。

 なぜ、こんな面倒くさいことを書いたかというと。

 ここで金井の詩に戻るのだが、私は一行目を引用しようかどうしようか、迷ったのである。なくてもいいかなあ。ない方がいいかなあ。ない方がピンク色の上着がくっきりするかなあ。
 でも、省略してしまうと、ピンク色の上着といっしょに動いている「一枚」が重くなりすぎるかなあ。一行目があることで「一枚」の「意味」が軽くなっているかなあ、そして「軽み」が「歌」をしなやかにしているかなあ、というようなことを、なんとなく考えたのだった。
 金井の詩には「ちょっと汚れた」という「気持ち」を強引に刺戟することばがあって、そこで私は少しつまずいたのだが。「丈の短い」と言いなおされて、まあ、いいかなあ、と感じたりもしたのだが。
 「意味」というか、「意味領域」というのは、ひとりひとり受け止め方が違う(表現の仕方が違う)ので、そこをどうつかみ取るかがむずかしいね。

朝起きてぼくは
クリエーター情報なし
思潮社
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