わたしの最初の「妊娠」ですが。
妊娠のとても初期の時に、「誤診」を受けました。
稽留流産、つまり「お腹の中で胎児はすでに死亡している」と宣告。
稽留流産の「処置」としての掻爬の期日も決まっていました。
13年前のちょうど今頃です、あのとき掻爬していたとすれば。
この稽留流産と掻爬の医師からの説明が、非常に失礼で、テキトーで、実に惨めで情けない思いをさせられたんですよね。
当時住んでいた地元では大きな総合病院で、人気のある産婦人科でお産も多かった。
その辺に住んでいる人で、そこの病院で生んだという人も多かったし、診察もとても混んでいました。
小児科も常に混雑しているような病院だったのですが。
それで、もっと丁寧に、良心的な「掻爬」を受けるつもりで、他の病院に行った。
まあ、そういう「確実な意志」よりも、「もうあの病院はイヤ!」ってとこの方が強かったなと。
とにかく泣きまくってましたから。
自分が「動く棺桶」であるという事実にも。
非人間的な対応をされたことにも。
泣きまくってたし、精神的にもおかしくなってました。
職場も、慶弔休暇の扱いをする判断をし始めていました。
そうかと言っても、放置するわけにもいかないので、当時信頼していた近所の内科医に出身大学の大学病院を紹介していただきました。
文字通り、「泣きついて」。
とにかく、完全な医者不信に陥っていたと思う。
正確な妊娠週数は忘れましたが、宣告が二ヶ月の終わりで、別の病院に行ったのが3ヶ月に入っていたと思う。
パンツ脱いで内診代に上がって、両足開いて。
すでに決定している掻爬の前の診察ということで、耐えてました、この内診、とても。
開いた両足の向こうから、はっきりと聞こえてきたことがあった。
「赤ちゃん生きてますよ。だいじょうぶですよ。」
つつーっと涙が後から後から出てきた。
内診代に寝ているもんだから、後から後から出てくる涙は、全て真横に流れて耳に入る。
(この辺が、現実というものが持つ滑稽さも感じるんですけどね)
それからの妊娠の経過は、とにかく全て順調。
さらにまた「事件」が起きていくなんてことは、想像もしていませんでした。
娘が生まれてから、ダウン症の告知だの、先天性の心臓病の宣告だの、早期の手術の必要性だの、重症の肺炎だの、死の危険だの、
まー、医者からいろんなこと聞かされる日々が続くんですが。
でも妊娠当初の「死んでます」「生きてました」の展開のインパクトに勝てるものではなかったですね。
それと「信頼できる医師」のそばにいたかどうかということもとても大きい。
「ダウン症と告知を受けて泣く人」を、ずっと支援し続けてきているのにもかかわらず、恥ずかしいことにわたし自身は「ダウン症」という「事実」には、一度も泣いてないんですよね。
やっぱり、生きていることには勝てないな、と思うな。
ウチ、「一度死んだ子」なのよね。
妊娠のとても初期の時に、「誤診」を受けました。
稽留流産、つまり「お腹の中で胎児はすでに死亡している」と宣告。
稽留流産の「処置」としての掻爬の期日も決まっていました。
13年前のちょうど今頃です、あのとき掻爬していたとすれば。
この稽留流産と掻爬の医師からの説明が、非常に失礼で、テキトーで、実に惨めで情けない思いをさせられたんですよね。
当時住んでいた地元では大きな総合病院で、人気のある産婦人科でお産も多かった。
その辺に住んでいる人で、そこの病院で生んだという人も多かったし、診察もとても混んでいました。
小児科も常に混雑しているような病院だったのですが。
それで、もっと丁寧に、良心的な「掻爬」を受けるつもりで、他の病院に行った。
まあ、そういう「確実な意志」よりも、「もうあの病院はイヤ!」ってとこの方が強かったなと。
とにかく泣きまくってましたから。
自分が「動く棺桶」であるという事実にも。
非人間的な対応をされたことにも。
泣きまくってたし、精神的にもおかしくなってました。
職場も、慶弔休暇の扱いをする判断をし始めていました。
そうかと言っても、放置するわけにもいかないので、当時信頼していた近所の内科医に出身大学の大学病院を紹介していただきました。
文字通り、「泣きついて」。
とにかく、完全な医者不信に陥っていたと思う。
正確な妊娠週数は忘れましたが、宣告が二ヶ月の終わりで、別の病院に行ったのが3ヶ月に入っていたと思う。
パンツ脱いで内診代に上がって、両足開いて。
すでに決定している掻爬の前の診察ということで、耐えてました、この内診、とても。
開いた両足の向こうから、はっきりと聞こえてきたことがあった。
「赤ちゃん生きてますよ。だいじょうぶですよ。」
つつーっと涙が後から後から出てきた。
内診代に寝ているもんだから、後から後から出てくる涙は、全て真横に流れて耳に入る。
(この辺が、現実というものが持つ滑稽さも感じるんですけどね)
それからの妊娠の経過は、とにかく全て順調。
さらにまた「事件」が起きていくなんてことは、想像もしていませんでした。
娘が生まれてから、ダウン症の告知だの、先天性の心臓病の宣告だの、早期の手術の必要性だの、重症の肺炎だの、死の危険だの、
まー、医者からいろんなこと聞かされる日々が続くんですが。
でも妊娠当初の「死んでます」「生きてました」の展開のインパクトに勝てるものではなかったですね。
それと「信頼できる医師」のそばにいたかどうかということもとても大きい。
「ダウン症と告知を受けて泣く人」を、ずっと支援し続けてきているのにもかかわらず、恥ずかしいことにわたし自身は「ダウン症」という「事実」には、一度も泣いてないんですよね。
やっぱり、生きていることには勝てないな、と思うな。
ウチ、「一度死んだ子」なのよね。
偶然、こちらを見つけて読ませていただきました。
> やっぱり、生きていることには勝てないな
ホント、そうですよね…。
うまく書けないのですが、
これからも家族で仲良くやってください。
また、日記たのしみにしています。
この制度ができる前は、治療の説明もされず、ただ死んでいったダウン症の赤ちゃんはたくさんいたようです。
制度を作るために尽力くださった方々、障害のある子に対して治療という現場での差別の撤廃に尽力くださった方々、税金をおさめている方々。
そういうたくさんの方々に支えられた命なのだなあと思うんです。
わたし、この子を生んで、「おかげさま」という言葉が実感でわかるようになりました。
こんなことも、この「命」に教えられたような気がします。
本当に、生きていてくれて、よかった。
誤診でよかったです。
『開いた両足の向こうから、はっきりと聞こえてきたことがあった。
「赤ちゃん生きてますよ。だいじょうぶですよ。」
つつーっと涙が後から後から出てきた。』
と言う文を読んだとき、私も泣いていました。
私は、先日、稽留流産の手術をしたばかりです。
まだ、子宮収縮剤を飲み、生理よりも多い出血と、「陣痛と同じメカニズムです」と説明された痛みに、耐えている日々です。
産みたかった。
会いたかった。
と、まだ泣いています。
でも、私の場合は誤診じゃなかったから、きっと、生まれてくるタイミングではなかったのだろうと、思うことができました。
S譲さんの、この記事に、出会えてよかったです。
もうすぐ出かけなければならないのだけれど、涙が止まらないの。
>産みたかった。
>会いたかった。
>と、まだ泣いています。
すごくよくわかる。
もう15年も前になるんですよ。
でも、やっぱり、わたし、つらかった。
妊娠自覚して、たった数週間しかたたない時のことだったのに。
こんなにこんなに、自分の体と心ってのは、母ってヤツとして動き出していたんだ、って思った。
止められてしまって、そう思い知らされた。
そのただ中にいるんですね、さくやさん。
こんなことしか言えないけれど、
体に気を付けてね。