詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「手でくるんで(1972)」より(1)中井久夫訳

2009-02-01 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
秘密の犯行    リッツォス(中井久夫訳)

あの夜の犯行は神聖だ。そうぼくらは言ってた。
あれは口を割らぬと誓ってた。だが、分からぬ、
きみにも分からぬ、あれがいつまで黙っておれるか。
きみもだ。いつまで口を割らぬか。ひょっとすると
あれに先を越されぬようにバカみたいにゲロを吐くぞ。
窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に
群衆の中に椅子がどさっと落とされ、ガラスが割れ、
それから「奴」が、ほっぺたに傷跡のあるあいつが、眼を血走らせ、
筋肉の盛りあがった腕をのばして、きみを指さす時には--。



 「犯行」はもしかすると「犯罪」ではなく、戦いかもしれない。たとえば自由を守るための。「聖戦」という名の行動かもしれない。そういう戦いにおいて、誰が何をしたかは絶対的な「秘密」である。知っているけれど知らないということにしなければならない。けれども、たとえば拷問にあったとき、どうなるだろうか。いつまで黙っていられるか。それはいつでも厳しい問題である。
 こういう詩の中にあって、

窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に

 という行は美しい。
 それを美しいと感じるのにはわけがある。「雨」には感情がないからだ。「雨」は人間の感情に配慮しない。人間が悲しんでいようが苦しんでいようが関係なく、ただ降るだけである。その、人間と「無関係」という関係が美しい。なぜなら、それは「無関係」ゆえに人間を裏切らないからだ。
 「レストランのネオン」も同じである。それは「自然」(気象)ではなく、人間がつくったものであるけれど、やはり人間の感情、人間の精神を配慮しない。人間の作り上げたものには、人間が作り上げたにもかかわらず、そういう要素がある。人間とは「無関係」という要素が。
 そういう人間と「無関係」、さらに言えば、私とは「無関係」な存在が私を孤独にし、私を同時に洗い清める。あらゆる人間関係を、ぱっと切って捨ててしまう。
 人間も、そんなふうに他者を切って捨ててしまうことができれば、とても美しくなれる。それは「裏切る」ということではなく、逆の行為を指して言っているのだが。つまり、ほんとうに仲間を完全に自分とは「無関係」と言ってしまえる精神力があれば、という意味で言っているのだが。同じ「犯行」を犯した仲間、その誰彼を、「雨」や「ネオン」のような存在になってしまって、「知りません」と言ってしまえるだけの、人間を超越した精神力があれば、あらゆることは美しくなるのに……。

 リッツォスがそんなふうに考えたかどうか、わからない。けれど、私は、そんなふうに考えてしまう。「窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に」という1行があまりにも美しいので。何か悪いこと(?)をしたあと、雨の降る日、レストランのネオンをひとりでみつめてみたい気持ちにさせられる。孤独を感じ、絶望を感じ、そしてその孤独や絶望を感じる力を、雨やネオンと通い合わせてみたいのだ。そのとき、きっと何かが美しくなる。そんな気持ちにさせられる。


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