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S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

8月12日

2005年08月13日 | インターネット雑記
ボイスレコーダー~残された声の記録~ジャンボ機墜落20年目の真実

20年前の8月12日の夕刻、わたしは銀座で鰻を食べていました。
デートをしていて、その相手が「鰻が食べたい」と言ったからです。
その鰻屋のカウンター近くでついていたテレビが123便の行方不明を報じ、お店の人がボリュームを上げました。
テーブル席からそのテレビを眺め、震撼する思いの中で、そのニュースを聞いていた覚えがあります。
翌日、わたしは1人で、姉が住むオーストラリアに向かう飛行機に乗ることになっていました。

昨日、8月12日、
わたしは JIROの独断的日記ココログ版「日航123便はあの30分が全てではないのだ。」 を、何度も読んでいました。
リンクされている、123便のボイスレコーダーを聞くことのできるサイトに改めて飛び、黙って聞き続けました。
このブログに記載されている「◆少なくとも次の本を読まれたい。」の本を、タイトルしか知らないことに恥じるような思いでいました。

夕刻からの、TBSの放送。
息子は、機長のご子息の遺体の身元確認のシーンに大きく反応していました。
息子は6歳のときに、自分の友達の葬儀に出席しています。
その友達の両親の望みにより、棺の中に献花をし、遺体というものを直接見て、また頬にふれた。
息子は、遺体というものを知っています。
あの、死というものの「冷たさ」。
それが「腕だけ」という状況で、「腕」から父親をさがそうとする機長のご子息。
「この腕にさわらせてください」「息子だからさわればわかる」という、この機長のご子息のシーンに、息子は黙って、しかし大きく反応していることがわかりました。
わたしは黙って、彼の肩を抱きました。
あの日いっしょにあの最初の報道を見た夫が、「息子の父親」として、そばにいました。

8月13日。
ネットを接続して、最初に開いたページは JIROの独断的日記ココログ版「ボイス・レコーダー」(TBS)視聴後、雑感。 でした。
わたしの番組の感想は、このブログで記載されていることに加えることはありません。
唯一、加えることができるのは、最後のシーンで「山本学」が出てきたことです。
ブラウン管で久しぶりに見た「山本学」でしたが、この役は彼でなければ、という実感がありました。
番組自体が大切に作られたものだと、そんなメッセージをキャスティングから受け取ったような気がしました。

思いを広げ、情報を与えてくれた JIROの独断的日記ココログ版 に感謝を込めてトラックバックです。
紹介されている「◆少なくとも次の本を読まれたい。」という本を、少しずつ読んでいこうと思っています。

医師によるブログ

2005年08月10日 | インターネット雑記
わたしは「医師による医療に関してのエッセイ」というものが、昔から好きでした。
元医師である渡辺淳一に関しては、医療に関わるエッセイだけでなく、心臓移植をテーマにした数々の小説や、医師であることの孤独を思わせられる「死化粧」、重度障害児をテーマにした「霙」、日本で初めての女医の生涯を描いた「花埋み」等、好きな作家の1人であります。
医師の体験を書かれた本としては、竹中文良の「医者が癌にかかったとき」に始まる一連のシリーズも、医師という立場で見る医療を考えさせられるものだと思う。

ブログでも、医師が執筆というものは、興味を持って閲覧する方だと思います。
その中で、おすすめなのがこちら。

陣内耳鼻咽喉科クリニック:コラム

耳鼻咽喉科の診療日記のようなものなのだけれど、この医師の視点は、耳鼻咽喉科というくくりを超えて、医療を考える上で興味深いものだと思う。
例えば【合う薬】 2005年07月12日 で出てくる「医師の視点」、例えば【学会に思うこと】 2005年07月08日 で出てくる「漢方薬に関しての認識」と、あげたいものはたくさんある。
ただ、ご自身の認識を述べていくだけではなく、以下のような記述があることが、このブログが魅力を放っている秘密なのではないかと思う。
西洋薬が効くとホッとするが、漢方薬が効くととても嬉しい。西洋薬が効かないと何だか腹立たしいが、漢方薬が効かないとみじめな気持ちになる。
部分引用なので、この方が言わんとしていることは是非元記事に飛んで確かめていただきたい。
また、【子どもの診察3】 2005年07月16日 には、子どもというものに向かい合うときに大事なことを教えられる。

ブログという形態で綴られているこの文章の数々、実はわたしはいつかトラックバックを入れてみたいと、虎視眈々と狙っております。

コメント・ログ:その2

2005年08月06日 | インターネット雑記
あっち行っちゃ、こっち行っちゃ、大騒ぎの「コメント・ログ」。
自分のためにまとめておきます。
以下、1~3は新しい順。

1.妖精が見える子供:ジューの将来
8月4日のアクセス解析の「アクセス元URL」に、ここの表記があった。
どうやら8月4日に、ここのコメント欄から数人が「たったひとつのたからもの」:知的障害者の社会参加 というこちらの記事に飛んだらしい。
それを確認し、コメント入れ。
ここで出した参考URL。
ココ・ファーム・ワイナリー
アパレルウェブ「工房絵」
横浜市障害者支援センター「ハートメイド通販カタログ」

2.天竺堂通信『「弱者」とはだれか』
Smemoの6/28分にクリップ。
♪三足わらじで福祉を考える♪「2005-05-09 きれいなだけじゃないのに」のコメント欄で紹介。
同ブログにて■[障害者福祉] 「弱者」とはだれかに発展。
自ブログ:トラックバックの一例 のコメント欄にて紹介。
以上、天竺堂通信『「弱者」とはだれか』コメント欄にて、事後報告。
天竺堂さん、自ブログ「障害児のきょうだい児」の恋愛と結婚 にコメント、ご実家運営の知的障害者の通所授産施設「まんさく園」のご紹介をいただく。
天竺堂さんに、「きょうだい」の立場にある、かるとーしゅかさんのブログ 障害者の“きょうだい”のつぶやき をご紹介。

3.特殊学級担任の“ここだけの話”
■[特殊学級]特殊学級と普通学級障害児の教育 をトラックバック送信。
以下の二つを読み、障害をもつ子を間にする「親の気持ち」と「教師の気持ち」 をトラックバック送信。
 *■[異論反論]杉森津久美
 *■[異論反論]親の気持ち
■[異論反論]ノーマライゼーションの弊害のトラックバック受信。
(自ブログ:拝啓 ゆきさま にて紹介した 障害者の“きょうだい”のつぶやき 「教育って?」 が本文中に反映)
■[異論反論]「障害」の定義のコメント欄に 愛知県知多市のホームページ「ハンディキャップとは・・・」 を紹介。
■[プライベート]愛知県知多市のホームページ に発展。

ニュースサイトを「読む」:その2

2005年08月02日 | インターネット雑記
最初に断っておきますが、「ニュースサイト」ネタを続けるのは、けして「ニュースサイトにリンクさせてアクセス数を稼ごう」という主旨ではありません。
主とした理由は「こういうこと」というか。
正直、S嬢のニュースサイト関連記事、読んだだけで理解してなかった。今すこしづつ、紐解けてきた感じ。ニュースサイトオーナーの別ブログには、私も興味を抱く。今改めてS嬢が記事にしてまで紹介していたのかがとっても理解できたようだ。
ブログの水先案内人★個人ニュースサイトって何?(★☆★じゅん吉ブログ!!★☆★) コメント欄より
わたしは「ニュースサイト」って知らなかったです。
なんだか、よくわからなかった。
だから巡回先のニュースサイトというものに関連する文章って、読んだだけで理解してなかった。
というか、わからなかった。理解できなかった。
わからないって、つまらないじゃない?
そう思って、「過去の自分」に伝えているようなところがある。
だって、そういう人って、まだたくさん、いるでしょう?って。
なんか、インターネット上には、その日にアップされたいろいろな場においての「文章」を「ニュース」として取り上げて、それをコンテンツにしている人がいるようだ。
その「ニュース」とは、個人が書いたHPやブログの文章も入るらしい。
そのために、毎日膨大なサイト数を回っているらしい。
これが最初の自分の解釈。
そんなクソ忙しそうなことやって、おもしろいのかな、ってのが最初の疑問。
このクソ忙しそうなことってのは、どうやって更新するんだろうってのに、答えてくれている?のがまなめはうすに出てきたこの部分。
 ★★ニュースサイト管理人の正体
http://kobushi111.exblog.jp/1308219/(情報元:一軒家@メモ帳)
昼飯食いながら見てて味噌汁鼻から出てくると思ったよ。ワラタタタタタw
でも、だいたい正解w 速読それなりにできるし、4時間睡眠だったりする。土日は寝不足解消のためにぐっすり寝るから、ニュース少なめ。もともと土日っていいニュース少ないんだよね。
そして、こうしたサイトを作っている人はたくさんいるんだなあと、その「個人」の部分を垣間見ながら実感したのが コレです。
「まなめはうす2005-04-25 (Mon) 03:12更新分」
個人ニュースサイト管理人の就職活動 反応リンク集
この反応集は、ニュースサイトの管理者の「個人」「個性」の部分を見るという「視点」を持つことの大きなきっかけにもなりました。

結局、自分の中で「結論」として出てきたのは、個人のHPや個人のブログの立場を「俳優」や「歌手」に例えるならば、ニュースサイトの管理者は「プロデューサー」なのかもしれないと。
「自分の場」を、自分によって「表現」していくか。
「自分の場」を、自分のチョイスによって「表現」していくか。
こういうところにすとんと「落ちた」んですよね、わたしの「納得」は。

この「プロデューサー」、時々、幕間からちらっと「個性」という「顔を出す」。
「顔を出して話し」たりするのだけれど、話した途端に、ぱっと幕間にまた引っ込む。
この「顔出し」のパーセンテージや「顔出し」の仕方に実にいろいろあるものだなあと。
そんなたくさんあるニュースサイトの中から、自分に合ったサイトをチョイスしながら、
さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。
いいもん、あるよ、コレなんかどう?
そんなそれぞれのサイトの個性に沿った営業トークのような「並べ方」や「コメント」等に釣られて新しい発見と出会うのも、また楽しいものだと思う。
自分の現在の関心からくるワード検索だけでは絶対に出会えない「新しい発見」の水先案内人として、ニュースサイトは確実に機能している。
わたしはそんな風に思っています。

*TB:
★☆★じゅん吉ブログ!!★☆★ 「ブログの水先案内人★個人ニュースサイトって何?」

ニュースサイトを「読む」

2005年07月31日 | インターネット雑記
まずリンク。

最近ブログで思うこと★記事書くよりコメント???私の場合 (じゅん吉ブログ)

この記事、どんな感想を持ちますか?
そしてあなたがもし、この記事を誰かに紹介しようと思ったら、どう紹介しますか?

一軒家@メモ帳
最近ブログで思うこと★記事書くよりコメント???[じゅん吉ブログ!!] 09:02
ほんとに、巡回リストとか作ってるけど、なかなか隅々までいかないよ。

ほわいとぷれいす。
記事書くよりコメント???私の場合 >(ネタ元@一軒家@メモ帳@様)
面白そうなので取り上げてみたw
<オレの場合~ブログ以外も含む~>
1.阪神ブログ更新
2.メールチェック
3.コメント返信
4.mixi
5.ネタ探し
6.ネタ上げ
7.コメント巡回
8.仕事
だから仕事ミスるんだよオレ('A`)

黒板ぽ
【サイト論】よく読むために最高のコメンテーターを目指す(b-logより)
読み方で大切なのは、まず指針を決めることだと思う。指針というのは、なにかを念頭に置くこと。ふつう「なにか」の中身が悩みの種になりがちだけれど、「あるか、ないか。それが問題だ」。
ちなみに「よく読むため(←目的)に最高のコメンテーターを目指す(←指針)」という見出しは、目的と指針がリンク先の文意とは逆だと思いますが、これは僕の趣味です。僕にとっての目的は、よく読むことなのです。

おもしろいでしょ? これ全部同じ記事についての記載です。
おもしろいなあと思うんですよ、わたしは。
情報を紹介するときに、単なる紹介ではなく「個性」が出る。
そしてニュースサイトからニュースサイトへ情報が回るときに「思考の伝達」もされている例が各所で見られることがある。

ほわいとぷれいす。の場合は、こうした紹介コメントの中に、ぼそっとという感じの一言が入る。
このぼそっとという感じの一言がわたしはとても好きで、これを読むのが楽しみで、更新を待っていたりする。
これもサイトの個性なんだろうなあと思う。

ニュースサイトを見たときに、そのURLに実際飛ぶかどうか。
これもそのニュースサイトの個性に左右されると思うのです。

まなめはうすを閲覧するときに、わたしは彼がこういうコメントをつけているときは絶対行きますね、リンク先。
感度の高い人は優れた人だと思います。
感度の低い人でも何か思わせる文章を書ける人はもっとすごいと思ってます。
それが、アルファブロガーなんだと私は思っているのです。
(★感度の高さ http://hhashiguchi.jugem.jp/?eid=251(情報元:一軒家@メモ帳)
それは、わたしがまなめはうすというニュースサイトの指針のようなものに対して持っている「信頼性」なんだと思う。
で、この「信頼性」に基づき、コメントがたった一言「これ、いい!」というものには絶対行く。
そしてそれがこの記事のことで、あははと思ったりする楽しさがあるわけです。

「信頼性」といえば、独自抽出ネタが多い 一軒家@メモ帳
「その場でおもしろけりゃいい」という類の娯楽性の高いサイトの掲載は無く、こつこつと積み上げていく姿勢自体に、信頼を感じる部分は高いなあと思う。
以前、彼女が出した、自分のサイトに対しての言葉「新しい発見の蓄積?」というもの。
この蓄積が、彼女の今後の人生の中で、どんな発展をとげていくのか、ふと思ったりするんですよね。
これは同性だからなのかな。

最近、ニュースサイトがわたしはとてもおもしろい。
こんな楽しみ方は変則的なのかもしれない。
しかし、こうしたニュースサイトに操られて、気づくと今まで訪問していなかった分野のサイトの履歴がたくさん増えている最近です。
ニュースサイトを閲覧したことが無いという方。
わたしもほんの4ヶ月前はそうでした。
でも、おもしろいからおすすめ、だな。
楽しく読めるポイントは、連続して読み続けることだと思います。

クリックしてね:ネタ版

2005年07月30日 | インターネット雑記
ランキングに参加しています。
登場以来、ベスト10以内に入っています。
この状態、多分、期間限定です。
日に日にランクが下がっています。
このランク入りに愛着を持ち、なんだか固執している自分がいます。

ランキングに参加しています ←クリックしてね

はい、クリックされた方。
「で、何?」と思われた方。
このサイトのこのサイトの左メニューの下の方に「ランキング」があります。
「で、何?」
すみません、ごめんなさい、それだけです。

インターネット上に「自分の基地」を持つということ

2005年07月28日 | インターネット雑記
ブログの中のひとつの記事がどこかのニュースサイトに掲載されると、時として、その記事は「情報」として複数のニュースサイトを駆け回る。
ニュースサイトには「記事名○○:情報元××(ニュースサイト名)」と記載され、情報が複数のニュースサイトを駆け回ることでこの「情報元××(ニュースサイト名)」という部分もころころとその記載される名前が変化していき、元記事を書いた人間の情報は、もはや、そのリンクをクリックするときに動くURLのみとなっていく。
そして、この記事の執筆者はくるくると回るカウンタ、記録されるアクセス数の異常な多さに呆然とする。
アクセス解析やリンク検索でその「原因」がわかれば元をたどれるが、そのどちらの手段も持たない人間は、ただ「海」の中で起きた「津波」に心を奪われる。

こうした「津波」を経験した人間は気づくべきだ。
その「津波」は一時的な流れが持つエネルギーで、けして自分に対しての「評価」ではないことに。
「評価」はその情報を見つけて流した人間に与えられ、その記事が誰かに有意義である、または情報性がある、または意外性があることだと認められることは、すなわちそれを掲載したニュースサイトが有意義だと認められることである。

ニュースサイトに掲載されようがされまいが、インターネット上でHPやブログといった「自分の基地」を持つこと、持ち続けることで一番重要なことは、一過性のアクセス数ではない。
一番重要なのは、自分が生んだ自分の基地、インターネット上に展開される自分の人格といったものへの「信頼性」を閲覧者から獲得することだと思う。
それは流動性のある100だの200だのといったアクセス数で築くことはできない。
インターネット上に「自分の基地」を持つことで起きてくる数種の出来事に対して、一貫した線を持ち続けることではないかとわたしは思う。
そのときに得ることのできた「1」だの「2」だのといった「信頼性」の方が、一過性の数百よりも、広がりと深まりといった明日への可能性をはらんでいるのではないかとわたしは思う。
そしてその「1」だの「2」だのといった「信頼性」をニュースサイトの管理者から得ることができたときに、また新しい可能性が始まっていく。
そもそもニュースサイトの管理者も、ニュースサイトという「自分の基地」をもった「個人」であるのだから。

さらに言えば、ニュースサイトに掲載されることにどこまでの価値があるのかという部分もある。
ニュースサイトの関心の傾向というのは、ある意味限定されているところもあり、個人がインターネット上に「基地」を持つ上で、ニュースサイトの関心の傾向と一致するところもあれば一致しないところもあるというのがごく自然なことだと思う。
本来、自分が何故「基地」を持つのか。
そのことの自分にとっての意義の方が、ニュースサイトでの掲載によって揺れ動くアクセス数より、よほど大事なことかもしれない。

以上、引用も言及もしていないし、記事の主要なテーマともはずれるけれど、送信側としての理由をもって BLOG STATIONの「個人ニュースサイト」の曲がり角 にトラックバック。

「個人ニュースサイト」をいじって遊ぼう

2005年07月27日 | インターネット雑記
黒板ぽ さま
明らかに読んだ覚えがある見出しだけれど、内容をあまり思い出せずかといって再読するほどのものでないと漠然と思うために、まあ(黒板ほ゜の)過去ログにあるからいつかまとめればいいだろ、みたいな、明日から宿題をはじめよう、と同レベルの発想でクリックをためらい、個人ニュースサイトの運営で何を得ているのだろうかとごく軽く苦悩しますので、やはり自分で見出しをつけるというのは、読むのにも身が入りますし、リンク先に述べられた主張、疑問、テーマなんかを自分なりに書き出すことで、コメントが容易になったり、こう読んでください、というメッセージを暗に読み手に伝えられたりというのは、個人ニュースサイトらしい謙虚な、しかしやや危険な手法でもあるのですが、思想を啓蒙したいわけでなく、ただ深くあるいはおもしろく伝わればいいと思うので、考えるのです25日。
呼吸困難になりそうな文章を、ぜいぜい言いながら読解し、次に続くリンクの「黒板ぽ」オリジナルのタイトルに拍手。
「思考」の実現。
【サイト論】言及やリンクだけで繋がりを読み取ろうとしていませんか?[S嬢のPC日記]

一軒家@メモ帳 さま
2005-7-6更新分
個人ニュースサイト」が「個人ニュースサイト」であること[S嬢のPC日記]
このタイトル、元々の記事タイトルは”「個人ニュースサイト」に返信”。
一軒家のてとさんは、このタイトルを被リンク時に変更して紹介したかったと推測。
ところがアップの時点では、ちょっと不思議な状態になってた。
個人ニュースサイト」が「個人ニュースサイト」
うふふふふ。
その後、”個人ニュースサイト」が「個人ニュースサイト」であること”と、彼女の作ったタイトルが「完成」するのだけれど。
でも、彼女のニュース性を信じる他の複数のニュースサイトが、これをこのまんま、被リンク。
個人ニュースサイト」が「個人ニュースサイト」 情報元:一軒家メモ帳
こう掲載されたニュースサイトをいくつか見つけて、うふふふふ、とワタクシ。
でもね、てとさん、修正したタイトルにはまだ「ついていないカギカッコ」に「閉じるカギカッコ」は存在してるよん。

まなめはうす さま
2005-07-26 (Tue) 19:49更新分
そんなことしたらおにーさんおねーさんの視線が痛そうなのでパスしましたw
ったく、やんちゃさんだ、この管理者は。
このやんちゃさんが喜ぶようなネタが以下の分。

ほわいとぷれいす。 さま
7・15(age)ニュースサイトとネタ元様。
この記事にコメント入れ。
↑のやんちゃさんが喜びそうなのは、そのコメントに入れられたレス。
・・・恐縮して、叫ばれちゃいました。。。
この「ニュースサイト」、おもしろいので、いまや常連。

ニュースサイトではないが、

はてなブックマーク
はてなブックマーク > S嬢のPC日記:「個人ニュースサイト」に返信 についたコメント
2005年07月06日 kanimaster 『[blog] うれしそうです。』
うれしい。
ブログを紹介しているニュースサイトをネタにするのって、おもしろいから。

はい、
皆様、失礼ぶっこき、ご容赦を。

最後にニュースサイトのまねごと。

映画「タイタニック」を3行で表現 【Partygirl
すばらしい。
的確さに感涙。

トラックバックの一例

2005年07月25日 | インターネット雑記
トラックバック送信する記事中に、送信先に関しての「言及の無いトラックバック、リンクの無いトラックバック」は、読んでいて、つながりがよくわからないものが多い。
トラックバック送信する記事を「読んで欲しい」という行動ばかりが理解され、内容に説得力があるものに、わたし個人は滅多にお目にかかれない。

巡回先に「言及の無いトラックバック、リンクの無いトラックバック」を見つける。
コレ、すごい。
言及だの、リンクだのと、もうどうでもいいような気がする。
「閲覧者」にとっての「トラックバック」の利益、というものをとても感じたような気がした。

トラックバックが送られた記事は OUTER HEAVEN:10月26日 特別視
トラックバック記事は 日々是自己主張:「解夏」と「ジョゼと虎と魚たち」 

すごいわ、すごいわ、このトラックバック。
二つの記事に結ばれる「共感」の要素がよくわかる。
ねえ、fox、わたしはアンタがうらやましい。

「『で、何?』トラックバック」が及ぼす影響

2005年07月23日 | インターネット雑記
リンクの無いトラックバック、言及の無いトラックバック」 に、USHIZOさんから「毎度毎度のトラバ論」という記事のトラックバックを受信しました。
その感想、コメントでは長文になりそうなので、トラックバック。

毎度毎度のトラバ論」の文中のこの部分ですが。
あ、もちろん「リトルスプーン行ってきました~」とか、
「カレー食堂 心に行ってきました」とか正直
「で、何?」
と思うトラバはたびたび来ます。それらは元記事を拝見してから大抵
ざっくり削除してしまいます。
この赤文字太字の「で、何?」。
この手の「検索における共通ワードのみのトラックバック」に対しての、わたしの常日ごろの印象は「だから、何?」であります。
なんというか、自記事の広告を貼り付けに来られた以上の感想を持てないんですよね。
対応としてはUSHIZOさんと同じく「元記事を拝見してから大抵ざっくり削除」です。

「トラックバック送信にはコメントでの挨拶がマナー」
とおっしゃる方々がいらっしゃいますよね。
わたしはトラックバックに関しての事前挨拶コメントは原則不要派です。
原則不要派ということで、したいときにはします。
でも、しなくてはならないからする、ということではありません。

この「事前挨拶マナー派」のそもそもの発生は、「で、何?」トラックバックの存在が影響している要素もあるような気もするんですよね。
「で、何?」トラックバックは、いきなり送られてきて、読ませられて、「で、何?」という印象があるので、不躾という印象を持たせられることから来てるのかな、と。
それで「挨拶くらいしろよ、マナーだろ」というところに結びついていく要素があるのかもしれないと。

トラックバックの「事前挨拶はマナーである派」「事前コメント不要派」。
一見、相反するように見えるこの二つの考え方も、その源としてのきっかけは、案外同じところにあるのかもしれないな、というのが素朴な感想。
「で、何?」トラックバックに対して感じる「失礼さ」に対して「挨拶を要求する」か。
あくまでもトラックバックの内容に「納得性」を求めて、「挨拶などいらんから、納得できる内容を」とするか。

どちらにしても、トラックバック送信は、そこに相手が存在するということを考えることが、必要不可欠な「原点」なんだろうとは思うんですけどね。
その相手が「自記事の存在の広報活動のために存在する」のか、「相互のつながりのために存在するのか」。
まあ、ここが結局は「読みがいのあるトラックバック」になるかどうかの境目かもしれません。

リンクの無いトラックバック、言及の無いトラックバック

2005年07月22日 | インターネット雑記
リンクの無いトラックバック、言及の無いトラックバックですが。

それをどう考えるかということは、まあ人それぞれの感覚があるのだろうと思います。
ただ、トラックバックに関して出てくることは、受信した場合、受信側のブログのメニュー部分にそれが表示されるということなんですよね。
その表示件数は、gooブログの場合「最新のトラックバック10件」です。
そのリンクアドレスに関して、受信したトラックバックから選ぶことはできません。
「最新」の「10件」というものが表示されるわけです。
自分のブログに「10件」のリンクアドレスが載るのなら、そのリンク先に関して、自分のメニュー部分に載せるということで、わたしはその内容に関して「吟味させていただきたい」と思います。

そのトラックバックにおいて、いかに「送信先に触発されて」と書かれてあったとしても、それがどこのサイトでどんな内容なのか本文中でわからなければ、判断は難しい。
要するに、「誰彼かまわず口説き文句を言っている相手」なのかどうなのか、リンクや言及が無ければはっきり言ってわからないわけです。

トラックバック送信先に行ってみて、コメント欄に「トラックバックありがとうございます」というものがあれば、さらに混乱します。
それはひとつの記事から複数のブログにトラックバックを送っているということなわけで、トラックバック送信の記事中にリンクが無ければ、「トラックバックありがとうございます」というコメント者の記事がどういう内容を持っていたかということもわからない。

個人の主張をするならば、その主張自体がわかりやすく、ということは文章としての原則なのではないかと思います。
リンクの無いトラックバック、言及の無いトラックバックは、記事の主張自体がわかりにくい。
あからさまな「宣伝TB」ならとっとと削除しますが、「自己主張宣伝TB」というものは、常に判断の迷いを強いられる。
相手に「読んで欲しい」という意志を伝えるという行為としてトラックバックを選ぶならば、やはり「わかりやすく」を目指した方が建設的なんではないかと、わたしは思います。

以上、ひとつのTBを削除するのに葛藤したという出来事からの記事上げでした。
削除はさせていただきますが、特にTB等のこちらからのご連絡は控えさせていただきます。

「個人HP」と「個人のブログ」

2005年07月10日 | インターネット雑記
ブログというものが無い頃、個人HPを訪問する際に、なんというかめんどくさくなって、結局そのコンテンツを見ず仕舞いでページを閉じるということがたまにあって。
コンテンツが膨大なところ、なんですけどね、こういう場合は。
興味のあるところだけ開いて読んでいて、その前後関係がわからない話があっても、サイト主にとっては「すでに言ったことでしょ」という感じで、閲覧者はそのよくわからないことを解決するために、サイト内のページをくっていかなければならなくなることがある。
その場合、どこにそのわからないネタの「発端」があるのか、最初から読んでいくか、カンで探しあてるかという選択しか無い。
これ、読みやすいところはいいのだけれど、苦痛な場合もあるんですよね。
興味あるとこだけ読んじゃダメ?と思う。
トレイにのっている献立に関して「食べたいものがあったら、出された全てを食べなければならない」という感じで。
それって、見ようによっちゃ、苦痛でもあるわけです。
食べたいとこだけ、食べたいよ、と。

ブログはいいですよ。
ひとつひとつの記事が、「独立して存在している」感じがする。
トラックバックもコメントも記事単位だし、検索にも一個の独立したページとして記事単位であがってくる。
個人HPの場合は、一度トップにいってみなきゃ構成がわからないこともあるけれど、ブログにはそれが無い。
ひとつの記事を検索で見つけて、そのブログに関心を持ったときに、関心をもった記事と同じ分野の他の記事を読みたければ、同じカテゴリをクリックすれば出てくる。
ブログ内検索なんて窓もついてるので、ひとつのワードに対して「その人がその言葉でどんなことを記載しているか」ダイレクトに検索できたりする。
ひとつのブログを持っている人の「要素」の中で、自分の欲しいものだけ抽出することができるという機能があるんですよね。

人によって感覚はそれぞれ違うと思うのだけれど、わたしは記事上げするときに、いつも前提とすることがあって。
それは、「その記事に初めて訪問する人が、その記事だけで完結した感想を持てるようにするということ」。
過去記事とつながりがある場合は、そのつながりのある記事をリンクさせる。
全体で「前提とすること」に関しては、タイトル部とプロフに記載しておく。
それがブログというツールの持つ傾向に合わせた記事上げというものなんではないかと思うのですよね。

「連載」のひとつととらえるか、「読み切り」ととらえるか、その決定の選択権は、閲覧者にある。
そのことが、「自由な感覚」を与えてくれる。
ブログって、そんな感じ。

だからって、個人HPが悪いってことじゃない。
言いかえれば、個人HPが数年にわたり「生き残る」ためには、コンテンツの力がいる。
ブログという場所で、そんな「力のある個人HP」の紹介なんぞということも、わたしはやってみたい。

「クリックしてね」

2005年07月06日 | インターネット雑記
ライブドアの未来検索で、指定したワードを文中に含まれるブログが「アラート機能」によってメールで送られてきます。
そのリストは、本文の一部が表記されていますので、それを読みつつ、興味あるところに飛んで読んだりしているのですが。
今日、そのひとつに飛び、しみじみと読み、いい視点、いい文章だなあと、過去記事も読もうかなあとそのブログの管理者に興味なども本文を読みながら持ち始めていました。
そして文章の最後に、この手の文章が一行。
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なんというか、こういうときに、わたしはがっくりとくるんですよね。
例えて言えば、人に話を聞いてるときに、ふむふむと聞きながらいろいろな思考を喚起させられ、あいづち後に会話が成立しようとしているそのときに、
「ねえねえ、わたし、わたし、今いいこと言ったでしょ!?」と言われている気分になる。
「わたし、わたし」でも、「ボク、ボク」でも、「オレ、オレ」でもなんでもいいんですが。
これに対して、あ~、はいはい、と。
そしてわたしは後ろを向き、帰る扉を確認するわけです。
今日も例外とはなりませんでした。

他者の反応が知りたいのは、わかる。
アピールする手段のひとつということかもしれない。
でもそれにしては、どこか短絡的過ぎる気持ちを持ってしまう。

わたしはこうした「ランキングサイト」というものに、全く興味が無い。
こうしたことに「自ら希望して登録している人の集まり」という解釈があるからで。

インターネットという「大海」の中から「拾う」には、わたしはブログ検索を使って自分の興味あるものに絞って検索するし、それ以外のものに関しての「信頼」は、利用しているものの中では以下の二つ。

はてなブックマーク
MM/Memo

どちらも管理者とは何の関係もない人が「頼まれる」わけでもなく、記録として残したいという欲を持ってブックマークするもののリストであるわけで。
そのブックマークされたもののリストの中からワード検索もできるし、単純に注目されているもののリストを拾っていくのもまた興味深い。

実生活の人間関係というものは、義理だのつき合いだの、相手に合わせるだの、人間関係の平和を保つための努力だの、そうした「本当には自分の意に沿うわけではない行動」を暗に強いられることが山ほどある。
社会という集団の中で生きるということは、そうした努力の必要性というものを、抗いながらも受け入れていくということかもしれない。
そうした中で、インターネット上で拾っていくものに関してまで「クリックしてね」なんぞと頼まれたくもないと思うわたしは、かなりの我が儘なのかもしれない。

「個人ニュースサイト」に返信

2005年07月05日 | インターネット雑記
「個人ニュースサイト」が「個人ニュースサイト」であることがよくわかった。。。
いや、なんのこっちゃ、なんですが。

まず、前置き。

1.個人ニュースサイトを「読む」上で。
「個人ニュースサイト」は、情報をピックアップしてURLを提示してくれるので、わかっているはずの「更新する管理者が個人である」という部分をつい忘れてしまうんですよね。
「個人」が選ぶから、選択基準に「個人」の視点と趣味志向は当然出るわけで。
でも、それも「個人」を感じるポイントというよりも、「ニュースサイトの傾向の違い」なんぞということに、いつの間にか流れていってしまいそうな気もするわけです。

2.被リンクの影響度
被リンク対象になると、リンクされたURLに向かってアクセス数が増大します。
そのアクセス数は、被リンク直後に嵐のようにやってきて嵐のように過ぎ去る、たいがいは「記事限定」です。ニュースサイトにあげられたURLを次々回るのに、一箇所にたいした時間を割かない人が普通だということかもしれません。
この「嵐のような一過性の数字」の大小に、そのニュースサイトの影響力なんてものを感じたりするわけです。

3.「一過性の数字」から見えるもの
被リンクでとりあげられたURLに対しての「一過性の数字」に関しては、閲覧者にとって「ニュースサイトから自分の欲しいものだけを拾う」のか、「そのニュースサイトのチョイスを信頼して、タイトルだけで決めずにとにかく列挙された全てを訪問してみる」のか、ということが関連しているように思います。被リンク側のアクセス数の向上が被リンク時の一過性の数字に過ぎないという傾向が顕著である場合は、その数字は「ニュースサイト管理者に対してのニュースサイトの閲覧者からの信頼」を表す数字でもあるわけです。
この「一過性」が顕著で、ニュースサイト上の被リンクが過去ログにおさまってしまうとその影響があったことすら不明になっていく状態は、被リンクによって紹介されたURL以上の興味を閲覧者に引き出すことができなかったとも言えると思います。これは閲覧者にとって、「ニュースサイト>被リンクURL」という図式になるわけです。
こんなことから「個人ニュースサイト」というものは、列挙するURLの選択ということがコンテンツであり、その有力性というものがわかる。
そんなことが「数」によって現れるような気がします。

以上、前置き。
そして本文。

まなめはうす:2005-07-03 (Sun) 21:27 に、パソコンの前で大爆笑。
ニュース
★amazon病
http://d.hatena.ne.jp/keyword/amazon%c9%c2
S嬢さん、その行為は明らかにamazon病ですw
ここで冒頭の部分に戻るわけです。

「個人ニュースサイト」が「個人ニュースサイト」であることがよくわかった。。。

くっそ~~、ニュースサイト。
コメントなんぞ、入れられない仕組みではないか。
記事上げして、仕返し。

わたしがクリックしたときは「在庫二点、お早めに」だったんだけど、その日のうちに、もう一点も無くなったんだね~~。
って、その人も「★amazon病」ってだけのことじゃないか。
・・・、「w」の仕返しにもなんにもなってない。。。
な、な、なんか考えてやるぞ~~~、と思っていたら、またも被リンク。

まなめはうす:2005-07-04 (Mon) 20:19
★★個人がブログを持つということ
http://blog.goo.ne.jp/satomies/e/e3f1a8db964259f130f8f83c489ceb07
(情報元:S嬢のPC日記
>ブログというものは「自分」というコンテンツありきのものであるということ。
「そうそう!コレが言いたかった。S嬢さんにうまくまとめらちゃいました。」
「そうそう!コレが言いたかった。S嬢さんにうまくまとめらちゃいました。」

どうだ!
と、ちょっと仕返し気分を感じる「ガキ」ですわ、わたしは。
いえいえ、記事上にリンクさせていただいた二つのURLは、わたしがとても好きでそして評価しているものなので、「引用させていただいた」という立場です、もちろん。

でも、「ら抜き言葉」ってのは知ってたけど、「れ抜き言葉」ってのは知らなかったな~っと。

アクセス数というもの

2005年06月12日 | インターネット雑記
「アクセス数をあげるために」なんていうサイト・ブログはあっという間に高アクセスというような、「アクセス数が欲しい」というのが通常の常識のようですが。
でも、「高アクセスはいらない」という人も、存在すると思います。
正直、わたしは、安易に高アクセスに憧れを抱く人には、疑問です。
高アクセスというのは、自分が漠然と考える閲覧対象者から大きくはずれる人も入ってくる可能性があり、そのことによるトラブルが起きかねないことを覚悟しなければならない。
そのことをどこまで自覚しているか、という思考があるからです。

ネット上にアップロードした以上、人に見てもらいたいと思うのは当たり前じゃないか。

と、そう思う人は多いかもしれない。
でも、この「人に見てもらいたい」という感覚の「色」のようなものは、人によってそれぞれなんではないかと思うんですよね、わたしは。

例えば、わたしは過去記事で、ブログ開設当時のことに関してこんなことを書いています。
自分の考察を、誰に相手にして欲しいというわけでもない、
ただ、公開されるところで意見を表明していくことはわたしにとっては緊張感を伴うものであり、その適度な緊張感は、非常に考察にプラスになる、という感覚がこれまで養えてきたものでありまして。
「自分のためのアップロード」ということ。
こういう感覚というのは、存在すると思うのですよね。
「自己満足サイト」という呼称に、「そうですよ」と。
自己が満足したいためにツールを使う。
そんな感覚もアリだと、思う。
実際、わたしははてなダイアリーを使った「S:今日の一言」ってのは、堂々と「自己満足エリアです」と豪語できてしまうところがありますし。

そうした「自分のためのブログ」というものを、閲覧した場合、どうするか。
どうなんでしょうね。
わたしは被リンクで、こうした「ひっそりと自分のためにつぶやくブログ」というものを、見つけてしまっているのですよね。
この方はわたしのブログを読破されていて、そうした「ひっそりと自分のためにつぶやくブログ」だからこその正直な感想というものは、とても興味深かったし、ありがたかった。
この方のこのブログ、「ひっそりと自分のためにつぶやくブログ」だから、書いてあることの内容が全然わからなかったりします。
人に聞かせるためじゃないから、話の前後関係なんてのに説明はいらないし、そんなことはぶっ飛ばして「思考」だけしてますから。
でも、すごくよくわかるんですよね、全て、自分のために役に立っているということが。

昨日、この「ひっそりブログ」にわたしの記事内容に関しての反応がありまして。
とても「なるほど」と思うことがあった。
それは「アクセス解析をつけるブログを歓迎する思考」というもの。
自分がどこかのブログ記事の感想を書いたからといって、それを先方に公開の場で伝えて、ブログ閲覧者の「その他大勢」にまでぞろぞろと来られたくはないんだと。
わざわざ伝えるほどのことか、という思考もあるんだと。
ただ、相手がアクセス解析をつけていたなら、相手だけに伝わる可能性があって、そこで自分のとこを閲覧するかどうかは、相手に判断がゆだねられるからだと。
目からウロコ、でしたね。

ブログというツール、
人によって、いろいろなとらえ方、いろいろな使い方というものがあると思う。
ツールというものの使用が誰にでも平等に提供されているなら、その人その人の自由な使い方があっていいのだとわたしは思う。
「公開」という覚悟はもちろん必要なのかもしれないけれど、不特定多数の「100」よりも届く人に届くかもしれない可能性を持った「1」。
そんな感覚というものも、わたしは尊重したいと思います。