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「権力」と「権威」を奪い合う時代『岩倉具視・言葉の皮を剥ぎながら』

2019-12-22 08:13:46 | 歴史から学ぶ
@天皇・将軍の「権威」と「権力」から野望を持った公家、薩長土肥の雄志などの動きは結局のところ「世の中を変え平和に」だったと見えるがそれぞれの「手入」(贈賄)と「地位」から「思惑」と「野望」がもつれ合い、差し合う中で過去の恨み辛みが作り出した明治維新に見える。
『岩倉具視』永井路子
岩倉は孝明天皇毒殺の首謀者なのか――長年構想を温めてきた著者が歴史的事件に再検討を重ね、新たな岩倉像を立ち上げた渾身の作、下級公家がいかに権力の中枢にのし上がっていったのか―構想四十余年。歴史の“虚”を剥ぎながら、卓越した分析力と溢れる好奇心で、真摯に史料と対峙し続けた評伝の最高峰。
  • 「岩倉具視」公家と呼ぶにはあまりにも太々しい面構え。刺す様な眼光。一癖も二癖もあるげだが、いかにも貧相な小男で、人柄がせせこましい。公家政府から追放されて5年、困窮の生活が続き「公家様」風の品格が全くない。舌弁で世話話、雑談は一切含まないが、国家改革案を語り出すと止まらなかった。理路整然、しかも計画実行のための具体案の綿密さがあった。あだ名は岩亀、ヤモリだった。
  • 岩倉具視は孝明天皇が即位した時代から首を擡げ始める。まずは関白の鷹司政通の歌道の弟子となる、29歳。具視の妹堀川紀子が15歳で天皇の側近に出仕、その後具視も天皇の侍従となる。 5年間の「洛中追放」もあったが、「明治維新」にあたって摂生関白を廃し、薩摩久光に近づき、政治的野望を留めた。
  • 「公武合体」では尽力し自身も江戸まで出向き「委細はこの男からお聞きください」との天皇の言葉で公家の「権威」を誇示させている。その中で将軍家茂直筆の朝廷に一切従うと言う書面を取り付け、幕府の「権力」を奪い取ろうとした。 長州の長井雅楽は「航海延暦策」の公武御一話として対策を献じる。長州と薩摩野望が見え始め対立、公武合体は解体し具視は追放処分に。 ただ、公家・幕府・尊王攘夷派などの情報はいち早く入手し、多くの手紙を書き送っている。中でも「航海策」で、積極的に外国を視察しなければならないと謳っている。(明治維新直後の1年10カ月の長期の欧米視察団となる)
  • 家茂の死後、孝明天皇も死去するがここで具視による毒殺説がある。天皇は筆を用いるときに舐めてからと言う癖があり、そのことが具視の近習が毒を入れたと言う、それは天皇の死から最大の利益を得、躍進したのが具視と言うことから噂がそうなったとある。 そのとき天皇は攘夷派であり開国路線を進み始めようとしていた時期であり、政界復帰が叶い具視は明治維新での朝廷側近として、大久保等を組んで邁進した。そのきっかけは天皇の「権威」である「錦の旗」(偽勅)を国学者玉松操と密かに作り薩摩側に委ね、東征時に利用するなどであくまで噂の説である。
  • 岩倉具視は百五十石の下級公家から5千石の右大臣へ、三条実美ともに天皇の側近として動く。それまでの中川宮は広島藩に幽閉され宮号を剥奪された。 有栖川宮と西郷が主役となり東征を仕切り大久保、木戸等の新政府として「版籍奉還」「廃藩置県」等を実行するが、その辺りから具視の活躍がなくなる。その後特命大使として欧米視察を断行、具視の功績は「天皇と憲法」、京都の再建を望んでいた。
  • 「手入」=贈賄は出世と政界につきものの「お道具」であった。特に幕府からの支援が少ない公家への贈賄はこの時期多くなった。また、将軍継承にも多くの「手入」があり、それをしないとしたらうつけと言われた。老中堀田正睦が公家に「手入」をしたのは3万両とも3万5千両とも言われたが通商条約での朝廷工作は失敗したが、それを裏で動いたのが岩倉具視であった。 これからは公家のお家芸であり公家内部は凄まじい権力争いをしていた。
  • 徳川幕府、譜代には権力を、外様には富を、一門には血の優位性を、この絶妙なバランス政策は家康と秀忠の発想による。 室町時代から「権威」と「権力」が立ちはだかり江戸幕府は「権力」によって藩・家臣等を統制していた
  • 御三家、尾張徳川は61万石、きいは55万石、水戸は29万石、肩書きも終わり、きいは大納言、みとは中納言であり、全て朝廷からの位が言い渡されていた。水戸藩の光圀が作った「大日本史」は反幕史観であり、井伊直弼の日米通商条約を締結した際、尊王攘夷の立役者である水戸の徳川斉昭が憤るが、逆に処罰を受けることになるのは、その後の井伊直弼の桜田門の変に繋がる。 あくまで「反幕」であって「倒幕」ではなかった。 その時天皇も全くの攘夷派ではなく、佐幕姿勢を誇示していた。その当時福井藩主の橋本左内は「公家の方々は人事がらみにはご熱心で体を乗り出してきますが、国際問題は全く分かっておられませんな。もちろん金はお好き、モノもお好みで」と言った。
  • 長州の長井雅楽の「航海延暦策」は開国、貿易、富の蓄積、軍事力増強、海外侵略などであり、その後日本はこの作が日本を作ることになる