以下、心理研究でもなんでもなく、わたし個人が勝手に思うことを脈絡なくぶつぶつと。
嫌なことを「嫌だ」と言うこと /明けぬ夜の夢
自分の行動の判断基準が「自分がどう思うか、どうしたいか」はなく「他人にどう思われるか」ということになっていると、自分を責めたり、「嫌だ」と言えなくなってしまうような気がする。
嫌なことを嫌だと言うことが難しいタイプの人に、やみくもに「嫌な時は嫌だと言っていい」と言っても、それは何の解決にもならない気がする。そしてこのタイプは自分の親にとって「最初の子」という立場の人が多いような気がする。
初めての子ども、というものは、単なる子どもではなく特別な存在のものだと思う。期待やら親の親としての評価やら親の余裕の無さやら、そういうものを一手に引き受けてしまう。
一人っ子は我が儘だという言い方がある。わたしはそれに異論を唱える立場だと自分は思う。いわゆる一人っ子というものは、親の愛情というものを堂々と受け入れ、「愛される子」として育つ。「愛される子」として育つものはしあわせだと思う。
初めての子、という立場を負う人間は、自分より下の子に、親の緊張感が抜けた状態で親が子どもをかわいがる姿を見てしまう。そうした親の姿を見ながら、どう自分のアイデンティティを構築していくか。これは自分の両親にとって最初の子どもであるという立場を背負わされた子どもの宿命のようなものがあると思う。
自分より下のきょうだい児に、自分の親が見せる「緊張感が抜けた姿」を認識しつつも、初めての子というのは、その成長の中で、常に親の「初めて」の緊張を背負わなければならない。親にとって最初の子の就学は緊張を伴い、最初の子の進学は緊張感を伴い、最初の子の、と、成長の中でそれはずっと続いてしまう。最初の子はそれをずっと背負わなければならない。自分の下のきょうだい児に対して、親の緊張感が抜けた姿を確認しながら。
親というものは、最初の子に下される他者からの評価を自分に対しての評価のように受け取るのだと思う。だからこそ、最初の子は、他者からの評価というものに不自由な感覚を持ってしまう人が多いのかも知れないと思う。他者からの親の評価と、親自身の評価と、それを一手に引き受けなければならない状況に陥る可能性は高い。
最初の子、というものは、「悪い子」になるのは難しい。それは親が最初の子に対して「悪い子」になることを許さない余裕の無さというものが関係していると思う。親は最初の子に対しては、常に初心者で、親としての緊張感は続くのではないかと。それをまんま、最初の子に流してしまう危険は高い。
いわゆる一人っ子も、その最初の子という立場を背負いはするが、成長の中で、親の緊張が抜けた姿であるきょうだい児の姿を見ることは無い。これはこれでしあわせなことなんではないかとも思う。それだけ最初の子に科せられるものは、大きいのではないかとわたしは思う。
最初の子、というものにとって、親離れ子離れというものは難しく、しかし常に重要なものではないかとわたしは思う。子が意識して意識下の親殺しをやっていかなくてはなかなか自由になれないものなのではないかとわたしは思う。親は最初の子に対して、本人の価値観の育成を意識することを行うことは、子どもを大人にする上で重要な作業なのではないかとわたしは思う。
思春期の反抗は、人間の成長の中でとても重要だと思う。複数の子どもをもつ親は、最初の子の思春期の反抗が芽生えるかどうかに対しての意識というものを、最初の子を自由な大人にしていくために重要なことととらえていくことが必要なことなのではないかとわたしは思う。それは最初の子を自分の羽の内から羽ばたかせていくために、とても重要な作業だと思う。
しかし、親は最初の子に対しての緊張感から、なかなか最初の子の思春期の反抗を許さない。その現実というものを最初の子が独自に渡っていくことは、簡単なことではないと思う。
と、そんなことを考えていた自分のところには、イレギュラーな構成が生まれて、人生というものは不思議なものだと思う。知的障害児の上の子と、障害というものをもたない下の子と。
どちらも最初の子のような側面を持ち、どちらも二番目の子のような側面を持つ。運命の展開というものはおもしろいものだと思う。
そしてわたしは二番目の子どもである息子に対して、障害をもたない最初の子としての緊張感を持ち、その影響を与え、そして障害児のきょうだい児としての環境を負わせる。その環境全てを彼が彼の手で、自身の生育歴を、その人生の有効なカードとしての側面を持つという可能性を持たせるにはどうしたらいいかと思う。
障害をもつ子どもに対しての「教科書」はたくさんある。しかし、こうした特異な環境をもつ息子に対しての「教科書」などどこにもない。わたしはわたしのために、そして他でもない彼のために、この特異な環境にふさわしい「教科書」を、わたしは独自に模索し続ける。
神奈川で生まれ育った私は、療育も進んでる神奈川に帰りたいと、最近思っています。。。
私の息子(テッタボ)は知的障害児で、3歳9ヶ月になります。
出生時にチアノーゼがでて、今は低緊張&中度知的障害。
年少での就園を遅らせて、市の療育施設に母子通園中。
一人っ子なんですが・・・
健常児の子育てもしてみたい!でも、次も障害あったら・・・将来テッタボの面倒見させるみたいで・・・
そんなで2人目が考えられず。。。
やっぱり兄弟いたほうが、いいですか?
じゃあ、アンタはどうなのか、と問われましたらね。
こちらのコメント欄に残したフレーズを引用しますとね。
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http://blog.goo.ne.jp/big-mama-8123/e/dcb123bd6fae6f7f5dd396f18af227df
>それでもこんな駄目母なのに、また障害児かもしれないのに兄弟が欲しいと思ってしまう。おばかですね
いや、わたしはそれでも生んじゃいましたよ。
不安はたくさんあったけど、でも「欲しい」には勝てませんでした。
欲と不安を天秤かけりゃ、わたしゃ欲が重かった~、ああ重かった~~、
というとこです。
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この「天秤」に関しては、あっちゃこっちゃと揺れる重さにいろいろ語ることはできはするけれど、結局天秤の指し示す方向に関しては、もう理屈じゃ語れません。
コウノトリのご機嫌もあるしね。
答えはみぃぼんさんの心の中にあるんだと思います。
正解なんて、ありゃしません。
結果は欲しいなんですよね!
でも、なかなか踏み切れない。諦めきれない。
・旦那が45歳 経済的に不安。
・昨年妊娠した時に「産まれてくる子が可哀想」 と周囲に反対される ← 11週で流産。
・流産してから・・・不妊気味。
この先経済的な心配をすると、不妊治療してまで
次を望むことは出来ない。
でもキッパリ諦められない・・・
なんか、頭の中グチャグチャなんです・・・
また、お邪魔しまぁ~す!
さて、おおまかな背景がわかったところで、「質問」に戻ります。
>やっぱり兄弟いたほうが、いいですか?
母親のメリット、ですが。
子どもが複数になると、「いろんなのがいるんだ」という実感を持ちます。
これは一人目の子に対しての「目」を、ずいぶん変える要素にはなると思います。
子どもが単数だと、二人だけでいるときに気持ちが追いつめられてしまうと、非常に孤独感を持ちます。
「わたしとこの子」というのが、ワンセットとしてのある種の固まりとしての「個」になってしまいやすい。
しかし、子どもが複数になると「わたしと、この子たち」という風に、「、」付きになってくるような、ほどよい距離感は生まれるような気がします。
二人目に対しての「障害」の不安ですが。
これはもう、経験した人間ではないとわからないと思います。
そして経験したはずのわたしでも、妊娠以前、妊娠中の期間を終えてしまっているので、もはや当事者としての資格のようなものは無いと思います。
そのくらい、一人目の子どもが障害をもつ子、という事実が引き起こす「不安」はやはり、けして小さくはないものだと思います。
「だいじょうぶよ」という周囲の声かけが、プラスに響く人もいれば、(何言ってんだ、そんなこと誰にもわからないじゃないか)という風に響く人もいる。
本当にいろいろだし、複雑なものだと思う。
妊娠する、ということは、もうこの不安から「降りられない」という状態に突入することでもあります。
周囲の反応ですが。
「かわいそう」という感覚をもつ周囲、「おめでとう」という感覚をもつ周囲。
このどちらが自分の周囲の反応になるか、これはその人の持っている人間関係の環境にもよると思います。
環境によるものであって、障害によって出てくるものだとは思いません。
かわいそう、ではありません。
妊娠後に、「かわいそう」という言葉をもって、妊娠中絶の決断を暗に勧められているという感覚を持たされる母親の方が、ずっと「かわいそう」ですし、命の否定の理由にはならないと思います。
きょうだい児にはきょうだい児の育て方がある、と、わたしは思っています。
ってなとこで、かなり重要な要素になっていそうなのが、コウノトリのご機嫌でしょうね。
ってことで、再度質問に戻りますが。
>やっぱり兄弟いたほうが、いいですか?
いや、いなくたっていいですよ、別に。
うちは上と下とでちょうど三歳あいてますが。
妊娠前に思ってましたね、「ひとりじゃダメかなあ」って。
欲しいと思っても、コウノトリはそう簡単にはにこにこしてくれなかったのでね。
そんなにあいた、ってほどでもなかったんだけど、この時期、ダウン症の子の親仲間(子どもが同年齢で「一人目」って仲間が周囲にたくさんいた)で、二人目ブームが到来していて。
あの人もこの人も、ってとこで、なんだかビミョーにあせってましたね。
そんな中で「ひとりじゃダメかなあ」って。
ダメじゃないよねえ、というのは結論。
周囲の愛情がたっぷりと注がれる環境。
きょうだい児がいるメリットに関しては、仲間づくりの中で、そのメリットから得られるものを聞いて参考にしたり、時にはそのメリットをちょちょいと借りればいいことです。
あの時本人は気がついてなくて(?)妊娠初期だったのかな~と今驚きました。
あのS嬢さんのコメントで彼女、気持ちが楽になったと思います。
ありがとうございました。
そういうのがコウノトリのご機嫌、ってとこなんだろうな、と思う。
あのね、いわゆる「二人目の障害不安」ってヤツで。
わたしは一人目の妊娠時に、風疹の抗体が全然無かったのよ。
中学のときに、風疹の学級閉鎖があって、かかりはしなかったんだけどそんな集団の中にいたもんだから、なんとなく抗体くらいは持ってるんだろ、って思ってたんだけど、結果はいわゆる、「全然無し」。
子どもの集団にはなるべく近づくな、なんてことを言われました。
まあ、妊娠中の風疹罹患は、防ぎようもないし、どこに行ったから行かないからってことでもないし、「運」だよね。
「運」の割には障害がくっついてくる可能性、高いんだよね、風疹。
ってことで、二人目を望む、ってとこで、行ったのよ、予防接種。
理由が理由、ってことで、産科行ってやってもらった。
なんだかずいぶん金かかった。
避妊期間、ってのも言われて、抗体の確認の検査もやって。
で、まあそんなことやってて、最初の妊娠後から3年後に妊娠で、予防接種後からどのくらいだったか忘れた。
妊婦検診でね、無かったですよ、風疹の抗体。
ぜ~~んぜん、ね。
最初の妊娠のときに受けた注意をもう一回。
人事を尽くして天命を待つ、ってこういうことかいな、とか思ったわ。
過去記事のきょうだい児の話、携帯からでも閲覧できますか?
おっと大変、生まれちゃう、生まれちゃう。
アドレスはこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/satomies/e/32819d613e7e968df15be73a8fd19318
でね。
これは、下の子が育っていって、そこで感じることが出てきてから、ってとこでいいんだよ。
ひぃろさんとこは、秋で2歳だよね。
だから二つちがいになるわけだけれど。
「最初の子」ってのは、下にきょうだい児ができるとき、人生最初の試練、ってヤツを超えなきゃならない。
生まれるときに母親から引き離されて、再会したときには母の一番近くには新しい生き物がいるわけで。
5つも6つもちがえば、世話する方に回ってみるなんてこともできるけれど、1歳や2歳じゃ無理だ。
だから、この「最初の試練」ってのを超えるときに、上手にそばにいてやって欲しい。
ひぃろさんとこは、確か、意思表示をはっきりする子だったという記憶があるから、ちょっと大変かもしれない。
大変かもしれないけれど、赤ん坊なんてのは、はっきり言って、「乳」以外の時間は誰だっていいわけで。
でも、この時期、母親を本当に必要としているのは「最初の子」だってことも、忘れないでいて欲しい。
はっきり意思表示する子、ってことで、ぎゃー、言いたくなったら思い出して欲しい。
出してくれる子、ってのは、それは助かる、ってこと。
ためる子、ってのは難しい。
家庭の中で自然と課せられるようになった「役割」がけっこう多かったような気がします。父の実家の(お寺です)のお手伝い、ある程度の年齢になると、母が直接父に言いにくいことを、私が代弁することがありました。「私が言うと角が立つから」と母は言いました。小学生の頃に、妹を保育園に迎えに行ったりもしました。でも、それは何の疑問も持たずにしていたんですね。
私が病気になったときに母が「私の育て方が悪かったのかしら」と言ったことがありました。いや、そんなことはないんだと思いました。寂しかったのは事実ですが、母に罪悪感を持って欲しくなかったのです。自分が欲しいのは謝罪の言葉ではなくて、寂しかったのねというような慰めというか認めて欲しかったというか。
ある程度の年齢になると、母親の大変さも何となく分かってくるので、そこで罪悪感を持って欲しくないです。欲しいのはやっぱり「甘い汁」なんだと思います。
ちょこっとくすぐられるような感触ってのは、謝罪や感謝の言葉を述べるよりも大きいと思う。
子どもってのは、愛されたいイキモノなんだしね。
過去記事の「不平等のススメ」で出している、「あなただけ特別をちょこっと」ってのはさ、確か、伊藤比呂美の育児本にもちょこっと出てきたような記憶がある。
人間の心理ってさ、そうだよね、って。
おかあさまには本当に申し訳ないんだけれど。
罪悪感、ってのはさ、やっぱり評価にこだわってるように思う。
育て方が悪かったとかそんなことじゃなくて、すっと頬をさわって、「がんばらせてしまったね」って。
そういうのがさ、欲しいんだよね。
誰かがそこに入り込んでくるような、ってことじゃなくて、わたしとあなたって。
人と人って、そういう瞬間が大事なんだと思う。