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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原『石の記憶』(1)

2009-11-10 00:00:00 | 詩集
田原『石の記憶』(1)(思潮社、2009年10月25日発行)

 「田舎町」という作品がある。その書き出しの2連。

叙述が壟断する
記憶に沿って南下すると
川に臨む田舎町で
偶然出会った犬の鳴き声が
僕の郷愁を呼び覚ます

戦禍に壊れた木造の民家は文字によって復元された
澄みきった水の中で
魚の鱗はその時の星の光を帯びて
水底にキラキラ光る

 私は、いきなり「文字」に出会った。「ことば」というより、「文字」に。
 田原は中国人である。中国から漢字がやってきた。そこからカタカナやひらがなをつくりだして日本語の「文字」は成り立っている。「文字」(漢字)にはもちろん意味があるから、日本語は中国から「意味」も借りてきてことばを動かしてきている。「漢字」のなかに、「意味」が残っている。それをひきずるようにして日本人は(あるいは、私は、と言った方がいいのかもしれないけれど)、ことばを書いている。だれもが知っていることなのだろうけれど、私は、そのことをあらためて感じてしまった。
 「文字」。
 まず「壟断」が私には読めなかった。私はまず「龍」から検索して漢字を調べた。そうすると、「土」で調べなおせ、と辞書に書いてある。「龍」のはでな「文字」にひきずられてしまうけれど、そうか、「土」のことなのか。辞書によると、壟は丘のことである。竜の背中がうねるようにうねっているのが丘。(うねっている、から「うね」という意味があるし、うねっている部分は高くなっていて塚のようにみえるから、「つか」とか「はか」という意味もあるらしい。)
 で、「壟断」って何?
 丘の高く切り立っているところ。利益を独り占めすること。ふーん。丘って高いんだ。ながらかというよりは「龍」の激しさをもっているのか。「断」は「断崖」の「断」になるわけだ。風景を独占する。四方を、東西南北を見渡す--そんなふうにして、「叙述」が動く。ことばが動く。
 うーん、ことばが動くというより、「龍」そのものが動いていくイメージが見える。こんな日本語、日本人ならつかわない。(たぶん。)だいたい、日本人は「壟断」なんて、知らない。(たぶん。いや、私のワープロでは、「ろうだん」と入力すると一回で変換するから、だれもがしっていることばなのかな。かなり、不安。私自身の日本語能力に対して。)

 だんだん何を書いているか、あいまいになりそうだけれど。

 田原のことばは、「文字」として存在する。(私には、そういう印象が強烈にある。)「音」ではなく「文字」として存在する。「文字」のなかにある「文字」。「壟」のなかにある「龍」が、まあ、「りゅう・ろう」と変化させれば「音」としても存在するのかもしれないけれど、音を圧倒して「文字」そのものとして、そこに存在する。そして、その「文字」がもっている「意味」がイメージとなって動いていく。
 そのことと関係があるかどうかわからないが、2連目の書き出しの1行。

戦禍に壊れた木造の民家は文字によって復元された

 ここに「文字」そのものが出てくる。1連目の「郷愁」ということばの関係で言えば、私なら「記憶」によって復元された、と書いてしまうだろう。壊れた家を見て、その家が壊れる前の姿、なつかしい姿、郷愁につながる姿を思い出す--そして、その記憶のなかに、家が「復元」してくる。
 でも、田原は、「文字」と書く。
 田原の「文字」は私の「記憶」と同じである。(と、私は、勝手に断言する。)
 そうすると、「壟断」の「龍」は「記憶」ということになる。私にとっては「龍」は空想だが、田原には「記憶」なのかもしれない。龍そのものが記憶というと、たぶん、少し意味が違ってくるだろうけれど、激しくうねる丘、その起伏の激しさは田原の「記憶」であり、その姿から「龍」を思い描いたことがあるというのも、田原の「記憶」(幼い思い出、なつかしい郷愁)であるかもしれない。
 「文字」。中国と日本とで同じ文字をつかう。けれど、同じ文字なのに、そのなかに何か違ったものがある。その違いを私は具体的に指摘できないけれど、田原のことばにふれると、その文字の奥から、不思議と違った風景が見えるような気がするのである。このことを私はかつて「大陸の風景」と書いたような記憶がある。日本の風景ではなく、何かもっと広い風景、激しい風景が、ふいに、見えるような感じ。私の視界がいっきに払われて、新しい光が満ちあふれる感じ。そういうものがある。

 田原の「文字」ということばに出会って、ああ、そうなのだ、中国というのは「文字」の国なのだ、とあらためて思った。何でも「文字」にして残す。「文字」は残る。「文字」のなかには、記憶そのものがある。田原は、それを「肉体」としてもっているということだろう。

 そして思ったのだ。中国が「文字」の国なら、日本は何の国だろう。私の独断で言えば「音」の国である。私たちの祖先は中国から漢字を借りてきた。そして、それを「音」にあてはめた。万葉集の文字を見ればわかる。そこには漢字の「意味」ではなく、まず「音」そのものがある。中国の音というより、日本の音。日本の音を残すために、日本人は中国の漢字を借りたのだ。「意味」を剥奪して、「音」を借りたのだ。
 この、「意味」から「音」への「ずれ」。そこに不思議な何かがある。
 「意味」から「音」へと動いていきながら、一方で「意味」そのものをも借りている部分もある。日本で書かれる「漢詩」。そこにはもちろん「音」があるけれど、漢字そのものの「意味」も引き継がれる。
 日本語というのは、いわば、ごちゃまぜなのだ。
 そのごちゃまぜを、田原のことばが洗い清めている--そういう感じが、田原の詩を読むとしてくるのだ。

 そして、というのも少し(かなり?)奇妙なことなのだが、私は田原の詩を読みながら、それが「日本語」として書かれているのを読みながら、もし谷川俊太郎が田原の詩を翻訳したら(もちろん日本語に、である)、それはどんなふうになるだろうか、と想像してしまった。
 谷川の詩の魅力はいろいろあるだろうけれど、そのひとつに「音」がある。谷川の音は、私には無垢の音に感じられる。無垢--というのは「意味」を背負い込んでいない、意味にしばられていないというほどの意味である。意味を否定して音がはじけていく、その瞬間のよろこびのようなものがある。そういうことばを発する谷川が、もし田原のこの詩集を日本語に翻訳すると、どうなるのだろう。
 詩というものは、それぞれの「外国語」である。たとえば田原が書いているのは、見かけは日本語だが、実際は「田原語」という特殊な外国語である。西脇順三郎のことばも日本語というより「西脇語」である。詩を読むとは、特殊な外国語を読むのに似ているのだ。もちろん谷川の書いているのも「谷川語」であって、「共通日本語(こんなものがあるかどうかわからないけれど)」ではないのだから、正確には、谷川の「音楽語」で翻訳したら、どうなるのだろう、というのが、私の、素朴な、そして、あきらめることのできない夢想である。

 田原の詩について感想を書いているのか、それともまったく違うことを書きはじめているのか、だんだんわからなくなってきたが……。
 先に引用した2連目の3行目。

魚の鱗はその時の星の光を帯びて

 この「その時」って「どの時」? いつのこと? 私にはよくわからない。そして、そのよくわからない部分に、なぜか、「日本語」を感じた。別なことばで言えば「中国語」を感じなかった。「壟断」や「文字によって復元された」には「中国語」のなごりというか、ことばの「底」を「中国語」が流れているのを感じたが、「その時」にはそういうものを感じなかった。さらに別のことばで言えば「意味」を、「表象」を感じなかった。「音」だけを感じた。それも、次の「音」を、音といっしょにあるイメージを誘い込むだけの「音」だけを感じた。
 「その時」を読んだとき、私の意識の中では「意味」は中断していた。わきに置かれていた。そして、そのことを何の苦痛にも感じなかった。
 「その時」って「どの時」? と私は書いたけれど、それは便宜上のこと。
 今でも私は、それが「どの時」であってもかまわないと感じている。家が復元され、郷愁の家の姿がもどったとき--なつかしい昔の川が記憶の中でよみがえったとき、というふうに面倒くさく考えたくない。時制の意味を捨て去って、ただ魚が星の光を浴びて鱗を輝かせていればそれだけでいい。

 ねえ、田原さん、もし、この詩を中国語に翻訳するとすれば、そのとき、田原さんの書いた「その時」はどういうことばになるの? 中国語では、その「文字」はどんなふうな「意味」を背負い込むの?
 私は、そんなことをたずねてみたい気持ちにもかられた。


水の彼方 ~Double Mono~
田原 (Tian Yuan)
講談社

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山本純子『句集 カヌー干す』、柴田千晶『句集 赤き毛皮』

2009-11-09 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
山本純子『句集 カヌー干す』(ふらんす堂、2009年09月20日発行)
柴田千晶『句集 赤き毛皮』(金雀枝舎、2009年09月20日発行)

 私は俳句をほとんど知らない。門外漢である。山本純子も柴田千晶も私にとっては詩人だが、ふたりとも俳句を書いている。ふたりとも句集を出している。

 私には、山本純子の句の方が俳句に感じられる。呼吸が俳句っぽい。印象に残った句と感想。

なにもかもまたいで歩く海の家

 またぐ方もまたがれる方も、その乱暴を許している。そういう開放的な感じがいい。潮風のゆったりした動きを感じる。

雪だるまでいた一日缶コーヒー

 雪だるまをつくる。楽しいけれど、体が冷える。缶コーヒーを両手でもって、ああ、あったかい。手を温めてから、おもむろにコーヒーをすする。その感じ。

春場所は塩をだいたい100g

 ふーん。塩ひとつかみ、 100㌘か。よくわからないけれど、「春場所」の「春」が生きていると感じる。初場所や夏場所では、塩の印象も、 100㌘という感じも違ってくるだろうなあ。初場所と春場所では1音違うだけだけれど、印象がかなり違う。初場所だと、なんだか清めの塩みたいだ。相撲の塩はもちろん清めの塩だろうけれど、初場所だとそれが強調されすぎて、 100㌘のおかしさが消える。
 春という季節の、なんとなく、ふわふわと開放的な感じが生きていると思う。

オーイとかヘイとか言った?春の虹

 「オーイ」と「ヘイ」のかけあい(?)のような感じが春っぽい。声のなかにほんわかした春の温かさがある。
 山本の俳句に「呼吸」を感じるのは、こういう印象があるからだろう。ことばを「意味」ではなく、「声」をとおしてつかみとっている感じがあるからだろう。

昼休み三方向へバナナ剥く

 確かにバナナは三回にわけて皮を剥くなあ。何でもないことだけれど、ふいにバナナの「肉体」がみえる。みえたことをことばにするって、おかしい。

 句集のタイトルにもなっている「カヌー干すカレーは次の日もうまい」は坪内稔典がていねいに感想を書いている。それ以上、言うことはない。とてもいい句だと私も思う。



 柴田千晶の句。柴田の句は、ことばが多い。俳句だから「5・7・5」の音節を守っているけれど、とてもことばが多い。「意味」が過剰である。それが山本の句と違って、呼吸を苦しくしている。声に出してつくった句ではなく、目で詠んだ句という印象がある。「現代詩」に近いのかもしれない。

単純な穴になりたし曼珠沙華

 これは、俳句というより、私には「現代詩」である。女性の性をどのように詠むか--そのときのことばの選択、それと向き合わせる(とりあわせる)季語をどう選択するか。その「呼吸」が、柴田の場合、とても厳しい。「声」になるまえに、「頭」のなかで文字が炸裂する。その輝き。それが、私の印象で言うと、俳句のもっている響きを破壊しているように感じられる。
 そこにあるのは、意味の過剰により、重くなった輝きである。

 そんななかにあって、

あたたかや土偶の陰(ほと)は一本線

 この句がいちばん好き。山本の句の場合「いちばん好き」というのを選ぶのがむずかしいけれど、柴田の場合は、これがいちばんいい。「土偶」はもっとやわらかいことば、たとえば「はにわ」のような音のことばの方が「ほと」というやわらかな音と響きあうとおもうけれど、「あたたかや」と「ほと」の「一本線」が、なんともいえず気持ちがいい。素朴なものがもつあたたかさ、その強さが「あたたかや」の「や」の切れ字と、きちんと向き合っているという感じがする。

 父の介護をしていたときの句なのだろう。その一連の作品には、現実のしっかりした手触り、肉体の美しさがある。

溲瓶洗ふ雪降る窓の明るくて

冬の日に薬臭の尿輝けり

 詩は、どこにでもある。現実をみつめ、それをていねいにことばにするとき、詩はいつでも、そのことばのなかにやってきてくれる。
 「明るくて」「輝けり」と、明るい光がみえるのは、もしかすると、偶然ではないのかもしれない。現実はいつでも人間に明るい光を運んできてくれるものなのかもしれない。病気の人の介護をするという苦しい時間のなかにも。

セーターの雨の匂ひや深夜バス

 あ、いいなあ。深夜の静かさ。それを「匂い」が浮き立たせる。音でも光でもなく、「匂い」が夜を実感させる。そのときの、「肉体」の感じ、感覚の融合。こういう作品こそ、私は俳句だと思う。

短日や妊婦ばかりのエレベーター

 こういう句も好きである。単なる偶然を描いているのかもしれないけれど、その偶然に出会い、それをことばにするということ--そのなかに必然があるかもしれない。ことばは、その現実といっしょになりたがっている。だから、そういう現実を呼び寄せた。そんなことさえ感じる。


カヌー干す―山本純子句集
山本 純子
ふらんす堂

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赤き毛皮
柴田 千晶
金雀枝舎

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西岡寿美子『菜園だより』、森やすこ『おお大変』

2009-11-08 00:00:00 | 詩集
西岡寿美子『菜園だより』(二人発行所、2009年08月31日発行)
森やすこ『おお大変』(花神社、2009年09月20日発行)

 西岡寿美子『菜園だより』はタイトルどおり、野菜づくりをすることで生まれた詩である。「待ちの姿勢」に野菜づくりの「心得」が書かれている。

物を作るということは
捨ててもならず
即き過ぎてもいけない
おおよそのことを果たせば
後は陽任せ雨任せ
鈍いような待ちの姿勢が必要な気がする

(略)

作るといい
養うというも
人が助けられるなど僅かなこと
むしろ誤って阻まないことを念がけて
後ろ手に空を見たりして
あるじは
気配を聴いて歩くだけでいい
物が成るとはそのようなことではあるまいか

 「作る」ことからはじまり、「作る」ではなく「成る」だと気づく。そのことを「肉体」として知っている。とても静かで、気持ちがいい。新しいことばの運動がある、というわけではないけれど、ここには古びないことばの確かさがある。
 「むしろ誤って阻まないことを念がけて」という行の「念がけて」は「こころがけて」と読むのだと思うが、そうか、こころがけるとは念じつづけることなのか、とはっとする。「こころがけて」と読みながら、その「音」の底から、「念じる」という強い音がつきあがってくるのを感じ、はっとする。
 簡単な(?)ことばなのだけれど、そのことばの「領域」というか「地層」というか、そういうものに西岡が触れているのだと感じ、そこに書かれていることが確かなもの、絶対に間違っていないものだと信じさせてくれる力がある。
 そして、それが絶対に間違っていないものであるだけに、ふいにあらわれる矛盾というか、ありえないもの、不思議なものに、ぐいとひきつけられる。
 「ごめんよ」という作品。カブのことを書いた詩だ。

十七育て
十二まで人に差し上げ
わたしの食べ料としたのだが

(略)

寒をくぐってまろやかに仕成された
この喉にとけ入る
熱い旨い無上の味に養われると
幸せのあまり罪の思いがする

 カブのおいしさに幸せを感じ、幸せすぎて「罪」を思う。あ、幸せというのは、どこかで罪を犯している、他人を踏み台にしている--そういう不思議な感覚。愉悦。食べるために育てたカブを、目的にしたがって食べているだけなのだから、それは「罪」ではないが、「罪」ではないけれど「罪」を感じる。
 この、西岡の「肉体」。
 それは、やはり、野菜を人間が「作る」のではなく、野菜は野菜で、野菜自身の力でたとえばおいしいカブに「成る」ということを知っているからうまれることばなのである。そしてそれは、実際にものを作る、野菜を作る人だけが「肉体」の底からすくいあげてくることができる「思想」なのである。
 詩のつづき。

ごめんよ やさい
少しはお返ししたことがあるだろうか
わたし
丸く整うた姿の妙齢の者らの
つつましい生き身で濡れたこの舌では
何も言えない気もするのだが

 「何も言えない」としか言えない。けれど、「何も言えない」が、たぶん、正確に西岡を語っている。絶対に嘘を言わない美しさが、西岡のことばにはある。



 森やすこ『おお大変』の「しあわせ症候群」の1連目。

しあわせ症候群にさいなまれて朝寝ぼうして
黒ねこは 家ねこをあきらめて出ていったきり
庭の草は勝手気ままにのびて
からたち ぐみ ざくろの棘 もっと勝手にのびる
片隅で空を見あげて雲のものがたり いま読み解くところ

 「読み解く」ということろに、森の「思想」が凝縮している。いまという瞬間、この世界--それがいま、ここに「ある」ということは、何かがそれに「成った」(なる)ということである。その「成った」(なる)の過程というか、「過去」をひとつずつことばにしてみる。ことばにすることで、自分自身を確かめる。




西岡寿美子詩集 (日本現代詩文庫)
西岡 寿美子
土曜美術社

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阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(4)

2009-11-07 00:00:00 | 詩集
阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(4)(思潮社、2009年09月25日発行)

 阿部嘉昭には映画について書いた本があり、音楽について書いた本もある。阿部は「視覚」の人間であると同時に「聴覚」の人間なのだと思う。
 私は映画も音楽も好きだが、実際は「好き」と思い込んでいるだけかもしれない。私は目が悪いし、(手術してから、いっそう見えなくなったが)、耳も悪い。
 「音」に関しては完全な音痴である。たとえば、カラオケというものがある。ある曲を、人がキーを変えて歌っているのを聞く。そうすると私にはその曲がまったく別の曲に聞こえてしまう。知っている曲なのに、音をたどれない。追いかけられない。その人の歌っている音と、もとのキーの音が、ときどき耳のなかでまじりあい、激しく揺さぶられる。現実と記憶が衝突して、船酔いをおこすような感じだ。
 だから、私が書くことは、耳のいい人からみると「でたらめ」「とんちんかん」なことになるのかもしれないけれど、私には、阿部のことばの「音楽」がなじめない。私の感じる「音楽」、私の好む「音楽」と違うだけとういことなのかもしれないけれど、どうも視覚に汚染されているような感じがしてしまうのである。
 「針穴」の途中の2行。

五七五のなかに割る空白を何音にするかはっきりしないが
この何音かが観音だろう、詩は必ず言い了せない。

 「五七五のなかに割る空白」。その美しいイメージ。それは美しいのだが「空白」と次に来る「何音」の関係が、先に書いたカラオケのキーの例で言えば、原曲のキーと、変更後のキーの衝突である。「何音」をなんと読むのかはっきりしないが、その「はっきりしない」(私には、わからない、という意味だが)ことが、「音楽」としてなじめない、ということである。
 そして、そのなじめなさを引き出しているのが「空白」という美しい「視覚」である。「空白」ではなく、もっと「聴覚」になじみのあることばがかわりにあれば、「何音」ということばも違ったものになるかもしれない、と思うのである。(音の「空白」という表現は表現としてあると思うけれど、もっと別のことばの方がきっと「音楽」として「何音」、あるいは「何音」にかわることばと響きあうと思ってしまう。)
 別のことばで言いなおすと。
 「音の遠近感」が、どうも私の感じとは違うのである。音楽には和音がある。和音とは音の遠近感だと私は思っているが、それが、阿部のことばに触れると、何か、かきまぜられてしまう。その印象が強くて、音になじめない部分がある。--音楽について何も知らず、よくまあ、知ったかぶりを書いているなあと反省しながら書いているのだが……。
 うまくいえないが、奇妙な違和感がある。阿部の「音楽」には。
 さらにさらに言い変えれば。(たぶん、以下に書くことの方が、私の感想を正直に伝えることになると思うけれど。)

この何音かが観音だろう

 この音の構成には、阿部独自の「音楽」があるが、その「音楽」と「五七五のなかに割る空白」は、私には完全に別物だと思える。感じられる。その完全に別な「音楽」が、なんと読んでいいかわからない「何音」を中心にしてつながっていく。私には、つかめない。どこが手前? どこが遠く? 何が近景で、何が遠景? 「何音」で、どこからでてきたの?
 「何音」ではなく、私には「難音」である。

 きっと私の読み方が間違っているのだろう。「音楽」の感じ方が、今風ではないのだろう。
 そもそも阿部の書いている「何音」はリズムの数え方、1音、2音(5・7・5)のことだから、それを「音階」をもった「音」と読む方が間違っている、ということかもしれない。
 けれど。
 ねえ、そういうときは、「何音」とは言わずに、「何拍」と言わない? リズムなら、「音」ではなく「拍」じゃない? 「ここの休止は3拍、ちゃんと数えて」とはいうけれど、「ここの休止は3音」とはいわないのじゃないだろうか? と、私のことばの「遠近法」は、どこかで異議を呟くのである。たしかに「5・7・5」は「5音7音5音」であって、「5拍7拍5拍」とは言わないけれど……。

 ようするに、「空白」「何拍」の方が、「何音」「観音」よりも、私の「音の遠近法」にはなじみやすいのである。それだけのことである。たぶん。

 なんだか、私のことばかり書いてしまった。やっぱり、私の読み方が間違っているのだろう。
 「何音」がもっている不思議な「ノイズ」(私の知っている「音楽」ではとらえられないん音)に耳を澄まし、そこから阿部の詩を読み直すべきなのだろう。
 使い古された「遠近法」(和音)を破壊し、ことばを動かす。いままでのことばの運動を破壊するために、あえて「ノイズ」を組み込み、「意味」の流れを、破壊する。新しい流れをつくりだす。それは、最初は、ただ、まわりの風景を荒らすだけかもしれない。けれど、繰り返し繰り返し、それまでの「遠近法」を叩き壊していると、そのなかからきっと新しい流れ、河が生まれてくる。新しい河が新しい遠近法をつくる。
 そして、そういう新しい河(流れ、遠近法)をつくるには、水源に膨大な水量が必要である。エネルギーが必要である。あふれるままにまかせ、それがどこへ行こうと関係ない。あふれつづけることこそが大事なのだ。
 たしかに、そうなのだ。
 どんなものでも、あとから説明がつく。音楽に「不協和音」ということばがあるが、「不協和音」などというものは「規則」にのっとって理解するから「不協和音」なのであって、「音楽」になってしまえば、それは新しいひとつの「和音」、いままで人が知らなかった「和音」というのにすぎない。
 阿部は新しい「和音」を探しているのである。私の耳にはその「新しい和音」を見つけ出すことはむずかしい。きっと、だれか、ほかの人がそのことを書いてくれるに違いないと思う。あるいは、阿部自身が、「ここが新しい」と書くことになるのかもしれないが……。

 新しい時代の、強靱な耳をもった人の、感想・批評を読んでみたいと思った。



 詩集には「春ノ永遠」という長い詩があるのだが、私のいまの視力にはなかなか読むのがたいへんである。ほんの少し、思いつきの感想だけ。

「明月が来月に出た」
端的には腹が減った
減った腹を愛撫して
再帰性のあこがれを知る
性器以上のことだ
「ここがここだ」

 こういう「視覚」に汚染されない「音楽」が好きだ。「音楽」は「視覚」よりも「触覚」が似合う。たぶん、触覚は「音」を出すからだろう。「目」で何かを叩いても、反応するのは「こころ」くらいである。「目」がものをいうのは「こころ」に対してである。けれども、「触覚」は違う。「触覚」のリズムは、そのままだれかの「肉体」に伝えられる。減った腹を撫でる「自己愛」から、性器(きっと、異性の、であって、自分のじゃないよね)を撫でるへ変化していくときの「遠近法」。
 いいなあ。
 「視覚」はここではかかれていないけれど、私は基本的に「視覚」の人間なのか、「触覚」しか書かれていないのに、なぜか、性器まで「見て」しまう。どこかで感覚が越境する。「触覚」が知らずに、記憶の「視覚」を呼び覚まし、いっしょになって動いていく--こういう運動を誘うことばが、私はとても好きだ。




僕はこんな日常や感情でできています?サブカルチャー日記
阿部 嘉昭
晶文社

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阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(3)

2009-11-06 00:00:00 | 詩集
阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(3)(思潮社、2009年09月25日発行)

 「ス/ラッシュ」のつづき。「深/鮮」の書き出し。

深い場所が鮮しくみえる、視覚の至福。

 ここには、視覚の記憶の罠がある。「鮮しく」は「あたらしく」と読ませるのだろうが、そういう読み方は「教科書」にはない。教科書には「あざやか」という読み方しかない。けれども、何の疑問もなく、たいがいのひとは「あたらしく」と読むに違いない。「鮮」という文字は「新鮮」とひとつながりで記憶されることが多いからだ。タイトルに「深/鮮」とあればなおさら「しん/せん」と読み、「新しい」ということばが自然に噴き出してくる。(3行目に、その噴出に影響?されたのか、「神/泉」と、「泉」という文字もでてくる)
 阿部が利用しているのは、阿部自身の視覚の記憶ではない。読者の視覚の記憶も利用している。視覚の記憶が共有されている、ということができる。
 阿部には、たぶん、この「共有」感覚が強いのだと思う。「共有」できるものを即座に判断する能力がある、探りあてる能力がある、ということなのかもしれない。
 「鮮」には「あざやか」「あたらしい」という意味のほかに、とか「美しい(鮮明)」「けがれない(鮮潔)」「すくない(鮮少)」「はなやか(鮮華)」「なまなましい(鮮血)」というような意味もあるけれど、「新鮮」がいちばんなじみやすいかもしれない。「新鮮」ということばが、いちばん多く「共有」されているということを、阿部は知っているし、その「共有」へ向けて、ことばを動かすリードの仕方も心得ているということなのだろう。
 阿部には、詩人しての「顔」のほかにもいろいろな「顔」がある。ポップ・カルチャー、サブ・カルチャーという言い方があるが、そういう領域にも通じている。何が幅広く共有されているか、その共有の底には何があるか--そういうことを見つめつづけてきた意識が、「共有」される文字・ことばをも自然に探り当てる力となっているのだと思う。

 あ、書こうとしていたことから、どんどん離れていってしまう。
 最初にもどる。

深い場所が鮮しくみえる、視覚の至福。

 ここに登場する「視覚の至福」。これは、阿部の嗜好(思考ではない)の本質を語ってると思う。
 阿部は、「音」についてもはっきりした好みをもっているのだと思うが、「音」か「色・形」かと二者択一を迫られたら「色・形」を選んでしまうだろう。聴覚ではなく、視覚を選んでしまうだろう。

深い場所から鮮しい音が聞こえる、聴覚の至福。

 そういう行も可能なはずだが、阿部は「視覚の至福」を選ぶ。「新鮮」なのは視覚に飛び込むものだけではなく、聴覚に飛び込むものも、嗅覚や味覚、触覚に飛び込んでくるものも、新しく、美しいはずだが、阿部はまず「視覚」を選んでしまう。
 そのあとで、聴覚や嗅覚、触覚へと「新鮮」の領域を「深めて」いく。

オーガニック野菜の波動をただ口に運んで。
その密かな香りからオルガスムスに至ってゆく。
生活はサラダの速さでつくる。芹を添えて。

 あ、美しい。
 「生活はサラダの速さでつくる。芹を添えて。」の「芹」の響きの美しさ。行頭の「生活」の「せ」と「芹」の「せ」が響きあう。「サラダ」のなかの「さ行」「ら行」の交錯が、「せいかつ」と「せり」を輝かせる。「速さ」「添えて」の「さ行」の響きあいもいいなあ。
 西脇順三郎に教えてやりたい。私が西脇なら、「この音、ちょうだい」と言ってしまうかもしれない。
 「オーガニック」「オルガスムス」というもたもたした音の響きを一気に突き破って、ほんとうに新鮮に聞こえる。
 こういう美しい音楽を聞いた後では、

いつもの深さが鮮しいことで美貌になるメロン。
メランコリーに淡さが彩色するこの菜食も、
あすのサラダに見合う休符の質をおもうだろう。

 これは、重たい。軽快さがない。明るさもない。「メロン」「メランコリー」「彩色」「菜食」では、「おもう」が「思う・想う」ではなく、「重う」(おもう)ございますよ。いくら「休符」をはさんでみても、休符の深い谷間から鮮やかな沈黙の余韻がひろがるかわりに、深い深い苦悩が沈んでいってしまいそう。色は重ねすぎると、だんだん黒に近づいてしまうものだ。視覚も、きっと、そういう「黒」の宿命(?)をもっているのだろう--などと、思わず書いてしまう。

 音楽は、軽く、速く、がいまの流行だと思うのだけれど……。



 「飛/攻」は「飛行」「非行」を連想させる。「非行」の方が私の好みだ。軽い感じがする。阿部の作品のなかにも「非行」は出てくるが「非/攻」というワンクッション置いた形ででてきて、最後には「飛/行」「飛/攻」へと落ち着いてしまう。
 こういう落ち着き方は「深/鮮」と同様、私の好みではないが、それは、まあ、好みの問題だから、どうしようもない。

 気になる1行があった。

あるいは濃/耕という概念もあるだろう、紙上には。

 「ことば」の問題を急につきつけられた気がしたのである。
 ことばはどこになるのか。私は阿部の詩集を読んでいる。ことばは詩集の「紙上」にある。そして、そこにあるのは、阿部の1行にしたがえば「概念」である。
 うーん。
 私はうなってしまった。ちょっと、動けなくなってしまった。

 ことばは概念でなくてもいいんじゃないの? むしろ、概念ではなくなる瞬間を求めて私は詩を読んでいるのだけれど。
 「紙上には」ということばも、どこからでてきたのかなあ。
 阿部の作品の初出は「ブログ」と書いてある。そうだとすると、そのとき「紙上」って何?
 
 私もブログを書いている。そして、それはけっして「紙」を経由しない。ワープロソフトをつかって書いて、その文章をブログにコピー&ペーストするが、そのとき私がことばを追っているのは「モニター」の上だけである。「紙」が存在しない。「紙」という意識がない。
 阿部は、「紙上」ということばを、どんなふうにして思いついたのか。そのことばは、いったい、どこからやってきたのか。
 これはたいした問題ではないのかもしれないが、(あるいは大問題かもしれないが)、私はとても気になったのである。
 「紙上」ということばは「概念」ということばの後に出てくるけれど、「紙上」という意識があるから「概念」ということばが生まれたようにも思えるのである。阿部のことばに「音楽」だけがもつ軽さ・速さが欠けるときがあるとしたら、それは概念を紙上に定着させようとする意識があるからかもしれない--と、ふと、そんなことを考えたのである。 



AV原論
阿部 嘉昭
関西学院大学出版会

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阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(2)

2009-11-05 00:00:00 | 詩集
阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(2)(思潮社、2009年09月25日発行)

 視覚の詩人・阿部嘉昭という印象は「ス/ラッシュ」の章(?)では、もっと激しくなる。「想/行」「王/答」「灰/憶」というようなタイトルの作品がつづくが、どのことばも別のことばを連想させる。「黙/精」「嘉/膿」「悲/膚」というような、肉体と関係することばがでてくるものにタイトルの魅力を感じる。そこには、「記憶」という「過去」が必然的に紛れ込む。
 これは、たとえば芝居(映画)で言えば、役を演じる役者の「存在感」のようなものである。芝居は、ある時間を描くが、その時間の背後には、「過去」がある。その「過去」を自然に感じさせる役者の肉体--そういうものが私は好きだが、その「過去」を自然に感じさせる肉体、その肉体には、ここには描かれていないけれどちゃんとした「過去」があると感じさせてくれる肉体を、私は「存在感」のある肉体と呼んでいる。
 役者それぞれが「過去」をもっているように、どんなことばにも「過去」がある。「記憶」がある。いま、ここにはないものを、いま、ここに呼び込む力がある。
 ふたつのことばが出会い、わざと違った文字で書かれるとき、そこに文字そのものがもっている「過去」が噴出してくる。それは「音」が連想させる「意味」を否定し、破壊する。その運動のなかに、阿部は詩を見ていることになる。
 先にあげたタイトルのなかでは、私は「嘉/膿」というタイトルが一番好きだ。「嘉」は「よみする」。ほめたたえる。膿という、いわば肉体にとって否定的なものとほめたたえるという肯定的なものがぶつかりあう瞬間--それが刺激的だ。
 「悲/膚」では「皮膚」(肌)のセンチメンタルがそのままでてきそうで、あまりおもしろくない。
 「黙/精」は「黙/性」だと意味が強くなりすぎるかな?
 いずれにしろ、そんなふうに思うとき、私は「音」ではなく、文字に反応している。文字の記憶--視覚の記憶。「音」を視覚の記憶が突き破り、その破壊のなかで精神が動く。新しい動きをする。つまり、詩に触れる。
 タイトルの後に展開される行よりも先に、タイトルだけで「詩」に触れる。
 これは、しかし、いいことなのか、どうか。

 「嘉/膿」は、

恋族の走りゆくさまは あかときの禾。
そこを受胎に変えて爾後もかえりみない。
申そう、牝の背後からなされる鹿恋には、
誰もが当事者を代位して恥じない欠如がある。

 と始まる。4行読んで、「申そう」、いや「妄想」がはじまる。性と膿(腐敗)の関係が始まるのだ、と。性と死。死につきものの、腐敗。化膿。そして、詩のなかにある「可能」性。「恋」というものは、いつでもそういうものを夢見るものだから。

女の背後--肉までめくられた切断面が鈴なり。
歴史への怖気とそうして神話にも適合される。

 ということばも、すけべな私を妄想に駆り立てる。
 2連目は、1連目から飛躍し、「死」への言及からはじまる。

二台の戦車が 草原で膠着しきった笑い話。
「動けば殺されてしまう」この予期とは何か。

 生と死。そういうものを考える。でも、恋はどこに?という疑問が残る。 個人的な「恋」が、それこそ「歴史」のなかに消されてしまった気持ちになる。
 3連目で、

アカシア林から不意に消滅した蜜蜂なら。
われわれのひらく、扉全体の無効につなぐ。

 個人的なものから「われわれ」への変化。私には、ちょっと、ことばの動きが追えなくなる。「無効」が「向こう」であったなら、などと思いながら。
 そして、3連目の5行目。

翅と肢との同時性の不/可能が蚤を凝縮し

 の「可能」ということばに出会う。スラッシュの位置が私には気になる。「同時/性」、そして「不可/能」ということばを考えたくなる。
 文字の衝突による意味の否定、視覚の記憶による意味の破壊が、意外と「弱い」のではないか、と思ってしまう。「視覚」が「肉体」になりきれず、「頭」のなかでの操作なのかもしれない、と少し疑問に思ってしまう。
 特に、詩の最後。

伝説をつらぬいた神性の化/膿を己れにかんずる。
けっきょくは怠惰が私をつくって--嘉/膿する。

 「嘉/膿」が、最初の私の予想通り「嘉する」「膿」になってしまったのでは、ちょっと残念なのである。タイトルが詩を先取りしてしまっていて、詩がタイトルを超えていかない。そういう不満が残る。
 こういう詩はむずかしいのだ、と思った。

 音と文字。聴覚と視覚。その衝突と、たがいの破壊。そこにたしかに詩は存在すると思うが、それが「頭」を刺戟しているあいだは、まだ「弱い」という印象が残ってしまう。もっと、ぐちゃぐちゃに溶け合ってしまって、別の聴覚、視覚が誕生するまで書かなければならないのかもしれない。

 悪口ばかり書いてしまったが……。ゴッホ兄弟を描いた「都/腐」は「チーズ」ではじまる。「チーズ」は「豆腐」に似ていると思うのは私だけかもしれないけれど、「都/腐」から「豆腐」を思い浮かべていた私は、2連目に、

精液が塗/布されて屈折率がいつも変わる。画も女の腹も。

 という行に、気持ちのよい「裏切り」を感じた。詩を読んでいて一番うれしいのは、「え、そんなふうにことばが動いてしまうのかい」と「裏切られる」瞬間である。
 「塗布」のなかには「都」も「腐」も登場しない。視覚が記憶とならない。視覚の存在感が否定され、「音」のなかから「音」が噴出してきて、「都/腐」を破壊する。これはいいなあ。とても、いいなあ。
 そして、「精液が塗(/)布されて屈折率がいつも変わる。(画も)女の腹も。」というのが、すけべでいいなあ。妊娠は、女の腹の屈折率(曲線?)の変化か。なんと「腐」りきった(あるいは腐敗を拒絶した)、「都」会ならではなの発想ではないか。このただれた(?)情欲の流動。
 3連目もとても好きだ。

気づかれただろうが この叙述は私の死後のことだ。
諸平面の配剤に費やしながら稀に藤花の垂れるのも見た。
すたあだすと、その言葉を危うく口許で呑む。そのすりる。
気づかれるだろうが この叙述は私の詩語のことだ、
一切は種まく人の模写からはじめられた。その過去が煙る。
二人寄れば藁だという気持は 相手が婦に代わってもある。
耳を削って頭部の対象を呪うなんて。一本の煙突が輝く。

 「婦」がたとえば「都/婦」であったらな、というと野暮になるだろうけれど、ああ、せめて、「頭部」が「とふ」という「音」であったなら、と思わずにはいられない。豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ、と阿部に叱られるだろうけれど。



精解サブカルチャー講義
阿部 嘉昭
河出書房新社

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阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(1)

2009-11-04 00:00:00 | 詩集
阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(1)(思潮社、2009年09月25日発行)

 阿部嘉昭『頬杖のつきかた』は4冊分の詩集が1冊になっている。1回では書き切れない。少しずつ感想を書いて行きたい。
 「水辺舞台のぴんく映画が」という作品の書き出し。

記憶のわたなべくんの家で
水辺舞台のぴんく映画が
芋虫のようにぷるぷるしている
まだ若かった葉月蛍の肌が
とりもち以上に吸いついて
いつも鳥の肋骨が
飛翔ていどでも割れてゆくんだ
太陽毛への十五度の視覚
ばさりばさり墜ちている
へもぐろ瓶が
血の匂いあふらさんと
あぶさんの亡霊もぶらぶら
女のなるべく長い後頭部を探すが
滅多なのか探ししくじる

 ここには私には聞き慣れない「音楽」がある。
 「とりもち」から「鳥」、「へもぐろ瓶」(ヘモグロビン?)から「血」、「あふらさん」から「あぶさん」、そして「あぶさん」から「ぶらぶら」。
 純粋に「音」だけが交錯し、互いの音を引き立てる、あるいは互いの音のあいだに、いま、ここには存在しない「音」の可能性を浮かび上がらせる--という音楽ではない。阿部の「音楽」は、何かしら「意味」に汚染されている。
 「へもぐろ瓶」という音から「血」が導き出される展開に、特にそういう要素が噴出している。「へもぐろ瓶」というものを私は知らないが、ヘモグロビンなら知っている。そして、それが赤血球と関係していること、血と関係していることを知っている。だから、どうしても「へもぐろ瓶」を「ヘモグロビン」と読んでしまう。「へもぐろ瓶」が「血」ということばに触れた瞬間に、「ヘモグロビン」に記憶のなかで変わってしまう。「瓶」は破壊され、記憶のなかで別の存在に変わっている。
 これは逆に見れば、「意味」を破壊する「音楽」ということになるのかもしれないが、私の「目」と「耳」には、ちょっとむずかしい「音楽」である。

 「目と耳」と私は今書いたが、阿部の「音楽」は「音楽」とはいいながら、「目」を必要とする「音楽」なのかもしれない。
 「へもぐろびんをかついで」という「音」を聞いて「へもぐろ瓶をかついで」と文字に書き換えることができる人がはたしているかどうか。たぶん、いない。阿部の「意味を破壊する音楽」は「耳」だけでは成立しない。「目」で文字を読むことで、はじめて「意味の破壊」が起きる。それは、いわば「視覚の音楽」なのである。
 視覚化された音のゆらぎが、イメージの揺れ(ゆさぶり)につながる。あるいは、音が視覚化されて、そのあとにイメージのゆさぶりがやってくる、というべきか。
 阿部は基本的に「視覚」の詩人なのだろう。

 そして、その視覚は「ぴんく映画」ということばや「あぶさん」ということばからうかがえるように、いわゆる「俗」(サブカルチャー、というとかっこいいかもしれないが、今でもサブカルチャーという言い方はあるのかな?)の視線である。「あぶさん」は「アブサン」であり、リキュールなのかもしれないが、私はマンガの「あぶさん」(酔っぱらいの野球漫画)を思い出してしまう。
 いわば「聖」というか、純粋芸術(?)の視覚ではなく、「俗」の視覚。そういうものをことばのなかに持ち込み、ことばをたがやそうとしている。--そんなふうに感じられる。
 だから、「太陽毛」ということばで阿部が何を表現したかったのかよくわからないけれど、私はついつい、女性の性器を描いたいたずらを思い出してしまう。丸を二つ書いて、真ん中に棒を引き、まわりに放射状に毛を描いた絵。「ぴんく映画」ということばの影響かもしれないけれど……。

 そして(またまた、そして、なのだけれど)、そういう「視覚」にひっかきまわされていると、どうも「音楽」が直接的に響いて来ない。
 音の試みが繰り返されれば繰り返されるほど、音が音楽ではなく「ノイズ」に感じられる。
 「ノイズとしての音楽」と言われてしまえば返すことばがないけれど、どうも、私の感じる音楽とは違っている。

 別の言い方をしてみると……。
 「俗」の音楽は「俗」の音楽でいいのだけれど、そういものは「視覚」とは無縁に、もっと「音」そのものとして、なまなましい何かではないか、という気がするのである。「視覚」を通らずに、肉体の内側から耳をつきやぶってくるものではないか、という気がするのである。

 ちょっと、脱線。(かなり脱線。)
 私は9月に網膜剥離を起こし、入院、手術をした。そのとき私が聞きつづけたのはビートルズと美空ひばりだった。ひばりの「津軽のふるさと」は私のとても好きな曲だ。一番好きな曲だ。繰り返し繰り返し聞いて、それまで感じなかったことを感じた。
 モノラルの音源である。ひばりの、少女時代の歌である。入院するまで、私は、この曲を、神がひばりに歌わせていると感じていた。透明な哀愁。どこまでもどこまでも透明なこころ。その透明さは、神に選ばれたひばりだけが到達できる透明さである。いや、こういう言い方は正確ではないかもしれない。ひばりが、神に選ばれていることをどこかで感じていて、せいいっぱい背伸びしている。神に応えようとしている。そこには少しむりがある。ひばりが、ひばりを超えようとしているむり--そのむりが、ひばりから夾雑物を取り去り、透明な音が生まれている。背伸び、むり、というものが、ひばりをして、ひばりを超えさせているのだ。
 私は、長い間、そんなふうにして感じていた。
 ところが、手術後、同じ音楽を聴きながら、少し違うものを感じた。うまくいえないが、どこかで、ひばりは神を裏切っている。神に選ばれ、歌わされているだけではなく、何か神を裏切って、神に対して歌うのではなく、人間にむけて歌っている温かさがある。
 神の純粋さではなく、人間の純粋さ。人間に対する共感と言いなおすべきか。そういうものに向けて歌っている。
 そこには、たしかに、ひばりの肉体があるのだ。声は純粋な音ではない。肉体をとおってきた音である。肉体をとおるとき、肉体は、ひばりの肉体だけではなく、他人の(生きている人間の)肉体をもとおってきている。
 肉体は、精神に対すると「俗」と呼ばれることがあるが、その「俗」をくぐりぬける温かさ、そしてつやっぽさ。

 阿部がことばのなかに持ち込む「俗」にも、そういう感じがあればいいのになあ。そうすれば、きっと阿部の「音楽」は気持ちよく聞こえるだろうなあ、と思った。
 --これは、かなりよくばりな註文なのかもしれない。けれど、よくばりな註文をしてみたい気持ちを、阿部の詩集は呼び覚ますのである。批判的なことを書いたけれど、批判的なことを書かずにはいられない読みごたえのある詩集なのだ、きっと。




頬杖のつきかた
阿部 嘉昭
思潮社

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伊藤芳博『誰もやってこない』

2009-11-03 00:00:01 | 詩集
伊藤芳博『誰もやってこない』(ふたば工房、2009年10月15日発行)

 「夜の学校」という作品がおもしろい。「夜の学校」にはいろいろな表情、現実があるはずだ。そのいくつもある顔、表情から何を選びとり、何を描くか。そこに「個性」というものがあらわれる。
 伊藤芳博のことばは、何かを選ぶ、というより、伊藤自身を塗り込めていく。

「おとうさんは夜の学校です」
娘は幼稚園の先生に言ったとか

この主述の文法によると
私のなかに
暗い階段があって
二階に上がる踊り場で影が揺れていて
木造ではないのに軋む廊下を進むと
三年一組のプレートが逆さまに掛かっていて
その教室には誰もいないのに
私の頭をチョークで叩いているような音が響いていることになる

 「娘」の言ったことは、「私のおとうさんの仕事は、夜の学校の仕事、夜の学校の先生です」という意味だが、伊藤はあえて、それを「おとうさん」=「夜の学校」という形にして、学校そのものを描写してみようとする。けれど、そういうものは実際には描写できなくて、どうしてもそこに伊藤の「現実」、伊藤の「夜の学校」での姿が塗り込められてしまう。伊藤は「夜の学校」を描写するのではなく、どうしても、「夜の学校」での自分の姿を書いてしまう。伊藤の意志、あるいは意図に反して、伊藤は「娘」のことばが省略している部分を補ってしまっている。
 わたしたちは結局自分の現実以外は書くことができないのだ。
 これは悪い意味で言っているのではない。
 ひとは何を書いても、自分の現実しか書けない。他人の現実など書けない。だからこそ、自分自身の現実を書かなければならない。ここに、伊藤のことば、伊藤の詩の存在意義がある。重要性がある。

 しかし、実際に自分の現実を書くというのはむずかしい。だから伊藤はしばしば映画やテレビで見聞きしたことを題材にする。他人の現実を、外から見つめて、それをことばにする。ことばは、そういうときでも、やはり動く。しかし、そのことばは、伊藤自身の現実を描いたことばのようにはいきいきとしていない。残念なことだけれど。
 映画を題材にしたものでは、唯一、『山の郵便配達』がおもしろかった。最後の方の数行。

「    」
左前の方にハンカチで目を押さえている若い女性
「    」
右前の方の禿げた頭は動かない
一人ひとりみんな今を感じている

 ことばが書かれていない。思いは、まだことばになっていない。そのことを伊藤は正確に書いている。空白のカギカッコのなかにはいることばは、「若い女性」「禿げた頭」のことばであると同時に伊藤のことばである。なにかが重なり合っている。重なり合っているけれど、それがまだことばにならない。「若い女性」「禿げた頭」がことばにできないだけではなく、伊藤もできないのだ。
 こんなふうに、正直にはっせられたことばは美しい。そこに塗り込められた伊藤のこころは正直だ。こういうことばが出て来ると映画やテレビを題材にしていても、とてもおもしろいと思う。
 この詩には、実は、このあと2行付け足しがあるが、その部分は、私は嫌いだ。せっかくの、ことばにならないことばという、その切実な美しさを汚してしまっていると思うからである。だから引用しなかった。省略した。

 「娘がいないことがわからない」は、小学6年生の娘を殺害された父親がもらしたことばである。そのことばに反応する形で、伊藤は「娘がいないことがわからない」という詩を書いている。
 そのなかに、とても美しい部分がある。
 67ページの「わたしの なかの むすめの なかの しずくを」で始まる13行。全部ひらがなのわかちがき。私は今、目の状態がよくないので、引用すればきっと誤植だらけのものになる。ぜひ、詩集で読んでみてください。

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池井昌樹小詩集「とこしえに」(2)

2009-11-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹小詩集「とこしえに」(2)(「現代詩手帖」2009年11月号)

 再び「月の光」について。きのう書いたことの繰り返しになるかもしれない。けれども、もう一度書いておきたい。

わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえながら
おんなやさけをおもっている
しにたくないとねがっている
わたしはけだものかもしれない
いそじもなかばすぎこしてきた
ひとのかおしてすましていても
はなさきにえさぶらさげれば
たちまちしっぽがおきてくる
べんかいしようとしたこえが
きいきいめすをもとめている
わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえこむと
みみもとで
だれかささやきかけるこえ
それはこえだかかささやきだか
かぜのおとかもしれないけれど
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
おおごえで
だれかよびつづけていたような
それはだれだかだれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど

 私がこの詩にひかれるのは「しにたくないとねがっている」という行と、「それはあんまりやさしくて/あんまりあんまりくるしくて」という行である。
 「だれか」が見つめている、「だれか」に見守られている--というのは池井の詩に頻繁に登場する感覚である。その「だれか」は簡単にいってしまえば「詩の神」である。そして、その「だれか」はいままで「やさしく」見守ってくれていた、というのが私の印象である。
 池井は、この詩では「くるしくて」という感覚に出会っている。

 「やさしさ」と「くるしさ」。この二つにはとても大きな違いがある。
 「やさしさ」は池井をつつんでくる。「やさしさ」に触れるとき、池井は「神」につつまれる。至福である。
 「くるしさ」とどうか。まず、池井をつつみこみはしない。
 他人の苦しみは自分の苦しみとは違う。

 人間はたいへんわがままな生き物である。他人にやさしくされると(他人のやさしさに触れると)とてもいい気持ちになる。自分が「やさしい」のではなく、他人が私に対してやさしい。そのことが、ふしぎなことに(?)、幸せな気持ちにさせる。私が「やさしく」なるわけではないのだが、きもちがやわらぐ。自分が受け入れられていると感じ、安心するのかもしれない。
 ところが、「くるしさ」の場合は別である。「痛さ」も同じである。
 だれかがどれだけ苦しんでいようと、あるいは痛みを訴えていようと、私自身は苦しくはない。痛くはない。
 けれども、またまた、ふしぎなことに、他人の苦しみ、痛みというものを、それが自分の苦しみや、痛みではないにもかかわらず、「くるしい」「いたい」と感じ取ることが人間にはできる。
 ことばで訴えられたときはもちろんわかるが、そうではなく、ことばを発することもできずに、道ばたでうずくまっている人間がいるとする。そういう人間をみると、あ、このひとは「苦しんでいる」「痛み」にうめいている、と理解することができる。
 自分に、苦しんだり、痛みを感じた経験があるからかもしれないが、この、自分のものではない苦しみ、痛みを感じる力というのは不思議なものだと私は思う。
 人間には、くるしみやいたみに対し、共感し、反応する力があるのだ。

 自分では体験しないのに、他人とおして知る何か。
 その最大(?)のものは死である。
 人間は死ぬ。そのことを私たちはだれもが知っている。けれども、だれひとりとして自分自身の死を知らない。他人の死を目撃し、死とはこういうものだとかってに考えているだけだ。
 自分の外にあるもの--死。それが、やがて自分にもやってくるかもしれない、かならずやってくる、と感じ(知って)、私たちは生きているだけである。
 この死に対する感覚(認識)と、池井がこの詩で書いている「くるしみ」がどこかで通じているように私には感じられるのである。

 他人のなかにある「くるしみ」。それをとおして、池井は自分のなかにも、それにつながるものがある、と感じている。そして、その「つながり」の「道」は「けだもの」なのだ。

 「やさしさ」のように池井をつつみこむことはない。

 池井から離れていて、なおかつ、池井の「にくたい」の奥へささやきかける。「にくたい」の奥を揺さぶる。
 「くるしみ」というものがあるのだ。
 ひとりひとりの「くるしみ」はけっして他人に共有されるようなものではない。だれかの代わりに池井がくるしむというようなことは、ことばの上では可能だが、実際は、そういう代替は不可能である。池井がくるしめば、そのぶんだれかのくるしみが消えるわけではない。池井の肉体が痛めば、だれかの痛みが消えるわけではない。
 それでも、感じてしまう。共感(?)してしまう。

 ほんとうは自分では体験していないくるしみ。いたみ。そういうものがあり、そして、そういうものは「にくたい」の奥を揺さぶる。そのゆさぶりのなかで、池井は、死を知るように(死を感じるように)、くるしみを感じるのだ。
 それは、池井を超越している何かだ。

 池井は、いままで、自分を超越する「やさしさ」について書いて来た。けれども、いま、これから、自分を超越する「くるしさ」について書こうとしている。
 それは、いわば、死を書くことなのだ。
 自分で体験してしまったら絶対書くことができないもの。
 それを書こうとしている。

 「死」を中心にして書き直そう。
 死を書くためには死を体験しなければならない。けれども、死んでしまったら、人間は自分の体験を書くことはできない。
 これは大きな矛盾である。
 けれども、池井は、そういう矛盾を書きたいのである。だからこそ「しにたくない」と書かざるを得ない。

 だれだって、くるしみたくない。痛みなど、それがどんなものであれ、経験したくない。
 けれど、なにかが、だれかが、池井に、そういう「くるしみ」を書かせようとしている。「詩の神様」が書かせようとしている。そして、その「くるしみ」を書くために、「けだもの」の道を歩け、と言っている。けだものになって、くるしんで、それだけでは不十分で、池井の体験を超越した「くるしみ」に触れろ、と「詩の神様」が命令している。
 その声に脅えながら、同時に、酔いしれながら、池井は「しにたくない」と書いている。
 私が感じたことは、そういことである。

 いままで、私は池井の詩は嫌いだ、大嫌いだ、ぜんぜんおもしろくないと言い続けてきた。そういうふうに言うことができたのは、私がどんなに嫌いだ、つまらない、ぜんぜんだめだと否定しても、その詩は壊れないとわかっているからだ。嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、と私が言い張っても、最後に、でも好きだよと言えば、すぐに「和解」できると知っているからだ。
 ようするに、私は、池井の詩に甘えて感想を書いていた。こどもが母親に甘えるようにして、甘えて感想を書いていた。
 けれど、これからはどうなるだろう。
 私は、いままでと違って、池井の詩はすごい。すばらしい。傑作だ、といいつづけることになるのだと思う。そして、そういいながら、どこかで「困った、池井の詩に触れると苦しくて苦しくてしようがない。なぜ嫌いと言ってしまえないのだろう、関係ないと言ってしまえないのだろう」と悩みつづけることになるのだと思う。

 池井の書こうとしている「けだもの」の「くるしみ」。そして、その「くるしみ」のなかにある「血」のあたたかさ。それに対して、関係ない、とは絶対に言えないことはわかっている。死が、人間にとって関係ない、と言えないのと同じことだ。

 どうすれば、いいのだろう。

 きっと、これからは、池井が、私にとってたったひとりの詩人になるのだろう。これまでも私にとって詩人といえば池井しかいなかったが、これからは、その存在の仕方がもっと全体的になる。
 そんなことを感じた。

現代詩手帖 2009年 10月号 [雑誌]

思潮社

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池井昌樹小詩集「とこしえに」

2009-11-02 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹小詩集「とこしえに」(「現代詩手帖」2009年11月号)

 池井昌樹の詩が変わってきた。「月の光」の前半。

わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえながら
おんなやさけをおもっている
しにたくないとねがっている

 「しにたくないとねがっている」に私は驚いた。同じような行を池井がこれまでにも書いているかどうか、ちょっとはっきりしないが、書いていたとしても、今回の詩ほど痛切には響いて来なかった。今回の詩では、とても痛切に響いてくる。
 なぜ、死にたくないのか。
 まだ、「けだもの」としての「いのち」を詩に書いていないからだ。
 池井のこれまでの詩の中心は、「いのち」のリレーである。延々とつづく人間の「いのち」。それを受け継ぎ、引き渡す。そこには「家族のくらし」というものがある。「家族のくらし」のなかにも「けだもの」の領域はあるだろうけれど、池井の詩の場合、それはかなり少ない。「けだもの」ではなく、もっと違う部分が前面に出ていた。
 そして、その違う部分と密接に関係するものが後半に登場する。

わたしはけだものかもしれない
いそじもなかばすぎこしてきた
ひとのかおしてすましていても
はなさきにえさぶらさげれば
たちまちしっぽがおきてくる
べんかいしようとしたこえが
きいきいめすをもとめている
わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえこむと
みみもとで
だれかささやきかけるこえ
それはこえだかかささやきだか
かぜのおとかもしれないけれど
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
おおごえで
だれかよびつづけていたような
それはだれだかだれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど

 自分ではない誰か--その存在は池井の詩には何度も登場する。そしてその誰かは、じっと池井を見つめる。池井は、その「まなざし」を感じる。その「まなざし」につつまれる。それが、これまでの詩である。
 この詩では「みみもとで/だれかささやきかけるこえ
」という具合に、「まなざし」ではなく、「こえ」として登場する。「みみ」に働きかけてくる。目には見えないので、その正体はわからず、ただ受け止めるしかない「こえ」。
 ほんとうに誰かがささやきかけてくるのか。それとも、池井自身の「にくたい」が発する声なのか。それも、実は、はっきりとはしない。

それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて

 この3行がすばらしい。「それはあんまりやさしくて」は、これまで池井をつつんでいた「まなざし」と同じ性質である。けれども、声はそれにくわえて「あんまりあんまりくるしくて」という要素がくわわる。
 池井が苦しいのではなく、声が苦しい。
 けれど人間の肉体というものは不思議なもので、自分の苦しみではなく他人の苦しみであっても、それに触れると苦しみを感じ取ることができる。あ、この声は苦しんでいるのだと感じることができる。他人の苦しみと自分の苦しみは別個のものだから、ほんとうは、他人の苦しみなどに自分の肉体が反応しなくてもよさそうだが、なぜだかわからないが、反応してしまう。--自分のなかにある苦しみの体験、記憶が呼び覚まされるということかもしれない。
 この反応を、池井は「みみ」(こえ)で向き合っている。

 しかし、正確には向き合えていない。

それはだれだかだれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど

 「みみ」(こえ)が最後で、突然目に見えるもの「つきのひかり」に変わっている。「まなざし」でとらえられるものにかわっている。
 これは、池井のことばの不徹底を証明するものだが、その不徹底は同時に、転換期の象徴ともいえるかもしれない。
 「みみ」(こえ)で最後までむきあわなければ、「けだもの」の「やさしさ」「くるしさ」と合体できないのだけれど、いまはまだ、一歩を踏み出したという感じなのだ。踏み出しては見たけれど、どこへすすんでいいかわからず、いつもの道へひきかえすしかない。それが「つきのひかり」に象徴されている。
 あるいは、「やさしく」「くるしい」声であっても、それが「つきのひかり」のように、池井を静かに照らしてくれるものにかわることを願っている--その願いが最後の行に託されているのかもしれないけれど……。
 それがどんなものであるにしろ、池井は、それをはっきりと受け止めたいと、いま感じているのだと思う。知りたいと思っているのだと思う。だから

しにたくない

 のである。

 この「月の光」に、つぎの「とこしえ」は直接つづいている。別のタイトルがついているが、ほんとうはつづいている。

けれどゆうひはうつくしい
むかしのはなびのにおいがする
ゆうひをあびて
あさきたみちを
いつものようにかえるとき
わたしのむねがいっぱいになる
がくあじさいがさいている
いしころだらけのみちのさきには
だれかわたしをまっていて
わたしはやがてただいまをいい
やがてだれかとゆうはんをたべ
やがてだれかとねむるだろう
まどにあかりがついている
あかりはやがてきえてしまうだろう
とこしえに
あかりはきえしてまうだろう
がくあじさいがさいている
いつものみちを
いつものように
おかえりとまつ
だれかのもとへ
けれどもゆうひはうつくしい
むかしのはなびのにおいがする
ゆうひをあびて
とこしえに

 この詩にでてくる「だれか」は、これまでの池井の詩に登場する「だれか」と同じである。
 池井は、「月の光」のなかで、「けだもの」につながる「だれか」に触れている。それは「やさしく」同時に「くるしい」。その「やさしく」「くるしい」ものが、いま、池井の「にくたい」をとおして、ことばになりたがっている。池井はそれを感じている。それを受け止めようとしている。
 その一方で、その変化に対して、自分自身でとまどっている。それこそ、その苦しみを受け止めようという「やさしさ」を発揮しながら、その「くるしさ」が「「あんまりあんまりくるしくて」、「にくたい」が立ちすくんでいる。
 もし、このまま、池井がその「あんまりあんまりくるしくて」という声のなかに入っていってしまったら、どうなるのだろうか? いままで書いてきた世界はどんなふうにかわるのだろうか。
 池井は、ここでは、強く願っている。
 たとえ池井が「けだもの」になってしまっても、

だれかわたしをまっていて
わたしはやがてただいまをいい
やがてだれかとゆうはんをたべ
やがてだれかとねむるだろう

 ということは受け継がれていくと。その「くらし」の窓の明かりはやがて消えるかもしれない。「とこしえに/あかりはきえてしまうだろう」けれど、その明かりがあったということは、「とこしえに」失われはしない。
 私も、そう思う。
 だから、池井には、今回書きはじめた「けだもの」の「あんまりあんまりくるしくて」という声を正確に書いてもらいたいと思う。そういう声は「しにたくない」と願っている詩人にしか書けないものである。
 「こころ」という詩の最後に登場する「しんぱいがお」の「だれか」は、きっと「あんまりあんまりくるしくて」池井に助けを求めてきた「けだもの」のなかの「やさしい」いのちだと私は信じている。

いろいろやりたいことがある
わたしはこころにおいつけない
きょうまたわたしがねむるとき
こころはあかあかおきてきて
わたしのしらないさえずりや
わたしのしらないはなのにおいや
わたしのしらないときめきで
たちまちわたしをみたすのだ
まだまだやりたいことがある
わたしはけれどもさけをのみ
わたしはいやしくいさかいし
わたしはわたしはわたしはわたしは
わたしをたびかさねるうちに
こころはとおくはこばれて
きょうまたわたしをてらすのだ
みずをたたえたこのほしを
めのみちかけを
たゆたいを
だれもしらないかがやきを
いとおしそうに
しんぱいがおで



眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社

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岡田哲也『わが山川草木』

2009-11-01 00:00:00 | 詩集
岡田哲也『わが山川草木』(書肆山田、2009年10月10日発行)

 「灰の世直(ゆの)り記」の「9」の部分。

ソノ白ハ
純白ヨリ スコシ 濁ッテイル
ダケド ソコニ 人肌ノヨウナ
温モリモアル

ソノ黒モ
真ッ黒に ナニカガ 混ザッテイル
ダケド ソコニ 黒潮ノヨウナ
深ミモアル

 「濁ッテイル」「混ザッテイル」。そう認識する力は濁ってもいない。また、そこに何かが混じっているわけでもない。逆に透明である。ここに岡田哲也の「矛盾」がある。つまり、岡田の詩と思想がある。
 混濁のなかにすべてがあると見通す視力。思考力。それを私は「透明」と呼んでしまったかが、ほんとうは、透明を超越して、「分析する力」と言ってもいいかもしれない。しかし、「分析する力」では、岡田の思想とは少し違ってしまう。「分析する力」ではなく、ゆるやかに解きほぐし、何かを育てる力と言った方がいい。「分析」するだけなら、岡田よりも強い視力をもった詩人、あるいは著述家がいるだろう。ことばの使い手がいるだろう。岡田の特徴は、分析するだけではなく、育てる力にあると言うべきなのだろう。
 濁り。混ざり。混濁--それは、一般的に否定的な意味を持っている。だが、その混濁のなかにも、混濁で終わってしまわない「いのち」がある。それをそっと混濁のなかから導き出し、それを育てる。そこから育っていくものは、混濁がもっている矛盾をエネルギーにして輝く新しいいのちである。岡田は、そういうものの「産婆」をめざしてている。

 「温モリモアル」「深ミモアル」の「モ」。ここに岡田の特徴がある。「温モリガアル」「深ミガアル」ではなく、あくまで、「も、ある」なのだ。
 あることがらを断定してしまうのではなく、「も」をつかって、幅を広げる。
 この詩に登場する「温もり」「深み」(ちょっと面倒なので、ひらがなに書き換えてしまうが)ということばそのものもそうだが、その温もり、深みというのは絶対的なもの、限定的なもの(何度、とか、何メートルとデジタル化できるもの)ではない。最初からある程度の「幅」をもっている。
 この「幅」を岡田は、「間」と呼んでいる。「間合い」と呼んでいる。「6」の部分に出てくる。

灰はイエスかノーじゃない
まあまあの まさに間(ま)
きみと俺 きみとこの世の間合いなんだよ

 この「間」は「あいだ」ではなく、むしろ存在をつつみこむ「ひろがり」である。「矛盾」全体をつつみこむ--包容力である。
 その包容力のひろがりのなかに、たとえば「人肌」とか、たとえば「黒潮」とか、岡田の暮らしになじんだものが入ってくる。いや、そういうものまでもつつみこむところまで、そこにあるものを育てていくいのちの力が岡田のことばにはある。

 「五月のうた」は詩集のなかで私がもっとも好きな作品だ。そこには小野篁というような歴史上の人物や又留さん、末彦さんというような、誰だかわからない人がいっしょに登場する。同等の人格で登場する。すべての人間を対等につつみこむ力、そのなかから育つものは育てる、という「産婆」術。そういうことがていねいに書かれた詩である。
 長いので、目の悪い私には引用している余裕がない。ぜひ、詩集を買って、読んでください。

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