詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルイ・マル監督「死刑台のエレベーター」(★★★★)

2016-02-05 17:02:36 | 午前十時の映画祭
監督 ルイ・マル 出演 ジャンヌ・モロー、モーリス・ロネ 音楽 マイルス・デイビス

 昔の映画はいいなあ。役者の顔をたっぷり見せている。
 ジャンヌ・モローは私の感覚では「美女」ではないのだが、うーん、見とれてしまう。台詞は「愛している」「ジュリアンを見なかった?」くらいしかないし、夜の街をただジュリアンを探して歩き回るだけなのだが、この男を思って夜の街を歩くが、そのまま「感情のアクション」、それも「抑えきれない/抑圧されたアクション」になっているのがとてもおもしろい。
 モーリス・ロネにいたっては、台詞はもっと少なく、電源を切られたエレベーターのなかで、どうやってそこからぬけ出そうか試みているだけなのに、うーん、おもしろい。エレベーターの壁を外して、なんとかしようとするのだが、ナイフ一本でできるのはネジをゆるめる、カバーを外すくらい。でも、それをていねいに映像化すると、それが「アクション」になる。
 肉体をはげしく動かすのが「アクション」ではなく、感情が動いていることを肉体をとおしてあらわすのが「アクション」なのだ。
 で、こういうとき何が大切かというと。
 まず、肉体が動く。顔が動く。そのあとで「ことば」が動く。これが逆だと「アクション」にならない。いちばんわかりやすいのが。
 モーリス・ロネが殺人者として新聞に顔写真が載っている。彼が、それを知らずにカフェに入る。電話を借りる。それを見ているウェイトレス、店長の顔。モーリス・ロネが電話を離れてから、ウェイトレスが店長に「警察に電話しようか」と言う。まず、目で、「あ、犯人だ」という「驚き/感情」が動き、それはことばにせずに、そのあとでさっきの動きをことばで言い直す。--これは、極端な例。
 これをもっと短い間合いで、緊密に、ジャンヌ・モローが演じている。効果的なのが、ジャンヌ・モローの「こころの声」。「肉体」が動いたあとで、「あんな小娘と……」というような「声」が追いかける。(モーリス・ロネの車を盗んだ若いカップルがジャンヌ・モローの目の前を走り去る。彼女からは花屋の若い娘しか見えない。)その「声」をききながら、観客は、もういちどジャンヌ・モローの感情を反芻する。反芻すると、その「声」がジャンヌ・モローの感情ではなく、見ている観客の「声」になる。
 「あんな小娘と……」という「表情」を見て、その「肉体」からなんとなく、その「感じ」を受け取り、それ「ことば」で念押しする。その念押しの感情が、観客の「思い」と重なる。「追認」ではなく、一種の「共感」である。
 この感じを、さらにマイルス・デイビスの音楽が追いかける。ことばにしても、なおことばにならない何か。それをことばをつかわない音楽が念押しする。これは、どうしたって「ゆっくりしたアクション」以外では、うまくいかない。
 男を探し回るといっても、走るのではない。車をつかうのでもない。あてどなく、あの店、この店と歩き、店員に聞いたあとも店内のなかを、もしかしたら何か手がかりがあるかもしれないと歩き回るという「ゆっくりアクション」、エレベーターを力任せで「壊す」のではなく、精密機械を分解するようにていねいに解体しようとする「ゆっくりアクション」が、観客の肉体をまず刺戟し、そのあとでこころになる。それからその「こころ/意味」をことばで確認し、ことばで言い尽くせなかったものを音楽で「感じなおす」。
 「情感」にたっぷり酔った感じ。
 ストーリーは「推理小説」なのだが、謎解きというよりも、そこで動いているひとの「感情」の変化を「顔」をとおして味わう映画だ。最近は、こういう「味わう」映画が少なくなったなあ。
              (「午前十時の映画祭」天神東宝6、2016年02月01日)



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