地方で考える ●oyajiの侃々諤々

北信濃の豊かな自然と歴史に抱かれて過ごす日々・・・

ちょっと斜に構えてみれば
???と思うことも多いですね~

後ろ傷

2013-03-19 | Weblog
元治元年(1864年)、京都で尊王攘夷派によって暗殺された佐久間象山・・・・
享年54歳

       

松代藩はその佐久間家に
“後ろ傷”は武士としてあるまじき行為・・・とお家断絶処分を下します

NHK大河ドラマ『八重の桜』の第11話に、象山暗殺の場面が出てきました
あれを見れば
暗殺者は馬に乗った象山を 背後から 切りつけ
さらに
背後から 執拗に太刀を浴びせています
あれじゃ後ろ傷は避けようがありませんね

       
       
       
       (3月17日NHK『八重の桜』第11話より)

ドラマの中ではさらに
広沢安任(会津藩)
「後ろ傷だというのです。傷は十数か所。その傷の多くは、背中と腰にあり敵に背中を見せた証拠だと。武士として卑怯だと」
秋月梯次郎(会津藩)
「後ろ傷は口実です。松代藩は攘夷激派に睨まれるのを恐れたのでしょう。元々、象山先生の働きを面白く思わぬ人たちがご家中にいたのであろう」
・・・と、象山の名誉を支えています

まぁ
松代藩とすれば   
先進的で急進的な象山の存在は「危険」そのものだったでしょうね~
巻き込まれても困るし・・・

それに、象山個人への反発も大きかった?
朱子学者佐藤一斎の、同じ門下であった佐久間象山と山田方谷(備中松山藩)・・・
方谷は慕って備中松山を訪れた河井継之助(長岡藩)に
「象山には温良恭謙譲の一字の何れもない」と語ったとか・・・
  温 (おだやか)
  良 (すなお)
  恭 (うやうやしい)
  謙 (つつましい)
  譲 (ひかえめ)
~~象山という人を言い当てているような気がします

あくまで
備中松山という藩内で内政改革に力を注いで領民の人望を集めた方谷と
片や
傲慢?ながらも松代藩という枠内を飛び越えて世界の中の「日本」をみつめた象山・・・
内政派外交・防衛派の違いみたいなものでしょうか?
好みからすれば方谷ですが・・・ 

       
       (備中松山藩の備中松山城・・・好きな山城です)

 ズッ~~と時は過ぎて現代
どちらがどっち・・・と言うよりは
「日本丸の船長」には両方の資質が求められます
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