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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

サラマーゴの文体

2021-11-23 10:43:27 | その他(音楽、小説etc)

  何度か書いてきたことだが、サラマーゴの文体(『Ensayo sobre la ceguera 』)には驚かされる。

 主人公の女(眼科医の妻)が道に迷う。そして、帰り道を発見する。そのとき、それまでの三人称(ただし、会話では一人称)が、突然二人称に変わる。

 270ページから271ページにかけて。

 

 No estaba tan lejos como creía, sólo se había desviado un poco en otra dirección, no teneis más que seguir por esta calle hasta una plaza, ahí cuentas dos calles a la izquierda, doblas después en la derecha, esa es la que buscas, de numero no tehas olvidado.

 

 「No estaba tan lejos como creía, sólo se había desviado un poco en otra dirección」までは、作家のナレーション。状況説明。動詞は三人称。「estaba/se había desviado 」「彼女が」思ったほど遠くにいるのではない、ほんの少し反対方向へきてしまっただけなんだ。そのあと、「no teneis más que seguir por esta calle calle hasta una plaza ・・・・」。動詞に二人称。「teneis」主語は「君」。「君は」この通りを広場までまっすぐに行かなければならない。(以下の動詞も、二人称)

 つまり、ここでは主人公は、自分自身に対して「君は」と呼びかけている。これは彼女が道に迷った混乱から立ち直り、自分自身に、「こうしろ」と命令しているのである。いわば、客観化。この客観化によって、私は(読者は)、あ、主人公は混乱から立ち直りつつあるとわかる。

 私は、ここで、目が覚めました。

 以前、別の女(突然あらわれた女)が放火するシーンで「時制」が過去形から現在形に変わることを指摘したが、ここでは「人称」が突然変化する。私は、スペイン語の初心者(NHKラジオ講座の入門編がまだ終わらない)ので、これまでこういう「人称」の変化があったかどうか気がつかなかったが、ここでは、はっきりと気づいた。

 サラマーゴは、時制や人称を変化させることで、読者を「物語」そのものに引き込んでいる。ストーリーそのものもおもしろい(だから、映画にもなった)のだが、「文体」そのものが「小説」(文学)にしかできないことをやっている。

 これは、おもしろい、としか言いようがない。

 

 で、ね。

 ここからちょっと自慢。

 私はこの小説をスペイン人の友人に手伝ってもらいながら読み進んでいるのだが、私が「270ページから271ページにかけて、動詞の人称が変わっている。ここが、この小説のおもしろいところ。とても感心した」と話したのだが、私のスペイン語のせいもあって、その小説の「醍醐味」がなかなかつたわらない。つまり、友人は人称の変化を気にせずに読んでいた。無意識に、なんでもないことのように読んでいた。私が「もっと先から読み直してみて。突然、TU(君)が出てくるよ。とてもおもしろいと思わないか。サラマーゴの天才がここにあらわれている」と繰り返し、「彼女は、ここで自分自身と頭の中で対話している」と言いなおして、やっと私の言いたいことの「意味」が通じた。友人もびっくりしていた。彼女自身が対話している、ということは意識しなかったようなのだ。

 何が言いたいかというと。

 私は、どうも、ふつうの人が見落とす「文体の変化」に敏感らしいのだ。

 外国語でこうなのだから、日本語では、もっと気になるんだよなあ、この「文体の変化」。

 

 脱線からもどると。

 これも何度か指摘したことだけれど、雨沢泰の訳文は、当然のことのように、この「文体の変化」を訳出していない。

 「彼女は思ったよりも遠ざかっていなかった。別の方角へ大まわりしていたからだ。この通りをまっすぐ広場まで歩き……」。「心の声/頭の中の対話」が聞こえてこない。だから、喜びもつたわらない。心の躍動がつたわらない。

 

 

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サラマーゴの文体、時制の選択

2021-11-17 10:25:04 | その他(音楽、小説etc)

サラマーゴの文体、時制の選択

 

 きのう書いたことのつづき。

 サラマーゴは突然あらわれた女(私は、「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」といった女が「生まれ変わった」姿として読んだ)が放火するシーンは現在形で書かれている。

 私が感動したと紹介した部分(228ページ)、女が「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」と言った部分からはじまる文章さえ、

 la mujer habló, A donde tu vayas, ire yo

 女は言った(habló)、「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」と過去形で書かれている。聞いた眼帯の老人も、

 El vieno de la venda negra sonrió

 黒い眼帯の老人は笑った(sonrió)と、その反応を過去形で書いている。

 そういうことを理解すると、放火シーンがなぜ現在形なのかがわかる。

 さらに、生々しさだけで言うなら、医師の妻たちが強姦されるシーンはどうか。210-211ページ。

 La mujer del medico se arrodilló           

 医師の妻はひざまずいた(se arrodilló)

 やはり過去形なのだ。なぜ、生々しいシーン、そこれこそスケベごころを刺戟するシーンが過去形なのか。ここが現在形で書かれていたら、私なんかは、スケベだからもっと興奮する。若いときなら勃起したかもしれないし、オナニーをするために読み返したかもしれない。

 だが、そんなところ(描写)はサラマーゴにとって重要ではなかったのだ。こんなところで、思春期の少年が興奮するように興奮してもらっては困るのだ。人間の「本質」とは関係がないのだ。「生きる」ということとは関係がないのだ。

 この小説の中に、女は何度でも生まれ変わる、というようなことが書いてある。(サングラスの少女が言う。)「生まれ変わる」瞬間、新しい自分が生き始める瞬間、それは絶対に「過去形」ではないのだ。こういうことこそが、「文体の思想」である。ことばは、その人が到達した思想の到達点を示すといったのは、誰だったか。三木清だったか。

 そうした「思想としての文体」を訳出しない限り、それは翻訳とは言えない。

 

 私はポルトガル語ではなく、Basilio Losadaという人が訳したスペイン語版を読んでいるのだが、ポルトガル語とスペイン語は姉妹言語だから、翻訳するときに「時制」を変えるということはしていないだろう。サラマーゴの「文体」は正確に踏襲されているはずである。

 意味というのは「ことば(単語)」のなかにあるのではなく、「文体」のなかにある。それは、そして「名詞」のなかにあるだけではなく、「動詞」のなかにこそあるし、その「動詞」は「時制」という複雑な「味」を持っている。これを読み取ること、味わうことが文学の楽しみだと私は思っている。

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サラマーゴの文体

2021-11-16 10:23:51 | その他(音楽、小説etc)

サラマーゴの文体。
245ページで、ハッと衝撃を受ける。
上から二行目。
La mujer ha salido ....
現在完了形。言わば、過去形。ただし、意識は現在につづいている。
それが
Va por el corredor
と現在形にかわり、クライマックスの放火のシーンでは
La mujer está de rodillas....
以下、現在形がつづく。
ナレーションの文体を変えているのだ。
日本語でいえば、「した」でも意味は通じる。実際、日本語訳は過去形である。
でも、現在形の方が臨場感がある。
女の行動だけれど、自分が行動している気持ちになる。
現在完了形→現在形→現在形の連続と変化していくところが、本当に素晴らしい。
文学の醍醐味は、こういうところにある。
よく読むと、こういう文学的仕掛け、しかも本質的な仕掛けが、この小説にははりめぐらされている。
以前書いたが、最初の信号の描写から、それは始まっている。
これを無視した(気づかない?)雨沢泰の訳文は、ちょっとひどすぎる。 

 
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雨沢泰訳『白い闇』の訳文

2021-09-30 10:58:31 | その他(音楽、小説etc)

雨沢泰訳『白い闇』の訳文

  雨沢泰訳『白い闇』(NHK出版、2001年2月25日発行)の訳文は、あまりにもひどい。私の持っているのは古い版なので改定版が出ているかもしれないが。108ページにこんな文章がある。

医者の妻は時計を見た。針は二時二十三分をさしている。眼を寄せると秒針がとまっていた。情けない時計のネジをうっかり巻き忘れていたのだ。それとも、情けないのは彼女なのか、わたしなのか。

 この「情けないのは彼女なのか、わたしなのか」の「彼女」って、だれ? この小説には、おもだった女はサングラスをかけた若い女と、この医師の妻。ほかにはいない。いくら前を読み返しても「彼女」にふさわしい人間はいない。
 スペイン語訳(原文はポルトガル語だと思う)では、こうなっている。「情けない時計」以後を引用する。

 Se había olvidado de dar cuerda al maldito reloj, o maldita ella, maldita yo
                   
 たしかに「 maldita(情けない) ella (彼女)」ということばは出てくる。だが、これは「maldito (情けない)reloj (腕時計)」と医師の妻が思わず時計を罵った後、ほんとうに罵るべきなのは時計なのか、ふと思い悩む(後悔する)場面である。時計を罵ってもしようがない。情けないのは、ほんとうはネジを巻き忘れた私である。それが「 maldita(情けない) yo (私)」。
 それでは「彼女( ella )とは誰なのか。誰、ではなく「cuerda(ネジ)」なのである。「cuerda」が女性品詞だから「 maldita cuerda 」と書くかわりに「 maldita ella 」と書いている。代名詞をつかっている。そして代名詞をつかったのは、そのあとに「 yo (私/代名詞)」が来るからなのだ。
 スペイン語にしろ、フランス語にしろ、名詞に「男女」の「性別」があるということは、語学の初歩で習う。私はいまだにNHKのラジオ講座の初級編をクリアできないけれど、それくらいのことは知っている。小説を訳す人間なら、当然知っていることである。
 日本語訳には(先に書かなかったけれど)、「情けない時計」にはわざわざ「傍点」がふってある。「情けない」ということばのつかい方に特徴がある、「時計」は器械だから「情けない」という修飾語はふさわしくない、けれどサラマーゴは「情けない」ということばをつかっているといいたいのだと思う。そこまで気配りができるならば、「 maldita ella 」を「情けない彼女」と翻訳する気持ちがわからない。
 「maldito (男性形) maldita(女性形)」は時計、ネジを修飾するときは「情けない」というよりも「いまいましい、のろってやりたい、ばかな」くらいの訳の方が日本語敵だと思うが、それを「わたし」にそのままあてはめるとなんとなくおかしい。「わたし」の場合は、たしかに「情けない」の方がぴったりくる。ネジを巻くのを忘れてしまうなんて、わたしはなんて情けない(だらしない)人間なのだろう、というわけである。そこまでことばをつかいわけるのなら、なぜ「 maldita ella 」を「彼女」と訳したのか。「彼女」ということばで、あ、これはネジのことだ、とわかる日本人読者がいるだろうか。
 この小説の書き出しの文章の訳文の不適切さについては既に書いたが、あまりにもひどい訳文だね。

 ちなみに(というつかいかたでいいのかどうかわからないが)、スペインの友人に聞いてみた。この本を読むのを手伝ってくれている。「ここに書いてある ella はcuerdaのことか」。即座に、「そうだ」という返事。「ほかに何か考えられる?」という感じの答え方だった。代名詞(日本で言えば指示代名詞)が何を指すかは、どの国のことばでもむずかしいときがあるが、この部分では「 ella 」を「彼女(人間)」と思うネイティブは皆無だろう。そういう部分を「見落としている」のがなんともおかしい。原稿を読んだ編集者も「この彼女というのは誰ですか」くらい聞けばいいのに。

 

 

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ばかばかしい「論理」

2021-07-10 08:54:28 | その他(音楽、小説etc)

 

 東京五輪の「無観客開催」が決まった。そのことを受けて、菅がこんなことを言っている。(読売新聞、https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210710-OYT1T50099/ )

「大きな困難に直面する今だからこそ、人類の努力と英知によって難局を乗り越えていけると東京から発信したい」とも語った。
↑↑↑↑
 菅は「安心安全」とか「努力」とか「英知」ということばが好きなようだが、もしほんとうに「人類の英知」によって困難を乗り越えようとするのなら、「英知」は観戦の危険があるときは五輪を開催しないという決断することだろう。
 それは「英知」というほどのものでもないし、努力というほどのものでもない。あえていえば「我慢」だろう。楽しみたい気持ちはわかるけれど、いまは我慢しよう。我慢することが、自分を助け、みんなを助けること。みんなで助け合いをすることを「公共の福祉」(憲法第12条)と呼ぶことができるが、いまこそ「公共の福祉」の精神を行かすべきときである。
 自民党はこの「公共の福祉」ということばが嫌いで、「公益及び公の秩序」(自民党憲法改正草案、2021年)と言う。さしずめ「無観客」というのは「公の秩序」になるのだろう。「公益」というのは、オリンピックを開催することでもたらされる「お金」ということになるのだろう。でも、オリンピック開催によって「潤う」のはだれなんだろう。「公益」というが、だれのところに「益」が入ってくるのだろうか。IOCには巨額の「放送権料」がころがりこむらしいが、その「益」は日本国民に再配分されるもの? 違うだろうなあ。。日本と日本人にとっては「益」でもなんでもない。せいぜいが、菅の周辺に何がしかの「見返り」がある程度だろう。
 コロナの感染拡大の危険性を考えれば、大会を開かないことがいちばん。そして感染拡大がおさまるならば、医療費の国民負担(税金も含む)も少なくなる。支出が減るということは、収入が入るように目に見える「益」ではないが、やはり「益」なのである。金を使わずにすむ。金をほかのことに使うことができる。
 そういう方法を考えるのが「英知」というものだろう。
 「安心安全な大会」といっていたのに、その「安心安全」のために「無観客」にするというのが「英知」だろう。難局(コロナ感染拡大)を「乗り越える」のが「無観客」というのなら、大会を開かない方がもっと万全だろう。万全の策を探り、それを実践するのが「英知」のつとめだろう。

 五輪ではほとんどの競技で児童・生徒向けの観戦特別枠が取りやめになった。このことについて、読売新聞は、菅に劣らずばかばかしいことを書いている。
https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210710-OYT1T50086/ 
無観客となった自治体の子どもたちは、完全に観戦の機会を失うかもしれない。将来を担う世代に五輪の意味や価値をどう伝えるかも、今後の大きな課題だ。
↑↑↑↑
 「五輪の意味や価値」ということばが出てくるが、読売新聞は「五輪の意味や価値」を同定義しているのか。菅の「英知」とか「努力」と同じように、単なる飾りことばだ。
 五輪は世界の選手が一堂に集まり競技し、選手だけではなく観客も一体になって楽しむことで、世界がひとつであることを実感することだろう。広い会場の観客席で、児童生徒だけが世界一流の選手の競技を見たとして、それでどうして「五輪の意味や価値」を体得できるだろうか。そこから生まれるのは「自分たちは選ばれた人間だ(特権階級だ)」という意識ぐらいだろう。世界にはいろんな人がいるということを実感することもできない。広い会場に世界中からいろいろな人が集まってきて、ことばの通じない隣の人といっしょに楽しんでこそ「世界」を実感できる。同級生と一緒に見ているだけでは「世界」は実感できない。
 そんなことをするくらいなら、大谷選手が打つホームランを見に、アメリカへ旅行した方がいい。「世界中」とはいわないが、多くの人がホームランを見に来ていて、大谷がホームランを打てばスタジアムがどよめくだろう。三振したって、それはそれで、がっかりのため息がスタジアムをつつむだろう。そういう瞬間を体験してこそ、感動の共有がある。
 「英知」だとか「価値」だとか、そういうことばは、それだけでは何の意味も持たない。そのことばが指し示している「実態」と結びつけて「内容」を特定しないといけない。ことばの「空回り」に、ジャーナリズムが手を貸して、一体何になるのだろう。

 

 

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フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』

2021-06-23 09:55:24 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(土岐恒二訳)(集英社、1978年12月20日発行)

 フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(土岐恒二訳)を再読した。入院中に読んだ短篇再読のつづき、という感じで。ただし、再読と言っても、前に読んだときは本のページにしたがって読んだだけ。今度はコルタサルが指示している順序(指定表)で読んだ。
 そして、あっ、と声を上げた。
 全部で155の断章から構成されているのだが、最後の方は131→58→131と同じ「131」が前後して出てくる。まあ、こういうのは映画のラストシーンなんかにはありそうだけれど、小説では珍しい。
 でも、あっ、と声を上げたのはそこではない。
 指示表にしたがって読んでいくと、「55」(296ページから300ページまで)を読み落とすことになるのである。
 冒頭の「指定表」以外に、各断章の末尾には、括弧で次に読むべき断章の番号が明記されているのだが、この末尾の番号も「55」に限っては書かれていない。指定表が間違っているわけではなく、意図的なのだ。
 そして、というか、ということは。
 コルタサルは、実は、この「55」をこそ書きたくて、『石蹴り遊び』を書いたのだ。ここにこの小説のすべてが書かれているのである。『石蹴り遊び』を「短篇」に書き直すと「55」になるのである。
 『石蹴り遊び』の主要な登場人物は、オラシオとラ・マーガ、トラベラーとタリタ。舞台はパリとブエノスアイレス。オラシオとラ・マーガはパリで暮らしていた。オラシオはブエノスアイレスに帰って来てトラベラーとタリタに会う。ラ・マーガはパリで自殺している(溺死)。オラシオはタリタをラ・マーガと見間違う、という感じでストーリーは展開する。タリタ(ラ・マーガ)を真ん中に、オラシオ、トラベラーの「三角関係」のようなものが動く。オラシオは最後は飛び下り自殺(?)をする(した)らしい。瀕死のベッドで、オラシオは自分の生涯を振り返っている、という風に私は全体を把握していたのだが……。
 で、それが「55」では、
<blockquote>
 しかしトラベラーは眠っていなかった。悪夢は一、二度襲来を企てたのち、彼の周囲を旋回しつづけ、結局彼はベッドの上に身を起こして明りをつけた。
</blockquote>
 ではじまり、
<blockquote>
 --ラ・マーガはわたしだったの--とタリタは言って、トラベラーに体を押しつけた--。あなた気がついていたかしら。
</blockquote>
 をはさみ、
<blockquote>
 タリタはベッドの上で少し体を滑らせてトラベラーに凭れかかった。彼女は実感していた、自分がふたたび彼のそばにいることを、彼女が溺れ死にはしなかったことを、(略)二人はそのことを同時に感じ取り、互いに相手の方へ滑り込んで言ったのだった(略)、二人を包みこむ共通の領域へ落ちこんで行くように。それらの心静まる比喩、いつもの存在に戻ることに満足する、風と潮に逆らって、呼びかけと下降に逆らって、浮かび漂いつづけること、浮かび漂ったままでいることに満足する、あの古い悲哀。
</blockquote>
 と終わる。
 重要なのは「同時」であり「共通」である。生と死は「同時」に存在し「共通」している。オラシオの夢のなかでラ・マーガは死に、トラベラーの夢のなかでオラシオが死ぬとき、タリタの夢のなかでラ・マーガはよみがえる。単によみがえるのではなく、タリタとなってよみがえる。そして、ラ・マーガがよみがえれば、オラシオもよみがえるはずであり、そのときオラシオはトラベラーになる。
 それは、だれの夢なのか。
 私は突然、ジョイスの『ユリシーズ』を思い出す。『ユリシーズ』の「主役」はだれなのか。「主役」を問うて、何かが解決するわけではないが、私はブルームに身を寄せて小説を読んでいる。しかし、その最後はモーリーの「イエス」の連続で終わる。そうであるなら(?)、『石蹴り遊び』も、自分がラ・マーガであることを受け入れた(イエス、と言った)タリタの夢かもしれない。
 男が(コルタサルが、ジョイスが)、自分では見ることのできない「夢」を女性を登場させることで(自分が女性になることで)、男には不可能な「夢」を見ているのかもしれない。絶対的現実、超越的現実の世界を手に入れようとしているのかもしれない。
 このとき、もうひとつ、「浮かび漂う」という動詞も重要になるだろうと思う。短篇を再読したとき、コルタサルは「意識の流れ」ではなく「思いの流れ」を書いている、と指摘した。「浮かび漂う」のは「思い」である。「結論」など求めていない。「結論」へとたどりつくことを放棄して、いま、ここで、二つのもの(複数のもの)が「同時」に出会い、「同時」に漂うとき、そこに生まれてくる「共通」の思い、思いを結びつける「共通」の何か。それを味わうことが「生きる」ということなのか。

 いつかは、自分の好きな順番に、私の「指定表」をつくらなければならない。それが完成したとき『石蹴り遊び』を読んだと言えるのかもしれない。
 小説も詩集と同じように、自分の好きなところを、自分の好きな時間に読んで味わうものなのだろう。そういうことを『ユリシーズ』も『石蹴り遊び』も教えてくる。


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José SARAMAGO 『Enasayo sobre la ceguera』と雨沢泰・訳『白い闇』

2021-06-17 11:03:32 | その他(音楽、小説etc)

 

 

José SARAMAGO 『Enasayo sobre la ceguera』と雨沢泰・訳『白い闇』( NHK出版、2001年02月25日発行)

 私が読んだ『白い闇』は2001年に出版されている。改訂版が出ているようだが、私は読んでいない。その2001年版なのだが、前回書いたように、訳がサラマーゴの「文体」を十分にくみ取っているとは思えない。ラジオ講座の初級についていくのがやっとの私が言うのは問題があるかもしれないが、その私でさえ、これではサラマーゴがかわいそうと思う「訳文」である。ほんの書き出しを読んだだけだが。
 きょう指摘したいのは、邦訳の8ページ、前のページから始まった段落の最後の部分。止まったままの車に向かって、後続の車から人が降りてくる。窓を叩く。

なかにいる男は人びとのほうに首をめぐらし、それから反対側に顔を向けた。男ははっきりとなにごとか叫んでいる。その口の動かし方から判断すると、いくつかの単語をくりかえしているようだ。一語ではない。ある人がようやく車のドアをあけたとき、なにを言っているのかわかった。目が見えない。

El hombre que está dentro vuelve hacia ellos la cabeza, hacia el otro, se ve que grito algo, por los movimientos de laboca se nota que repite una palabra, una no, dos, así es realmente, como sabremos cuando alguien, al fin, logre abrir una puerta, Estoy ciego.

 雨沢が「一語ではない」と訳している部分は「una no, dos,」である。私なりに訳すと「いや一語ではない、二語だ」である。ことばは音が聞こえないとき、いくつの単語を言っているかわかりにくい。長い単語もあれば短い単語もあるからだ。だからこそ「一語かな? いや違う、二語だ」と書くことで、サラマーゴは、車の外にいる人たちが、男がなんと叫んでいるのか聞き取ろうとしている様子を描いている。そして、その「二語」が、最後の「Estoy ciego 」(私は/盲目、という二つの単語)につながっている。「una no, dos,」は、「目が見えない」(私は盲目だ)の重要な「伏線」なのである。
 雨沢の訳で、もちろん意味は通じる。しかし「一語ではない」では、「二語」のそれぞれがわかったときの衝撃度が違う。「二語だ」とあるからこそ、「Estoy cieg」の二つの単語の重みがわかる。
 さらに、この「Estoy cieg」の「Estoy 」の意味が、本を読み進むうちに重みを増す。「Estoy 」(私は……です)の「私」が次々に増えていき、「estamos 」(われわれ)に変わっていく。「見えない」だけなら「No puedo ver nada 」でも通じる。でも、ここではどうしても「estoy 」という「一人称」が必要なのだ。
 私はこうした「伏線」のことを「呼応」と呼んでいるが、雨沢の訳は「呼応」を見落としている。前回書いた「信号」を「semáforo 」ではなく「disco 」と表現しているのに通じる。文学は「意味」ではなく、「表現」の細部なのだ。
 そして、この表現の細部に関していえば。
 サラマーゴのこの小説にはコンマ「, 」が非常に多い。(この小説にかぎらず、多いのだと思う。「Caín 」という小説もコンマだらけである。「Caín 」は、未読。友人が送ってくれたので、手元に持っているだけ。)サラマーゴはコンマによって「文体」をつくっている。意識の躍動というか、変化そのものをあらわしている。雨沢はコンマを読点「、」ではなく句点「。」にかえて訳出している。ときどき、省略もしている。それはそれでひとつの工夫だし、読みやすいのだが、どうしても「呼吸」がつたわらない。
 たとえば「ある人がようやく車のドアをあけたとき」の「ようやく」は日本語訳では読みとばしそうになる。読みとばしても問題はない。しかし、この「ようやく」をサラマーゴは「, al fin, 」とコンマで挟んで強調している。この強調は「意味」の強調であるだけでなく「呼吸」の強調である。「肉体」全体でことばを動かしているのである。「呼吸(コンマ)」には、とても重要な意味があるのだ。雨沢の訳文では「ようやく」は「あけた」という動詞にかかる。原文では「 asi' es realmente」と呼応しながら「 sabremos 」(わかった)にかかっているようにも感じられる。私はネイティブではないので、これは一種の感覚にすぎないのだが。
 呼吸の重要性は、「una no, dos 」の前後を見るとよくわかる。「 una palabra, una no, dos, así 」とサラマーゴは書いている。「一語をくりかえしている。いや、一語ではない。二語だ」というのが私の考える「訳」である。雨沢は「いくつかの単語をくりかえしているようだ」と訳しているが、サラマーゴは「 unas palabras」と「複数形」では書いていない。最初は「一語」だと思った。それが「二語」だった。その「認識」の変化が呼吸そのものにあらわれている。そして、その「二語」とは「Estoy ciego 」だったと書いている。( そして、この「一」が「二」に増えるというのは、先に書いたことの繰り返しになるが、「私」が「私たち」に増えていくことにつながる。)
 この衝撃。コンマが、その衝撃を高めている。
 このコンマの意味は、簡単な日常会話でもつかみとることができる。
¿Cómo estas?(元気?)
Sí, estoy bien.(もちろん、元気)
 コンマの部分で、どれだけ「呼吸」を置くか。それは「Sí」をどれだけ強く発音するかにもかかわってくる。強く発音し、呼吸をおけば「もちろんだよ/もちろんじゃないか」という強調になる。声の響きが違ってくる。
 思うに、この雨沢というひとは、「ことば」を「声(会話)」から肉体に叩き込んだのではなく、もっぱら「読む」ことだけで理解しているのだろう。この小説は、人間が突然盲目(白い闇につつまれる)という内容なので、「肉体」感覚がどれだけ「文体」として表現されているかが重要になる。私はやっと二段落を読んだだけだが、雨沢の訳は、その重要な「肉体感覚」(肉体のリズム)を伝えきれていないのではないか、と非常に疑問に感じた。
 あえて「二回目」の感想を書いた理由は、そこにある。

 


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森鴎外「灰燼」

2021-04-09 11:13:30 | その他(音楽、小説etc)

鴎外選集 第四巻 「灰燼」

 「灰燼」は奇妙な作品である。タイトルが何を意味しているか、わからない。途中で終わっている、という感じだ。たぶん、書けなくなってやめたのだ。この、書けなくなったらやめてしまう、というところにも私は鴎外らしくていいなあ、と思ってしまう。
 主人公は「歴史」を書こうと思っている。そして「神話」とどう折り合いをつけようかと悩んでいる。神話は嘘、切って捨てたいが、そうすることで、世間を納得させることができるか。
 この主人公は、鴎外自身と言っていいだろう。
 途中に、こんな文がある。56ページ。

節蔵は何の講義を聞いても、学科の根底に形而上的原則のようなものが黙認してあるのを、常識で見出して、それに皮肉な批評を加えずに置かない。それが工藤の講義には恐れ入っている。事実を語り、事実を示すのみなのに、乾燥無味に陥らないからである。

 この「事実を語り」以降が、鴎外の「歴史」を意味している。人間の事実を、行動をそのまま語る。形而上学を付け加えない。
 「渋江抽斎」だね。
 人間が動けば、そこに自然に思想が動く。この自然な思想を「精神」と呼べば、石川淳に繋がる。石川淳が鴎外を尊敬する理由もわかる。
 石川淳は「精神の運動の速さ」と言ったが、その速い遅いは、事実の動きを描き出すことばに嘘があるかないかによって決まる。嘘がなければ、ことばは滞らない。おのずと速くなる。正確(正直)は、すばやく精神に届くのである。「精神の運動の速さ」とは、事実のなかからあらわれた精神が、人間の精神に届くまでの時間の速度、充実感のことである。
 このとき、ことばの運動の内部でも劇的なことがおきる。75ページ。

 現に書いている句が、頭の中にいる間、次の句の邪魔をしていたのに、それが紙の上にぶちまけらてると同時に、その次の句が浮き出してくる。書いている物に独立した性命があって、勝手に活動しているようで、自分はそれを傍看しているかとさえ思われる。

 事物の中に精神が充満し、横溢し、自由に動き出す、と読みなおせば、ベルグソンと石川淳と鴎外が繋がり、瞬間的に炸裂する。

 「鎚一下」にも鴎外その人をおもわせる主人公が出てくる。H君という、いわば無名のひとが出てくる。その人は無名だが、他人との向き合い方が正直である。「一人一人に人間としての醒覚を与えようとしている」(152 ページ)。そして、

己も著述家になろうと思っていて見れば、いつかこんな人の生活を書いて見たいと云うのである。

 渋江抽斎がH君のような市井の人ではないが、やはり正直な生活を生きた人である。その正直は、抽斎が死んだあとも周囲のひとの間で生きて行く。そこに鴎外の信じた「歴史」がある。

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石川淳「無尽燈」「焼跡のイエス」

2021-04-08 10:51:44 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「無尽燈」「焼跡のイエス」

 コルタサルは「意識の流れ」というより「思いの流れ」を書く。意識、思いに似たことばに「精神」ということばがある。
 石川淳は「精神」ということばを好む。「無尽燈」に、こんなことばがある。297ページ。

人間精神がいかに美しいはたらきをするか、まのあたりに知ろうとすれば、精神が物質とたたかってついにそれを征服したところの形式に於いて見とどけるほかない。精神の運動はいつも物質の運動よりも速いだろう。また精神の達すべき目的は、物質の達すべき目的よりも、かならずや高次の世界にあるだろう。

 精神と物質を対比もさせている。精神を物質よりも高次元にあるととらえている。
 そういうことよりも私が注目するのは、「運動」ということばと「速い」ということばである。
 精神が物質よりも上というのは形而上学ではよくいわれる。
 石川淳は、その根拠を「運動の速さ」で把握する。速く運動するものが、より高次の世界に到達するのである。のろのろしていては、低次元にとどまる。
 石川淳は、巷の、いわゆる低次元の人間の行動を描きながら、それを突き破る精神の速さ(強さ)を引き出す。物質から精神が噴出する瞬間を描く。
286ページには、こんなことばもある。

 きもちという不潔なものを大事がって、

 石川淳には「きもち」は不潔である。石川淳がコルタサルをどう読むか知らないが、「思いの流れ」というようなことばでは評価しないだろう。コルタサルは、物質と対比させて精神の運動を描くというようなことなしない。

 「焼跡のイエス」には、外見上、非情に不潔な少年が登場する。物質的に不潔である。しかし、少年は物質的な不潔を超越している。331ページ。

ボロとデキモノとウミとおそらくシラミとをもってかためた盛装は、威儀を正した王者でなくては、とても身につけられるものではない。

 その少年は、王の精神、焼け跡のイエスの精神を具現化している。ボロ、デキモノ、ウミ、シラミの次元を超越し、ものすごいスピードで運動している。
 それが主人公を恍惚とさせ、戦慄させる。だからこそ、336ページ。

きのうのイエスの顔をもう一度…まぢかに見たいとおもった

 それにしても、作家の文体はおもしろい。ひとりひとりが独自の文体を生きている。日本語、スペイン語というくくりではなく、コルタサル文体、ジョサ文体、石川淳文体として向き合わないと何が書いてあるかわからない。

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フリオ・コルタサル「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」

2021-04-07 10:52:46 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」

短篇集「通りすがりの男」(現代企画社)のなかの一篇。作品の登場人物(三人のうちの一人)が、一度書かれた作品に対して自分の考えを付け加えるという、ちょっと剽窃したくなるような、いかにもコルタサル的作品。からまった思いが、もう一回絡まるのか、解きほぐされるのか。思いだから、絡まっても解きほぐされても同じことだけれど。
そのなかに、時間についてのやりとりがある。118-119ページ。(途中、省略含む)

「愛というのは、思い出よりも、思い出を作ろうとすることよりももっと強いものなんだ」
「私は時間が怖い、時間は死なの、死がかぶっている、ぞっとするような仮面なのよ。私たちは時間を敵にまわして愛し合っている」
「僕のほうは自分の喜びや気まぐれに合わせて時間を決めることができる。列車だって乗りたきゃ乗るし、いやならやめるだけだ」
「ええ、そうなの、違うわ、時間というのは・・・」

たぶん男のことばがコルタサルの時間論である。自分の気まぐれ、よろこびが噴出する充実した一瞬。計測できないいのちの横溢。
それを言い直せば「愛」になる。
この二人の会話に対して、もうひとりは「違う」と言うが、どう違うかはことばにならない。
そして、同様に、いつでも「ことばにならない思い」というものがある。
最初に小説が書かれたとき、一人の思いは書かれなかった。だから、あとから登場人物が自ら、そのときの思いを、いま、思い出しながら書き加える。
そして。
では、そのとき完成されるのは、過去(思い出)の時間なのか、それとも思い出しているいまの時間なのか。
判別できない。特定できない。何もかもが、時制の束縛を裁ち切って噴出する。ことばにはならない。それが「・・・」なのだ。

小説だから、もちろん時系列もあれば事件もある。でも、コルタサルが書くのは、事件ではなく、ストーリーではなく、ただ、ある瞬間に思いが横溢し、それはすべてを飲み込んでゆくという人間の仕方なのである。
これは、やっぱり、ベルグソン的と私は思う。
パリ的だ。ブエノスアイレス的というよりも。ブエノスアイレスを私は知らないのだけれど。

「光の加減」は、上に書いたこととは関係ないのだが、この光の好みは、最近のウッディ・アレンの女の描き方に通じるなあ、と思う。揺らぐ美しさ。思いも、揺らぐから美しいのだろう。

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バルガス・ジョサ「子犬たち」

2021-04-06 09:10:44 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「ずれた時間」
短編集「海に投げ込まれた瓶」のなかの一編。
幼なじみの姉の思い出。何年後に、二人は出会う。
その書き出しの方に、こう書いている。107ページ。

二度と体験できないことを書きつらねていると(略)なんの変哲もない記憶の内部に第三次元への通路が開け、必ずといってよいほど苦々しいものであるにもかかわらず渇望せずにはいられない連続性が生まれるように思われる。どういうわけか、ぼくにはくり返し思い出すことがいろいろあった。

書くこと(くり返し思い出すこと)から生まれる「連続性」。この連続性は、ベルグソンの持続につうじる。
そしてその連続性とは時間のことであり、繰り返し思い出すことでより緊密に、つまり充実したこころになる。この充実をベルグソンは「自由」と呼んでいると思う。
それは、完全に個人のものである。
ベルグソンは「物質と記憶」のなかで「私の身体」ということばを繰り返す。私の、を繰り返す。普遍的な哲学を書いているようにみえて、あくまで私にこだわっている。個人から出発する。哲学であると同時に、文学なのだ。

ベルグソンを思い起こさせることばは、ほかにもある。128ページ。

すべてはまだ夜の九時の純粋否定、翌日また仕事に戻ることへの億劫さの純粋否定であった。

この「純粋」。ベルグソンが主張しつづけた「純粋」。
さらに、同じ128ページ。

言葉はふたたび生で満ちあふれて、嘘であろうと、何ごとも確かでなかろうと、ともかくそれらの言葉を書きつづけたのだ。

「生で満ちあふれる」もベルグソンである。生で満ちあふれた連続性(維持)が、いわゆる「生きた時間」。それは数学的、物理的な、時系列、時計で計測できる時間ではなく、むしろそれを突き破る個人も内面の時間、自由な時間、時間の自由。
それは「南部都市高速道路」のように、自在に伸び縮みする。
この時間の不思議さを「ある短篇のための日記」では、「同時」ということばであらわしている。160ページ。

ぼくはとかく追憶に溺れがちで、同時に、それから逃れようとする。

矛盾。矛盾のなかには同時がある。そこでは異なる時間が出会い、新しい時間を生み出している。
思いの流れ、と呼びたいものが。
私は、ウルフよりも、コルタサルが好きだから、意識の流れということばを避けて、そう書くのである。

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石川淳「普賢」

2021-04-05 10:48:06 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「普賢」

石川淳「普賢」は何を書いているか。これについては、私は関心がない。どう書いているか、なぜ書くか、のほうに関心がある。そもそも書くとは何か。
書き出しに、こういう行がある。82ページ。

かりに物語にでも書くとして垂井茂市を見直す段になるとこれはもう異様の人物にはあらず、どうしてこんなものにこころ惹かれたのか

「見直す」という動詞。書くとは、対象を見直すことである。同時に自分を見直すことである。
でも、何を見直す?
「異様」を見直す、普通の人とは違う部分を見直し、その異様の正体を明るみに出す、ということだろう。
しかし、その人物が異様でないとしたら。
むずかしいね。
物語にならない。その、物語にならないものを、さらに見直し、何かを探し出す。その装置が小説である。

これを、別なところで、別なことばで、こう書いている。92ページ。

恋愛に於ける悲劇とはそれがために人間学部堕落するからではなく、その翼に乗って高翔するに堪えない人間精神の薄弱に由来するものではないか。

恋愛に限らず、あらゆるにんげんの営みには「精神」がともなう。石川淳は、精神の高翔を書きたいのだ。どんな風にどこを飛ぶのか。
「恋愛」を「無謀な行為」と呼び、石川淳は次のようにも書く。185ページ。

かならずすべき一つの無謀なる行為はつぎに来るべき秩序ある行為をはらんでいるはずであり、そのはてに実を結ぶなにもないとすればそれはわたしの終焉だというのみである。

「つぎ来るべき秩序ある行為」は「精神」と読み替えることができる。
石川淳にとっては、「精神」は「行為」である。書くことは「精神の運動」である。

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ベルグソン「物質と記憶」

2021-04-04 10:32:06 | その他(音楽、小説etc)

ベルグソン全集2  「物質と記憶」

ベルグソン「物質と記憶」をどう読むか。
私は「一元論」として読む。
そして、その一元論の基本に「私の身体」を据えているところが、私のいちばん共感するところである。
共感と言っても、私の一方的誤読だとは思うが。
こう書いている。19ページ。

私がたんに外から知覚によって知るばかりでなく、内から感情によってもまたそれを知るという点で、他のすべてのイマージュからはっきりと区別されるイマージュがひとつある。それは私の身体である。

私自身は身体ということばは、めったに使わない。身体検査ということばが影響しているかもしれない。身体ということばには、計測可能というか、客観的尺度がつきまとっているようで、どうもなじめないのである。私は、肉体、という表現を好む。私の肉体、ことばの肉体という具合に流用もできる。もちろん水の肉体、木の肉体という具合にも。

ちょっと脱線するが、脱線でもないかもしれない 

私はこの「物質と記憶」を「時間と自由」とごちゃまぜにしてつかむ。そうすると「純粋持続」が「時間=肉体(私の身体)」として見えてくる。肉体の行動、行動する肉体の中から生まれる「自由」が、現在から横溢して「未来という時間」になるのだが、横溢つる現在とは、実は過去の潜在する可能性に他ならないから、未来とは顕在化する過去のことでもあり、その矛盾(?)を統合化するのが「私(の肉体/身体)」なのだ。

こういうことは、まあ、どうでもいい。
私が誤読/納得するのは、ベルグソンが「身体」という具体的なものを手放さず、常に具体的に語ること。別のことばで言えば、「生活」の哲学を指向すること。
哲学は、具体的な生活のなかにあってこそ哲学なのだ。

それにしても。
この「物質と記憶」には、「私の」という所有形容詞が非常に多い。私の、私の、私の、である。
私の、を省略して「身体」と言った方が一般的になるが、ベルグソンはそれを拒んでいる。あくまで「私の」である。
だから、私はこれを普遍的な一元論とは読まずに、あくまでも「ベルグソンの一元論」と読む。

で。
ベルグソンに向き合いながら「私の一元論」を要約すれば、私は私のことばの肉体が届く範囲を「世界」と考えている。
誤読は、私が把握している世界、私が交わっている(セックスしている)世界である。
だから、批評とは、ことばのセックスなのである。

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石川淳「山桜」

2021-04-03 10:25:38 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「山桜」

「山桜」の書き出し。68ページ。

わかりにくい道といってもこうして図に描けば簡単だが、どう描いても簡単にしか描けないとすればこれはよほどわかりにくい道に相違なく、

これは象徴的なことばだ。
この小説は、わかりにくいくだくだとした文章に見え、読み終われば実に簡単なストーリーであり、簡単に書いてあるなあ、と思う。わかりにくいと思えた部分が、そういう意味だったのか、と思える。伏線が見えてくる、というのはこういうことをいうのかもしれない。
書き出しの続き、

今鉛筆描きの略図をたよりに杖のさきで地べたに引いている直線や曲線こそ簡単どころか、この中には丘もあるし林もあるし流れもあるし人家もあるし、

その丘や林、流れ、人家が伏線なのであり、それは時として伏線どころかいちばん大事な隠れた目的地だったりする。いいなおすと、地図の到達点とは別のものが人生には潜んでいて、それがストーリーを破って動くのである。
途中を省略して、書き出しの一文の終わり。

肝心の行先は依然として見当がつかず、わずかに測定しえたかと思われるのは二つの点、つまり現在のわたしの位置と先刻電車をおりた国分寺のありどころだけであった。

現在と現在をささえる過去。その二点を結ぶかたちで「わたしの位置」、わたしがあらわれる。
と要約すれば、これは小説のポイントにもなる。
石川淳の文章は、地図の周辺の、省略された林、流れ、人家というようなものを具体的なものものを具体的に描くことで、人物を肉体をもった存在にかえてゆく。主人公の思いを肉体に変えてゆくのである。

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石川淳「葦手」

2021-04-02 10:46:24 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「葦手」

石川淳の文章は独特である。「葦手」の一文は長くて引用するのも骨が折れる。7ページ。(表記は一部変更した。)

神楽坂裏の小料理屋からしゃべりあって来た調子がまだ抜けず、わたしがつい高声になるのを、仙吉はいつもの癖の急に小さい眼を狡猾そうにきょろきょろと廻したのであろう、色眼鏡をこちらへきらりと光らせながらおさえるような手つきをして(略)

どこからが説明で、どこからが批評か、よくわからない(特に区別し、分析しなくてもいい)、具体的な描写である。
描写には客観的と呼べるものはなく、というか、私たちはどんな具体的なもの、たとえば「色眼鏡」さえ、批評(感想)をもってことばにしているから、そこにはどうしても、批評や説明がくわわっている。
石川淳は、それをうねるようにもりこみ、ことばを動かす。石川淳にとって現実とは、批評や感想が緊密に結び付いた世界なのである。
これを石川淳は「レアリテ」と呼び、ことばとの関係を言い直している。46ページ。

すでに書かれてしまった部分は一つのレアリテであって、それみずから強烈な生命力を持っているから、たとえ中途でその息の根をとめようとしても容易にくたばりそうもない形相を示している。

ことばは発せられたら、それ自身の生命力で生き抜く。石川淳は、その強烈な運動を追いかけて行く。
その対象が、いわゆる低俗なもの、男と女の色恋という、誰もが想像するとおりのものであっても、そこには批評のことばがからみあって、ことば自身のレアリテをもって世界を生み出しているとしたら、、、、。
47ページ。

わたしのもくろむのは、低空飛行で、直下に現ずるこの世の相をはためく翅に掠め取って空に曼荼羅を織り成そうという野心を蔵している

どんな通俗も、ことばの運動で曼荼羅に変える。
この野心をもって、石川淳のことばの運動は過激に暴走する。
ストーリーを追っていては、曼荼羅に出会うことはできない。石川がある行動を、どのようなことばで描写しているか、どうやってレアリテを実現しているか、読まなければならないのは、そこだ。

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