監督・脚本 カルロス・キュアロン 出演 ガエル・ガルシア・ベルナル、ディエゴ・ルナ、ギレルモ・フランチェラ、ドロレス・ヘレディア
わっ、いいかげん、というと、けなしているように受け止められるかもしれないけれど……。何か見ていて、いいかげん。ストーリーが、ね。それから、登場人物の生き方(?)が、ね。それが、なぜか、とってもいい。気持ちがいい。
なんというのだろう、枠からあふれていく感じがする。
冒頭(近く)の、トラックに弟が飛び乗るシーン。正確に言うと(私はいいかげんだから、後先考えずに思いついたまま書いているので、こんなふうに適当な文章のつなぎかたをする)、その弟が棒をトラックから張り出させ、自転車の兄がその棒につかまって、自転車をこがずに、しかも自転車よりも速く走るシーン。
楽ができるなら、なんでもしてしまえ。
まあ、その「楽」のためには、最初のトラックに追い付き、飛び乗るということが必要で、そのためには一生懸命、速く走らないといけないのだけれど。でも、そのほんの短い時間の一生懸命で、あとは楽ちん楽ちん。
こんなことは、人生に、そんなにたくさんあるわけではないのだけれど(というよりも、ほとんどはその逆なのだけれど)、いいなあ、この生命力。最初の瞬発力。先のことは考えず、ただ「いま」を一生懸命生きて、あとはなんとかなるさ。
兄弟がしゃべりまくっているのもいいなあ。
映画は映像と音楽である。せりふなんていらない。というのが、私の「映画文法」なのだけれど、このふたりのおしゃべり、「意味」じゃないからね。「音楽」。ふたりの性格をあらわすだけのものであって、ことばによってふたりがかわっていくわけではない。そんな重さをことばが背負い込んでいない。ことばがストーリーの伏線になるというようなことがない。
ぜんぜん性格が違うのに、思考の仕方が違うのに、母親孝行にしたいという気持ちだけはとても強くて、そのために、「こんな家を」と見栄を張るところなんか、いいなあ。こういうシーンをみると、あ、「愛」って、やっぱり語ることなんだなあ、と思う。「愛している」というのは「言わなくてもわかる」ことなんだけれど、そうであっても、やっぱり、「言う」。「言って」それを「聞く」。その瞬間に輝きだすものがある。「意味」じゃなくて、「意味」をこえて。どんな家なんて、言った先から関係なくなる。兄弟は互いに、お前がそうなら、おれはここまでする、と、できないことを承知で(?)、ことばにことばを積み上げているだけなのだから。このことばの軽さ。そして、思いの強さ。それは「ことば」ではなく、あくまで声--音、音楽なんだなあ。聞いている母親だって、「お前はあのときこんなこと言ったのに、何も実現してくれないじゃないか」なんて、けっしていわないなあ。そこで語られるのは「意味」じゃないからね。そこには「ことば」がかぶさっているけれど、こころを酔わせるための「音楽」なんだからね。
そんなふうにして、いろんな「愛」を確認しながら、最後はどうなるかというと……。
ハッピーエンドでは、もちろん、ない。でも、なんとなく楽しい。最初に書いたことにつながるのだけれど、トラックと兄弟のシーン。むかし、トラックが通りかかったとき、お前(弟)が走って飛び乗り、それかお前が棒を突き出して、それにつかまっておれは自転車をこがずに走っていけた。楽ちんだったなあ、楽しかったなあ。--そんなことを話せる幸せ。
そういうことが、あらゆるシーンにあふれている。それで、どうなる、というわけではない、そのいいかげんさ。いいなあ。
わっ、いいかげん、というと、けなしているように受け止められるかもしれないけれど……。何か見ていて、いいかげん。ストーリーが、ね。それから、登場人物の生き方(?)が、ね。それが、なぜか、とってもいい。気持ちがいい。
なんというのだろう、枠からあふれていく感じがする。
冒頭(近く)の、トラックに弟が飛び乗るシーン。正確に言うと(私はいいかげんだから、後先考えずに思いついたまま書いているので、こんなふうに適当な文章のつなぎかたをする)、その弟が棒をトラックから張り出させ、自転車の兄がその棒につかまって、自転車をこがずに、しかも自転車よりも速く走るシーン。
楽ができるなら、なんでもしてしまえ。
まあ、その「楽」のためには、最初のトラックに追い付き、飛び乗るということが必要で、そのためには一生懸命、速く走らないといけないのだけれど。でも、そのほんの短い時間の一生懸命で、あとは楽ちん楽ちん。
こんなことは、人生に、そんなにたくさんあるわけではないのだけれど(というよりも、ほとんどはその逆なのだけれど)、いいなあ、この生命力。最初の瞬発力。先のことは考えず、ただ「いま」を一生懸命生きて、あとはなんとかなるさ。
兄弟がしゃべりまくっているのもいいなあ。
映画は映像と音楽である。せりふなんていらない。というのが、私の「映画文法」なのだけれど、このふたりのおしゃべり、「意味」じゃないからね。「音楽」。ふたりの性格をあらわすだけのものであって、ことばによってふたりがかわっていくわけではない。そんな重さをことばが背負い込んでいない。ことばがストーリーの伏線になるというようなことがない。
ぜんぜん性格が違うのに、思考の仕方が違うのに、母親孝行にしたいという気持ちだけはとても強くて、そのために、「こんな家を」と見栄を張るところなんか、いいなあ。こういうシーンをみると、あ、「愛」って、やっぱり語ることなんだなあ、と思う。「愛している」というのは「言わなくてもわかる」ことなんだけれど、そうであっても、やっぱり、「言う」。「言って」それを「聞く」。その瞬間に輝きだすものがある。「意味」じゃなくて、「意味」をこえて。どんな家なんて、言った先から関係なくなる。兄弟は互いに、お前がそうなら、おれはここまでする、と、できないことを承知で(?)、ことばにことばを積み上げているだけなのだから。このことばの軽さ。そして、思いの強さ。それは「ことば」ではなく、あくまで声--音、音楽なんだなあ。聞いている母親だって、「お前はあのときこんなこと言ったのに、何も実現してくれないじゃないか」なんて、けっしていわないなあ。そこで語られるのは「意味」じゃないからね。そこには「ことば」がかぶさっているけれど、こころを酔わせるための「音楽」なんだからね。
そんなふうにして、いろんな「愛」を確認しながら、最後はどうなるかというと……。
ハッピーエンドでは、もちろん、ない。でも、なんとなく楽しい。最初に書いたことにつながるのだけれど、トラックと兄弟のシーン。むかし、トラックが通りかかったとき、お前(弟)が走って飛び乗り、それかお前が棒を突き出して、それにつかまっておれは自転車をこがずに走っていけた。楽ちんだったなあ、楽しかったなあ。--そんなことを話せる幸せ。
そういうことが、あらゆるシーンにあふれている。それで、どうなる、というわけではない、そのいいかげんさ。いいなあ。
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