S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「平等」

2005年02月05日 | たったひとつのたからもの
ドラマ「たったひとつのたからもの」は、実際にダウン症の子を出演させたことが話題になりましたが、ダウン症の子を「俳優」として使うことは、けして初めてではありません。

10年ほど前に、NHK教育テレビの道徳のドラマで、ダウン症の子が出演したことがありました。
こやぎの会(現日本ダウン症協会)の会報で、放映を知ったのが、見たきっかけだったと思います。

団地に住む、姉と弟。
姉は、このドラマの「小学生のあるクラス」の児童で、弟はダウン症。
弟がラジコンカーで遊びたがっている。
姉の同級生の男の子(団地の子)がラジコンカーで遊んでいる場所に、ラジコンカーを持っていき、仲間にいれてもらいたがる。
姉の同級生の男の子たちは、このダウン症の子が来ると「行こうぜ」と行ってしまう。

ダウン症の男の子は、いっしょに遊ぶ友達がいない。
姉は、ひとりでラジコンカーを使って遊ぶ弟のそばにいてやることの繰り返しの日々。

男の子たちの中の一人が言う。
「○○君は、僕たちと遊びたいんだと思う、仲間に入れてやろうぜ」
これに対して、他の子が言う。
「なんでだよ。××にも弟がいるし、△△にも弟がいる。
 ソイツらもめんどくさいから仲間に入れてないじゃないか。
 なんでアイツの弟だけ、仲間に入れてやんなきゃなんないんだよ。
 それが平等ってモンだろ? 平等。」

仲間に入れてやろうと提案した男の子は、この「平等」という言葉に、何かが違うと思う。
それがどういうことかわからないまま、この男の子は、一人で、「姉」といっしょに、このダウン症の男の子と遊んでやるようになる。

「平等だろ?平等」と言った男の子が、信号のそばで、ある光景を見かける。
信号のある交差点で、おばあさんが青になって渡ろうとするのだけれど、渡りかけて戻ってきてしまう。
それを何度も繰り返している。
この男の子はおばあさんに声をかけられる。
「この信号を一緒に渡ってもらえないか。
 わたしの足では、青の間にどうしても渡りきれない。
 一緒に渡ってもらえれば、途中で赤になっても渡れると思うから。」
男の子は、おばあさんをかばいながら、一緒に信号を横断する。


うろ覚えですが、大筋はこんなところだったと思います。

キーワードは「平等」。
この「全ての人に平等」というのは、ある種の人々にはハンディとなることがある。
ハンディを支援されることで、この、ある種の人々の「平等」は、やっと成立する。
「ハンディキャップ」「支援」「平等」というキーワードをつなげていくという意味では、非常によくできていると、とても印象に残りました。

ここで、ダウン症の男の子が「出演」したこと。
これは、何故?という感じは、少し残りました。
ダウン症の子=「遊ぶ友達がいない」というのは、いささか短絡的かなあと。
そうした疑問と、ダウン症の子=「遊ぶ友達がいない」と例に出されることで、傷ついた親がいたかもしれないなあとも思います。
遊ぶ友達がいるダウン症の子は、現実には少なからず存在しますから。
まあ、「身近に障害児という存在はいるんだよ」という例示と、「実際に知的障害を持つ子を出演させる」という意味では、ダウン症が一番使いやすかったからかもしれませんが。

うちの娘は、小学生のときは、遊ぶ友達というのは存在していました。
高学年になっていくと、同級生と「いっしょに遊ぶ」ことはかなりきつくなってはいきましたが、中学生になった現在でも、地域の公園に行けば、娘に声をかけて「いっしょに遊ぶ」小学生たちに出会うことは少なくありません。

ただ、これは、娘が通う小学校の交流教育が実に豊かで、小学校の中で娘と、娘の呼び名を知らない子は皆無に近かったことも影響しているかもしれません。
この「交流教育」が、このドラマで言う「平等に対しての支援」なのかもしれません。

以前、全盲の方のドキュメントを見たことがあります。
盲学校ではなく、普通の学校に進んだ「彼」。
高校の最後の運動会で、「彼」の友人達が考えます。
「『彼』を思いっきり走らせてやりたい。」
友人達は、「彼」に伴走して走ることを決めます。
伴走する人間が、走る「彼」に向かって、声をかけながら走ることで、彼に「安全圏」を示すというやり方です。
この声かけの言葉は「彼」の名前でした。
「彼」を呼び続ける声に守られて、「彼」は生まれて初めて全力疾走します。
他の同級生たちと同じコース、同じ距離を。

「支援されて」成立する「平等」には、宝が潜んでいるように思います。

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