「その粗暴なまでの Et in Arcadia ego 」(『われアルカディアにもあり』)には不思議な2行がある。
「アルカディア」は地名である。その地名が「アルカ/ディア」と行わたりしている。そのとき「アルカ」は「在るか」という日本語のように響く。
その数行前には「夜明け」ということばが繰り返されている。直列すべき夜明けを探してのたうつ精神が描かれている。そうした行の展開の後に「われアルカ」という行が登場すると、思わず「われは在るか(存在するか)」という問いに向き合った気持ちになる。その問いを、問いながらなおすぐに渋沢は「われアルカ/ディアにもありわれアルカディアにもあり」と強引に訂正する。あるいは強引に自分に言い聞かせる。
だが、どんな状態で?
存在は「われ思うゆえにわれあり」ではないが、常にただ存在するだけでは存在とはいえない。
引用した2行は次のように展開する。
「声だけの存在」。ここに私は何か渋沢の詩の理想のようなものが語られていると思ってしまう。直列の詩学、それを実現するための声。声だけの存在。ことばだけの存在、といいかえてもいいかもしれない。肉体の限定から自由になったことばだけの存在。そのようなものとして存在すること。たしかにそれは「詩」にとって理想だろう。
この作品は、ことばの繰り返しによって終わる。
「声」だけ、あるいはことばだけの存在は粗暴である。その運動を肉体は止めることができない。「直列の詩学」はただことばを爆発させるだけである。ことばが爆発し、それまでのことばと違ったものになってしまう。それは一種の暴力である。粗暴な力の発言である。
そういうものとして存在したい--渋沢の欲望は、たしかにこの一冊で実現されていると思う。渋沢の代表作といえる詩集だと思う。
われアルカディアにもありわれアルカ
ディアにもありわれアルカディアにもあり
「アルカディア」は地名である。その地名が「アルカ/ディア」と行わたりしている。そのとき「アルカ」は「在るか」という日本語のように響く。
その数行前には「夜明け」ということばが繰り返されている。直列すべき夜明けを探してのたうつ精神が描かれている。そうした行の展開の後に「われアルカ」という行が登場すると、思わず「われは在るか(存在するか)」という問いに向き合った気持ちになる。その問いを、問いながらなおすぐに渋沢は「われアルカ/ディアにもありわれアルカディアにもあり」と強引に訂正する。あるいは強引に自分に言い聞かせる。
だが、どんな状態で?
存在は「われ思うゆえにわれあり」ではないが、常にただ存在するだけでは存在とはいえない。
引用した2行は次のように展開する。
われアルカディアにもありわれアルカ
ディアにもありわれアルカディアにもあり
逃れるまえの数刻に身を泣き涸らし ついに
岩と変じて声だけの存在となったのだ
「声だけの存在」。ここに私は何か渋沢の詩の理想のようなものが語られていると思ってしまう。直列の詩学、それを実現するための声。声だけの存在。ことばだけの存在、といいかえてもいいかもしれない。肉体の限定から自由になったことばだけの存在。そのようなものとして存在すること。たしかにそれは「詩」にとって理想だろう。
この作品は、ことばの繰り返しによって終わる。
その粗暴なまでの
その粗暴なまでの率直さ
その粗暴なまでの その粗暴なまでの
「声」だけ、あるいはことばだけの存在は粗暴である。その運動を肉体は止めることができない。「直列の詩学」はただことばを爆発させるだけである。ことばが爆発し、それまでのことばと違ったものになってしまう。それは一種の暴力である。粗暴な力の発言である。
そういうものとして存在したい--渋沢の欲望は、たしかにこの一冊で実現されていると思う。渋沢の代表作といえる詩集だと思う。