Sengoku1985

何故、私は鉄道を撮り続けるのか?

Kyusyu Railway Company#6

2014-05-16 | 鉄道写真


 延岡から宮崎を経由し、西鹿児島へ。今回は、平成16年当時の鹿児島近辺の車輌を見ていきたいと思います。


 最初は、観光列車「はやとの風」です(写真)。いわゆる「水戸岡デザイン」で、黒く塗られますが、車体はキハ47で、機関を換装したキハ147が使用されます(写真)。現在は増結され3両で運転されます。



 続いては特急「きりしま」、緑色に塗られた485系です(写真)。自由席は確か転換クロスシートでした。



 同じく特急「きりしま」ですが、元「ハウステンボス」の塗色、”K&H”と書かれ、「きりしま」「ひゅうが」の運用に就きました(写真)。


 国鉄なら、博多・小倉から西鹿児島まで、日豊本線通しで特急「にちりん」であったところ、「ソニック」は大分、最大佐伯までで、大分で接続する「にちりん」は半減、大半は延岡からの「ひゅうが」になり、佐伯~延岡間の本数は激減しました。地域密着ダイヤ、利用実績からもそうなることはやむを得ないのでしょうが、少し寂しい気はします。確かに、硬直化した画一ダイヤ、というのも問題ですが。


 やはり、この頃の九州の鉄道を撮るなら、あのローカル私鉄の気動車は、チェックしておく必要があります。次回は、やはりそこでしょうか。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kyusyu Railway Company#5

2014-05-15 | 鉄道写真


 平成16年11月、私は新たなパートナー、「人のデジタル」D70を持って、九州を訪問。始まりは、それ以降の予定もあった関係で、「彗星」「あかつき」に乗車(写真、EF66 50)。APS-Cサイズ専用レンズ使用で、画像が安定しています。その夜は、レール方向に並ぶ「ソロ」に陣取り、翌朝を待ちました。



 朝車内で目覚め、延岡で降り、行ったのが「高千穂鉄道」(旧国鉄「高千穂線」)。先ずは終点、高千穂駅を目指しました。同駅の様子(写真)。駅の中に車庫がありました。



 駅構内に温泉施設がある「日之影温泉」で降りたい気もしましたが、断念。間もなく、新観光列車TR-400形と行き違います。黄色は「手力男」TR-401です(写真)。



 相方の緑色は、「天細女」TR-402です(写真)。「15-3 新潟鐵工所」の標記(平成15年3月新潟鐵工所(現「新潟トランシス」)にて落成の意)もあります。



 そして延岡に戻ります。駅ではDE10 1208が、貨車の入換を行っていました(写真)。



 編成の仕立てを待つ、ED76 58(写真)。定刻に、小倉方面に向け発車します。


 延岡の貨物列車は、勿論コンテナも多いですが、タンク貨車、タンクコンテナも多いです。それも、特殊な化学物質の貨物が多いのです。それは、延岡には「旭化成」の工場があり、その関連の貨物があるからです。重要な地場産業、ということでしょう。


 次回、高千穂鉄道のこの新観光列車に乗ろうと思い、楽しみにしていましたが、寝台特急「彗星」廃止、及び台風災害による高千穂鉄道全線不通、となってしまい、その夢は果たされませんでした。一般形TR-100形は、1両が四国の阿佐海岸鉄道に移動した(事故代車で急遽購入した)以外は全車引退、日之影温泉にはTR-100形を真っ二つに切断したコテージが幾つか設置され、最期の姿を残しています。赤字基調の第三セクターに30億円の復旧費用は死刑宣告に等しく、結局全線廃止となりました。現在、被害を受けなかった、現役当時日本一高い鉄道橋梁であった高千穂橋梁を渡る、トロッコ列車が運転されるそうです。そちらも、どうぞ。


 しかし、延岡では九州の旅は終わりません。以降は、次の機会に。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kyusyu Railway Company#4

2014-05-14 | 鉄道写真


 平成15年夏、夏期休暇を利用し、私は再び九州に向かいました。間の経緯はあるものの、九州到着で最初に撮ったのは、急行「くまがわ」(写真、キハ65 13ほか)。この列車の後を継いで運転される、現在の「九州横断特急」は人吉までの運転ですが、当時の「くまがわ」の一部車輌は肥薩線、吉都線経由で宮崎まで運転されていました。



 そして来た道を戻り、小倉へ。最初は、787系4連特急「ありあけ」です(写真)。当初9連で「つばめ」用に製造された787系でしたが、九州新幹線新八代以遠部分開業でMM’ユニットを抜き7または6連「リレーつばめ」となり、抜かれたMM’ユニットはTc車を新造し4連「ありあけ」になりました。写真はその「ありあけ」です。



 次は、883系「ソニック」です(写真)。5または7連で落成し、当時は正面が4色ありました。後にリニューアルされ、ビードステンレスボディもメタリックブルーに塗られ、5連はアルミ車2両を挿入(その時には製造メーカー日立がステンレス車の製造を終了していたため)し、7連に統一されました。



 最後は、885系「白いソニック」です(写真)。885系「白いかもめ」に準じ5連で落成、後に6連化、現在「白いかもめ」「白いソニック」は共通運用となっています。同編成の落成により、485系は多客期以外大分以北に入線しなくなりました。


 JR九州は、「経営的に厳しい」とされた3島の一角でしたが、実際には経営は安定し、このような新型車輌を投入していました。九州新幹線全線開業前の、状況でした。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kyusyu Railway Company#3

2014-05-13 | 鉄道写真


 平成15年のゴールデンウィークに、私は念願のカメラ、D100を手に入れ、運用を始めました。カメラ屋で、FinePixとどちらが良いかと聞くと、こちらが良いと勧められ、買ったカメラでした。当時は何処でも羨望の目差しで見られたものです。


 テスト撮影を除くと、その最初の撮影画像が、この写真、EF66 53(「関」)、寝台特急「彗星・あかつき」でした(写真)。当時はレンズまで考えておらず、広角側が全く足りず、中途半端な画像となっています。やはりAPS-Cサイズ素子には、18ミリ以上の広角が必要です。



 そして乗車した、「彗星」南宮崎到着の図(写真)。ED76 90牽引ですが、こちらは更にどうしようもない画像になっています。



 宮崎から青井岳を越え、鹿児島、指宿へ。フェリー港のある山川では、キハ200形「なのはな」と、筑豊・篠栗線(現在の「福北ゆたか線」)電化で余剰となった「赤い快速」が並びます(写真)。これは、見るに堪えます。



 そして日本最南端の終着駅、枕崎へ(写真)。当時はまだ、鹿児島交通と接続していた名残の駅舎が残っていました。今は、駅舎さえ無い寂しい終着駅ですが、駅舎が復活するという話も聞きました。



 そしてお帰りは、「さくら・はやぶさ」です(写真、ED76 66、門司での撮影)。



 同列車は、門司で牽引機がEF81、410に交代します(写真)。



 そして下関からはEF66 43が牽引しますが、大光量フラッシュのためか、正面からの撮影が不可能なように柵が設置されてしまいました。そのため、こんな中途半端な画像となってしまいました(写真)。


 当時は九州方面寝台特急が計5往復(東京発3往復、京都発大阪発各1往復)あり、まだ安心していました。ただ、実車の乗車率を見ると正直心配であったことから、九州に行く時はなるべく寝台特急に乗るよう、心がけました。それが、今回の連載の中枢をなしています。


 その後、どう推移したのでしょうか。今後にご期待下さい。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kyusyu Railway Company#2

2014-05-12 | 鉄道写真


 またしてもヘタレ画像で始まった今回の投稿。もう暫くご辛抱下さい。


 平成13年早春、二つの目標を持って九州に向かいました。一つは、筑肥線・福岡市営地下鉄の新車を撮ることでした。それがこの写真、303系です(写真)。


 国鉄末期、筑肥線が電化され、福岡市営地下鉄と直通運転が開始されるにあたり、投入車両を検討したところ、省エネ効果が無いとして、201系や203系のようなチョッパ車では無く、抵抗制御の103系が製造されました。1500番代を名乗るその車輌は、103系総勢3,446両の最終ロットに入る車両でした。その後JRになってから追加製造されたのが同系で、3編成18両の小所帯です。近車製のVVVF車、JR九州の数少ない直流電車です。



 そして、熊本へ。DE10 1638が、熊本運転所内で客車の入換をしています(写真)。



 そして熊本駅5番線に据え付けられたのは、24系25形寝台特急「はやぶさ」です(写真)。



 続いて、牽引機ED76 70が入線(写真)。客車に連結されます。



 そして、出発を待ちます(写真)。もう一つの目標は、寝台特急「はやぶさ」への乗車でした。



 鳥栖での「さくら」との儀式まで頭が回らず、そのまま門司を過ぎ、下関へ。関門トンネルの牽引機ED81 411が切り離され、待避します(写真)。



 そして東京方先頭は14系「さくら」です(写真)。14系客車と24系客車は、構造はほぼ同じで連結は可能、電源はそれぞれで独立していたようです。当時は個室A寝台オロネ25も、未改造でした。



 そして下関からの牽引機、EF66 53が、ポップアートのヘッドマーク「さくら・はやぶさ」を装備し、長駆1,000キロの出発を待ちます(写真)。東京に着くのは翌日昼近く、翌朝の「のぞみ」でも同じ位に到着し、本当に鉄道の旅が好きな、一部の人のみが利用する列車になっていました。


 日本最大の暴力団は、昔は神戸が本拠地だったはずなのに、いつの間にか中心組織は名古屋になってしまいました。その組織は「ブルー」という言葉に拘りがあります。それで「ブルートレイン」に因縁をつけられたのか、JR東海は寝台特急には消極的で、車内の再整備のためでしょうか、4時間遅れになった、なんてこともありました。だけど、一体名古屋の何処に、それだけの旨味のある資金源が発生したのでしょうか。


 「あけぼの」も廃止となり、事実上「北斗星」のみとなったブルトレは、もう思い出の中の列車になってしまったのでしょうか。普段から利用を心がけなかった私たちも悪いのですが、夜間寝ながら移動する、ということは、もうメリットが無いのでしょうか。バスでも飛行機でも1万円、となると、経済性だけで選択されるものなのでしょうか。残念です。


 ここ十数年の九州行きの歴史は、寝台特急衰退の歴史です。島内の列車と併せ、気長に追っていきたいと思います。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kyusyu Railway Company#1

2014-05-11 | 鉄道写真


 先回の連載に続き、いきなりヘタレ画像から始まってしまった本連載。実は着想自体は先の連載より早かったのですが、今日時点でも最後が決まっておらず、とにかく始まってしまいました。


 写真は平成12年GW、大分駅から大分運転所を眺めた図(写真)。寝台特急「富士」のヘッドマークを装備した、EF81 411が停まっています。高架化工事で、跡形もありません。しかし、当時に今の機材と技術があったなら、と思います。



 大分からは、特急「あそ」(写真、キハ185 1001他)。JR四国が2000系導入で余剰となった同系を、JR九州が譲受したものです。現在は「九州横断特急」と名を変え、急行「くまがわ」の運用も取り込み、しかも「A列車で行こう」に2両供出し、車両運用はギリギリの感がありますが、特に事故も無く運用に就いています。



 国鉄末期の一般形の新車、キハ31 1です(写真)。豊後竹田で、列車本数がが少なくなる区間を走ります。



 豊後竹田から県境を越え、熊本県へ。丁度宮地では、8620形58654が、当時の「SLあそBOY」折り返し運用の準備をしていました(写真)。



 そして宮地機関区当時からある転車台に載せます(写真)。転向後、熊本行きの準備を始めます。


 当然席は予約してありましたが、帰りは下り坂で、やはり見せ場は上り坂、この様子を見て、当時マルスの無かった同駅で、翌日の席を即予約しました。手書きの指定券でしたが、今はどうなっているか。



 山を下りると、熊本駅地平ホーム5番線には、寝台特急「はやぶさ」が停まります(写真、ED76 65)。ヘッドマークは半球形の「さくら・はやぶさ」、博多以遠は車庫の都合のみで、既に運転の目的を失っていたことに気付きませんでした。「はやぶさ」という名も、「薩摩隼人」から命名されたものであって、鹿児島と無縁になった時点で運命も決まっていました。



 その奥は熊本運転所、留置線に高速軌道試験車、マヤ34 2009が停まる、長閑な場所でした(写真)。現在この位置は新幹線高架ホームと、西口駅前広場となり、様相が一変しています。これは僅か14年前です。


 20世紀最後の年、確かにデジタル一眼D1は前年デビューしていましたが、価格は約60万、後は玩具同然のデジカメのみで、まだ信用できませんでした。そのため、この程度の画像となっています。


 熊本駅周辺には、まだ九州新幹線の面影もありません。歴史的写真である、という気がします。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開設3周年を祝って

2014-05-10 | 鉄道写真


 おはようございます、当ブログ管理人、Seichiroです。いつもご愛読ありがとうございます。


 ”Tetsu”別館として開設されたのが平成23年、初回投稿が5月10日で、今日で丁度丸3年になります。毎週投稿する本館ブログとは違い、気が向いた時だけ投稿するというブログのため、そんなに遠くに来た気はしませんが、よく3年も続いたものだなあ、と思います。今後も気が向いた時だけしか投稿しませんが、どうか”Tetsu”同様おつきあい下さい。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hokuriku Memories#13

2014-05-09 | 鉄道写真


 北陸地方民鉄の、旧式車を中心に紹介してきた本連載。回数は中途半端ながら、遂に最終回を迎えました。今回は、「のと鉄道」廃止区間を中心にお届けします。


 「多客期に列車が走る。」とインターネットに書かれ、平成23年お盆の時期に、行きたくなった蛸島。先ずは、「のと鉄道」蛸島駅跡に行きました(写真)。保存会の活動拠点となっていたようですが、壊れたグッズ自販機のみで、この日は活動していませんでした。



 ホームに上がり、列車で訪問した時と同じアングルで一枚(写真)。人気が無く、寂しい限りです。



 廃止後に建設された道路により築堤が分断され、その西側には「新蛸島」なる仮設駅が出来、そこで動態保存されたNT100形に乗車できる、とHPに載っていました。そこで、運転されるであろうお盆に訪問しましたが、NT102が置かれるのみで(写真)、動態保存の形跡は見当たりませんでした。廃止後行われていた保存活動も、自然消滅したようです。残念。



 続いて、主要駅であった珠洲へ。コンクリート製のホームの一部が残り、駅を思い出せるような構造になっています(写真)。留置線跡は、道の駅の駐車場になっていました。なお、この反対側、元の駅舎側には、国鉄当時の工作年次を示す刻印が残っています。



 珠洲に続き、先に廃止になった輪島へ。道の駅の裏、文化会館脇が駅跡で、ホームの一部、「シベリア」行き駅名標と、営業当時を思い出させるパネルがあります(写真)。



 現在の終点、穴水へ。0番線跡、NT127の手前に、手前NT802、奥NT801が入りました(写真)。



 3番線には保線機械が停まり、写真は輸入鉄道機械、”MATISA”社製マルタイが置かれます(写真)。”Juliette 1981”と刻印され、古い機械であることが分かります。



 その結果、能登中島には、郵便車オユ10 2565のみが残ります(写真)。のと鉄道部分廃止前は甲駅に保存され、傷みが激しく解体寸前であったのを移設し、保存しているとのことです。車両番号前には丸の標記が付き、横軽対策車であったことが分かります。


 北陸地方には、過去の名車等、貴重な車両があったことが分かります。今となっては撮ることも出来ない車両も多く、貴重な記録となっています。このような形で残すことが出来、嬉しく思います。


 これで本連載は終わりです。次の連載について、ゆっくり考えようと思います。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hokuriku Memories#12

2014-05-08 | 鉄道写真


 平成20年早春、私は「青春18きっぷ」で、北陸を訪問。列車が遅れ、途中特急を乗り継いで行ったのが、七尾。この駅から「のと鉄道」が始まります。丁度NT211が発車を待っていました(写真)。穴水以遠廃止後に整備されたNT200形、211以降はマイナーチェンジが行われています。



 能登中島駅空きホームには、当時NT800形が並んでいました(写真)。機関は駆動しないので、当時は家庭用エアコンで空調を行っていました。保存団体の会合用に使用されていたようです。



 そして、終点穴水へ。旧0番線には、元お座敷車、NT127が留置されます(写真)。これらNT100形は、穴水以遠廃止後全廃、一部の動態保存、静態保存車両を除き、海外譲渡されました。


 現行車両を載せるのは、今回の連載の趣旨ではないので、そろそろ最終回が見えてきたと思います。そのとおり、次回で最終回です。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hokuriku Memories#11

2014-05-07 | 鉄道写真


 平成19年初冬、私は再び富山にいました。相も変わらず行くのは、地鉄の車庫がある稲荷町。この日も、停泊車両を写しに行きました。


 最初は、生き残った電機、デキ12021です(写真)。塗装はかなりマズいのですが、一応は現役です。



 その後には排雪モーターカー、DL13が入ります(写真)。前ロータリー、後ラッセルで除雪が可能、ジャッキアップで方転も可能です。



 庫の奥は、手前から112(16010系中間車)、174、14760形(車番不明)、172です(写真)。



 南富山へ行くと、デ3534の位置にデ3533が入り(写真)、デ3534は無くなってしまいました。用途廃止から長い時が去り、解体されたようです。なお、現在はこの二軸単車、デ3533も無いと記憶します。


 過去の車両は永く残って欲しいとは思いますが、保存できる数も場所も限られており、現実は厳しいものがあります。せめて、車両寿命を全うして欲しいと思います。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hokuriku Memories#10

2014-05-06 | 鉄道写真


 名鉄は、非電化区間に続いて600V区間を全廃、それらで使っていた車両は各地に散っていきました。その最大の受け入れ先となったのは、北陸鉄道同様名鉄系とされる福井鉄道。冷房改造困難な旧式車に取って代わりました。


 その過渡期にあった平成18年初夏、福井を訪問。市役所前電停に現れたのは、880系884始め2連(885F)です(写真)。塗装を改め新塗色を身に纏い、日本最大の地方紙のラッピング車になっています。当時のキャンペーンキャラは、マラソン女子金メダリストでした。



 乗車し、赤十字前には、解体を待つ車両が停まっています(写真)。クハ122でした。三河鉄道から名鉄を経て福井鉄道に入りましたが、遂に命運尽きました。



 その相方、モハ122もそのままでした(写真)。最期の時を待っているようでした。



 途中駅で、ポイントのスノーシェッドを通る、モハ803です(写真)。美濃町線に用いられた同車、これも新塗色となっています。



 西武生の側線には、クハ141始め2連が見えます(写真)。知多鉄道、名鉄瀬戸線と渡り歩いた同車、最期は福井で迎えました。



 武生新の側線には、就役を待つモハ802他が待機します(写真)。



 再び西武生へ。先ほどの編成の反対は、モハ81始め2連でした(写真)。


 これらの車両は名車でしたが、冷房化の波には勝てず、引退、置き換えとなりました。残念でしたが、仕方ありません。保存されたとも聞かず、残念です。もう二度と、撮影することも出来ません。もう一度、活躍した時代に思いを馳せたいと思います。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hokuriku Memories#9

2014-05-05 | 鉄道写真


 石川県には重要な私鉄、北陸鉄道があります。かつては石川県内各地に路線があり、金沢市内にも路面電車を走らせた同鉄道ですが、多くは廃止となり、現在は浅野川線と石川線のみです。


 浅野川線は金沢駅地下の「北鉄金沢」から内灘に向け走りますが、通常内灘の車庫はシャッターが降り、車両的にも元京王井の頭線の2連で、それほどではないので、やはり石川線を見ていきたいと思います。


 当時石川線は、野町から西金沢を経由し、加賀一ノ宮まで走っていましたが、鶴来~加賀一ノ宮間は廃止が取りざたされている時期でした。以遠廃線跡は残り、かつては名古屋を目指す壮大な計画でしたが、残念ながら路線は短くなっていきました。


 1枚目は、かつて支線の集まった分岐点、かつ車庫のある鶴来の側線に停まる、ED301です(写真)。クラシックな箱形EL、スノープラウも装備され除雪もしたのでしょうが、引退し、現在は鳥取県の若桜鉄道、隼駅に保存されます。



 次は、モハ3752、後にモハ3751が続きます(写真)。ステンレス化前の車両のようで、ワンマンも非対応のようです。



 次は凸型電機、ED201です(写真)。こちらは現存し、車籍もあるようです。



 最後は、車番も消された旧型電車です(写真)。古い「私鉄車両編成表」によると、モハ3761のようです。


 その後色々と異動があり、残るのはモハ3752とED201のみのようです。ただ車両としては保存されているようで、まだ状況は良さそうです。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hokuriku Memories#8

2014-05-04 | 鉄道写真


 翌年夏に、再び北陸へ。最初は立山駅に入線する、16013始め3連です(写真)。現在「アルプスエクスプレス」にリニューアルされた方の編成で、改装前の姿です。



 同列車に乗って、岩峅寺へ。不二越・上滝線に乗るためです。向こうに14722が停まります(写真)。実は、これの相方が重要だった!不注意でした。



 そして、本線との合流点、稲荷町へ。左10025、10026、174の3連、右16011及び16012の2連です(写真)。174の写真は非常に重要なのですが、車両の向こう側で残念でした。また16011及び16012は、元西武レッドアローです。中間車、ついに廃車されましたね。



 奥には、デキ12021が停まります(写真)。これは、現存します。



 その先には、スノープラウ装備の黒い凸型電機、デキ14731が(写真)。これは、現存しません。



 永く休車となっている、10023及び10024(写真)。これも、走ってませんねえ。しかし、現在も車籍は残っています。



 最後、南富山の庫の隅に追いやられた軌道線車両、デ3534です(写真)。現在どうなっているか、今行けば分かります。


 やはり地鉄は、幾つかの鉄道会社が合併して出来た会社であるために、車両の区別がつくよう地鉄ならではの付番が行われています。複雑故に、面白いのか。奥は、深いですね。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hokuriku Memories#7

2014-05-03 | 鉄道写真


 このツアーでは富山から南に辿ったことから、最後が福井、えちぜん鉄道でした。


 先ずは三国芦原線、三国港に停まる5001です(写真)。他社では見られない、京福電鉄以来のオリジナル車両と思われます。



 続いては2204、明らかに阪神の顔立ちです(写真)。台車は狭軌用に履き替えたものと思われます。



 当時も、現在も主力の6101、愛知環状鉄道が万博輸送で新車を製造したため、余剰となった300形、あるいは100形と200形をニコイチして製造された車両です。種車も車体のみ新製のリサイクル車、119系と似た車両です。



 福井口で乗り換え勝山へ。2203と行き違います(写真)。



 再び福井口へ。当時は駅北東側に車庫がありました(現在は北西側、JRとの間)。2100形が多数並び、当時同車が多数を占めていたのが分かると思います。阪神ファンのヨダレが出る様子が想像できます。


 えちぜん鉄道も、現在JR東海で余剰となった119系が入線、新たな車両が加わっています。来る車両があれば、去る車両もあります。それらを逃さないよう、注意したいと思います。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hokuriku Memories#6

2014-05-02 | 鉄道写真


 今回も、先回に続き富山です。このシリーズでは、主に北陸の私鉄旧車を紹介していますが、今回の最初はJR、急行形475系です(写真)。しかし撮ったのは岩瀬浜、当時の「富山港線」の終点です。現在はJRとしては廃止になり、「富山ライトレール」の駅となり、同駅の様子も一変しています。しかも大目玉!当時撮っておくべき車両でした。これが後の国鉄交直流急行色復活の始まりでした。



 続いて、高岡へ。現在駅前は一変している筈ですが、旧来の高岡駅前には「加越能鉄道」改め「万葉線」が入ります。車両はLRTである「アイトラム」です(写真)。



 万葉線の心臓部は米島口。車庫には、旧来の軌道形電車が並びます(写真)。



 冬には、当時既に機械扱いだったこの車両が、除雪を行っていました(写真)。車番は知りませんが、現存しないはずです。


 次回は、再び福井か。そういえば、営業車の話が抜けている、あの鉄道会社という気がします。


 それでは、次回をお楽しみに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする