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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小津安二郎監督「東京物語」(★★★★★)

2016-03-10 10:00:21 | 午前十時の映画祭
監督 小津安二郎 出演 笠智衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、山村聰

 笠智衆の台詞回しは独特である。妙にのんびりしたところがある。杉村春子の台詞回しと比較すると特にその違いが目立つ。杉村春子は「肉体」の動きと「ことば」の動きがぴったり重なる。笠智衆の場合、「肉体」が動いたあと、かなり遅れて「ことば」が動く。そして、そのことばもゆっくりしているので、さらに「間延び」した感じになる。最初は奇妙な感じなのだが、見ているとだんだんそれが「快感」になる。
 どうして「快感」なのだろう。
 笠智衆の「ことば」が相手に向けられているというよりも、自分自身に言い聞かせている「ことば」だからである。
 冒頭、東京へ逝く準備をしながら、笠智衆が東山千栄子に「空気枕をちゃんと入れたか」というやりとりをする。「お父さんがもっているのでは?」「おまえに渡したさ」というようなやりとりのあと、「あっ、あった」と笠智衆が言う。東山千栄子は何も言い返さない。このときの「あ、あった」ということばは、「そうか、ここにあったか、自分が間違えていたのか」というようなことを、さらには「おまえに難癖つけて申し訳なかったなあ」というニュアンスも含んでいるのだが、そういう「ことば」はすべて自分自身に言い聞かせているもの。その「自分自身への言い聞かせ」が、東山千栄子に伝わるのはもちろんだが、スクリーンを見ている自然に観客に伝わってくる。
 これが、気持ちがいい。
 「自分自身への言い聞かせ」なので、相手に伝わるかどうかは第一義ではない。伝わらなかったら伝わらなかったでかまわない。
 これが映画全体のストーリーと不思議な形で重なる。
 東京と大阪に住む子供たちを訪ねる。せっかく会いに行ったのに、杉村春子や山村聰は、笠智衆と東山千栄子をぞんざいにあつかう。自分の仕事(生活)に追われていて、親の相手をしている時間がない。笠智衆にはそれがさびしいが、そのさびしさを杉村春子らには言わない。言わなくても通じる相手(東山千栄子)と共有するだけである。「ことば」にしても、共有できないものは共有できない。「ことば」にしなくても、共有できるものは共有できる。
 その、「ことば」をもっぱら自分自身への「言い聞かせ」としてつかっている笠智衆が一回だけ、真剣に相手に向かって「ことば」を言う。原節子に対して、「東山千栄子の形見に時計を受け取ってくれ」というシーン。そこでも「自分自身への言い聞かせ」の要素はあるのだが、自分に言い聞かせるよりも、原節子に言い聞かせるという感じが強く出ている。
 これが感動的なのだが。
 この感動には、「自分自身への言い聞かせる」という行為と重なるものがある。「自分自身への言い聞かせ」とは、いわば「わかっていることば」を「くりかえす」こと。(杉村春子は基本的に「ことば」を繰り返さない。前へ前へと進んでゆく「ことば」を話す。)
 で、そのときの「繰り返し」というのが、東山千栄子が原節子のアパートに泊まったとき、原節子に言った「ことば」と「同じ」なのである。「同じ」だから、「繰り返し」というのだが……。「息子が死んで八年になる。赤の他人と言っていいのに、こんなに親切にしてくれる。申し訳なく思う。あんたには幸せになってもらいたい云々」。「繰り返し」によって、それは単に「思っていること」を突き抜けて「真実のことば=まこと」になる。
 いいなあ。
 さらにすばらしいのは、こういう感動的な瞬間を、笠智衆が明るい笑顔で語ることである。「ことば」は原節子に向けて言ったものだが、「おしつけ」にはしたくない。受けとめてほしいのは「ことば」ではなく、この「笑顔」だという感じ。もちろん、「受けとめてほしい」とは、言わない。「笑顔」はただ「笑顔」を誘うだけである。笑顔を見ると誰でも反射的に笑顔に誘われる。その笑顔。
 笠智衆の演技は、この「誘う」という部分が非常に大きいのだろう。「こんな気持ちなのだ、わかってほしい」と誰かに訴えるのではなく、「こんな気持ちでいるよ」という感じで、相手を誘うのである。けっして押しつけない。
 この「押しつけない」と関連して。
 一か所、笠智衆の「肉体の演技」でぐいとスクリーンのなかに引き込まれたシーンがある。東山千栄子が死ぬ。そのあと、ひとり席を立つ。悲しみがこみあげてくる。それを、ぐいと、「肉体」のなかに押しとどめる。悲しみを「のみこむ」。この「のど」の動きがリアルだ。あ、悲しみをのみこんでいる、というのが伝わってくる。

 原節子は、現代の女優でいうとケイト・ウィンスレットがいちばん近いかもしれない。からだがどっしりしていて不思議な安定感がある。最後まで尾道に残って笠智衆の家にいるシーン。ローアングルで原節子の足が映ったとき、その足のたくましさ(大きさ)に胸を打たれた。しっかりと大地を踏みしめている、という感じがする。
 原節子は、ケイト・ウィンスレットのように「感情」を剥き出しにするような演技をしていないが、そういう演技もきっとできただろうなあ、と思った。いまはやりの、ほっそりしたからだでは抱え込みきれない「感情」の「大きさ」を表現できる女優かもしれない。「感情」を「隠せる」女優かもしれない。
 原節子はクライマックスで「私、ずるいんです」と言う。その「ずるさ」とは「感情」を隠している(本心を隠している)ということなのだが、この「感情を隠す」を「気持ちを押しつけない」と言い直すと、どこかで笠智衆と重なる。
 「気持ちを押しつけない」笠智衆が、おだやかに原節子の「感情」を「誘う」。その「誘い」に反応して原節子の「隠していた感情」が思わず動いてしまう。そのとき、何と言えばいいのか、「ことばにならない共感」のようなものが、二人の間で行き来する。
 これは「秋刀魚の味」で花嫁衣装の岩下志摩が「お父さん……」と挨拶しようとすると、笠智衆が「いいから、いいから。わかっているから」と答えるシーンに共通する。
 「わかっている」というか、「わかる」が、ことばもなく「動く」、「わかる」が「生まれる」と言ってもいいかもしれない。そこには「いいから……」という許容、いや「言わなくていいから」というつつみこむような抱擁がある。
 思い出すとジーンとくる、あとから「わかる」映画である。
              (午前十時の映画祭、天神東宝4、2016年03月08日)






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秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」

2016-03-09 08:57:06 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」(「朝日新聞」2016年03月08日夕刊)

 東日本大震災からもうすぐ五年。それにあわせて詩人、歌人、俳人が作品を書いている。秋亜綺羅は「十二歳の少年は十七歳になった」を書いている。
 タイトルのなかに「五年」が動いている。「たつ」という「経過」ではなく「なる」という動き。「なる」には、「たつ」よりも前へ進む力が籠もっているように感じる。その「たつ」と「なる」の違いは詩のなかでどう書かれているか。

季節よ、城よ
無傷なこころがどこにある
とランボーは書いている

海が目の高さまでやって来て
握っていたはずの友だちの手を
離してしまった瞬間から
きみの時間はずっと止まったままだ

凍えていたね手と足と
おにぎりも飲み水もなかった淋(さび)しさと
叫びたかったおかあさんということば
泣くことも忘れていた吐息の温度と
暗闇に海の炎だけが映る瞳と
ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな
きみは歩き出すかな

動かない時計だって宝物だね
けれどきみがいま秒針を動かせば
時間はきっと立ち上がる
空間はすっときみを抱きしめる

どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできない
と寺山修司はいった

傷はまだ癒えていないけれど
今度はきみが
青空に詩を描く番だ
 
 「きみの時間はずっと止まったままだ」からは「たった」ということばを引き出すことができる。「止まる(止まった)」一瞬から「五年たつ」というとき、視線は「過去」をふりかえる。「いま」から「過去」を見つめるとき「時間がたつ」という言い方をすると思う。
 その「一瞬」は「握っていたはずの友だちの手を/離してしまった瞬間」と書かれているが、「時間が止まる」とどうなるか。
 「瞬間」は短いものだが、その「短い」ところに、いろいろなもの/ことが集まってる。そして、その「瞬間」を「短い/小さい」けれど、とても「重い」ものにかえてしまう。
 三連目は、「瞬間」へ押し寄せてきた「重い」あれこれである。「友だちの手を/離してしまった瞬間」に、その後のあらゆる「瞬間」が重なる。「凍えていたね手と足と」、あるいは「おにぎりも飲み水もなかった」と違うことばで語られるから、それは違ったもの/こと、別々のもの/できごとであるはずなのだが、「きみ」には「ひとつ」に感じる。「ひとつ」の同じ「瞬間」のもの/できごとである。
 それは違うことばで語られたとしても「ひとつ」の同じ「瞬間」である。
 そこに書かれていること/もののなかに「時差」があったとしても、それは「物理的な時差」にすぎない。「きみ」自身にとっては「時差」はない。
 そういうことを書いたあと、

ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな

 ここに、タイトルの「十二歳の少年は十七歳になった」につかわれているのと同じ「なる」という「動詞」がある。
 ここから詩は動く。ことばは動くのだが、その前に、ここに書かれている「なる」について、もう一度、読み直してみたい。考え直してみたい。

凍えていたね手と足と
おにぎりも飲み水もなかった淋(さび)しさと

 とりあえず二行だけを引く。この二行で書かれていることは、先に書いたように、ある「瞬間」を別なことばで書いたものだ。「瞬間」を「分節する」とそういう形になる。あらゆることはさまざまに「分節する」ことができる。ある状況から「何を」分節することで、その状況を語るかはひとによって違う。人によって違うが、「分節される」状況は「ひとつ」である。
 大震災を「肉体」で体験した。そのとき「時間」は「止まった」。この「時間が止まった」もひとつの「分節」の仕方だが、それをさらに「分節」しなおしたものが三連目である。「凍えていたね手と足」だけでは足りない。言い切れない。「おにぎりも飲み水もなかった淋(さび)しさ」だけでは「分節」しきれない。「……と」「……と」と「と」をいくらつないでみても、まだままた「分節する」必要がある。だから次々に「分節する」。それが三連目。
 その「分節した」さまざまの、その「ぜんぶ」を「集めたら」、「分節されている状況」が全体像として浮かび上がるか。「きみ」の体験したこと、考えたこと、感じていること、思想の「全体」になるか。
 これは、答えを出すのがむずかしい。
 だいたい「分節する」「分節される」というのは、言い方としては二通り、能動と受け身に分類できるが、「分節する/分節される」は「ひとつ」の「状況」のなかでかたく結びついていて、はっきりとは分けることができない。「分節しない限り/分節されない」。そういうもの/ことだからである。
 「集める」だけでは、だめなのだ。「なる」にならないのだ。「分節する」だけではだめということにもなる。
 「なる」になるためには、「歩き出す」という動きが必要なのだ。

 「いま」という地点からふりかえり「止まった時間」を見つめ、それに「物理的(?)」な数字を割り振って「五年たった」という限りは、果てしない「分節する/分節される」あの「瞬間」があるだけなのだ。
 「きみ」に「なる」ためには「歩き出す」しかないのである。

 「歩き出す」は、しかし、私には簡単には言えないなあ。「きみ」に「歩き出せ」と、私にいうことはできない。「きみ」が「歩き出す」なら、私はそれをみつめることはできるが、「歩き出せ」とは言えない。
 それが、たぶん秋亜綺羅と私の違い。
 秋亜綺羅は実際に東日本大震災を体験している。だから「きみがいま秒針を動かせば」ということができる。このとき、もちろん「きみ」とは誰か第三者ではなく、秋亜綺羅自身だ。
 「歩き出す」とき、秋亜綺羅(きみ)は時間そのものに「なる」。時間は、そこから「生まれる」。
 その「体験」を秋亜綺羅は、

時間はきっと立ち上がる
空間はすっときみを抱きしめる

 と言い直している。
 「時間」は「たつ(経つ)/過ぎる」のではない。「時間」は「立つ」。そして「上がる」。
 「時間」は「水平」に「流れる」という形で、しばしば「一本の線状(直線)」に書かれるが、その水平の流れを突き破って「立ち/上がる」。垂直に動く。この水平と垂直の交差から、次の「空間」ということば、「立体」が生み出されているのだが、こんなことを書いていると面倒なので、そこには踏み込まずに……。
 「時間になる」「時間を生み出す」ということろに、引き返してみる。そこから、もう一度、考え直してみる。

凍えていたね手と足と
おにぎりも飲み水もなかった淋(さび)しさと

 そういう、もの/ことを「集める」と「きみ」に「なる」か。
 きっと「ならない」。「きみ/だった」という「過去の瞬間」が凝縮するだけである。「分節する/分節される」という「未分節の時間」が、「きみ」の目の前に横たわるだけだ。動かない時間が、「きみ」を妨げるだけだ。
 それは、また「傷ついている/きみ」を語るだけだ。(「傷ついている/きみ」を語るだけというのは、別な言い方をすると「傷つくことで守られている/負傷者として定義づけられている」になり、そう書いてしまうと、うーん、きっと乱暴すぎる言い方であり、ひとつの暴力になってしまうけれど……。)

 うまく書けないので、飛躍して書いてしまうが。

傷はまだ癒えていないけれど
今度はきみが
青空に詩を描く番だ

 これは「傷つく」から「傷つける」への変化促しているのだ。三連目のさまざまに「分節された世界」は「きみ」のさまざまな「傷」を書いている。「傷ついたきみ」を書いている。しかし傷ついたままでは、だめ。「傷つく/傷つけられる」の「傷つけられる」から「傷つける」へと動いていく。これが「歩き出す」。
 大震災、津波が「きみ」を「傷つけた」、「きみ」は大震災、津波によって「傷つけられた」。そこに「傷つける/傷つけられる」という関係があるが、このときの「主語」を入れ替える、あるいは「動詞」を入れ替えることが必要なのだ。
 「傷つけられた」ものだけが、「傷つける」ことができる。傷つけられた、その傷の深さを知っているからだ。「肉体」が覚えているからだ。
 「きみ」を「傷つけた」大震災を、津波を「傷つける」ことによって、いままで存在しなかった「時間」が「動く」。
 このとき「傷つける」というのは、もちろん「想像力(ことば)」の仕事である。実際(物理的に)に人間が津波を「傷つける」ということはできない。しかし「想像力」でならできる。「想像力」にできないことはない。だからこそ寺山修司のことばを含む三行が書かれている。秋亜綺羅が信じているものがあるとすれば、そこに書かれている寺山修司のことば(想像力)である。
 「歩き出す」とは「想像力」を生きること。「飛ぶ」ではなく「歩き出す」ということばが選ばれているのは、秋亜綺羅が「鳥」ではなく「人間」だからである。「鳥」よりも高く飛ぶ「想像力」、「人間」よりも強く歩き出す人間の「想像力」。「想像力」としての「人間」。
 このとき新しい「時間」が生まれる。
 「きみ」は「きみだった」をふりきって、「きみになる」。そういうことをするのが「詩」の仕事だ、「想像力」の仕事だ、と秋亜綺羅は自分自身に言い聞かせている。「きみの番だ」は「秋亜綺羅の番だ」ということである。
 なぜ「十二歳の少年」から「十七歳の少年」に「なる」のか。単に「五年」という経過をあらわすのなら、「十一歳の少年」から「十六歳の少年」でもかまわないはずだ。けれど、秋亜綺羅は「十七歳」にこだわっている。それはきっと秋亜綺羅が「詩人になった」年齢なのだ。詩を書きはじめた年なのだ。その「出発点」にいる「きみ/秋亜綺羅」自身、「十七歳の秋亜綺羅」に向かって、秋亜綺羅はこの詩を書いているのだと思った。


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林嗣夫「水仙」

2016-03-08 09:06:52 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「水仙」(「兆」169 、2016年02月05日発行)

 林嗣夫「水仙」にはわからないところがある。「徒然草」(第二四三段)について思いめぐらしている。

八歳の頃の兼好が父親に尋ねたのは
「人はどのようにして仏になることができるのか」
父親が答えるに
「それは仏の教えによって」と
「では順番に昔にさかのぼって
一番はじめに教えを授けた仏は
どんな仏だったのか」

この「仏」を
「ことば」、に置き換えてみたりしながら
わたしは庭にしゃがんでいる

 この「仏」をというが、どの「仏」だろうか。「仏」が何度も出てきて、どれのことかわからない。

「人はどのようにしてことば(仏)になることができるのか」
「それはことば(仏)の教えによって」と
「では順番に昔にさかのぼって
一番はじめに教えを授けたことば(仏)は
どんなことば(仏)だったのか」

 「仏になる」という言い方はあっても「ことばになる」という言い方はない。そこに、まず、私はつまずく。しかし、なんとなく、わかる気もする。そして「わかる」気持ちになっているとき、私は「ことばになる」の「なる」に対して何事かをつけくわえている。「正しいことば」「美しいことば」「強いことば」……そういう「肯定的」な何かをつけくわえて、ひとつのことばが、どうやって「正しい」「美しい」「強い」ことばに「なる」、つまり「ほんとう」のことば「かわる」のかと考えることで、その「ほんとう」が「仏」と重なると感じている。「人はどのようにして、ほんとう、になるのか」(「ひとはどのようにして、ほんとうのことば、になるのか」「ひとはどのようにして、ほんとうのことば、をかたるのか」……。)
 しかし、次の「ことばの教えによって」はむずかしいなあ。「教えを授けたことば」というのも、どうも、日本語(?)としてしっくりこない。
 それで、さらに書き換えてみる。

「では順番に昔にさかのぼって
一番はじめに授けられたことばは
どんなことばだったのか」

 これなら、「論理」として、なんとなくわかる。
 私たちはいったい「最初のことば」として「どんなことば」を授けられるのだろう。「最初に授けられたことば」にしたがって、あるいは導かれて「ことば」を少しずつ身につける。そして、それが「正しい」あるいは「ほんとう」になるのだろう。しかし、その「最初のことば」は「何か」(どんなことばか)、特定するのはむずかしい。きっとできないだろう。
 できないのだけれど、なんとなく、そうだなあ、それが「仏/ほんとう」かもしれないなあとも感じる。

 この、わからないのに、わかったような、変な感じはどこからくるのか。
 「授けた」を「授けられた」と言い換えたところに「原因」があるかもしれない。「さずけた」と「授けられた」は能動と受動、いわば「反対」のものだが、もしかすると「反対」のものではないのかもしれない。「授けた/授けられた」は、組み合わさることで「ひとつ」になっているのかもしれない。「授けた」と特定できない、また「授けられた」とも特定できないというか、特定しようとする、特定にこだわると、どうしようもなくなる何かかもしれない。

 これは、もしかすると、「人はどのようにして仏(ほんとうのことば)になる/ほんとうのことばにたどり着く/ほんとうのことばを手に入れることができるか」という「問い」そのものが、「答え」なのかもしれない。言い換えると、そう「問いかけた」とき、もう兼好は「答え」を知っているのだ。最初に「授け/授けられた」ことば、語り、語られる、つまり聞くことば、「語る/聞く」という切り離せない「ことば」、向き合った「ふたり」によって共有されることばのなかにこそ、「ことば」の「ほんとう」がある。
 それは「語り/聞く」(授ける/授けられる)を逆に見るときに、明確になるかもしれない。
 「聞く(質問する)/答える」という関係のなかに「ほんとう」がある。「聞く/質問する/疑問をもつ」ときの、その「質問」のなかに、「答え」がひそんでいる。

「人はどのようにして仏になることができるのか」

 よくみると、ここでは「仏とは何か」が問われていない。ここで問われているのは、「どのようにして/なるか」ということであり、それは「どのようにして」としか「問う」方法のない何かである。ほんとうは「そのようにして」(いま、問いを発したようにして)、仏(ほんとう)になるのだと言おうとしているのかもしれない。またこのとき「なる」も「ならない」もない。そこに「仏」が存在してしまっている。
 ただ、ここで父親が「そのようにして仏になるのだ/その問いのなかに仏が現れている」と答えてしまうと、それは「禅問答」になってしまうが、たぶん、そういう「答え」になるしかないのだと思う。
 しかし、父は禅問答を避け、一生懸命ことばを動かし、「そのようにして」のかわりに、別のことを言う。一種の「比喩」だ。これが「文学」だ。「詩」だ。

始原の仏について問い詰められ
答えに窮した父親は
ただ笑うしかなった
「空から降ったか 地から湧いたか」と
しかし
笑ってごまかしたようにみえて
意外と本当のことを言ったのかもしれない

 私も、わからないなりに、林のことばを追いかけながら、そんな気持ちになった。「本当のこと」がここでは語られているのではないか。
 私は先に「比喩」ということばをつかった。「比喩」というと「名詞/イメージ」を思い浮かべる。父のことばも「空」「地」という名詞を含んでいるが、私にはその名詞よりも「降る」「湧く」という動詞の方が「比喩」のように思える。
 「空から降ったか 地から湧いたか」ということばのなかには「矛盾」というか、逆向きの何かがある。「授ける/授けられる」「語る/聞く」「聞く(質問する)/答える」というような、何か固い結びつきがある。「美人」を「薔薇の花」と「比喩」にするとき以上の強い力が動いている。別のことなのに、ふたつの動詞が「ひとつ」になってつくりだす「真実」というものがあるような気がする。
 「授ける/授けられる」「語る/聞く」「聞く/答える」という動詞のなかに、「共有する」という別の動詞がある。
 父は兼好に聞かれながら(問いかけられながら)、実は答えを教えられている。答えを導き出されている。ほんとうの問いとは答えを必然的に導き出してしまうものなのだろう。そして、その導き出されたものは、「共有される」ことによって「真実」になる。
 この「共有する」ものは、実は最初から存在するものではなく、ふたつの動詞が出合うことで「生み出す」何かなのだ。
 「授ける/授けられる」「語る/聞く」「聞く/答える」とき、ことばは「生み出され/生まれる」のだ。それが「最初」(始原)なら、それは、絶対に特定できないものであり、特定できないからこそ、たしかに存在するという「矛盾」としてあらわれてくるように思える。

わたしは水仙の球根を
てのひらに乗せ
新しく植える場所を探した
天から振ってくる光と
大地の養分と
この球根こそが
始原の仏ではないだろうか

 最後の「ないだろうか」には「問い」があり、この「問い」は兼好の「問い」と同じようにすでに「答え」を含んでいる。「問う」とき「答える」という動きがすでにはじまっている。「仏」を考えるとき、そこに「仏」が存在するのである。「自覚」を超えて、「自然」にそこに生まれてくるのである。
 こういう「自然」そのものに到達するようなことばの運動に対しては、兼好の父親のように「笑って」、それと向き合うしかない。
 どのような問いも、問いである限り「ほんとう」に「なる」のである。「ほんとう」でない「問い」は、「ない」。

 うーん、何を書いているのか、よくわからない感想になってしまった。

風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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ネメシュ・ラースロー監督「サウルの息子」(★★★★)

2016-03-07 19:17:50 | 映画
監督 ネメシュ・ラースロー 出演 ルーリグ・ゲーザ

 これはとてもつらい映画である。内容もそうだが、私のように目の悪い人間には肉体的にも非常につらい。
 冒頭、ピンボケの、ぼんやりした画面があらわれる。映写ミス? 画面の奥から人間が歩いてくる。だんだん形が定まってきて、顔のアップ。そこで「焦点」があう。主人公のサウルなのだが、彼の顔以外はピンボケである。彼の顔(と、その周辺のかぎられた部分)にのみ焦点があたっている。背景はピンボケである。
 ネメシュ・ラースローは、何よりも主人公の「顔」、その「表情」の奥にあるものを描きだしたいのだ。その気持ち、意欲はとてもわかる。わかるけれど、これは目の悪い人間には大変な苦痛である。周囲のピンボケ部分も当然目に入ってくる。そうすると、そのピンボケの部分をなんとかはっきり見ようとして目がいつも以上に動く。ピンボケは目のせいだと「脳」が判断し、視神経を動かそうとするのである。これが、非常に疲れる。途中で吐き気がするくらいにまで、「脳」が混乱し、悲鳴を上げる。
 普通の視力の人は、どうだったのだろう。

 さて、作品そのものだが……。
 サウルはガス室で生き延びた少年をみつける。瀕死である。少年は口をふさがれて死ぬ。解剖されることになる。その少年は主人公の息子だった。サウルはガス室にユダヤ人を送り込み、その死体を処理する仕事をしているのだが、息子を見て、なんとか埋葬したいと思う。
 ここからサウルは、その「自分の願望」しか見えなくなる。ほかにユダヤ人がいて、その人たちは何とか死から逃れたいと思っていることなど、見えなくなる。解剖する予定の医師に、解剖はやめてくれ、と頼む。埋葬するために、「ラビ」をさがす。そのために自分の管轄外の「班」にもぐりこむ。ラビを見つけて、強引に自分の「願望/欲望」を打ち明ける。
 サウルの気持ちは、もちろん相手につたわる。しかし、「埋葬」を手伝うことは、自分自身の死につながる。「埋葬」は禁じられている。殺して、焼いてしまう、というのがそこでの決まりである。決まりを破れば殺される。
 そういう「個人的」な「願望」、サウルの行動と平行して、収容所からの脱出を試みる集団が描かれる。なんと、そのなかには、収容所で起きていることを「記録」する人間もいる。虐殺の証拠写真を撮ったりしている。とても意識が高い。ここで起きていることを許さないという強い気持ちがある。サウルもその一員である。一員なのだが、どうしても「集団」の仕事よりも、自分自身の「願望」が優先してしまう。そのために、脱出に必要な爆薬を落としてしまうというようなことも起きる。しかもそれはラビだと名乗る男を救おうとする過程で起きる。さらに悪いことに、その男はラビではなく、ラビだと言えば助かる可能性があると思って、そう言っただけなのだ。埋葬しようとしても、そのとき祈りのことばを言うことができない。
 こういうことが、色彩のほとんどない映像で、しかも「押し殺した感情」をぐいぐいと押しつけるような形で展開される。登場人物全員が「押し殺した感情」を「ことば」ではなく「顔/目の力」で押しつけ合う。「自分の仕事」をしろ、「生き延びろ」というわけである。だからいったん脱出すると、脱落しそうになるサウルを助けたりもする。サウルは息子の遺体を逃げる途中で河に流してしまうが、その失意のサウルを仲間は助けながら泳ぎもするのである。「ことば」ものなく。
 映画はたしかに「ことば」がなくても成立するし、「ことば」が少ない方がおもしろいものだが、この映画は、あまりにも「顔」で「ことばにしないことば」を発しすぎる。それが、あまりにも鋭く、激しく、強い。目の奥(網膜)に、度の強い眼鏡をかけたときよりもさらに鋭利な感じで「ことばにしないことば」を刻み込む。
 ラスト。逃走の途中、森の中で休むサウルら。開いた入り口の向こう、森の中から少年がサウルたちを覗きこむ。少年に気がつくのはサウルだけで、ほかの人は気がつかない。サウルと少年はほほえみあう。少年を見て、サウルの顔がゆるむ。はじめてサウルが「感情」を他人と共有するシーンである。少年は森の中へ消えてゆき、背後で銃が乱射される音がする。あの少年は、ほんとうにいたのか。それともサウルの見たまぼろしなのか。それは、わからない。サウルが死ぬ前に、やっと微笑むことができた。それだけが救いの映画である。ただし、涙は流れない。悲しみというのはいつでも「カタルシス」だが、ホロコーストにはカタルシスはないからだ。
                      (KBCシネマ1、2016年03月06日)




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三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(3)

2016-03-07 12:14:48 | 詩集
三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(3)(現代詩文庫206 、2014年08月25日発行)

 三角みづ紀は「現代詩手帖」の「投稿欄」に書いていた。池井昌樹と福間健二が選者。池井が三角に最初に注目し、「一席」に選んでいる。これは、私には衝撃的なことである。私は池井昌樹の詩を中学生時代から知っているが、その池井の詩から感じるものと三角の詩から感じるものが、私のなかでは大きく隔たっているからだ。三角は「ギスギス」、池井は「ぶよぶよ」が私の第一印象だ。
 池井が「谷内六郎の絵が好き」というのも、私のなかでは、どうもうまく結びつかない。谷内六郎の絵は、私は嫌いである。線と色のバランスが嫌いである。ギスギスしている。
 池井は、その「ギスギス」を「ナイーブ」と見ていたのか、ということが、詩集のあとの方に収められている「生(いのち)の真珠(たま)」という文章からわかった。「ギスギス」を池井はまた「ヒリヒリ」とも書いている。私の感じる「ギスギス」を「ヒリヒリ」と読んでいるように思える。
 うーん。
 繰り返しになるが、私の印象では、池井は「ぶよぶよ」であって「ヒリヒリ」ではない。いまの池井は違うが、私が最初に会った池井は太っていて「ぶよぶよ」していたし、中学生のときの詩は、「ぶよぶよ」の気持ち悪さに満ちていた。谷内六郎の「ギスギス」の気持ち悪さの対極にあった。
 こんなことは、どうでもいいことかもしれない。
 しかし、どうにも私には不思議なのである。池井が三角の詩に魅了されたということが。だが、池井には感謝しないといけない。池井が三角の詩を選ばなかったら、私は三角の詩を読むことはなかっただろう。読んだとしても、感想を書くことはなかっただろう。

 池井が最初に選んだ詩を読んでみる。「八月十五日」。

投じられた知らせ
酒と安定剤での彼女の自殺
私は
無感動
明け方に人として産まれたことに泣く
七夕飾りが風に揺れ
教会にて舞う白布
舞う白布と漂う聖歌
そういえば黙祷の鐘は鳴らなかった
カメラのレンズは壊れたままだった
薬が効くまでの私には
お願いだから誰も話しかけないで

(加われなかった着物の参列を想うそしてそれを浮腫の所為にする)

それだのに私は未だ
焼け跡で子供達にまじり
ばらまかれるチョコレイトを欲しているのだ

 この詩に対して、池井は「三角さんの詩は飽くまでも己のためにのみ刻されるもの。」と書いたあと、次のように書いている。

三角さんの詩にはもうひとつ重要な特徴があります。他者の痛みと深く繋がっているのです。殊に最終三行には闇に潜む研ぎ澄まされた魂の嘆きを想いました。みずからの最深部に棲む神様への渾身のうちあけは、他者の最深部に微睡む神様をも呼び覚ますのですね。

 「他者の最深部に微睡む神様をも呼び覚ますのですね。」は「池井の最深部に微睡む神様をも呼び覚ま」した、という意味になるか。私は「魂」「神」というものが存在すると想わないし、感じたこともないので、こういう感想には何の反応もできない。ただし「人間の最深部」を「魂」と呼んでいるのだとしたら、その「最深部」に関しては、いくらか感じるものがある。
 そのことにつまくつなげられるかどうかわからないが……。
 私はこの詩を次のように読んだ。
 
 この詩には「彼女」「私」「子供達」が登場する。最終連の「私」は「子供達」に混じっているのだから、「私」と「子供達」のあいだに区別はない。「私=子供」と言えるだろう。「彼女」と「私」の関係は簡単には特定できないが、私はこれまで読んできた詩と同じように「彼女=私」と読んだ。
 二行目で「彼女の自殺」と書かれている。そのことばどおりだとすると「彼女」は死んでいるのだが、私には死んだとは感じられない。自殺を図ったが、未遂に終わったということだと思う。

明け方に人として産まれたことに泣く

 は、未遂に終わって「明け方」に目覚め、「死ねなかった」と気づき、泣いているのだろう。「無感動」なのは「失敗した/未遂に終わった」という「失意」が動くからだろう。この「失意」が引き起こす世界との断絶、接続感の欠如が、「人として産まれた」は不思議な言い方につながる。「生まれた」ではなく「産まれた」なのは、「人を産んだ」という意識がまじっているからだろう。自分で「産み」、そして「生まれ変わった」のだ。
 ここに「彼女」と「私」の切断と接続がある。切断しながら接続する、接続することが切断するとも読むことができる。
 区別がない。あるいは区別して考えることをやめる、という積極的な要素があるかもしれない。どちらもほんとうなのである。「感動(感情の動き)」を排除、拒絶して「事実」と向き合っているのだろう。
 そのとき「世界」の方はどうなったか。「事実」として何が起きているのか。何が動いているのか。
 いろいろ読み方はできるだろうが「鳴らなかった」「壊れたままだった」ということばに目を止めるならば、いつもと同じ「持続」が、そこに見える。「揺れる」「舞う」「漂う」という動詞がそれに先行して動いているが、それは変化ではなく「なかった」「ままだった」へとつづき、「持続」をあらわしている。
 「世界」はかわらない。「私」のなかには「かわる」ものと「かわらない」ものがあるが、世界は「かわらない」。
 これを「私」にしぼって、「私」から見つめなおす形で言い直すと……。「私」のなかの「彼女」が「私」を「産み」、「私」が新しく「産まれる」が、そこには同じように「持続」がある。「接続」は「持続」という形で存在する。

薬が効くまでの私には
お願いだから誰も話しかけないで

 この「薬」は「安定剤」である。だから「私」というのは「彼女としての私」である。その「彼女」が「自殺=完全に死ぬ」まで、「産む/産まれた新しい人間=私」に話しかけないで、「私」のなかで「切断」が明確になるまで待ってということだろう。
 そう訴えかけながら、「私」は一方で(加われなかった……)ということ思っている。「参列」は「葬儀への参列」だろう。「浮腫の所為にする」は、奇妙な言い回しだが、「葬儀への参列」という欲望を「肉体」のなかに抱え持つということだろうか。「自殺未遂」の傷を「肉体」のなかに「持続」させるということだろうか。
 そのような形で「産み/生まれた私」は「子供」である。「おとな」ではない。まだ「おとな」になっていない。「焼け跡」は「戦後」を思い起こさせるが、それは「現実」の戦後ではなく、「自殺/自殺未遂」後の、「精神/肉体」の戦いのあとの一種の「無」の状況をさすのだろう。「子供」はひとりではなく「子供達」であるのは、三角がそういう「産み/生まれる」を「私」として知っているだけではなく「彼女」でもありうると知っているからだろう。「ひとり」ではなく「複数」。
 ここに池井の言う「他者」とのつながりがあるのかもしれない。
 ただし、私は「チョコレイトを欲してる」という「戦後の子供達」に結びつけられた「動詞」にとても疑問を感じている。その「ギブ・ミー・チョコレイト」といっしょにある「戦後」を三角のものとは思えないからである。「焼け跡」という比喩が「戦後」という比喩、「チョコレイト」をひっぱり出したのかもしれないが。
 「他者の痛みと深く繋がっている」というよりは「他者の痛みを深く頼っている」ということなのかなあ、と私はむしろ逆に思ってしまう。「他者の痛み/痛みとしての他者の存在」が、このころの三角を支えていたのかもしれない。
 そこに「ヒリヒリ」するような「不安」がある。
 これは、私は「苦手」だ。私はそういう「不安」に巻き込まれるのが怖いので、思わず身を引いてしまうなあ。そういう「怖さ」へずぶずぶ(?)と接近していくことができたのは、やっぱり池井が「ぶよぶよ」の人間だからかなあ。「ぶよぶよ」がどこかで池井がほんとうに傷つくことから守っているような気もするのである。
 なんだか変な感想になってしまった。

舵を弾く
三角 みづ紀
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(2)

2016-03-06 09:34:00 | 詩集
三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(2)(現代詩文庫206 、2014年08月25日発行)

 「残像」という作品。

不眠症の男の
墓を掘りましょう
なるべく深く
私だけの為に
あなたの
声が笑っているから
とても痛い
傷つけるのが怖いんじゃなくて
きっと
傷つくのが怖いだけ
唄っている姿が
眼にやきついて
離れない
もっと笑って
私を痛くして
そして
優しく逝かせるまで
待ってて
もっと笑って
あなたの
唄っている姿が
目にやきついて
離れやしない
不眠症の男の
墓を掘りましょう
なるべく深く
誰の眼にも
さらされぬように

 この詩にも複数の人間(人称)が出てくる。「不眠症の男」「私」「あなた」。「不眠症の男」は「あなた」と言い換えられているように思える。そして、私には、それがまた「私」であるようにも感じられる。「私(三角)」が「三角のなかの誰か」を「不眠症の男/あなた」と呼んでいるように思える。
 なぜ、そう感じてしまうのか。
 五行目の「私だけの為に」が、そう思わせるのである。「不眠症の男のため」でも「あなた」のためでもなく「私だけの為に」。「だけ」が強く迫ってくる。(「私だけの為に」は次の「笑っている」につづいているとも読むことができるが、いまは「墓を掘る」という動詞につづけて読んでおく。)
 もし「不眠症の男/あなた」が「他人」であるなら、「私だけの為に」、その「男の墓を掘る」というのは「矛盾」するように、私には感じられる。
 「墓を掘る」とは、「死ぬ」こととつながっている。ただ「死ぬ」ではなく、「死を弔う」ということが「墓を掘る」だと思う。それは、他人のためにする行為である。それが「私だけの為に」とは、どういうことか。「死んだ人」を「安心させる」ことよりも、は生きている「私」が「安心する」ためということになる。より安心するために「深く」掘る。
 しかし、自分が安心するために、自分を葬る墓を掘るとはどういうことか。ちょっと、わからない。いや、「肉体」の奥で、ことばにできないままなにごとかを「わかる」のだが、それはうまくことばにならない。説明できる「論理」にならない。
 わからないことはわからないままにして、言い直せないことは言い直せないままにして、ほかのことを考えてみる。
 「あなたの/声が笑っているから/とても痛い」の「痛い/痛む」は「誰」が「痛い/痛む」のか。この行は「もっと笑って/私を痛くして」という形で繰り返されているから、「痛い/痛む」のは「私」だ。「不眠症の男/あなた」ではない。(この部分では先に読んだ「私だけの為に」を、「私だけの為に/もっと笑って」、そして「私を痛くして」と読み替えてみるのがいいのだろう。「ことば/行」をどの「ことば/行」と結びついているかは、その瞬間瞬間、読み替えていく必要があるのだろう。詩は「論理」ではないから、厳密に「ことば」と「ことば」の関係を追いかけて、決定しながら読むのではなく、一度できあがった関係を瞬間瞬間に組み立てなおして読むことがもとめられると思う。)
 でも「声が笑っている/笑う」が「痛い/痛む」とはどういうことか。
 「痛い/痛む」を三角は、「傷つけるのが怖いんじゃなくて/きっと/傷つくのが怖いだけ」と言い直している。「痛い/痛む」は「傷/傷つける/傷つく」である。「傷つく」のが怖くて「笑っている」。「笑わない」と「傷つく」。そこには何かしらの「無理」がある。そういう「無利」が「不眠症」につながるのだろう。
 「傷つきたくない」という一心で、無理をして「笑う」。そのことが、逆に「笑っている」本人(私)を傷つける。「無理」によって「私」が傷つき、その「傷」が「不眠症」ということになる。「傷」は「不眠症」とも重なるので、それは「肉体的な傷」というよりも「精神的な傷」と言えるだろう。
 「笑っている」は「唄っている」とも言い換えられている。傷つくのが怖くて、笑っている。笑うように、唄っている。その姿が「眼にやきついて/離れない」。この「離れない」は「接続」か。「接続」は「接触」であり、「接触」は「傷つける」につながる。「接触」することによって「傷」は発生する。
 しかし、それ以上だろう。
 「離れない」は「接触/接続」を通り越して「一体」になることである。
 「笑う」ことによって「傷つく」ことを避けようとして、逆に「傷つけてしまう」。自分を「傷つけまい」として逆に「傷つけてしまう」。
 これは「不眠症の男/あなた」と「私」が「一体」だから、「離れない」存在だから、必然的にそうなってしまうのである。

 ここには、どうすることもできない「矛盾」がある。あるいは強固すぎる結晶か。強固すぎる結晶をくぐるとことばがプリズムを潜り抜ける光のように屈折し、いくつもの色に分かれるのに似ているかもしれない。

 「墓を掘りましょう」は「優しく逝かせるまで」と言い直されている。「逝くかせる」は「私を逝かせる」だろう。「傷つける」のではなく「傷つく」のでもなく、ほんとうは「やさしく」「逝く(死ぬ)/全体的な傷そのものになる」のが理想である。こんなに苦しいのなら、「絶対的な傷」そのものになってしまいたい、という欲望(本能/思想)が動いている。
 「とても痛い」のに「もっと(笑って)/私を痛くして」と言いながら、他方で「優しく逝かせるまで」という。「痛み」こそが「優しい」何かとなって「私」に響いてくるのだ。「痛み」と「優しい」は本来は逆の概念だが、三角には「一体」のものである。
 最後の「誰の眼にも/さらされぬように」は、「痛み=優しい」と感じていることを「秘密」にしたいという三角の気持ちかもしれない。「墓を掘る」のは「死体」を隠すことでもある。
 そして、その「死体」とは「笑っている私」(無理をしている私)であり、「不眠症の男」でもある。「無理をして笑っている私」を「あなた」と「客観化」し、さらに第三社風に「不眠症の男」と呼ぶしか、自分を「守る」方法がない。
 そういう「苦しさ」のなかで、三角はことばを動かしている。
 「不眠症の男」を書くとき、三角は「不眠症の男」ではない。けれど、それは「残像」として、いまも三角から「離れない」。それとあらがいながら、ことばを動かしているのだろう。



三角みづ紀詩集 (現代詩文庫)
三角みづ紀
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三角みづ紀『三角みづ紀詩集』

2016-03-05 10:12:26 | 詩集
三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(現代詩文庫206 、2014年08月25日発行)

 三角みづ紀『三角みづ紀詩集』をふたたび開いた。いま、私は体調が悪いのだが、こういう体調が悪いときに、ふいに聞こえる呼び声があって、また手にしたのだった。
 巻頭の「私を底辺として。」という作品。

私を底辺として。
幾人ものおんなが通過していく
たまに立ち止まることもある
輪郭が歪んでいく、
私は腐敗していく。

 「私」と「幾人ものおんな」が登場する。これは別人だろうか。私は「ひとり」と思って読んだ。「通過していく」の「主語」は「おんな」だろう。「底辺」、つまり「底」を踏みながら、「私」を踏みながら「おんな」が通過していく。「立ち止まる」も「主語」は「おんな」だろう。「底辺」である「私」は動かない。
 その次の「歪んでいく」の「主語」は文法的には「輪郭」だが、だれの「輪郭」か。「おんな」か。「おんなの輪郭」が歪んでいく、と読むのが普通かもしれない。しかし「私の輪郭」と読むこともできるだろう。
 五行目の「腐敗していく」は「主語」がはっきりと「私」と書かれている。
 「歪んでいく」という「動詞」を通ることで、「おんな」と「私」が入れ替わった感じがする。たぶん、入れ替わりというよりも、重なり区別がなくなった、ということかもしれない。
 この入り交じった感じから、最初にもどって読み返す。
 「私を底辺として。」の「して」という「動詞」は何だろう。「する」が「原形(不定形)」か。「主語」は何か。「私を底辺として/幾人ものおんなが通過していく。」と読むと、「幾人ものおんなが」「私を底辺として」(私を踏みながら、私の上を)通過していく」という「意味」が浮かび上がる。倒置法の文章のように読むことができる。そのとき「おんなが私を底辺にする」ことになるのだが、その「おんな」と「私」の関係は? また、なぜ「おんな」なのだろう。「おとこ」ではないのだろう。あるいは、なぜ「通過していく」ものが「おんな」であると「私」にはわかったのか。
 私には、「私」と「おんな」は同じ人間のように思えてしまう。「私」のなかに「おんな」として自覚されるものが「私」の上を通過していく。そして「立ち止まる」。「同一人物」だからこそ、それがわかる。
 「私」と「おんな」は同じ人間なのに、「私」と呼ばれ、「おんな」と呼ばれる。ふたつに分かれている。分かれているけれど「底辺」でつながっている。「底辺」なしには存在しえないのが「おんな」である。この分裂と接続の不思議な関係を、「輪郭が歪む」ということばでとらえているように思う。「私」と「おんな」を別の人間として、それぞれに明確な「輪郭」で描かない。「輪郭」を描こうとすると、どうしても不自然になる。「歪む」。
 この「歪む」を三角はさらに「腐敗していく」と言い直している。ほんとうは「明確」な「輪郭」をもとめる気持ちがどこかにある。その「明確」をもとめる気持ちが「歪み」を気づかせ、その「歪み」をさらに「腐敗」と感じさせる。
 この一連の「動詞」の動きのなかに、もうひとつ見逃してならない「動詞」があると私は感じる。「通過していく」「歪んでいく」「腐敗していく」はそれぞれ「通過する+いく」「歪む+いく」「腐敗する+いく」である。動いている。「立ち止まることもある」のだが、それは「いく」という「動詞」がつねに意識されているからこそ「立ち止まる」が浮かびあがるということだろう。変化しているのである。
 「私」と「おんな」は、三角の「肉体」のなかで「ひとつ」に固定化されていない、変化しつづけている。その「変化」を書こうとしているのだと私は思う。

きれいな空だ
見たこともない青空だ
涙は蒸発し、
雲に成り
我々を溶かす酸性雨と成る
はじまりから終わりまで
首尾一貫している
私は腐敗していく。

 最初に引用した「私は腐敗していく。」の直後に「腐敗」とは正反対(?)の「きれいな空」が登場する。これは「腐敗」ということばが呼び出した「イメージ」だろう。
 もし、ここに「私を底辺として。」という一行を補うとどうなるのだろう。
 「私=底辺」の「上」に「空」がある。「空」そのものは動かないが、空にある「雲」はどうだろうか。動かないだろうか。動いていく。言い換えると「通過していく」。そう考えると、最初に「おんな」と書かれていたものは、ここでは「空/雲」と言い直されていることになる。三角は、最初の五行をここで言い直しているのである。
 「おんな」は「涙」と言い直されている。「涙」は水分なので、蒸発し、空では「雲」になる。「雲」が集まれば「雨」になる。現代の「雨」は「酸性雨」である。「酸性雨」はものを溶かす。ものを溶かし、ものの「輪郭」を溶かす。つまり「輪郭」を「歪める」。
 この「輪郭を歪められる/輪郭を溶かされる」というときの「対象」が「我々」と呼ばれるのは、「私」と「おんな」が「おなじもの」だからである。「おんな」を溶かすだけではなく、「私」を溶かすだけでもない。「おんな」と「私」を「輪郭(区別)」がなくなるまで「溶かす/歪める」のである。
 最初の部分には「いく」という動詞が他の動詞と重なりながら動いていたが、この部分では「いく」のかわりに「成る」が動いている。変化をあらわしている。変化をあらわしているが、その変化には「首尾一貫」したものがある。「輪郭を歪める/溶かす」。そして「腐敗する」という変わらない動きがある。
 
どろどろになる
悪臭漂い
君の堆肥となる
君は私を底辺として。
育っていく
そっと太陽に手を伸ばす
腕、崩れる

 「おんな」は「君」にかわっている。「酸性雨=涙」に溶かされ「おんな/私」の区別をなくしてしまった存在が「君」である。「君」もまた「私」なのだが、「おんな」と書かれていたときよりも強く「おんな」が意識されているかもしれない。書かないことば(書かれないことば)の方が「肉体」にしみついて思想になっている。
 「腐敗」は「堆肥」と言い換えられ、そう言い換えられた瞬間から、たとえば植物を「育てる」という肯定的なものが動くのだが、実際に、「育っていく」「太陽に手を伸ばす」という肯定的なことばも書かれるのだが、それを三角はもう一度「崩れる」ということばにしてしまう。「崩れる」は「腐敗する」に通じる。
 哀しい、苦しい「おんな」としての体験(涙)を「堆肥」にして育っていくという言い方は「定型」のひとつだが、三角は、どうしてもその「定型」にはまりきれない。そういう「定型」があると知っているが(聞いているが)、そんな具合にはなれない。「いく」「なる」という「動詞」が詩のなかで動いているが、三角は「到達点」へは行けない、「実」にはなれない。逆に「崩れる/腐敗する」という方向へ逆戻りする。ただし、ただ逆戻りし、ほんとうに「腐敗する/崩れる」のかというと、そうでもない。
 では、それを何と言うのか。

たまに立ち止まることもある

 「立ち止まる」のである。「止まる」のである。「いく」「なる」をきわだたせるために書かれているという印象を与えてしまう一行だが、ほんとうは、ここに三角の思想(肉体)がある。この一行がなくても、「私」のなかの「おんな」が「私」を通過していく(いろいろなおんなの体験をしていく)、涙を流し、苦しみ、哀しみ、「自分」という「輪郭」をうしなうくらいにぼろぼろになる。腐敗する。腐敗しながら、そこからまた「明るく」生きようとして、また挫折する、という「おんなの人生」の「ストーリー」にかわりがあるわけではない。「立ち止まる」という「動詞」がない方が、「ストーリー」の悲劇性は強調されるかもしれない。その一行はなくてもいい。
 けれども、三角は、書かずにはいられない。無意識に書いてしまう。なぜか。「立ち止まる」ことこそが「詩」を書くことだからだ。「ストーリー」に流されるのではなく、「ストーリー」を止める。それが三角の詩なのである。
 どこで、どんなふうに立ち止まったか。そのとき、三角に世界はどう見えたか。そういうことを三角は書いているのだと、あらためて思った。
三角みづ紀詩集 (現代詩文庫)
三角みづ紀
思潮社

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クエンティン・タランティーノ監督「ヘイトフル・エイト」(★★★★)

2016-03-04 12:02:41 | 映画
監督 クエンティン・タランティーノ 出演 サミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル、ジェニファー・ジェイソン・リー 

 この映画で最初に驚くのは「ニガー」ということばである。いまは映画ではつかわれない。映画の舞台が南北戦争直後(?)くらいの西部劇ということなので、まだそういう差別的なことばは話されていたかもしれないが、映画なのだからそのへんはテキトウに処理できるはずなのであるが、あえて「ニガー」ということばをつかっている。
 もちろんつづけて「ニガー」ということばをつかうな、という台詞も配置されているのだが。
 で、この「ニガー」+そのことばの否定という構造が、実は、この映画を象徴している。「ことば」で何かを言う。その「ことば」を否定する。世界を構成するのは「ことば」である。だから、役者の全員が、非常にはっきりと、めりはりのきいた台詞回しをする。くずれた英語を話さない。まるで「芝居」である。
 実際に、「芝居劇」なのである。
 雪の荒野を舞台にしていても、駅馬車の外は関係がない。雪の原野で活劇が行われるわけではない。雪の原野は人間を駅馬車に押し込め、駅馬車を「舞台」にする。駅馬車のシーンが終われば、「山小屋(?)」みたいな「店」が「舞台」になる。雪の荒野はここでも登場人物を「店」の「室内」にとじこめてしまう。そこでは、やはり「台詞」が飛び交う。
 その台詞だが。
 「ニガー」と同じように、見逃してはならない台詞がある。サミュエル・L・ジャクソンはリンカーンと文通していて、その手紙を持っている。そのことに対して、ある男がそれはほんとうか、と聞くのだが。そのとき、男はサミュエル・L・ジャクソンに直接聞かない。「カート・ラッセルによると……」「カート・ラッセルによると……」「カート・ラッセルによると……」とつづけた上で、「ほんとうか」と問う。これは、どういうことか。映画でちゃんと説明されているが、カート・ラッセルはだまされている。「ことば」を鵜呑みにして、サミュエル・L・ジャクソンにだまされているということ。
 これを逆に言うと、サミュエル・L・ジャクソンは嘘をついているということ。別のことばでいうと、「芝居」をしているということ。そして、「芝居」をしている(嘘をついている)のはサミュエル・L・ジャクソンだけではないことが、次第にわかってくる。みんなが「芝居」をしている。
 この「嘘/芝居」の空間をどうやって生き抜いていくか、が、この映画の、いわば見かけのテーマだね。これがこのまま映画全編をつらぬけば傑作なのだが、一か所「瑕疵(きず)」がある。「芝居」ではなくなっているシーンがある。まあ、「芝居/舞台」では不可能だから「映画」にしたと言えばいえるのだろうけれど、とてもずるいことをしている。
 それはジェニファー・ジェイソン・リーの秘密といっしょに語られる「過去」のシーン。サミュエル・L・ジャクソンたちが「店」につく前にあったことが、実はこの事件よりも前に、その朝、こういうことがありました、と挿入される。小説や映画ではこういうことはありきたりだが、「舞台/芝居」ではそれは禁じ手。「舞台」ではただただ現在から未来へと時間が進んで行く。登場人物が「過去のシーン」を演じることはない。「過去のシーン」を演じることで「現在」を説明することはない。こんな「ずるい」手法で「嘘/芝居」の構造を説明してはぜんぜんおもしろくない。
 これにくわえて、その「便利な嘘」に便乗して、地下室にジェニファー・ジェイソン・リーの兄(弟だっけ?)が隠れていたと9人目の人物がでてきたのでは、もう「嘘まみれ」。観客をばかにしている。「地下室」があるなんて、観客のだれひとり、知らないことだ。そんな「知らないこと」を利用して「芝居/映画」を動かしてはいけない。だいたい、そのシーンだけ「ことば」が動いていない。ことばが他人を動かしていない。「芝居」なのに。
 ことばにもどって言えば。
 サミュエル・L・ジャクソンが最初にこの「店」が「嘘」くさいと気づくのは、(あとで説明されるのだが)メキシコ人がいること。女主人は「犬とメキシコ人はお断り」という看板を掲げていた。その「ことば」に反して、メキシコ人が「店を任された」と言った。それはヘンだ、というわけである。
 ひとは「ことば」どおりに行動する。「ことば」にしたがって行動する。
 で、「ことば」と「行動」について言えば、サミュエル・L・ジャクソンがブルース・ダンを殺すシーンもおもしろいねえ。ブルース・ダンの息子は南軍に参加していた。その息子をサミュエル・L・ジャクソンが殺した。「どんなふうに死んでいったか、その最期を知りたくないか」と親ごころをくすぐっておいて、屈辱的なことを言う。それはきっと「嘘」なのだが、「嘘」とわかっていても、その瞬間を想像し、怒りに襲われる。「ことば」はそんなふうに人間を動かすのである。「ことば」に動かされて、行動してしまうものなのである。
 クライマックスの、ジェニファー・ジェイソン・リーの「部下だ15人いて、おまえたちを殺しにくる」というのも、嘘かほんとうか、まあ、わからない。その「ことば」をどう受けとめるかが、この映画のハイライトなのだが。
 このとき「決め手」となるのは、何か。やっぱり「ことば」。ただしジェニファー・ジェイソン・リーの「ことば」ではなく、サミュエル・L・ジャクソンにだまされつづけたカート・ラッセルの「ことば」。カート・ラッセルだけが、「嘘つき」ではなかった。正直だった。カート・ラッセルは、懸賞金のかかった人間を「吊るし首」にして殺すのが好きだった。「お尋ね者は吊るし首にする」というのがカート・ラッセルの言い分である。その「ことば」をサミュエル・L・ジャクソンは「実行」する。
 「ことば」は「肉体」によって「実行」されたとき「真実」になる。
 なんてことをクエンティン・タランティーノが考えたかどうかわからないが、いやあ、おもしろい。けなして書いたが、回想シーンの雪のなかを走る駅馬車のシーンが延々とつづくのもばかばかしくて美しかったなあ。「ことば」に凝っていることを飛び散る血でごまかしながら、(照れ隠ししながら)、最後にリンカーンの泣かせる手紙の「嘘」をもっう一回繰り返すなんて、これも信じられないくらいばかばかしくていい。「嘘」の閉じ方が上手だ。
                   (中洲大洋スクリーン3、2016年03月02日)











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沢田敏子『からだかなしむひと』

2016-03-03 09:43:04 | 詩集
沢田敏子『からだかなしむひと』(編集工房ノア、2016年03月01日発行)

 沢田敏子『からだかなしむひと』の「最終講義 二月のうた」の前半。

退任する教授の最後の講義を聴くために
小糠雨の降り出した路を歩いてきた
教授のゼミに 行き来した構内のその道を
ただ 好きだった
教授を敬愛していたように
--さて、とうとうこの日がきました。
教授がこう話し出すと
さっき通ってきたばかりの道の敷石に積もった
落ち葉のやわらかさがよぎった

 ふいにフィードバックする二行が美しい。「ほんとう」がそこにある。通ってきた道も落ち葉も教授の最終講義とは直接関係がないのだが、沢田には関係がある。その沢田に関係があるということがいいのだ。いま、こうして沢田が書かなければ、それは存在しないものなのだ。「落ち葉のやわらかさ」はほかの人には書けない。沢田が実感した「事実」だからである。「事実」はことばによって「真実」になる。その瞬間が、ここに書かれている。

 詩集のタイトルにもなっている「からだかなしむひと」も印象的だ。

痛い、とは言わず
哀しい、と言った

こころが哀しいのではなく
からだのそこが哀しい、のだと
遠い日の祖母は少女のわたしに
半裸の背中を向けて。
          (谷内注・「からだのそこ」の「そこ」には傍点がついている)

 「そこ」は「底」だろう。だが「からだの底」とはどこか。「こころの底」の場合、「こころ」そのものが「どこ」にあるかわからない抽象的なものだから「底」も抽象的になる。けれど「からだの底」になると「からだ」が具体的なだけに、気になる。まさか「足の裏」にいちばん近いところではないだろう。「足の裏」が立ったときにいちばん低い部分、底にあたるけれど。「底」は「からだの奥」という感じになるのか。ならない。
 後半に「どんな哀しみが祖母のからだの奥処を/通り抜けていったのかを知らない」という行がある。「からだのそこ(底)」は「からだの奥処」と言い直されている。「奥処」ならば、なんとなく「内臓」とか「背骨」とか、そういう「部位」を思い浮かべるが、やっぱりよくわからない。
 きっと「特定」せずに、「そこ」と思えばいいのだ。「底」ではなく「そこ」としか言いようのない、どこか、「奥」につながる「そこ」を。
 厳密に言おうとしても言えないことがある。
 「痛い」とは言わずに「哀しい」と言った。その「哀しい」もまた「特定」できないなにかである。一般的に「哀しい」は感情であって、それは「こころ」が感じるもの。「からだ」が感じるときは「痛い」がふつう。けれど、祖母はその「ふつう」をはねのけて「哀しい」と言った。それは、祖母が「からだのそこが哀しい」と言ったときにだけ、そこに「あらわれてくる」何かである。「ほんとう」である。「からだのそこ」といっしょになって、一回だけあらわれてくる「ほんとう」である。
 それは「最終講義」で沢田が思い出した「さっき通ってきたばかりの道の敷石に積もった/落ち葉のやわらかさ」と同じである。ほかの人には言えない「ほんとう」である。そのときだけ、そのことばといっしょに生まれ出てくる「真実」である。

 「からだのそこ」の「そこ」に似たことばが「葉書」のなかにも出てくる。

書き足りなかったのでも 書きすぎたのでもない
そうとしか
そのときには わたしに書けなかった

 この「そうとしか」は説明できない。「そうとしか」とは「どうとしかなのか」と問うても答えは「そうとしか」しか返って来ないだろう。それでいいのだ。「そうとしか」といえないあれこれがきっと誰にでもある。そういう「こと/もの」を自分で思い出すだけでいいのである。
 「からだのそこ」って、「どこ」?
 答えはない。「からだのそこ」は「そこ」なのだ。自分が感じる「そこ」。「からだのそこ」ということばにふれた瞬間、「肉体」の「どこか」が動く。反応する。それが「そこ」。「そこ」としか、言いようがない。
 そういう「そこ」としかいいようのないもの/ことのまわりを、ほかのことばがとてもていねいに動いている詩集だ。
 最後に「からだかなしむひと」の全行を引いておく。

痛い、とは言わず
哀しい、と言った

こころが哀しいのではなく
からだのそこが哀しい、のだと
遠い日の祖母は少女のわたしに
半裸の背中を向けて。

家族のなかのほかの誰に言うのでもなく
ただ 潮がざわつく前の少女のわたしに
老骨のからださらして
哀しい。
と言った

その向こうには彎曲の半島があり
海が眺(み)える

どんな痛みが祖母のこころの領分を
占めていたのかを知らないように
どんな哀しみが祖母のからだの奥処を
通り抜けていったのかを知らない
わたしだった

少女のわたしはいつでもかってくるけれど
祖母はわたしにはもうかえってこない
不覚だった

からだのそこが哀しい、と言って

彎曲した世界のそこが哀しい、と言って。


詩集 ねいろがひびく
沢田 敏子
砂子屋書房


*

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野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』(2)

2016-03-02 11:22:10 | 詩集
野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』(2)(白水社、2015年11月30日発行)

 レヴィナスは収容所を体験することで非人称の問題にたどり着いた。それは「イリヤ」というフランス語の言い回し(構文)に注目することで、明確に言語化されている。その野村喜和夫の指摘はよくわかる。しかし、収容所の極限体験に通じるシベリア抑留を体験したからといって、またそこで非人称の問題にぶつかったとしても、だからといって石原が「イリヤ」という構文でなにごとかを考えたとは言えないだろう。フランス語を日常的に話しているから、レヴィナスは「イリヤ」という基本的な言い回しに意識を向け、無意識にやりすごしてきたものを掘り起こし、それを哲学にしたのだろう。石原はフランス語をつかって日常を過ごしているわけではない。また書いている詩は日本語なのだから、レヴィナスを援用するにしても、そのフランス語特有のことばを日本語に引き当てるのは無理というものではないだろうか。
 石原の詩のなかに非人称の問題を指摘するならば、それを日本語として指摘しなければならないと思う。どのようなことばに非人称が反映されているか。非人称は日本語ではどう表現するのか。「イリヤ」ではなく、石原の書いていることばのなかから探し出してきて実証しなければならない。
 野村はその「手間」を省いて、「イリヤ」に頼っている。こういう「依存」をレヴィナスの哲学を石原の詩に導入して読むと言っていいのかどうか、私にはわからない。
 きのうは、そういうことを書いたつもり。

 きょうは、アガンベンの哲学を引用している部分を読んでみる。野村は、

結合の非-場所たる「人間」という閾において生起するものこそが証言にほかならない。

証言するものは、けっして言葉ではありえず、けっして文字ではありえない。それが証言するものは、証言されないものでしかありえない。そして、これは、欠落から生まれてくる音であり、孤立した者によって話される非-言語である。非-言語を言語が引き受け、非-言語のうちで言語が生まれるのだ。

 というアガンベンのことばをよりどころにして、石原について語っていると思う。「証言するものは、証言されないものでしかありえない」や「非-言語を言語が引き受け、非-言語のうちで言語が生まれるのだ」というのは、きのう書いたことに少し関連させると、まるで「禅問答」である。だから、「感覚の意見」として書くのだが、こういうことはアガンベンではなく、禅宗のお坊さんの「講話」のなかにきっと語られているだろうなあ、と私は「予感」する。お坊さんの「講話」から語りなおしてもらえると、きっと、「日本語らしい哲学」になるだろうなあ、と思うのである。ここでも、なぜアガンベンという外国人の、外国語について書かれた文章が日本語(石原の詩)を読むときの支えになるのか、私にはどうにもわからない。

 で。
 野村が引用しているアガンベンのことばのなかで、私が注目したのは「閾」である。「しきい」と読むのだと思う。
 「しきい/閾」とは何か。
 野村が注目している石原のことばでは「位置」がいちばん近いように感じた。アガンベンが「閾」と書いているものを石原は「位置」と書いているように感じた。(野村の書いている文章を読みながら。)そのことについて書く。
 「位置」は「海嘯」という作品に出てくる。これは野村が引用している。私は「孫引き」で読んでいる。私は石原の詩を読んだことはなく、この作品もはじめて読んだ。

どのように踏みこえたか
それを知らねばならぬ
生涯でこえたといえる
およそ一つのもので
あったから
残照へあかく殺(そ)いだ
落差とも
断層ともつかぬ壁の一列が
わずかに風と拮抗した
そのつかのまを
見すえてから
その位置を不意に
踏み出したのだ
めりこんだ右の
おや指から
海がその巨きさで
河をおびやかし
河がその丈(たけ)で
一文字にあらがうさまに
わずかに彼は耐えた
からくもにぎりすてた
砂のいくばくへ もし
神が顕(た)つのであれば そのときを
おいてなかった
海嘯がたける位置へ
およそ何歩であったろう
大またで一挙に
ありえざる距離をあゆみ捨て
さいごのひときわを
ふみこえたのだ
海も空も一時に夙いだ       
海とも呼べ
河とも呼べるきわで
その姿は消えた
あやうく見すごした
その両岸(ぎし)のしずかなものへ
彼は おわりの
想いをかけた
河はその果てであふれ
海はそのすがたで満ち
神を信じうるまでの距離を
人は さいごに
見うしなった
        (注 「夙」に野村は「ママ」と注記している。「凪」なのだろう)

 私の感想はあとで書くことにして、野村がこの作品について、どう書いているか、それを先に引用しておく。

 問題なのは、「海とも呼べ/河とも呼べるきわ」なのである。そこに位置するものの「姿は消え」、「神を信じうる距離」も「見うしな」われてしまうような--そして幸福と死とがひとつに収斂してしまうような--至高点、それをこそ石原は、たとえ一瞬にせよ詩的に生ききったのではあるまいか。

 とてもかっこいい。
 かっこいいのだけれど、私は疑問をもった。「位置」を野村は「至高点」と言い換えているのだが、この詩で、石原は「位置」を「至高点」と書いているか。
 野村は「位置」を「位置するもの」という形でとらえている。「位」は「くらい」、「置」は「置く」。日常的に「高い位置につく(高い位置にある)」という表現(いいまわし)があるが、そのつかい方を思い起こさせる。この本のなかに何度かでてきたことばを利用していえば「位置」というのは、たしかにそういう「イメージ」をもっている。だから、石原は詩の最高の地点にまで達したというふうに読めば、「位置」のイメージと、「至高点」のイメージが重なって、うーん、かっこいいという感じになるのだが……。
 私は「イメージ」あるいは「名詞」というものを、あまり信じていない。ある「ことば」につきまとっている「イメージ」、たとえば「位置→高い位置→至高点」という感じの連想を信じていない。そういう「イメージ」としての「名詞」よりも、そのまわりに動いている「動詞」に注目してことばを読んでいる。
 で、私なりの読み方をすると。
 まず一行目に

踏みこえた

 という動詞が出てくる。「踏みこえた」は「踏む」+「こえる」。「こえた」は「生涯でこえた」という形で三行目でも出てくる。「踏む」という動詞は、

その位置を不意に
踏み出したのだ

 という部分に出てくる。
 ここに注目するなら「位置」は、石原にあっては「到達する地点」ではない。「踏みこえる地点」にならないか。

海嘯だけがたける位置へ
およそ何歩であったろう
大またで一挙に
ありえざる距離をあゆみ捨て
さいごのひときわを
ふみこえたのだ

 ここにも「位置」と「ふみこえた」という動詞がいっしょに出てくる。「ふみこえた」は直前に「あゆみ捨て(る)」という動詞でも言い直されている。「あゆみ捨て」は「ふみこえた」と言い直されているというべきか。「あゆみ」は「足で歩む」である。「めりこんだ右の/おや指から」という前半にでてきたことばも「足」が強く意識されている。「位置」は、石原にあっては、「踏みこえる」ものとして意識されているように思う。「位置する」、つまり「位置につく」という形では意識されていないように思う。
 「位置」を石原は「存在/名詞」として、どうとらえていたのか。
 「あゆみ捨て」「ふみこえた」のあいだに「ありえざる距離」ということばがある。「ありえざる距離」とは「短い距離」というよりも「長大な距離」だろう。そこを石原は「歩いて」「捨てて」、「踏んで」「こえた」のである。
 「距離」をもっているということは、それが「長い/広い」ということである。「位置」は「点」ではなく「域」なのである。
 で。
 「域」ということば(漢字)を書いた瞬間、私はここでアガンベンのつかっている「閾/しきい」ということばを思うのである。誰がアガンベンのイタリア語を「閾」と訳したのか知らないが、ちょっと、唸らずにはいられない。
 「しきい」というと線(境界線)のイメージを持ってしまうが、「閾」という漢字のなかには「域」の文字と重なるものがある。門構え、土ヘンを取り払うと「或」という文字が重なる。それは「存在」をあらわすことばであったり、「不特定」をあらわすことばであったりする。ふたつあわせて、「不特定な何かの存在」と考えると、それはとても刺激的だ。
 「位置」は石原にあっては「特定できない」ものである。「特定できない」けれど、「踏みこえる」ものなのである。それは「踏む」ときにのみ、その足の下に生まれてくるものであり、「踏み」ながら、その生まれてくるものを「捨てて」行くことが「こえる」ことなのだろう。つまり「踏みこえる」という「動詞」が生み出す「特定できない何か」なのである。
 特定できないからこそ、

海とも呼べ
河とも呼べるきわで

 という表現になる。海であり、海ではない。河であり、河でない。どちらであると特定すると、それは違ったものになってしまう。(またしても禅問答だ!)
 ここに登場する「きわ」はやはり「閾」に通じる。「閾」は何かと何かをわける「きわ」でもある。けれど、その「わける」ということができないとき(どちらであると特定できないとき)もある。
 この「分けることができない(特定できない)」ことを「非-言語」と呼べばアガンベンにつながるだろうけれど、「分けることができない」を「分節できない」と言い直すと、いまはやりの井筒俊彦の言語哲学につながるだろう。「分節されない領域」を「無分節」と呼び、その「無分節」と「分節」のあいだにあるもの「閾」と呼ぶと、私の知っている井筒俊彦そのものになる。(私はただし「無分節」という井筒のことばを「未分節」と「誤読」しながら考えているので、私の書いていることは、「誤解/誤読」のたぐいになるのだが……。)

 ここで、もう一篇、孫引きしながら「位置」の登場する詩を読んでみる。「位置」というタイトルの詩。

しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
きみの位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

 ここに書かれている「位置」は、野村が「位置する」という「動詞」でとらえたように、ある特定の一点のように見えるかもしれない。「目指す位置」の「目指す」がそういうことを想像させるし、最終行の「最もすぐれた」も「至高点」を想像させる。「正午」というのも「至高」を連想させる。
 けれども、「その右でも おそらく/そのひだりでもない」という表現に注目するなら「特定できない点」になるだろう。

海とも呼べ
河とも呼べるきわで

 という先に読んだ詩の二行を思わず思い返してしまうのだが、「特定できない/特定しない」ということは、石原にとってとても重要な問題なのだ。
 書き出しの「しずかな肩には/声だけがならぶのではない/声よりも近く/敵がならぶのだ」では「声(たぶん仲間の声)」と「敵(敵の声)」、つまり「仲間」か「敵」かが「特定できない」という「極限状態/分節できない状態」をあらわしているだろう。「ならぶ」という「動詞」は門構えの門の形を思い起こさせる。その「特定できない仲間/敵」の「閾」、「あいまいな距離/領域」が、そこにある。
 「ならぶ」という「動詞」を読み替えてみる必要があるのかもしれない。ただ「ならぶ」のだろうか。つまり、このとき石原は「ならんで/立っている」のか。私に「ならんで/歩いている」ように思える。「目指す位置」の「目指す」が「歩く」という「動詞」を刺戟する。書かれていないけれど、「ならんで/歩いている」。この「ならんで/歩く」というのはシベリアでの石原には「日常的」なことだったのではないか。「歩かされる」それも「ならんで」、つまり「規則にしたがって」歩かされる。
 ならんで歩いているのは、仲間(日本兵)である。こういうことはあまり書きたくないが、その仲間のなかには、「敵」にかわる人もいるかもしれない。極限状況のなかでは、信じられるのは自分だけかもしれない。(ここから、非人称というものも生まれてくるだろう。)
 ならんで歩いているが、ならんで歩いているのではない。「ならんで」を「支えあって」と言い換えれば、この歩みの状態がわかる。その「歩み」(歩みつづける)という「動詞」だけが「生きる」ということである。
 このとき、

その右でも おそらく
そのひだりでもない

 は単なる「分節できない」という意味をこえる。「分節しない」なのだ。「仲間」にも「敵」にもならない。それこそ「非人称」の存在になって、歩く。「足の下に、どちらでもない領域」を生み出しつづける。井筒俊彦のことばを借りていえば「無分節」の「閾」のなかに入ってしまう。そして瞬間瞬間にその「閾」をこえて、自分を「分節する」。(「無分節」を「未だ分節されない」という意味で、私は「未分節」と「誤読」する。)その「分節」の仕方、どういう「動詞」で自分を「分節する」かというと、「呼吸する」「挨拶する」なのである。
 仲間になるな、敵になるな。しかし、無言ではだめだ。非人称の人間になってはいけない。「挨拶する」という形で、常に自分を「分節する」。挨拶は人間が人間であることを証明する方法なのだ。挨拶は自分が「敵ではない」という証明であり、「私は無防備である」という証明でもある。

正午の弓となる位置で

 というのは、このままでは何のことか私にはわからないが、「なる」という「動詞」に注目して、私は

正午の弓の位置になれ

 と読んでみる。「なる」を「なれ」という命令形に変えるのは、そのあとにつづくことばが「挨拶せよ」と命令形になっているからである。「正午」と「真ん中」、「弓」はこの場合「真ん中を指し示す時計の針」のようなものであり、大事なのは「弓」とう比喩よりも、書かれていない「指し示す」という「動詞」かもしれない。「位置になれ」は「指し示せ」でもある。そして「位置」とは「一点」ではなく「領域」であったことを思うと、そういう「領域」で自己と他者を共存させよ、ということかもしれない。共存の「手がかり」が「挨拶する」という「動詞/行為」かもしれない。
 そんなふうに、私は読みたい。「誤読」したい。

証言と抒情:詩人石原吉郎と私たち
クリエーター情報なし
白水社
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野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』

2016-03-01 09:50:44 | 詩集
野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』(白水社、2015年11月30日発行)

 野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』の「あとがき」に次の文章がある。

ハイデガー、レヴィナス、アガンペンという哲学の文脈を石原吉郎の読み解きに導き入れるとき、何が見えてくるか、

 私は、石原吉郎をほとんど読んでいない。野村の文章もあまり読んでいない。ハイデガー、レヴィナスも読んでいないし、アガンペンにいたっては、この本ではじめて名前を知った。
 そういう私が、この本について何かを書くことは無謀を通り越しているかもしれない。けれども書きたいことがある。
 私は、野村が試みているような「読み解き」のあり方がまったく理解できない。なぜ他人の哲学を石原の詩の「読み解き」に導入しなければならないのか、さっぱりわからない。石原が彼らから影響を受けた、と言っているのなら、それもひとつの方法だろうけれど、石原が彼らとは無関係なところでことばを書いているのだとしたら、他人の哲学などを導入したって何にもならないだろう。彼らと石原の関係など、何も見えてこない。わかるのは、野村がハイデガー、レヴィナス、アガンペンを読んだ、ということだけである。
 そして、そのハイデガー、レヴィナス、アガンペンの読み方なのだが、それについても私は疑問に思うところがある。
 そのことをまず書いてみたい。「Ⅱ 変奏 六つの旋律 存在」という章(?)に、ハイデガー、レヴィナスが出てくる。そこで野村は「イリヤ(il y a)」というフランス語に注目している。「イリヤ」はフランス語で「ある」という「意味」。このフランス語の「ある」についてレヴィナスは「本質的な無名性」ということを言っている。非人称主語「il」をつかうこととに注目している。
 さらに英語と「there is」、ドイツ語(ハイデガーの言語)「es gibt」と比較している。そして、フランス語もドイツ語も、「存在する」という動詞をつかわないという点で共通しているのだが、「ある」というときに、

用いられている動詞がドイツ語では「与える」なのにフランス語では「持つ」であるところが、何とも意味深い。それはそのまま、たとえばハイデガーとレヴィナスにおける存在の捉え方のちがいに直結していくように思われるからである。

 と書き、

 レヴィナスの「実存者なき実存」「イリヤ」という名の剥き出しの存在である。この思想をレヴィナスはみずからの収容所体験から思いついたというが、まさしく同じその理由によって、この「イリヤ」を石原吉郎もまた体験させられたのではないか、そう私は考えたいのだ。

 とつないでゆく。「実存者なき実存」というのは「非人称」によって「実存」させられる、ということなのか。よくわからないが、私は、そんなふうに読んだ。
 問題は、このとき石原がレヴィナスを、あるいは「イリヤ」という構文を知っていたか、自分自身のものにしていたかということ。石原は「日本語」で「ある(実存する)」ということを考えなかったか。自分と他者との関係を考えなかったか、ということだ。
 当然、日本語で考えているはずだ。シベリアにいるのだからロシア語でも考えざるを得なかったかもしれない。そうであるなら、そういう「日本語」を石原の詩のなかにさがすことが先ではないか。「イリヤ」を借りてきても、石原の考えたことを説明できないのではないか。
 そして、そのうえで書くのだが、この「ある」をめぐる「考察」に野村自身の「日本語」が出て来ないのはなぜ? 「ある」という「日本語」は出てくるけれど、「ある」というのは「日本語」では、どうつかわれている? 野村は、どうつかってきた? それが省みられないまま、ドイツ語、フランス語、あるいは英語が出てくるのは、なぜ?
 野村は日本語で「ある」について考えないのか。「存在」について、「実存」について、「他者」について考えないのか。

 私はフランス語もドイツ語も知らないが、たとえば、

あ、富士山だ。富士山が見える。

 と日本語でいうとき、それは「富士山がある」という意味である。「見える」は「可能性」をあらわすこともあるが、この場合は「可能性」ではない。こういうとき、フランス語では「イリヤ 富士山」というのではないだろうか。(英語では、「ルック・アト・富士山」と、突然「命令形」でいう方がぴったりくるかな? 「富士山がある」とは言わないだろうなあ……。)
 机の上に一冊の本があるはフランス語では「イリヤ アン リーブル スール ラ ターブル」らしいが、このフランス語を「テーブルの上に一冊の本が見える」と言い換えることはできると思う。
 で、こういうときの日本語の「見える」は、やっぱり「非人称」なのではないだろうか。「主語」を「私は」と補うこともできるが、「富士山が見える」というとき「私は」と補う日本人はいないだろう。「ほら、見て。(君にも、誰にも、みんなに)見える」ということになる。
 フランス語の「イリヤ」をつかわなくても「非人称」の「ある」という表現は、すでに日本語にある。日本語にあるはずのものを、わざわざフランス語をもってきて説明することが、私には、わからない。
 だいたい「文法」というのは、あとから説明するためのものであって、そんなものを意識せずにことばをつかうのが人間である。ドイツ語では「与える」、フランス語では「持つ」という違いがあると言っても、何か「屁理屈」いう感じが私にはする。
 「ある」のかわりに「持つ」、あるいは「与える」をつかって、日本語で文章を考えてみようか。「彼の目は青い」をさまざまに言い換えてみよう。「ある」を動かしてみようか。

「ある」をつかえば、彼の目は青で「ある」。
「持つ」をつかえば、彼は青い目を持っている。
「与える」をつかえば、彼は両親から青い目を「与えられた」。
「見る」をつかえば、彼の目は青い色に「見える」(青く「見える」)。

 これでは「存在(実存)」について日本語の例をあげたことにはならないと言われそうだが、野村があげている「動詞」はそんなふうにつかわれている。これは特別なことではない。日本人なら、どの文章を聞いても、「彼(男)」と「青い目」を思い浮かべる。そこから「人間関係」がはじまる。
 「彼の目は青い」を、フランス語、ドイツ語、英語でどう訳すかは、そのときの「状況」によって違うが、どう訳そうと「彼の目が青い」という「事実」はかわらない。
 ここから「イリヤ」というフランス語だけを特化して、それが石原の体験と重なるというのは、かなり無理があると思う。レヴィナスの収容所体験と石原の捕虜体験が、他者によって「非人間的」なあつかいを受けた、人間であるのに「間(非人称)」として扱われたという点で共通するにしても、それを「イリヤ」と結びつけるのは、かなり強引ではないだろうか。
 レヴィナスの側から石原へではなく、石原からレヴィナスの方への「言語的接近」が説明できない限り、「イリヤ」で石原を説明するのは、私には「暴力」に思える。石原のことばは、石原のつかっている「日本語」でつかみとらないといけないのではないのか。

 さらに、日本語では、

彼は青い目をしている。

 と表現することもある。この「している」は、他の外国語ではどうなるのだろう。
 「目」ではなく、顔の場合は、

おい、そんな青い顔して、どうしたんだ。

 というときもある。このときの「して」は、やはり「ある」に通じる。
 「ある」というのは、いろいろに言い換えうるのだ。
 「実存」そのものを「定義」しなくても、そこに「実際にあるもの(生きている人間)」と向き合い、私たちはいろいろなことば(動詞)をつかって、「生きている」ことを確認し、あらわしている。
 「実存」あるいは「存在」というようなことばをつかわないからといって、ふつうの人が、「生きていること」や「他者との関係」について考えていない、「哲学」をもっていないことにはならない。むしろ、そんなめんどうくさいことばをつかわずに、「哲学」しているのだろう。「思想」を深めているのだろう。
 「哲学」にしろ「思想」にしろ、直接向き合っている人とのあいだで動くものであって、(それこそ「実存」であって)、あったこともない人や、話してもいないことばで語られるのは「哲学知識」というもの、空想のものにすぎないと私は思う。「現実」と向き合い、その場その場で、つくり出していく(その場その場を生き抜いていく)のが、「哲学」や「思想」だろう。
 「イリヤ」についてふれながらレヴィナスが収容所について言及しているからといって、それだけで石原吉郎の詩をレヴィナスの哲学に結びつけることは、とても危険であると思う。
 もっと「日本語」のなかで石原をとらえなおす必要があるだろう。野村自身がいつもつかっていることばで石原に接近していかないと、野村が石原を読んでいるのか、レヴィナスが石原を読んでいるのかわからない。野村は、レヴィナスになって石原を読んでいる、というかもしれないけれど……。でも、レヴィナス自身が石原について直接語っているのではないのだとしたら、それは野村がレヴィナスの威を借りて石原を読むことにならないか。

 で、次のような部分にも私はつまずく。「事実」という作品を引いて語っている。

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている

 これに対して野村は、

 誰の「手」や「足」であるかが問題なのではない。誰のものでもないような、誰でもない誰かに所有されているような--仮にフランス語に訳すとするなら、まさにil y aという非人称の提示表現であらわすしかない「手」や「足」。

 と書いている。
 「見ろ」という表現(動詞)に注目するなら、「あ、富士山が見える」の「見える」に通じるものがそこにある。「ある」は「見える」であって、それはたしかに「非人称(主語が特定されない)」になるが、こんなことはフランス語を借りなくても、日本語で説明できる。
 また「そこにそうして/ある」という言い回しに注目するなら、これはフランス哲学、ドイツ哲学など借りてこなくても、古くからある「日本の哲学」である。「そこに/そうして」としか言いようなのない状態で「ある」。「そこに/そうして」は言い換えがきかない「そこに/そうして」であり、同義反復するしかないもの。
 「どのようにしてあるか」「そのようにしてある」という問答。
 これは「禅問答」である。説明を拒絶して(?)、「そのように」としか言わない禅問答を何度か聞いたことがある。(時代劇なんかで、だけれど。)そのとき「どのようにして」というのは問いでありながら「答え」そのものなのだと思う。「どのようにして」は「そのようにして」と向き合って完結する。そういう「哲学」が日本にはある。そう私は感じている。フランスの哲学など、まったく関係がない。もし関係があるとすればと、フランスの哲学はやっと日本の禅の哲学に追いついたということだろう。
 レヴィナスと石原の関係にあてはめれば、レヴィナスが石原に追いついた。レヴィナスに石原の詩を導入することで、レヴィナスの思想が明確になる、というのでないと「日本語」を起点にした「思想」として受けとめにくい。
 脱線した。詩に戻る。
 この詩については、「ある」のところでふれた

して

 もと登場してきている。「青い目をしている」の「して」と同じ「して」である。
 「して」は「した」に通じる。「青い目をしたお人形」という童謡の歌詞がある。この「した」は「する」でもある。「する」は「なす」でもある。
 で、そうすると、それは英語の「be」にも通じるなあ。「to be or not to be」は「死すべきか、生きるべきか」であると同時に「なすべきか、なさざるべきか」。「let it be」の「be」もこれかもしれないし、「ケ・セ・セラ・セラ」の「セラ」も、これだろうなあ。だからといって、石原が英語で考えたとは言えないし、ラテン語で考えたとも言えない。私がかってに英語や聞きかじりのラテン語をひっぱり出して、テキトウなことを書いているだけである。石原の詩とは無関係である。
 「そうして/ある」は「そのようにある」という反復のかたちでしか表現できない「絶対的」な存在のあり方、受け入れるしかない「あり方」とも言えるかも……。

 そして、「事実」は先の引用のあと

見たものは
見たといえ

 とつづいているが、これはどうしたって「絶対無」から見た世界だなあ。この「絶対無」というのもフランス哲学(あるいはドイツ哲学)というよりも禅に源流をさがした方が早そうである。
 私は禅も何も知らない。胡座がかけないから座禅もしたことがないのだが、どこからか聞きかじった「日本語」が、私にそう語りかけてくる。
 日本語の詩なのだから、外国のことば(哲学)ではなく、日本語の肉体を動かしながら読むことが大切なのではないだろうか、と思った。石原の詩を読みながら、野村の「肉体」がどう動いたかを読みたい。「頭」がどう動いたかは、読んでもおもしろくないというよりも……そうだなあ、「頭」がどう動いたかを読むよりも、自分でレビィナスを読んだ方がレヴィナスと対話できるだろうなあと思う。野村の「頭」のなかで、きっと野村とレヴィナスは融合している(野村はレヴィナスを消化しているというかもしれないが)。そういう文章を読むと、野村を読んでいるのかレヴィナスを読まされているのか、私はわからなくなる。レヴィナスを知っているという野村を語るために、石原の詩がつかわれているという感じがして、石原の詩を読んでいる気持ちになれないのである。私には、石原の詩を読んで興奮している野村が見えてこない。
証言と抒情:詩人石原吉郎と私たち
野村 喜和夫
白水社
コメント
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