伊藤比呂美「空港から出たところでバスのきっぷを買って」(現代詩手帖2005年2月号)
この詩の魅力はいくつもある。生と死が猥雑に交錯する。生が性と一体になり、命が増殖する。その増殖の仕方は動物的というより植物的である――というのがたぶん伊藤の詩のおもしろいところであり、その増殖が植物的であるからこそ、死はまた、植物的であり、まるで枯れ草のように腐って消えていくものになる。つまり、死のあとには「骨」などは残らず、死にながら死ななかった植物の根が再び命となってよみがえるように、忘れた場所から噴き出して来る。
もちろん、そこに「詩」はあるのだが、その詩はすでにおなじみのもの、伊藤の詩に共通したものである。伊藤の詩を特色付ける「色」――完成されてしまった「色」である。
私は、そうした完成された「色」ではなく、違う行に惹かれる。「詩」を感じてしまう。
この、非常に散文的な、一般的に詩と思われていることばから非常に遠いことば、その展開に私は「詩」を感じる。
そうか、伊藤にも焦点のあわせられないものが存在し、それを見ようとするこころがあり、そこからことばが動き出している、ということが感じられる。
この瞬間に、私は「詩」を感じる。
伊藤の、植物を、犬を、家族を語ることばの、ずるずるとひきずりながら増殖することば――それは焦点の合わないものを手探りで(比喩としての)――つまり、触覚を媒介に世界を連続させることばは、こういう意識から生まれているのだ、ということがわかる。
見ようとしても焦点があわない――だから視覚ではなく触覚のなかの「視力」を手がかりに、方々に歩き回る。
歩くこと、動くことが必然として存在する。歩くことは「触覚」の世界を広げる唯一の方法だからである。「触覚」の移動――それはまるでセックスそのものである。セックスは、触覚が体中を動き回り、その動いた先で、聴力にもなれば視力にもなって世界を捻じ曲げていく――というか、世界を自分と一体にしてしまう――世界と一体になることだ。
そういう状態になると、世界は一気に輝く。美しく発光する。
「焦点」などあわなくてかまわない。詩人自身が強い光をはなつ存在になってしまうからである。伊藤にとって「詩」とは、読者にとって「強すぎる光」「焦点を拒絶した光」になることかもしれない。
次のような行の光――それは伊藤から読者に向けられた「光の挑戦状」かもしれない。
この詩の魅力はいくつもある。生と死が猥雑に交錯する。生が性と一体になり、命が増殖する。その増殖の仕方は動物的というより植物的である――というのがたぶん伊藤の詩のおもしろいところであり、その増殖が植物的であるからこそ、死はまた、植物的であり、まるで枯れ草のように腐って消えていくものになる。つまり、死のあとには「骨」などは残らず、死にながら死ななかった植物の根が再び命となってよみがえるように、忘れた場所から噴き出して来る。
もちろん、そこに「詩」はあるのだが、その詩はすでにおなじみのもの、伊藤の詩に共通したものである。伊藤の詩を特色付ける「色」――完成されてしまった「色」である。
私は、そうした完成された「色」ではなく、違う行に惹かれる。「詩」を感じてしまう。
外に出て
私たちは見ようとしている
ところがなかなか焦点があわせられない
この、非常に散文的な、一般的に詩と思われていることばから非常に遠いことば、その展開に私は「詩」を感じる。
そうか、伊藤にも焦点のあわせられないものが存在し、それを見ようとするこころがあり、そこからことばが動き出している、ということが感じられる。
この瞬間に、私は「詩」を感じる。
伊藤の、植物を、犬を、家族を語ることばの、ずるずるとひきずりながら増殖することば――それは焦点の合わないものを手探りで(比喩としての)――つまり、触覚を媒介に世界を連続させることばは、こういう意識から生まれているのだ、ということがわかる。
見ようとしても焦点があわない――だから視覚ではなく触覚のなかの「視力」を手がかりに、方々に歩き回る。
ここで、私は
何をしているのかわからない
何か、待っているのか探しているのかもわからない
ここに着いてからというもの私たちは歩き回っている
ひっきりなしに
外に出て
私たちは見ようとしている
ところがなかなか焦点があわせられない
歩くこと、動くことが必然として存在する。歩くことは「触覚」の世界を広げる唯一の方法だからである。「触覚」の移動――それはまるでセックスそのものである。セックスは、触覚が体中を動き回り、その動いた先で、聴力にもなれば視力にもなって世界を捻じ曲げていく――というか、世界を自分と一体にしてしまう――世界と一体になることだ。
そういう状態になると、世界は一気に輝く。美しく発光する。
外に出て
私たちは見ようとしている
ところがなかなか焦点があわせられない
緑色にふくまれる光が強すぎて焦点があわないのだ
「焦点」などあわなくてかまわない。詩人自身が強い光をはなつ存在になってしまうからである。伊藤にとって「詩」とは、読者にとって「強すぎる光」「焦点を拒絶した光」になることかもしれない。
次のような行の光――それは伊藤から読者に向けられた「光の挑戦状」かもしれない。
ススキもオギもアキノキリンソウもまだ発情していませんでした、人がそばをとおるとススキは鋸のような葉で切りつけました、皮膚が切れて血が出ると、ざあっとそよいで自分でやったことにあわてました、揺さぶられるふりをしながら、ぺろりと舌を出して葉についた血をなめとりました、