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S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「障害児のきょうだい児」の恋愛と結婚

2005年05月24日 | 「障害」に関わること
娘がまだ赤ちゃんだった頃に、当時住んでいた地域でのダウン症児の親の会で、先輩のお話を聞く勉強会がありました。
別の地域に居住される、もう、成人された方のおかあさまをお呼びしたのですが。
このときのお話の中で、印象に残るお話がありまして。
障害児の「きょうだい」にあたる長男には、中三のときにきちんと話をした。
あなたの結婚には、姉のことが影響するハンディがあるだろう。
だから、きちんと恋愛できる人間になること、結婚を早めに意識すること、と。
質疑応答の時間に、この話が出ました。
こちらの親の会を中心に回してきた主だったメンバーの方は、まだ小学生の親という立場の頃だったのですが。
「ダウン症のきょうだいがいることで結婚に難癖つけられる相手との結婚は、所詮、きょうだい児の結婚にとってもいいことにはならないんだから、それはそれでいいではないですか」
こうした傾向のことが中心だったと思う。
そのときの講師になった方いわく、「それは理想論だ」と。
現実的に結婚は相手とのことだけでなく、家も関係してくる。
それを乗り越えるだけの「恋愛する力」が、きょうだい児にも必要なのではないか、と。

今ひとつ、納得できない表情をしている人が多い中で、なんかすごく納得したんですよね、わたしは。
まずひとつは、「結婚時のハンディ」ということ。
仮定として、わたしに障害をもつ子どもがいなかったとして、そしてたとえばわたしに弟と妹がいたとしたら。
弟が「障害児のきょうだい児」と結婚したいと言ったら、いかにそのことがハンディになったとしても、「よしオマエが決めたんだから、オマエの人生がんばれ」というだろうなと。
しかし、妹が「障害児のきょうだい児」と結婚したいと言ったら、反対とは言わずとも、「再考を」とは言うだろうなと。
「家」というものは、諸雑事が全て「女」にかかってくる。
結婚することで、成人した「障害のある義きょうだい」に関しての諸雑事は、全てあなたに直接ふりかかってくる可能性は高い。
そのことを冷静に判断して、相手のきょうだいを自分のきょうだいとして、本当に覚悟して受け入れられるのかと。
で、「ああ、確かにハンディはあるなあ」と思った。

それともうひとつ。
所属する親の会の「先輩たち」から口々に出てきた、以下のこと。
「ダウン症のきょうだいがいることで結婚に難癖つけられる相手との結婚は、所詮、きょうだい児の結婚にとってもいいことにはならないんだから、それはそれでいいではないですか」
その発言自体に「んんん???」と、わたし自身はかなり疑問だった。
当時は口には出しませんでしたが。

あのさ。
世の中にはさ。
誰が見ても微笑ましいような恋愛があふれているわけでもないわけです。
どう考えたって、性格的に問題があって、意地悪だったり、イヤなヤツだったりする人間に「惚れちゃいました」ってケースはそこらじゅうにあるわけです。
(まあ、あの相手じゃ苦労もするわな)
と思ったって、極論を言えば、本人が惚れてりゃいいわけです。
周囲に賛成られるか反対されるかということを超えて、「恋愛の自由」というものがあるわけです。
周囲が「ありゃりゃ」と思う相手であったとしても、その相手を選択する自由と責任は、本人にあるわけです。
そうした「自由」が、障害児のきょうだい児ということだけで、間接的に結果的に「親から制限される」ことって、違うんじゃないかと。

極論、なんですけどね。
わたしは、障害児のきょうだい児であるわたしの息子には、障害および障害児・者に対して、差別的侮蔑的視点を持った女性とだって恋愛する権利がある、と思っています。
そのことが彼の人生にどう影響していくかは、まったくもって、彼の問題なわけです。
そこに「親」という立場をもって、堂々と当たり前に、しかも本人のしあわせを確定するように「踏み込む」ことは、違うんではないか、と思うわけです。
恋愛は、まず、当事者のものであるべきだし、その関係の可能性や将来像も、当事者のものであるべきです。
わたしが息子に対してできることは、息子がどんな恋愛を選んだとしても、その恋愛で出てくる問題に対して解決する力を育てる源になる、「人を大事に思う力」と「自尊心」を育てることを意識することだけです。

まあ、今のところ、優しい子に育っておりますのでね、息子。
まあ、なんとかなるんではないかな、と。

先日、笑っちゃうことがありまして。
息子、オノレの手のひらを見つめて、何か、考え事をしているようにぼーっとしていまして。
「どうしたの?」と聞くと、イトコから手相を見てもらったと。
「結婚できない」と言われたと言うんですね。
「おかあさん、運命は決まっているの?」と、手のひらを見ながら、言う。
母、黙って、下を向く。
(その深刻な表情に、爆笑こきそうな勢いを、必死にこらえてました)

息子、叫ぶ。
「結婚できないなんて、人生最悪じゃないか!」
(この年で、結婚観かよ・・・・、もう呼吸困難になりそう。。。)

呼吸を整えて、彼に言いました。
「だいじょうぶよ。
 あなたは人を大事に好きになることができる力をたくさん持っているから。
 だから何も心配しなくて、だいじょうぶ。
 あなたはとても相手を大切に好きになることができる大人になるし
 あなたを好きになる女の人は絶対にあらわれるから。」
(それがかーちゃんの、アンタに対しての育児の目標なんだよ)

安堵した表情で、こっそり教えてくれました。
名前は言えないが、好きな子がいるんだそうです。
学校に行くのが、楽しいそうです。

うっくっくっく、たまらん。
(息子、ネタにしてゴメン)

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28 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (天竺堂)
2005-07-26 11:25:57
 とても興味深く拝読しました。我が身に照らし合わせて。

 ダウン症の弟がいるので、私も青年時代、何となく“結婚は面倒なことになるかもしれないな”と思っていました。ただ、わざわざ親から「覚悟をしておけ」みたいなことを言われたことはありません。私見ですが、親から心構えを聞かせる必要などないと思います。ダウン症の兄弟を持ったら、そのことについて当人が悩み考える時が必ず来ますし、心の決着が付かずとも、それぞれに独自の思いを抱えて成人するはずですから。「お前はブサイクだから、結婚や恋愛は覚悟をしておけ」と言うのと同じ構造で、親を恨むのが自分の兄弟についてか顔についてかの違い。余計なことです。

 結婚に関してのハードルは、親に許しを得るよりもっと前にもあります。フィアンセなり恋人に“カミングアウト”すること。Sさんが書かれた「微笑ましいような恋愛」においては、自分の兄弟が障害者だと打ち明けること、打ち明けた後に待っていることの方が、よほど面倒ではないかと思います。

 閑話休題。私の実家では、知的障害者の通所授産施設を運営しています(http://www2.megax.ne.jp/mansaku/)。学校卒業後や、親亡き後を考えての「どんぐりの家」的経緯です。ダウン症のほか、単純精薄や自閉症の人々がいます。昼食時は良く言えば賑やか、悪く言えば乱雑。さて、一緒にご飯を食べていると、よだれを垂れ流し、ご飯粒を撒き散らしている人が居たりします。私は何でもありませんが(単なる慣れです)、見学に来ていてあからさまに食欲を減退させる人がいます。

 何が言いたいかというと、“頭で分かっていても生理的にダメ”なケースあって、そのことで当人を攻めるのは筋違いであるということです。カミングアウトして「私は構わない」と言うので、障害のある兄弟に会わせたら…想像するにつけ、私は暗い感情を抱いたものです。

 ありがたいことに、結婚したカミさんは弟と仲良くなってくれました。後で、弟も気遣っていたのかも知れませんが。結婚前にカミさんの両親が「ダウン症とはどんな病気なのか」と大学病院にまで問い合わせていたことを知りましたが、私は「さもありなん」と思っただけでした。

 弟は板東流の日本舞踊を習っていて(熱心な師匠がいらっしゃったのです)、披露宴でひとさし舞ってくれました。師匠の指導もあって踊りは“障害者のレベル”をちょっとだけ越えていて、カミさんの両親をはじめ出席していた親類縁者や仲居さんまでが涙を流して感動。私は「よくやった」と痛快な気分になりました。そんな弟も30歳を過ぎて老化が進み、失禁なども多くなりましたが、あの舞踊は今もありがたく思っています。

 カミさんは近ごろ、何やら思うところがあったらしく、社会福祉士の資格取得に乗り出し、授産施設で経理の手伝いなどをするようになりました。昼食時は食欲が減退するそうで、別の部屋で食べています。

 散漫な長文、平にご容赦。
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Unknown (S嬢)
2005-07-26 13:56:33
長文、光栄です。

まず「私見」「余計なこと」ですが。

親の会、親の自主グループというものは、こうした形で「先輩のおかあさんの話を聞く」という企画をやることがありますが。

難しいものだと思いますね。

正解など無いのに、「先輩の話を聞く」ということで、1人の判断が正解のように伝わってしまうことがあること。

このあたりに対しての配慮が、人選等の企画段階で必要だというのが実感です。

また、話を聞いたときに、「では自分はどう考えるのか」という視点は重要ですし、その視点を誰でもが持てるようになるための「障害の受容に関しての支援」の重要性なども思います。



「余計なこと」といえば、わたしは親が「伝えすぎる」という「余計なこと」というのは、けっこうあるように思います。

わたしはきょうだい児本人自身の思考と力を信じたいという感覚なので、その「思考」とそれを支える「自尊心」を育てたいと思っています。

まあ、やれることをやるだけなんですけどね。



娘が通っていた、そして現在息子が通っている小学校は交流教育が実に優れている学校で、息子はこの恩恵にあずかってきたと思います。

息子の担任は、障害児学級担任経験者であったり、娘の交流級の担任経験者であったりと、面談等で「話が早い」人ばかりとご縁がありました。

今年初めて、娘が卒業後に赴任された方、つまり息子にとって「姉を全く知らない人」が担任になりました。

息子にとっては、これが初めての経験です。

これから彼が中学、高校と進んでいく中で、周囲は「姉を知らない人ばかり」になっていくでしょう。

恋愛をしたときのカミングアウト、これも彼の心をしめていく重要な問題になるのだろうと思います。

親の会の家族行事というものは、こうした「共通の立場」を持つ同年代の人間、つまり「きょうだい児同士」がつながりを持っていくために重要な意義があるんではないかなどと思っています。

(もうすぐ夏のバーベキュー行事、楽しみ)



友人で、相手の妹さんが知的障害を持っているという立場の人がいます。

この友人、7年間、両親に結婚を反対されていました。

そして結婚、生まれた子どもはダウン症でした。

娘の結婚相手のきょうだいの障害を理由に結婚を反対し続けた夫婦が、「障害児の祖父母」という当事者になったというか。

人生というものは、いろいろなことが起きるものですね。



さて、ご実家の通所施設のURLをありがとうございました。

ゆっくり訪問、閲覧させていただきます。

「どんぐりの家」、この連載が始まった頃、まだ娘は赤ん坊で、きょうだい児である「弟」は生まれていませんでした。

毎週毎週、連載をドキドキしながら読んでいたことを思い出されます。



わたしの二人の子ども。

この二人は「障害を持つ子と持たない子」なのではなく、「障害をもつ子」と「障害児のきょうだい児」なのだと思っています。

つまり、それぞれに対しての視点とフォローが育てる上で必要なのではないかと。

こう思う上で、成人されたきょうだい児の方のお話は、とても有意義で参考になります。

ありがたいです。

以下のブログも、訪問先にさせていただいていますが、わたしにとってはヒントがいっぱいです。



http://blog.goo.ne.jp/kartoshka
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Unknown (Akky)
2005-07-29 14:55:42
さっきから仕事中に書き込みしてます、

うちの仕事、暇なもんで(^^;



すでにご存知の通り、うちの嫁は視覚障害者です。赤ん坊のとき黄疸が出て、その治療のために赤外線(?)だかを眼に当てられたのが原因の医療ミスではないかという話を向こうのご両親から聞きましたが、事実かどうかは分からないそうです。ただ別のお医者さんから、遺伝性のものではないということはいわれているようです。実際、彼女の両親・妹とも晴眼者です。

いまから9年前、「障害者の女の人と付き合っている」という話を初めてしたとき、母親はしばらく絶句していました。かなりショックだったようです。それでも、実際に彼女と会ってみて、その人柄が分かってからは、割と早い時期に認めてもらうことが出来ました。「覚悟を決めたのよ」と後に母が言っていました。

問題は父親でした。父はずっと彼女との交際・結婚に反対していました。私のほうは彼女と付き合い始めてから2年ほどで家を出てしまったので(職場が実家から遠かったものですから)、父が反対していることについては「知ったこっちゃない」とずっと思っていました。まあ、そのうちどうにかなるだろうという気もありましたね。

その後いろいろあって、私と彼女とは一度別れたのですが、2年前に再び交際を始めて、それから初めて父に彼女を引き合わせたのです。それからですかね、急に父のほうから「早く結婚しなさい」というようになりました。私自身、ちょっとびっくりするぐらいの変化でした。

最終的に親に結婚を認めてもらうには、障害者でもそうでなくても、人柄が一番ということじゃないでしょうか。

まあしかし、結婚は人生のゴールではありません。私たちも結婚したとはいえ、これからもいろいろなことがあるでしょうが(さしあたり最大の困難と思われるのが出産・育児ですね)、まあどうにかこうにかなってしまうのではないかと私は努めて楽観的に構えていますよ(笑)
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Unknown (S嬢)
2005-07-29 19:51:59
お話を読みつつ、ちょっと引っかかったことがあって。

先天性と中途障害。

先天性はダメですか?と聞きたくなる、というか。

中途障害の方のお話を聞くときに、この「先天性じゃない」ということをどこかプライドのように持ってるような感を持つことがあって。

「できそこないとは違う」というように聞こえてしまうこともあります。

遺伝性疾患はダメですか?とかも思う。

まあ、遺伝性疾患というものは、結婚で相手を巻き込むことになりますから、問題は大きくなるのだと思いますが。

そして、「血縁に障害者は他にいないから」という言い方も耳にするもので。

数代から数十代といった血の元をさかのぼれば、たいがい誰かしら存在するのではないかというのが、わたしの実感ではあるのですけれどね。

障害のある子どもが生まれたときに、その祖父母にあたる人たちが最初に発する言葉として「うちの家系にはいないのに」というものもよく聞く。

だからなんだ、何が言いたいんだ、と、思う、思わせられる言葉ではありますね。



と、まあ、脱線。



結婚までのいきさつのお話、ありがとうございました。

結局、人柄というよりは、当人同士が「この人でなければならない」という意識・認識というものが周囲を変えていくのだろうなと。

その「この人でなければ」という意識・認識が成立するということ自体が、当人同士が「障害を超える」ということなのかもしれないと。



Akkyさんのところに最初に訪問したときに、過去記事をあさって挙式の様子を書かれた文章を読みました。

いいお式だったようで、そこに新婦の障害がどうのといったことを介入させて垣間見ることは、そのこと自体がナンセンスという感じがしました。



ご近所に聴力障害をもつ方がいらっしゃるのですが。

お子さんは中1と5年生の男の子二人。

電話はFAXを使用しますが、このお子さんたちがごく普通に電話に出たり、その他、具体的にこれこれとあげるのが難しいほど、お子さんたちがお母様の障害によるハンディをごく日常的にフォローしています。

それが「エライね」とかそういうことを感じないほど、近所に住む人間として、当たり前の光景になってはいます。

学校行事の際に手話通訳の方がついたりすると、ああそういえばこの方は聴力に障害があったのだな、と思い出したりするというか。

こうした「子どもが親の日常的な社会生活を支援する」ということは、子どもを連れて海外赴任という生活をされる方の家庭で時々見られる光景のようですね。

子どもの方が、日常的な現地の言語を覚えるのが早いということで。



Akkyさんのご家庭も、ご家庭ならではなの「日常」で「どうにかこうにか」なっていくんでしょうね、きっと。
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先天性か否かの問題 (Akky)
2005-07-30 00:53:32
うちの親が比較的その点にこだわったのは、生まれてくる子供が同じような障害を負って生まれてくる可能性の高さの問題でした。別に、「先天性」でないことをプライドのように考えているつもりは毛頭ありませんよ、うちの嫁も、それから私も、うちの親も、嫁の親も。そう読まれたとすれば、全くの誤解です。

親のどちらかが先天性の障害をもっていれば、子供にも同じ障害が出る可能性が(比較的)高いというのは、遺伝学的にいって、あながち的外れな不安・推測とはいえないでしょう。

生まれてくる子供が障害を負って生まれてくることが幸か不幸かということは一概には論じられませんけれども、できれば障害を持たずに生まれてきて欲しいと願うことは親心として無理からぬことではないか、と個人的には思います。実際、先天的な障害者同士の夫婦で、敢えて子供を作らないという方もいますよね。

嫁は障害者ですが、自分自身が障害者として生まれてきて不幸だったとは少しも思っていません。むしろ、「いま眼が良くなったら、自分が自分でなくなってしまうかもしれないから嫌だ」とさえいっています。

でも、自分の子供が障害者として生まれてくるかどうかというのは、自分自身が障害者として幸せかどうかという問題とは、やはり別問題ではないかという気がします。彼女が先天性の障害者で、子供も同じ障害を持って生まれてくるかもしれない可能性がいまよりも(比較的)高ければ、子供を生むか生まないかという問題はより切実になっていたでしょう。

私が「先天性」云々と書いたのは、つまり、子供が嫁と同じ障害を持って生まれてくる可能性が(比較的)少ないようだということ、ただそれだけです。もっとも、現に障害を持って生まれてきた子供についてどうこういうつもりはむろんありません。もし私たちに何らかの障害をもった子供が生まれてくれば、ただ一生懸命育てようと思うだけです。

できれば障害を持たない子供が生まれてきて欲しいと願うことは間違った考えなのでしょうか?



すみません、きょうは友達と飲んで帰っていくぶん酔っているので、乱文乱筆で失礼しました。
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Unknown (Akky)
2005-07-30 06:52:40
その後、昨日の夜中に嫁とこの件について少し話をしました。嫁はやはり、自分が先天性の障害を持っていて、子供が障害を持って生まれてくる可能性が高ければ、生むか生まないかを悩むだろうといっていました。でも、生まない、生みたくないとはいいませんでした。

それからこうもいっていました。もし自分に障害を持った子供がいて、誰かが「できれば子供には障害を持たずに生まれきてほしい」といっているのを聞いたら、嫌な気持ちがするだろうと。

私自身、↑で間違ったことをいったとは思っていません。ただ、配慮を欠いた発言だったと思います。その点につき、お詫びします。
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うふふふふ (S嬢)
2005-07-30 08:15:07
文章は「人を表す」と言いますが。

Akkyさん、あのね、あせりすぎ。

いや、この「あせりすぎ」は、わたしが生んだことかな、と。

ごめんなさいね。



先天性と中途障害。

これに関しては、ごめんなさい、全くのわたしの感想というか、実感なんですよね。

ある「障害」がある。

これが中途障害、もしくは中途障害の可能性がある。

その場合、たいがいにおいて、すぐ出てくるんですよね、この話題が。

中途障害である「プライド」をむき出しにする方もいらっしゃるし、それを感じない方もいる。

ただ、感じるのは、こういう「先天性では無い」可能性がある場合に、必ずそのことがすぐに出てくるということです。

そして、先天性の場合の「うちの家系にはいない」という言葉を言われたというケースも、本当によく聞く。

その辺の実感かな。



中途障害において、こういう「先天性じゃないから」ということを感じないのは、リエんとこ。

受け入れて生きる、ということ。

そうでないことは全て痛みにつながっていくということ。

そしてその痛み自体も、受け入れていくことが「生きる」ということ。

リエんとこに関しては、わたしのブログの検索窓に「ゆうくん」と入れてください。

一連の話が出てきます。
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生まれてくる子が、というお話 (S嬢)
2005-07-30 08:31:19
奥様の言。

>「いま眼が良くなったら、自分が自分でなくなってしまうかもしれないから嫌だ」



これ、すごくよくわかる。

わたしは娘に対して、「障害が無かったら」という仮定は、想像することがもうできない。

「障害は個性だ」という言葉に関して、異論反論は強いようですが、

「その人の持つ障害は、その人が持つ個性を作っていく要素の一つとして存在していることは紛れもない事実である」

ということは断言できると思います。

ですから、すでに障害を持って生きている人間に対しての、その障害の否定は、その人間自体の否定にもつながるという要素があるんですよね。



で、是非奥様に伝えていただきたいのですが。



>もし自分に障害を持った子供がいて、誰かが「できれば子供には障害を持たずに生まれきてほしい」といっているのを聞いたら、嫌な気持ちがするだろうと。



この「障害をもった子ども」が、小さいうち。

つまり、子どもの障害が、その個性を作っていっているんだということが、どこかすとんと自分の中に落ちるということを経験していない時代においては、確かにそういう要素はあると思います。

でも、わたし個人に関しては、心配ご無用。

もう、よくわかんなくなっちゃってるというか。

当たり前の事実と共に生きるということは、それを知らなかった以前の感覚を変えるというか、マヒさせていくというか、そんなとこはあるでしょうね。



・生まれてくる子どもが障害をもっていたらということが「想定」の段階で、子どもの障害に対して思うこと。

・生まれた子どもが障害をもっていることが事実で、子どもの障害に対して思うこと。



この二つはね、全く次元が違うことなんですよ。

これを非常にはっきりと記述していると思いますね、「『弱者』とはだれか」という天竺堂さんが紹介されていた本は。

わたしがどう思う、それに対してAkkyさんがどう思ってそれをわたしにどう言うか、というよりも、わたしもこの本をおすすめしますね。
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そうそう ()
2005-07-30 10:08:00
>・生まれてくる子どもが障害をもっていたらということが「想定」の段階で、子どもの障害に対して思うこと。

>・生まれた子どもが障害をもっていることが事実で、子どもの障害に対して思うこと。



この両者が違うという話は昨日も私たちの間で出ました。嫁は、自分が障害者であるから、それでもきちんとここまで育ってくることが出来たから、もし障害のある子が生まれても狼狽することはないだろうと。ただ、「想定」の段階で障害を持った子供が生まれてくる可能性が高いのであれば、自分と同じ苦労を子供にさせたくないという思いがあるから、子供を作るか作らないか迷うであろうと。



どうも↑では私の先走りで話が食い違ってしまったようで申し訳なかったのですが、S嬢さんのレスを読んで、基本的に我々の考え方は同じであるなと感じました(って、違うよっていわれたらどうしよう・笑)

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Aって誰だ?(笑) (Akky)
2005-07-30 10:10:02
Akkyです、すみません(^^;
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