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希望をくれたブログ / 徒然こそだて日記
この記事、実は5月に書かれたもので、最初はリンクは無く、心境だけが語られていた。
ライブドアのブログの「未来検索」というツールに入れてある「ダウン症」というワードでピックアップされて、わたしのところにメール通知が届く一覧のうちの一つだった。
リンクは無かったけれど、なんというか、自意識過剰というか、読んですぐ「あ、ウチのことだ」と思った。
「希望をくれたブログ」という形容はすごいけれど、言ってしまえばなんてことはない。
そのくらい「希望が見えなくなる」ものだと思う、「生まれた赤ちゃんはダウン症でした」という告知を受けることは。
ダウン症だけじゃない、生後早くに障害がわかる子どもの親は、みんなそうなんだと思う。
人生が変わる、と思う。
昨日までの喜びは、もう手に入らない、と思う。
重い合併症、特に命に関わる合併症の治療のスケジュールがたてこんでいる場合はそっちに気持ちを持っていかれるけれど、幸いに健康に生まれたダウン症児の親は、つらい。
ダウン症の乳児は、本当に育てやすい。
育てやすいというか、なんというか、ヒマだ。
けたたましく泣く子は少なく、ふにゃとか、ふにゃ~~とかというような、こちらが余裕を持てる泣き声で泣く。
生後一ヶ月や二ヶ月は「寝ている」というより「昏睡状態」のような寝方をしていて、気がつけば必要なミルクを摂取する時間なんてものが全く無視されるかのように、寝ている。
たいがいの赤ん坊の母親は、夜中にぎゃーぎゃーと赤ん坊に起こされて授乳をするのに、この子たちは下手すれば日中でも「起こさなければ」ならなくなる。
時間的な余裕を、持たされてしまう。
時間的な余裕ができれば、湧き起こるのは、不安。
たまにダウン症でも、まあってくらい健康な乳児もいる。
ダウン症の母乳育児は、下手くそな吸い方と、母乳を吸い続ける体力が無いこととかで続かず、母乳は出なくなり、たいてい失敗する。
しかし、まあってくらい健康なダウン症の乳児は、たくましく母乳を吸い続け、大きな声で泣き、夜中に母親をたたき起こす。
こういう健康なダウン症児の母親は、わたしの見てきた経験上では、受け入れもいい。
時間的な余裕を持たされるってのは、ある意味、ろくなことじゃないのかもしれない。
人生は、変わらない。
昨日までの喜びだって、手に入る。
ただ「自分は何かを告知されるということの無い、普通の赤ん坊を抱くつもりだった」という思いは永遠に消えないだろう。
それでも、新しい扉を開くことで、きっと一生知らなかったはずの思いと、発見と、喜びが手に入る。
望むことをあきらめなければ。
人生が変わってしまうんじゃないか。
その衝撃の中、みんながみんなではないけれど、ダウン症の親で多い、ある「思うこと」というものがある。
後日、仲間内で笑い話になる。
思っていた人間は、「自意識過剰」と呼ばれる。
「ダウン症の子を連れ歩く人生は、人にじろじろと見られる人生になる」
→「きれいでいなきゃ」「きれいにしてなきゃ」
ま、ある意味「女の意地」みたいなモンで、父親には出ない発想でしょうな。
「希望をくれた」というすごい形容がついたのは、ぶはははは、の「朝の母」。
娘の登下校の送迎及び尾行において、「耳に音楽」というのは長きにわたる楽しみでしたね。
だって、自分よりはるかに遅いペースで歩くヤツの尾行って、ヒマよ?
耳、あいてるし。
まだ「耳に音楽」、やってなかった頃のこと。
小学校の通学路を、朝、1人、帰る。
道に人はいない、頭、ヒマ。
小さい声で、好きな歌を歌う。
人はいない、テンションが上がる。
そんなときに、わたしは右足首を捻挫しました。
ぐきっと、かなり派手にやりました。
帰路、テンション、上がり過ぎました。
小さい声で歌っていた歌のテンションがピーク時に、目の前に段差がありました。
歌のサビに合わせて、段差を飛び降りました。
不幸にも、そこには、普段、あるはずの無い、両手でなければ持てないくらいの「でかい石」がありました。
頭の中を巡る音楽のリズムに合わせて勢いよくジャンプしたわたしは、その石の存在により、派手に着地に失敗し、右足を抱えてうずくまったのでした。
2001年6月5日の「朝の母」です。
後で友人に「状況がよくわからん、現場写真を」と言われて撮ったのがコレ。
ノリノリでジャンプした「現場」です。
*TB*
希望をくれたブログ / 徒然こそだて日記
希望をくれたブログ / 徒然こそだて日記
この記事、実は5月に書かれたもので、最初はリンクは無く、心境だけが語られていた。
ライブドアのブログの「未来検索」というツールに入れてある「ダウン症」というワードでピックアップされて、わたしのところにメール通知が届く一覧のうちの一つだった。
リンクは無かったけれど、なんというか、自意識過剰というか、読んですぐ「あ、ウチのことだ」と思った。
「希望をくれたブログ」という形容はすごいけれど、言ってしまえばなんてことはない。
そのくらい「希望が見えなくなる」ものだと思う、「生まれた赤ちゃんはダウン症でした」という告知を受けることは。
ダウン症だけじゃない、生後早くに障害がわかる子どもの親は、みんなそうなんだと思う。
人生が変わる、と思う。
昨日までの喜びは、もう手に入らない、と思う。
重い合併症、特に命に関わる合併症の治療のスケジュールがたてこんでいる場合はそっちに気持ちを持っていかれるけれど、幸いに健康に生まれたダウン症児の親は、つらい。
ダウン症の乳児は、本当に育てやすい。
育てやすいというか、なんというか、ヒマだ。
けたたましく泣く子は少なく、ふにゃとか、ふにゃ~~とかというような、こちらが余裕を持てる泣き声で泣く。
生後一ヶ月や二ヶ月は「寝ている」というより「昏睡状態」のような寝方をしていて、気がつけば必要なミルクを摂取する時間なんてものが全く無視されるかのように、寝ている。
たいがいの赤ん坊の母親は、夜中にぎゃーぎゃーと赤ん坊に起こされて授乳をするのに、この子たちは下手すれば日中でも「起こさなければ」ならなくなる。
時間的な余裕を、持たされてしまう。
時間的な余裕ができれば、湧き起こるのは、不安。
たまにダウン症でも、まあってくらい健康な乳児もいる。
ダウン症の母乳育児は、下手くそな吸い方と、母乳を吸い続ける体力が無いこととかで続かず、母乳は出なくなり、たいてい失敗する。
しかし、まあってくらい健康なダウン症の乳児は、たくましく母乳を吸い続け、大きな声で泣き、夜中に母親をたたき起こす。
こういう健康なダウン症児の母親は、わたしの見てきた経験上では、受け入れもいい。
時間的な余裕を持たされるってのは、ある意味、ろくなことじゃないのかもしれない。
人生は、変わらない。
昨日までの喜びだって、手に入る。
ただ「自分は何かを告知されるということの無い、普通の赤ん坊を抱くつもりだった」という思いは永遠に消えないだろう。
それでも、新しい扉を開くことで、きっと一生知らなかったはずの思いと、発見と、喜びが手に入る。
望むことをあきらめなければ。
人生が変わってしまうんじゃないか。
その衝撃の中、みんながみんなではないけれど、ダウン症の親で多い、ある「思うこと」というものがある。
後日、仲間内で笑い話になる。
思っていた人間は、「自意識過剰」と呼ばれる。
「ダウン症の子を連れ歩く人生は、人にじろじろと見られる人生になる」
→「きれいでいなきゃ」「きれいにしてなきゃ」
ま、ある意味「女の意地」みたいなモンで、父親には出ない発想でしょうな。
「希望をくれた」というすごい形容がついたのは、ぶはははは、の「朝の母」。
娘の登下校の送迎及び尾行において、「耳に音楽」というのは長きにわたる楽しみでしたね。
だって、自分よりはるかに遅いペースで歩くヤツの尾行って、ヒマよ?
耳、あいてるし。
まだ「耳に音楽」、やってなかった頃のこと。
小学校の通学路を、朝、1人、帰る。
道に人はいない、頭、ヒマ。
小さい声で、好きな歌を歌う。
人はいない、テンションが上がる。
そんなときに、わたしは右足首を捻挫しました。
ぐきっと、かなり派手にやりました。
帰路、テンション、上がり過ぎました。
小さい声で歌っていた歌のテンションがピーク時に、目の前に段差がありました。
歌のサビに合わせて、段差を飛び降りました。
不幸にも、そこには、普段、あるはずの無い、両手でなければ持てないくらいの「でかい石」がありました。
頭の中を巡る音楽のリズムに合わせて勢いよくジャンプしたわたしは、その石の存在により、派手に着地に失敗し、右足を抱えてうずくまったのでした。
2001年6月5日の「朝の母」です。
後で友人に「状況がよくわからん、現場写真を」と言われて撮ったのがコレ。
ノリノリでジャンプした「現場」です。
*TB*
希望をくれたブログ / 徒然こそだて日記
うちはずっと静かに寝ているタイプでした。飲まず食わずで。私が10時くらいに寝る前にミルクを飲ませて夜中の2時に目覚ましかけてミルクを飲ませ、朝の6時にまたミルクを飲ませる。20ミリリットルくらいずつ。そんなことを毎日続けていました。
でも、ミルクを飲ませているとは思っていなかったです。俺の魂を、命を飲ませているんだと思っていました。
空いた時間の不安。今はネットで救われているような気がします。ダウン症児を持たない医者に何か言われるよりも、境遇を共有しているひとと繋がれることのほうが前に向ける。そんな感じです。
こくんこくんこくんと飲むのに、ほんの少しのミルクはなかなか減らない。
こくんこくんという口がそのうち止まる。
ダメよ、まだ眠ってしまっては。
もう少しがんばってね。
こくんこくんこくんと、ほんの少しのミルクを飲む。
こくんこくんこくんと飲むのに、ほんの少しのミルクはなかなか減らない。
くふっと、一呼吸あって、哺乳壜を口からはずす。
哺乳壜の残りのミルクを見つめながら、
もうちょっと、もうちょっとだから飲んでみてね。
こくんこくんこくん、
くぇっ、ぼー。
ああ、吐いてしまった。
ううん、吐かせてしまったんだ。
たった少し、ほんの少し無理させてしまったために。
な~んてね。
すぐによみがえりますよ、絵のようにね。
ダウン症の赤ちゃんの一歳のお誕生日は、ホント特別なモンだと思う。
親のこの一年は、と~っても濃いからね。
おめでとう!ここまで来たね!
って、祝ってあげたい、親を。
う~、緊張する。書き込みに不慣れという事と
私、S嬢さんのファンなものですから。失礼があったら、ご容赦を。
9ヶ月の次女がダウン症です。合併症は無く、夜中のミルクは目覚ましをかけて与えてたくちです。生後半年は、はっきり言って「義務感」で育てていましたね。今は認知の面が伸び表情も豊かになってきて、愛しいです。でも、「障害の受容」には程遠く、世間の目が気になり、外出するといや~な汗をかく時があります。(笑)反面、化粧や服装に気を配り、意味もなく口角をあげた表情をしたりして。
「障害児の家族が不幸なんて思わないで!」というメッセージというよりも、わたしの場合は「人に見られてる」という自意識過剰からのものですね。でもそれが、「引きこもり」にならずに済んだ一因かなと、思ってます。
もう、9ヶ月ですか。
ここまで来たか~みたいな感じはあるんじゃないかな、と思う。
一歳のお誕生日には、たくさん祝ってあげてくださいね、一年やってきた「自分」を。
合併症が無かったということは、検診、予防接種等、最初から「普通の社会」に向かって行かなければならなかった経験を積んできたってこと。
これはなんというか、母親ってものが積み重ねる日々、ですよね。
1人で社会に向かっていく、みたいな。
合併症が重く、検診等が主治医のスケジュールの中で行われている場合は、この辺の経験がちょっと、タイミングが遅れたりするんですよね。
また上にもお嬢さんがいらっしゃるということなので、この辺の人間関係との葛藤もあったんではないかと思う。
今思うこと、近い未来で思うこと、覚えておいてくださいね。
いいことも悪いことも、単に流して忘れてしまうのはとてももったいない。
近い過去をふり返ったときの「自分のデータ」は、いろんな意味で貴重です。
逆に言えば、そのくらい、誰しもがその個性の中で、ちょっとずつ心境や感覚が変わっていく。
そうやって自分の中に見えてくること、「現在のその先の自分」が見えてくること、楽しみにしていてくださいね。
見えないときは、「まだ」見えないだけだから。
必ず、なんというかすとんと見えるときが、その人の個性の中であるのでね。
化粧だの服装だの「口角」だの、おおいにけっこう。
この化粧だの服装だのってことで、すっと背筋が伸びるような感覚を得られること、
これ「女の利点」。
利用しないって、手はありませんわよ、奥様。
自分の気持ちも華やぐしね。
そういやねえ。
自分の化粧だの服装だの完璧で、気づいたら娘の口の回りが離乳食の汚れがついてたり、目やにがついてたり、なんてこともあったなあと。
あはは、本末転倒じゃ。