
ポプリです。
まあ、きれい。
いや、実はポプリが重要なのではなく、重要なのは「ポプリを入れている陶器」です。
うっふっふっふ。
この陶器、娘が通う養護学校の作業の時間に、「陶芸」として、娘が作って焼いたものです。
「作る」のは娘、それを「使って生かす」のはわたし。
まあ、きれい。まあ、ゴキゲン。
早速「使って生かす」結果の写真を撮り、この写真を「陶芸」の教科担任の先生に贈りました。
「作る」のは娘、そしてそれを「指導・支援」して、「生み出す」ことに加担しているのは先生。
「使って生かす」結果は、先生のものでもあるからね、と思って。
障害のある娘、障害の無い息子。
障害の無い息子が、こうした「作品」を作って持って帰ってきても、ここまで作品に対してわたしが「愛着を持つ」か。
正直なところ、持たないと、思う。
それは、娘の人生のひとつひとつが「支援」で成り立っているからかもしれない。
息子が「作品」を作っても、それは彼の人生の中の、通過の一つのように感じる。
でも、娘が作る「作品」は、関わる「支援」というものとのコラボレーションのようなものを感じるのですよね。
障害を持つ子を育てるというのは、「チームで関わる子育て」の連続かもしれない。
娘が焼いた「お皿」の数々は、お世話になった方で大事にしてくれそうな方に、少しずつお分けしたいと思っています。
まあ、きれい。
いや、実はポプリが重要なのではなく、重要なのは「ポプリを入れている陶器」です。
うっふっふっふ。
この陶器、娘が通う養護学校の作業の時間に、「陶芸」として、娘が作って焼いたものです。
「作る」のは娘、それを「使って生かす」のはわたし。
まあ、きれい。まあ、ゴキゲン。
早速「使って生かす」結果の写真を撮り、この写真を「陶芸」の教科担任の先生に贈りました。
「作る」のは娘、そしてそれを「指導・支援」して、「生み出す」ことに加担しているのは先生。
「使って生かす」結果は、先生のものでもあるからね、と思って。
障害のある娘、障害の無い息子。
障害の無い息子が、こうした「作品」を作って持って帰ってきても、ここまで作品に対してわたしが「愛着を持つ」か。
正直なところ、持たないと、思う。
それは、娘の人生のひとつひとつが「支援」で成り立っているからかもしれない。
息子が「作品」を作っても、それは彼の人生の中の、通過の一つのように感じる。
でも、娘が作る「作品」は、関わる「支援」というものとのコラボレーションのようなものを感じるのですよね。
障害を持つ子を育てるというのは、「チームで関わる子育て」の連続かもしれない。
娘が焼いた「お皿」の数々は、お世話になった方で大事にしてくれそうな方に、少しずつお分けしたいと思っています。
この前息子は保育園で初めて小さなビーズをつくってきました。
ものすっごい不器用なので驚いてしまってめちゃくちゃ大事にしています。
私が喜んでもしらん顔していますが本当に今までもらった中で一番嬉しかった贈り物です。
ビーズ見て、ニコニコしているところが見えるようだ。
>あ~なんかわかるなぁ~としみじみしてしまいました。
では、コレは?コレは?
携帯にね、声を録音する機能があるの。
で、以下の「記録」が入っていて、
時々聞いて、にんまりしてます。
「ちぃちゃん」
「なあに、おかあさん」
「はあい」
「ちぃちゃん」
「なあに、おかあさん」
「はあい」
これだけ、なんだけどね。
私もS嬢さんのニコニコ、ぐふふっが見えるようです。
何かね、障害のある子が生まれてて、皆は大変だとか可哀想だとか言うんですが、もちろん将来のことを考えると不安になっちゃったりするんですが、こういうとっても小さな小さな出来事が嬉しくって嬉しくってしかたないんですよね。
ジューがビーズをつくてきた時でも加配の先生が一生懸命隣で教えてくれていたと思うんですよ。先生の気持ちひっくるめて嬉しいな~なんて。S嬢さんの書いていた支援なんですよね~。
「憧れの君に声をかけてもらって喜ぶ少女漫画のヒロイン」
の心境に、似てるかも。
自分には障害が無く、子どもには障害がある。
その「壁」が、気にならないときもあれば、気になるときもある。
この「壁」に向かってね、片思いをしているような、そんな感じがするときもある。
だから、「嬉しい」時に、たまらない高揚感があるのかもしれない。
私も、養護学校の陶芸教室に参加して、息子と一緒に作った作品ありますよ。 こんな子供がいると、変化に富んだ生活ができますよね。 少なくともempty nest になる心配は、なさそうです。
楽しいですね、作業学習。
今年は「陶芸班」でしたが、担当の先生が「支援」に手を出し過ぎない感覚を持って、独自の作品を生ませようとする姿勢が強いので、とても楽しく見守っているという感じです。