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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川口晴美『Tiger is here.』

2015-08-02 14:01:51 | 詩集
川口晴美『Tiger is here.』(思潮社、2015年07月31日発行)

 川口晴美『Tiger is here.』の巻頭の「幻のボート」は映画「ライフ・オブ・パイ」に着想を得ている。それにつづく「コンパスローズ」にも「トレスパッシング」にも影響を窺うことができる。--というのは、まあ、いいかげんな感想である。詩を読むと映画を思い出す、というだけのことである。ただし思い出すといっても、私と川口はまったく違う映画をみたのだろうなあ、とも思う。どこがどう違うか、言えないくらいに、何かが違っている。「心理(テスト)」ということばが出てくる。「イメージ」ということばも出てくる。この「心理」と「イメージ」の結合に、奇妙な「遠さ」を感じてしまう。私は「心理」というものを信じていない。「こころ」というものの存在をそれほど信じていない。「こころ」に「理」があるとは考えたことがない。「こころ」を理解しようとして、むりやり「理」をねじ込んだものが「心理」だろう、「頭」で考えたものが「心理」であって、それは「こころ」(あると仮定して)が「こころ」を動かすための「工夫(知恵)」ではないだろう、と思う。
 書かなくていいような、めんどうくさいことを書いてしまったが……。
 詩集を読んで、最初に印をつけたのは「クラッシャーを夢見る」の次の部分。

夜の
寝台の敷布は壊れたボートのようにわたしのからだを乗せて
うすい暗闇に揺れて漂う
どこへも行き着かない
もぐりこんだ毛布のなかで丸まってぎゅっと瞼を閉じれば
かたくこわばった一日は小さく点になって消えていきそうなのに
肌に毛羽立つ感触が不実な愛撫のように離さない
どこへも行かせてくれない

 ここにも、虎といっしょに漂流する「ライフ・オブ・パイ」の残像を見ることができる。「ボート」と「行き着かない」が、映画とつながる。しかし、そのあとの「もぐりこんだ……」からが、「ストーリー」を破って動いていておもしろい。
 寝台(古い!)、敷布(古い!)の上で眠れないでいる。その描き方が、とてもしつこい。「まるまって」は「ぎゅっと」に重なる。「ぎゅっと」という副詞自体は「閉じる」という動詞につながるのだが、そういう文法を無視して、私の肉体は「ぎゅっと丸まる」と引き返してしまう。この逆戻りがあるためだと思うのだが「丸まる」(丸い/やわらかい)ものが、次の行で「かたく(硬い)」「こわばる」という「用言」に変わる。さらにこれが「毛羽立つ」「不実な愛撫」と変化し、「丸まる」や「閉じる」の「主語」は「私(川口)の肉体」だったのに、いつのまにか「主語」がずれてしまう。「毛羽立つ感触」はまだ「私(川口)」の「肉体」だが「不実な愛撫」のなかには他人が入ってきている。「離さない」は毛布(あるいは敷布)の感触である。「不実な愛撫」も他者が引き起こす感触である。もちろん「感触」というのは「肉体/肌」に属するものだから、「主語」は一貫しているということも言えるけれど、「私の感触(感覚)が私を離さない」というのは、「私は私の肉体を離れて存在しない」という常識を言い直したものというよりも、何か「感触」を「私」から独立させて動かすことである。
 「感触」が「私」から独立して動き、それが「私」をつくっているというのは、何だか面倒くさくて、しかもねじれた言い直しである。世界のとらえ方である。
 しかし「面倒くさい言い直し」が詩なのだなあ、と思う。書いているうちに(ことばを動かしているうちに)、ことばが影響し合って、ねじれ、ずれてゆき、またもとにもどり、ことば相互の関係を濃密にする。その濃密さが、そのまま「肉体」の味わっているさまざまな感覚の濃密さにつながる。それは整理しようとしても整理できない。「理」にはならない。この感じがおもしろい。この「肉体感覚」がおもしろい。
 肉体は「理」にならない。「理」など気にしなくても、いま/ここに存在している。「理」をはねつけている。だからこそ、「こころ」に「理」を求め、「心理」を明確にすることで「自己」を主張しようとするのか。

 眠れないのか、目覚められないのか、よくわからないが、この「不機嫌(な肉体感覚)」と「毛布(寝台?)」の関係は、「Tiger is here.」にも出てくる。その部分も私は好きだ。

あさ起きました
目をあけました
わたしはここにいて
どこかから
何かから逃れてきたような気がします
さっきまで触れていたはずの夢はあとかたもなく消えました
まだくるくるとまわっているような壁とてんじょう
呼気にあたたく湿った毛布は獣の皮膚のよう
脱皮するみたいにもぞもぞぬけだして
足をおろします

 「触れる」という動詞、触覚(皮膚感覚)、「ぬけ出す」という動詞。この詩では「ぬけだして」いるが、先に引用した詩では逆であった。先の詩では、「感覚」が「主役」にって「私(川口)」をつかんで離さなかった。
 人間は、反対のことができる。
 川口は、反対のことを書こうとしている。反対のことを書くことで、世界は完結するのかもしれない。どちらにも動いて行ける運動を内包した世界になるのだろう。
 この詩のなかで、私が思わず何度も線を引いてしまったのが、

足をおろします

 えっ、どこから? もちろん寝台からなのだけれど、この詩には「寝台(ベッド)」ということばがない。
 なぜ、この一行がおもしろいかというと。
 「寝台から」ということばがないので、私は無意識に「寝台から」を補ってしまう。その瞬間に、私の無意識は川口の無意識を引き受けてしまう。「肉体」がつながってしまう。毛布をぬけだすまでは、まだ、川口の肉体だったものが「足をおろします」で私の肉体になってしまう。
 だから、そのあとにつづく行は川口が感じていることなのに、私の肉体で確かめることになってしまう。(私の肉体がおぼえていることを、思い出してしまう。その思い出し方が、毛布をぬけ出すときよりも「直接的」なのである。)

床は空中にあるのですがたぶん地面につながっています
つながっているということにしています
地面というのは地上のことです
それは世界のことでしょうか
わかりません
さいしょの一歩は何度くりかえしてもむずかしい
みえない高いところから跳躍するみたい
だけどやってみればあっけなく
ひんやりしたかたいところにからだの一部分が触れます
わからない何かに触れながら
わたしはわたしがやわらかくあたたかいということを知ります

 地面に触れながら、地面の存在と質感を感じるだけでなく、自分のあり方(やわらかくあたたかい)を知るという相互作用としての「肉体」。その相互作用そのものを思い出す。このとき、その相互作用は川口のものなのに、自分のおぼえている相互作用である。川口のことばなのに、自分のことば(おぼえていること)のように感じる。こういう自他の区別のなくなる瞬間が詩(文学/芸術)の醍醐味なのだが、それを引き起こしているのが「足をおろします」という一行なのだ。「寝台から」とことばを補って瞬間から、私は川口のことばを無意識に引き受けてしまうのである。「寝台から」ということばを補わなかったら、こういうことは起きない。

 川口の詩に感動しているとき(感情移入しているとき/感情を引き受けているとき)、こういう「無意識のことばの補足」ということが起きているのだと思う。
 詩集は二部に分かれていて、私は「ライフ・オブ・パイ」の影響のない(少ない?)二部の方の作品が好きだが、「足をおろします」のようなわかりやすい行と出会わなかったので(私はそれをはっきり見つけ出せなかったので)、一部の作品に感想を書いてみた。


Tiger is here.
川口 晴美
思潮社
コメント (1)
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新延拳『わが流刑地に』

2015-08-01 10:34:35 | 詩集
新延拳『わが流刑地に』(思潮社、2015年07月10日発行)

 新延拳『わが流刑地に』を読みながら、「ことばになりすぎている」と思った。何かをしっかり見ている。見てわかっている。それを全部言おうとしている。そし、実際に言ってしまっているのだと思う。そのため、そこから「ことばが育ってくる」という印象が消える。「ことばが、そこで終わっている」と言い換えることができるかもしれない。
 たとえば「異界からのベルカント」の一連目。

薄曇りの空にソースをかけたような黒い雲が広がりだした
鬼瓦も崩れ落ちそうな集落
人も見かけない
薺の花や苜蓿、土筆など
悪意のような春の雷が鳴って
いつか見たようなどこかで折りたたんでしまった記憶

 人が去ったあとの集落。さびれてしまっている感じを書こうとしていることはわかるし、実際さびれていることが「鬼瓦も崩れ落ちそうな」ということばで書かれているのだが、まわりのことばが「同調」しすぎていて、どこを見ていいのかわからなくなる。焦点がすべてにあたっているために、窮屈なのである。「ソースをかけたような」という即物的な直喩、「悪意のような」という感情的(?)な直喩、「折りたたんでしまった(記憶)」という理知的な暗喩。ことばがぶつかりすぎて、どの方向へ動いて行っていいのか、よくわからない。
 「鬼瓦」「薺」「苜蓿」「土筆」という漢字だらけのことばもつらい。「苜蓿」は、私には読めなくて、それでよけいに「漢字」がうるさく思えるのかもしれない。「目」でことばを見て、それをおぼえなければならない、というのがつらい。
 この印象は、逆に言えば、「世界」がしっかりとことばに定着しているということになるのかもしれない。ことばが「世界」をつかんではなさない。ことばで「世界」を、意識に刻みこんでいる、という評価になるかもしれない。
 私はこういう部分よりも、三連目のようなことばの動きが好きだ。

心棒のような横一本の線を持つ母という字
自転車の後ろにのった子は
母のベルトをしっかりつかむ
そして導火線が一本出ていてもおかしくないような
赤いチューリップの横を走り抜ける

 「心棒のような横一本の線を持つ母という字」というのは漢字の見かけの説明(?)なのだが、「縦に」貫く心棒ではなく「横に」貫く心棒というのがおもしろいし、それがそのまま自転車に乗った母とこどもにつながっていくのが楽しい。こどもは母親のからだのなかの垂直(縦)の線ではなく、横に広がっていく線をつかんでいる。母親というのは横に愛情を広げていくのか。こどもは、その広がってくる愛情をつかむのか、というようなことを思ってしまう。そうだなあ。父親は「垂直(縦)に貫く心棒」で、ひとりひとりの「独立性」を教えるのに対し、母というのは横に広がる愛を教える--というのは「定型イメージ」で安易な連想かもしれないが、そういう余分なこと(父は、ここには出て来ない)を勝手に考えるのが私は好きだ。
 そこに書かれていないことばを勝手に動かして、自分で「世界」を広げる。その広がった「世界」に赤いチューリップ畑があらわれる。母と子の「精神的(感情的)」なつながりと広がりが、チューリップ畑と混じりあい、とけあう。母と子がチューリップ畑の比喩なのか、チューリップ畑が母と子の比喩なのか。わからないところがいい。「導火線が一本出ていてもおかしくないような」という直喩は、そこには「導火線」は存在しないし、チューリップ畑は炎上してはいないと言うのだが、その直喩を裏切って、チューリップ畑は私の想像力のなかでは赤く燃えあがっている。つまり、私は新延の書いていることばを勝手に「誤読」して、あ、いいなあ、と思っている。この勝手に思っている感じ、勝手に思うことを許してくれることばを、私は「勝手に育っていくことば」と呼んでいる。この三連目には、そういう「育ってゆくことば」がある。
 この三連目のことばは、一連目にくらべると「隙間」があるということになるかもしれない。でも、その「隙間」が詩の重要な要素なのだと思う。「隙間」から何かが見える。その見えたものは必ずしも作者が覗き見たものと同じとはかぎらない。きっと違うだろう。そして、たぶん「違う」ということが楽しいのだ。「違う」から「交流(対話)」がはじまる。
 「黙示が露のように」の二連目。

あの書がなくなっている
売れてしまったのだ
古本屋の棚に二十五ミリの隙間を残して
壁の漆喰が剥がれているところから
銀河が始まっている

 本が売れたあとの、その本のあった場所。「隙間」。そこから何が見える? 新延は壁の漆喰、その剥落を見て、「銀河が始まっている」のを見る。誘われて、私も「銀河」を見る。でも、その「銀河」にどんな星があるか、どんな星座を見ているのか、その具体的なところは、きっと「違う」。「違う」から平気で、ああ、きれない星空、と思うことができる。「ほら、北極星から10時の方向にある、あの緑色の星がいま流れていく」なんて言われたら、それはそれでもいいのだろうけれど、何だか同じものを見ないといけないようで、ちょっとうるさい。「えっ、見えなかったよ」なんていうことになるとがっかりするしね。(あ、これも、勝手にことばを動かして思うこと、ことばが勝手に育っていくことなので、それでもいいんだけれど。--いいかげんだね、私の書いていることは。)
 「櫻の精が」の、

金魚に餌をやるとき水面に映る自分の貌
自分に餌をあたえているよう
金魚は動いているのに水音を立てない

 「モノの逆襲」の「一九二九年某日」から始まる連と、

突然ボールペンが書けなくなった
インクが切れたのだ
電気カミソリが動かなくなった
充電が切れたのだ
電灯が消えた
球が切れたのだ
君がいなくなった
……のだ

 の連もおもしろい。「……」に何をいれる? 何かことばが入るはずだけれど、新延は見つけきっていない。「切れたのだ」と韻を踏みたい(?)が、さて、どうしよう。急に、自分自身と女の関係を問われたような感じになる。無意識に、そこに私が参加してしまう。
 そのとき、詩は作者(新延)のものではなく読者(私、谷内)のものになる。これは一瞬の「誤読」(誤解)なのだが、これがないと詩はおもしろくない。文学はおもしろくない。どんな作品でも、それが作者の書いたものであること、あるいは虚構であることを忘れ、あ、これは私が言いたかったこと、あるいは、えっ、こんなことを思うのかよ、無意識に反応してしまうことがある。そういう作品が、きっといい作品。読者のなかで、ことばが勝手に育つのがいい作品だと思う。
 「しゃぼん玉のなかのふるさと」の、

よく乾いたTシャツにある洗濯ばさみの跡

 この一行も楽しい。

わが流刑地に
クリエーター情報なし
思潮社
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